第7話 英吾
「おい! 織櫛、どうしたんだよ! 織櫛!」
いきなり俺の目の前で倒れた彼女を揺する。
くそっ! 好きなんて言うんじゃなかった。
今日の織櫛は心が弱っていた。
迂闊なことを言ってしまった自分に怒りがこみあげてくる。舌打ちして、
「起きろよ、なぁ! しっかりしろよ」
――汐崎はどうして私に協力するの?
「信じてくれよ、なあ!?」
そうだ。俺は織櫛のことが気になっていたはずで。
きっと俺は、端から信用されていなかったわけで。
それでも俺は織櫛の何かに惹かれていたんだ。
だから。
「目を覚ましてくれ!」
うっすらと織櫛の目が開いた。
「織櫛……?」
声をかける。
カチッ。
それはまるで歯車が切り替わるように。普段の切れ長で、睨みつけるようなあいの眼差しがふっと消えて、途端に柔らかく穏やかなものへと変化したのを俺は見逃さなかった。
漂う雰囲気にどきりとする。
なぜかは分からないが、俺はそれをずっと待っていた――かのように心臓の鼓動が跳ね出し
た。
「……お前は誰なんだ?」
尋ねる。
織櫛あいは俺の腕から離れて起き上がると、改めて向き直った。
「俺の名は英吾」
波風を跳ね返すようなぴしゃりとしたあいの声ではない。包むようなほわっとした暖かさと、その中に眠る首筋を撫でる絹のように静かな熱を帯びた声が、寄せ波のようにやってきた。
英吾。
繰り返すように呟いて、その名が俺の存在を鷲掴みした。
「君とは、初めましてになるのかな、汐崎晴。僕はあいの中で、彼女を通して世界を見ていた」
敵か味方か。警戒するような眼差しを向けられて、手のひらが知らず汗ばんでくる。
「君は、織櫛あいのことを大切に思ってる?」
問いかけられる。
それだけで俺は理解した。
ショッピングモールで出会ったときも、いやそれ以前に食堂で見かけた時からずっと――俺は、英吾を見てたんだ。
「もちろん思ってる。俺はあいつの価値観を大切に思っているし、自分もそれに近いと思っている。全てを思い通りにしようとする欲深さも、そのために自分の存在を懸ける覚悟も良く分
かる。だから惹かれた。だから協力しようと思った」
「……そうだったんだね、ありがとう」
ふっと英吾が微笑んだ。
張り詰めた空気が解かれるとあいよりも年上と思しき大人びた表情が、俺たちと同い年くらいのあどけなさを帯びたそれに変わった。
端的に言って、俺と英吾は近くなったのを感じた。
こころの距離。
俺の胸に張り詰めた異質感も、誘われるようにふっと息に乗って弾け出した。
「それなら晴、僕からもお願いするよ。あいの幸せのために協力してほしい」
英吾が言う。
「織櫛の幸せ……」
英吾の一言が胸に沁みて、強張っていた鼓動が興奮で早鐘を打つ。
もっと、もっと話したい。
「もちろんだ。お前のこと、英吾って呼んでもいいか? あいは大丈夫なのか?」
「構わないよ。……あいは今、とても不安定になってきている。君も知っての通り、あいはもと花に対して自分が男だと偽って付き合うことに罪悪感を抱き始めている」
罪悪感。
「桜庭に、あなたのことが好きですって言えれば、まずは安心するんじゃ――」
――私、もと花の家に呼ばれた時に、あの子に好きだって伝えた。それなのに全然受け入れてもらえなかった。友達としてのことだって多分思われたんだと思う。――
「まさか桜庭に拒絶されたことが――」
英吾は頷いた。
「……女同士で付き合うのは変だよね、ってさ」
変。
そのひとことの断絶が、晴にも痛いほど分かった。
望んでいた自分の在り方。
世間や社会から求められる自分の在り方。
それを実演するための学校、築き上げた関係、ステータス。
『自分』と『他人』との“関係”を主体である『私』はなんとかコントロールしようとする。
当然それは不可能だ。
なぜなら『私』と『他人』は同じ世界に居ても、同じ環境にいるわけではないのだから。
ゆえに自分が持つ“ふつう”は世界に置いて通用せず、人は、曖昧な世界から投げかけられる最大公約数としての“普通”に屈折させられて、歪んで適用させられる。
そうして屈折できなかった歪みとしての『変』に人は苦悩する。
織櫛あいは、自分にとっての“ふつう”である『女性が女性を好きになる』ことの概念を桜庭もと花に問いかけた。
しかし桜庭もと花にとってそれは“ふつう”ではなかった。ゆえに桜庭もと花は『変』を向け、あいは世界の求める“普通”に適応しようとしたのだ。
「だから織櫛あいは、『英吾』になった」
だから俺は彼女に協力しようとしたのだ。
俺にはそんな覚悟はない。織櫛あいは、俺にはない気構えを持っている。
――だから俺は、織櫛あいのことが好きになった――――?
