第16話 望まぬ出会い
「上手く言ったね、あい」
「正直思っていた以上。全然バレなかった。英吾の体ってすごいね」
どう話しかけようかという思考は、山谷がもと花をデートに誘う素振りを見せた時点で飛んでしまっていた。
止めなきゃ。
周りからわたしがどう見られていようが構わない。とにかくもう一度もと花と接触して、連絡先を交換する必要があったのだ。
ケースの弁償を口実にもと花の連絡先をメモさせてもらった。後日連絡するという約束を取り付けた後、いろいろ聞きたそうな顔の山谷先輩ともと花を置き去りにして、一足先に校舎へと戻ってきた。
「あい、そろそろ時間だ。どこかに隠れた方がいい」
足場が地についていないかのような浮遊感が次第に濃くなっていく。貧血の時のようなふらつきを起こしながら、わたしはあまり人のいなそうな男子トイレを見つける。急いで個室の便器に座った。
「まだ、早いな……」
変身できる時間はまだ短い。息が上がってきて、私はシャツの胸ボタンを少し開けた。
「昨日動き回って休めなかった分、体が悲鳴を上げているんだ。落ち着いて呼吸するんだ」
発作を抑えるために私は彼の言うとおりに深呼吸を試みる。
ぐったりしそうだ。冷や汗が気持ち悪い。
自分が重なって見えるような感覚さえしてくる。
そんなタイミングで、コツコツと靴を鳴らして誰かが入って来るのが分かった。
「抑えないと――」
汗でぐっしょりだ。口元を手で塞ぎ、無理矢理荒い息を抑える。
なんだか目の前が真っ暗になりそうで、ぼうっと天を仰いだ。
「上を見るなっ!」
英吾の叫び声が響いて、反射的に私は俯いた。
次の瞬間、大量の水が頭上から私に目がけて降り注いだ。すぐ止んだかと思えば、非難するように入口の扉を誰かが大きく蹴った。
「死ね」
女の笑い声――――。
投げ捨てられたバケツが床を鳴らし、そのなかを誰かが足早に去っていく――――。
私は意識を失った。
耳鳴りが前から後ろへと通り抜けるような感覚に、思わず私は体を揺すった。
時間の感覚が曖昧だ……ゆっくりと状況を確認すれば、頭から下まで制服がじっとりと濡れている。前髪に触れるとそこで漸く上から水をかけられたことを思い出す。
左手の掌に右手を這わせると、私は変身が解けていることを自覚した。
「大丈夫かい? 君は眠っていたんだ」
英吾が語り掛けてくる。
「ごめん、寝てたみたい……どれくらい経ったの?」
「ほんの15分くらいさ。とはいえもう授業は始まってしまったが……」
腕時計を見る。もう遅れてしまった以上、あとはいつ戻っても一緒だ。
「心配することはないさ。昨日のうちに体調不良の連絡は学校に入れていただろう? そのことはもと花や先生が知っている。保健室にでもいるんだと思ってくれているさ」
こういう時、普段まともに授業に出てて良かったと心底思う。
あとでもと花にノートを写させてもらおう……そんなことを思いながら腰を上げると、ふらっとして壁に凭れてしまう。
「もう少し休んだ方がいい」
英吾は言った。
「これは多分、あの牧本とかいう人の仕業ね。食堂の外にいるのが見えた」
山谷先輩が窓の外を向いた時に、食堂の外に設けられた駐輪場から、ひっそりとこちらを窺う視線が向けられているのを感じたのだ。
こちらも隠れながら監視していたが、こんなことなら堂々と睨みつけてやればよかった。
「私もだ。だがどちらかと言えば、もと花ちゃんよりも山谷を見ているようだった気もする」
思うところはあったが、今はわれ関せずだ。
もう一度足に力を入れると今度はなんとか立ち上がることができた。右腕にかけていたものを私は胸の前に掲げる。
ナップザックだ。本体ごと持ち上げるとうっすら湿っている。口を開いて確認すると、良かった、中身は大丈夫そうだ。入っていたのは女生徒用の学生服で、包むように覆っていたバスタオルがなんとか水を吸ってくれていた。
便器の座面周りをトイレットペーパーでふき取り、蓋を下ろしてそれらを広げる。一度扉を開けて周りに誰もいないことを確認すると、私は制服を着替え始めた。
最後にバスタオルでもう一度髪の毛の水気を吸って持っていた櫛で整えると、私はすっかり元の織櫛あいに戻っていた。
