第3話
下校直前のホームルームの時間はあまり好きじゃない。
みんなもうすぐ帰れるのが分かって浮かれているけれど、その中からはあまり聞きたくない会話も聞こえてくる。教師の気だるげな話に混じって、わたしの後ろの方でひそひそ声がする。
わたしはおさげ髪を揺らしながら後ろを振り返った。
クラスの嫌われ者3人組が、前の座席の人の背に隠れるようにして話している。
「原田と武藤って、あいつら男なのに付き合ってるらしいぜ」
「マジかよ、ホモじゃん。クソウケる。土手の下でケツんなか掘りあってんのかな??」
「晴はどう思う??」
2人は隣の席のリーダー格の男子に声をかけた。
「確かめちまえばいいだろ」
汐崎晴は、整った顔に愉快さを浮かべて二人を煽った。
しみひとつない球のように美しい小顔に浮かぶ末広型の大きな目、主張のない小さな鼻、薄い肌の上で踊る、綺麗な口元……いわゆる醤油顔は、前から見ても横から見てもゾッとするほどに整っている。背丈もそれなりで、細すぎず太すぎもしない体つきも恵まれている。
芸能人と言ったら誰もが納得するだろう。その中で、異質な彼の金髪が一際存在感を際立たせていた。
もちろん地毛などではない。染めているのだ。
一応校則では禁止されていないが、良い顔をする教師は誰もいない。それなのに学校は、彼の在り方を容認していた。
これまでに彼らは誰かが始めたいじめに加担して問題を大きくしたこともあれば、授業中に騒いで物を壊したり、制汗剤にライターを近づけて窓を炙ってみたりと幾度も不良行為をしている。かと思えば、クラスメイトの誰それがやり遂げた良いことを大げさに褒めたり驚いてみせたりして、よくも悪くもクラスのムードメーカ―的な立ち位置を演じ続けている。
担任は彼らにやんわりと注意するだけで、本気で怒ることは滅多にない。それどころか何かと肩を持つことすらあって、邪険にすればむしろ教師陣のほうに危害が及びかねないのをよく理解していた。
必要な時に形だけの注意をしてさえいれば、それだけで保身になる。生徒一人一人を正しく伸ばそうなどという学校の理念は額縁の中だけの空言で、彼らに与しながら生徒全体を見る方が楽である安直な考えに溺れていた。
3人は二人の進展についてあれやこれやと空想を語りながら、汐崎くんの右側の方の席に座る原田くんと武藤くんは話題から避けるように顔を黒板に向けている。
全くいたたまれない。そんな会話なんて聞きたくない。なんで振り向いてしまったんだろうと、わたしは逃げるように先生の方へ意識を戻した。
ホームルームが終わると、誰もが我先にと教室から廊下へ駆け出していく。
「わたしたちも帰りましょうか」
「うん」
あいちゃんが来てくれた。
包むような声に導かれて、すっかり重くなった腰を椅子から引き剥がした。
教室を出て、靴を履き替え、校舎の外へ。
厳めしさを帯びた茶色いレンガ造りの校門を抜けると、山道のように傾斜のきつい下り坂が現れる。その道を、街路樹が庇となるアスファルトの歩道を二人でゆっくりと下っていく。
わたしたちの通う緑陵中学校は、その名の通り緑に囲まれた丘の上にある学校だ。
この辺一帯はまだ武士が居たぐらいの昔から、南方から来る異なる勢力の武士や大名、行商人たちを監視、撃退するための櫓と関所があったらしい。そこに人が集まり、道と道を繋げるようにして街が広がった。
明治期にはその役割もとうに終えて、街の中心となるこの場所に、洋風の建築様式を取り入れた赤レンガ造りの学校が出来上がった。それが緑陵中学校のはじまりである。
そんなだから歴史は古く、さすがに当時からそのままの建物は全くない。外観を模倣しつつも内装はどんどん切り替わって、そのうちに高等学校も隣に建てられて、今ではレンガ作りの古い建物とガラス張りで採光性を重視した建物とが入り混じっている。
学区外からもその見た目ゆえ人気のある建物らしいが、中学受験が必要な名門校と言うわけではなく、生徒の質も多様な平凡校である。
誰にでも開かれた学校を、というのが初代校長の願いであったらしい。
「空気だけは美味しいよね、ここって」
わたしはあいちゃんに言った。
下り坂で駆け足になりそうになる脚を抑えながら歩くと、胸いっぱいに緑の香りがしてくる。