疑問が風となって心を揺さぶった。
静寂を剥くような葉擦れの音が校舎の外から響き、止んだ。
英吾はおもむろに口を開いた。
「……あいは焦っている。桜庭もと花が山谷から告白されて以降、ハッキリと恋愛に興味を持つようになった。いつ自分から離れてしまうのかとずっと思っている」
「誰かにとられたくない、だからお前にお願いしたのか」
「勘違いしないでくれ。彼女の前に立ってデートしているのは僕の格好をした『織櫛あい』だよ。もと花と話し、接しているのは彼女だ。僕はあいのなかで引っ込んでいる」
「ならあの姿は……つまりお前は、男性としての仕草や男らしさを耳打ちしてるってことか?」
英吾は頷いた。
「その通りだよ。あいが望むなら僕はこの体を差し出す覚悟だ」
「差し出す? どういうことだ?」
俺が聞き返すと、英吾は右手を自分の胸に当てた。そこにはもうあいの持っているはずの女性らしさは全く残ってない。
「僕はあいに助言をした。織櫛あいが自己の存在を肯定したまま僕の男の体に何度も変身すれば、やがて本当の男になれると」
「本当の、男?」
「自分をどう認識するかの話さ。君はいま僕を男、『英吾』だと認識している。誰しもしぐさや雰囲気、詰まるところの“らしさ”がある。それは性別に根差したものだ。あいは“女性らしさ”を、僕は“男性らしさ”を持っている。彼女が僕の体を借りて、僕の輪郭を通して世界を見ることで、彼女はやがて本当の男になる」
そんなことが可能なのか。
体が興奮して、喉が渇いてくる。
一度冷静になるために花壇の方へ歩くと、隠していたクーラーボックスから缶コーヒーを取り出して、そのまま一気に流し込んだ。
冷たいコーヒーが納まると、まだいろんな疑問が頭に浮かんでくる。
不思議だった。
大人びた部分と、同年代、あるいは少し年下の相手と会話するような複数の姿が彼にはある。
何が彼をそうさせたのだろう。
「なぁ。もし織櫛が自分を否定したらどうなるんだ?」
「……そうはさせない。そうならないために、君の力が必要だと思った」
俺はかつてないほどに興奮していた。
知的好奇心のように下卑たものじゃない。
ただ英吾とこうして知り合えたことへの喜びが体を満たしていた。
「いいぜ」
俺は言った。
「俺も協力する。あいと桜庭の恋愛がうまくいくように。お前と」
嬉しかった。
あいのためとはいえこの人は俺を必要としてくれたのだ。こんな俺を。
それだけで俺は幸福だった。
「ありがとう」
英吾は少し照れ臭そうに言った。
「その代わり、もっと俺と話そうぜ」
「えっ」
俺は右手を差し出した。
英吾は驚いて目を見開くと、ややあって握り返される。
「僕で良ければいいよ。あい共々よろしくね」
指先から伝わる英吾の温もりが、ずっと冷えていた俺の心を溶かし始めた。