「今後彼女には気を付けないといけないわね」
「すまない。この場所も早々に使えなくなってしまうとは。私も警戒が甘かった」
着替える場所も、より安全でいい場所を見つけなくては。
「しかし彼女も執念深いな。おそらく昨日も教室にきたのだろう?」
「一年の頃からずっとよ。私がもと花の傍にいるようになったのはあれが原因なんだから」
その執念は何が原因なのか。
「てっきり運動ができるもと花……後輩への逆恨みだけだと私は思ってたんだけどね」
「牧本にはそれ以外の理由があったらしい。おそらく彼は山谷を慕っているのだろう」
「多分そうね。でも私のやることは変わらないわ」
もと花と結ばれるべく行動をするだけだ。
その過程でいずれ山谷先輩や牧本先輩のことを知ることになるだろう。全く興味はないが。
洗面台に備え付けられた鏡で軽く身だしなみを確認すると、英吾の制服をナップザックに戻
して――、
「おっ?」
低くくぐもった男の声がして、私は反射的に振り向いた。
しまった。
「お前……織櫛か? なんでこんなとこにいんの」
「汐崎!」
こんなタイミングでクラスの嫌われ者と出くわすことになるとは。全くついてない、こ
れでは誤魔化しようがない。
「あ、えっと…」
「女子トイレはそっちだぜ」
汐崎は呆れながら隣を指差して、そのまま私のそばを抜けて中へ入ってくる。
「……間違えたわ」
私はナップザックに押し込むと逃げるようにその場から立ち去ろうとして、背中越しに声を
かけられた。
「なぁ、女の嫉妬って面白れぇとは思わねぇか?」
「……なんのこと?」
「昼休みに外歩いてたらさ。女がいて、食堂のほうをじーっと見てるんだよ。睨みつけ様が尋
常じゃなくてな、思わず俺もつい見ちまったさ。そしたら他校の生徒と談笑する奴らを見て追
いかけてったんだよ、ソイツ。水浸しにして嫌がらせしてやるって。……お前も見に来たのか?」
晴は水浸しのタイルを見ているのは間違いなかった。
「私が? まさか」
「その男は袋を持ってた。ナップザックだったかな」
「それが、何?」
足が鈍くなって判断が遅れた。その場を離れようとした私の腕が汐崎によって引っ張られ、
強い力によろけた私を汐崎はそのままタイルの壁におさえつけた。
「あれはお前だろ? ……何してんだよ」
凄むような物言いに不安と苛立ちが一挙に湧き上がって来る。
「男装してたよな? なんのために?」
私は答えない。何を言われようとたとえこいつが教室でこのことを吹聴しようとも、誰も信じはしないだろう。それにもう着替えもすべて終わっているのだ。たとえこのナップザックが奪われようとも、問題ないはずだ。
「お前、あいつのことが好きなのか?」
確信に触れられた。汐崎の目をにらみ返しながら、私は唇を引き結んで答えまいと抵抗する。
むしろこちらから彼の真意を探った。
この場で見たことをこいつはどう思っているのか。嗤っているか、バカにしているか。
それともついこの前に教室で起こった、原田や武藤たちの事件を思い出しているのだろうか。
お互いの視線が交錯する。汐崎の目は異様なまでに真剣で、不思議なことに彼がいつも浮かべているような、面白いものを見つけた気分だというような馬鹿にしたものはそこにはない。
だから私は戸惑った。
だが、次の瞬間にはそうならないとも分からない。
逃げなければ。
そう思っても、左腕が根元から掴まれて私は全く抵抗が出来なかった。
「……桜庭をものにしたいのか」
尋ねられて、それでも私は答えない。
その様子を見て取り、汐崎は不意に手を離した。
呆気にとられて私は少しの間呆けてしまった。私は押さえつけられていた腕を揉むと、汐崎がおもむろに口を開いた。
「安心しろ。このことは誰にも言うつもりはねぇ」
「………………ありがと」
緊張で早鐘を打つ心臓を理性で押さえつけながら、私はそう言った。
思えば奇妙な男だった。
クラスの悪ガキ共とつるみながら、なんとなく誰とも距離を感じさせる、邪に交わりながら染まりきってない、どこかちぐはぐな人。
それが私の、汐崎晴への印象だった。
そしてそれは、やはり間違っていなかったのだと思う。
「その代わり……俺にも手伝わせろよ」