「そうだね。涼しいし良いところだと思う。虫が多いのは嫌だけど……」
たまに蛇やイノシシなんかも出るらしい。まだ見たことはないけど。
登校時には登らなきゃいけない坂も、下校時は快適だ。
話題を探していると先にあいちゃんの方から切り出した。
「もう3か月もしたら、夏休みね」
「夏かぁ、……今年は特にすることもないなぁ」
去年は部活に入っていたから、合宿だったっけ。あの頃はまだ楽しかったな。他校との試合にレクリエーション。……あれ、あんまりいい思い出ないかも。
「ねぇもと花。今年は二人でどこかに遊びに行かない?」
「二人で?」
「うん。私たちが仲良くなったのって、去年の冬からじゃない? いつも学校や今のこういう時間の時しかいっしょに過ごしたことがないから……だから今年は、いっしょにどこかに遊びに行きたいの」
「そうだね、うん。いいかも。まずはカラオケとか映画とか。お互いのお家に遊びに行くのなんかもいいよね?」
わたしは期待してあいちゃんのほうを向くと一瞬困った顔を浮かべた。
「それもいいわね。私、夏休みにもと花と行きたい場所があるの」
「どこ?」
あいちゃんはスクールバッグから一枚のパンフレットを取り出すと、こちらに差し出した。
「えーと、しろかね温泉? 旧炭鉱を中心に発展した温泉街の総称で、鉱山労働者や近隣住民などの湯治客向けの湯端宿や小商い店舗が次第に発展する。江戸時代の廃鉱後は一時衰退するも、川沿いに軒を並べる洋風木造多層の旅館や近場にある滝や樹林がもたらす景観が活気をもたらし、現在は全国から年間30万人程度が訪れる一大観光地となっている……ほお~」
ぱらぱらとパンフレットをめくると、川沿いに白壁とそれを覆う焦げ茶色の格子木が並ぶ重厚な見た目の木造建築物がずらっと並んでいる。旅館だろう。ぱっと見昔ながらの日本家屋といった風体である。異なるのはそれらが階層となっており、3、4層となった縦にも横にも長い建物の上には、瓦屋根から蕩けるように雪が積もって溢れており、川を囲う鉄製の柵にも降り積もって、そこかしこで暖色に輝くガス灯の光が大正ロマンの街並みを醸成している。
「綺麗でしょ。一応同じ県なんだよ?」
「ほんとだ」
緑陵を囲う緑陵市から北へ、山道を抜けて太平洋側に流れる河川に沿って道を進んだ先にあるらしい。
こんな場所があるなんて全然知らなかった。
「あいちゃんよくこんな場所知ってたね。すごく素敵……」
言いながらパンフの文字を追うと、温泉街というだけあって幾つもの宿が紹介されている。温泉の薬効紹介や料亭の食事などと共に、近隣の滝や四季の景観の変化、土産物屋が載って
いる。
あ、この兎のタオルかわいい……。
つい夢中になっていると、そんなわたしの様子を愉しそうに観察するあいちゃんと目が合う。
「ここにはね、他にこんな場所があるんだ」
あいちゃんがスマホに画像を表示して見せてくる。古めかしい和風建築のお堂が、鏡のように透き通った水の上に浮かんでいるのが見える。
「この小さなお堂は海鏡の池って言ってね。銅板葺きの四角い屋根がある以外には何もない場所なんだけど……冬から春にかけて辺りに積もった雪が解ける時、ここに水が貯まって、その時だけ浮見堂になるんだ。お堂の上から水面に映る自分に向かって祈れば、その人は生まれ変われるんだっていう、そういう逸話があるの。私、もと花とそこに行ってみたいんだ」
「へぇ~、面白そう! でもあいちゃん、こんな良い場所ならお母さんたちといっしょには行かないの?」
「私はもと花とだから行きたいの」
あいちゃんがきっぱりと言うのでわたしはつい嬉しくなった。
「ヘへっ、そしたらお金を貯めとかないとね。結構かかりそうだし」
「心配しなくても、ただ行くだけならそんなにお金はかからないはずだよ」
「行くだけなんて勿体ない! お土産とか温泉とか、せっかく行くなら楽しまなきゃ! でもまずは、遠くじゃなくて近場に行きたいな」
「うん。今年はいろんなところに行こうね」
わたしがパンフレットを返すと、あいちゃんは嬉しそうな顔でバッグに戻した。
道を下りながら時々、お互いの手の甲が仲睦まじく触れ合った。




