第14話 もと花と英吾
「もう大丈夫です、お騒がせしました」
洗面台の前で彼に頭を下げた。
正面から彼を見ると、男子っぽくない長い髪と美しい二重の瞳に、わたしの鼓動が熱を帯び出したのを感じた。
「いやいや。あっ、待って」
彼はそういってわたしの制服の汚れた部分をはたいてくれる。
「これで良し」
「あの……」
わたしはか細く声を上げた。
「ん?」
「聞かないんですか……?」
勿論今あったことを、だ。そのほうが自然なはずだ。
「詳しい事情知らないけど、悪いのはあっちだと思うから。それだけで充分だよ」
何かお礼をしなくてはと思うわたしの視界の端で、廊下に落ちた鞄が映った。留め金が空いて、中から教科書が飛び出している。彼のものに違いない。慌ててそこに駆け寄ると、丁寧に一つ一つを拾い直して鞄に納めた。
「どうぞ」
鞄を差し出して相手のまじまじと顔を見つめていると、なんだか急に恥ずかしくなってくる。
「ありがと」
「そ、それでは――」
彼が鞄を受け取ったのを見て、慌ててその場を離れようとする。
「え、ちょっと」
わたしは大切なことを思い出して振り返った。
「あ、あの、貴方の名前は⁉」
彼は笑顔を作った。
「僕は浅野英吾。英会話の”英”に、漢数字の五に口の“吾”」
「助けていただいてありがとうございました!」
「あ、待って――」
勢いよく頭を下げて、わたしは逃げるようにその場を走り去った。
どうしよう。どうしようどうしようどうしよう。
感情がぐちゃぐちゃになっている。昨日のこともそうだし、今日のこともそう。
ぐっちゃぐちゃの思考で、何のために教室を出たのかを慌てて思い出した。
「あっ」
そういえば山谷先輩と食堂で会う予定だったんだ。今何時だっけ。
ポケットに手を入れると、スマホが窓の外へ放り投げられたのを思い出す。
「やばい。先生に見つかったらスマホ没収されちゃうかも……。でも先輩のところにも行かなきゃ」
どっちも確認したいけれど、まずは時間だ。
すぐ近くの教室を覗くと、昼休みはあと20分しかなかった。
スマホのことは心配だけれど……せっかくできた先輩との繋がりを不意にはしたくない。
頭に浮かんでくるさっきの出来事を私は頭から追い払った。
どのみちお昼もとらなきゃいけない。そう考えてわたしは食堂の方へ向かった。
食堂に着いて辺りを見渡すと、長机の一つに山谷先輩がいた。
手を振る先輩のもとへわたしは急いで歩み寄った。
「おっ、桜庭。遅かったな。」
「すみません、先生に提出物のことで呼ばれちゃって……」
対面の席に座りながら、ひっそりと身だしなみを再確認する。
一応ここに来る前に確認は済ませているけれども、一応ね。
「飯を急いだほうがいい。あんまりいいの残ってないし……俺、買いに行こうか?」
「いえ、自分で買ってきます!」
売店で適当にパンを買ってすぐに席へ戻る。先輩はもうとっくに食事を済ませて待っている状態だった。
「一緒に食べられなくてすみません……」
「しょうがねぇさ。ゆっくり食べなよ。慌てて話してもあと10分くらいしかないしさ」
「はい……」
慌てて食べるわたしを、先輩はなんだか楽しそうに眺めている。
「な、なんですか?」
「珍しいなと思ってさ。お前が慌ててるとこ初めて見たかも。部活の時だって遅刻とかもしなけりゃ試合で変なミスもしないし、割と何でもこなせるイメージだったからさ」
そんなことはない。わたしは不器用で人付き合いが苦手だ。そう思われたくなくて、明るく振舞って話しかけて人に好かれようとしていただけだ。部活はただ体に合っていただけだと思う。
「明日、もう一回ここで食事し直さねぇか? もっと話したいしさ」
牧本先輩の顔が脳裏を掠める。けれどわたしは、この繋がりを断ちたくない。
「すみません。それじゃ明日またここで」
結局、わたしが食事を終える頃には先輩は教室に向かわなきゃいけない時間になってしまっ
た。自分の教室に戻る前に、スマホが落ちてそうな場所を探したけれども見つからなくて、放
課後もそれは変わらなかった。
翌日、学校に来たあいちゃんが言った。
「昨日は連絡くれてたのにごめんなさい。体調が悪くて……お昼に病院に行っていたの」
まだ本調子ではなさそうで、少しだけやつれ気味に見える。
「そんなの全然いいよ」
「今日は学校に来るの早かったね。何かあったの?」
「んーと……」
言うべきか、言わざるべきか。
「学校でスマホ落としちゃって……心当たりはあるんだけど、まだ見つかってなくて」
「それって結構やばいんじゃない? どこで落としたの?」
「中庭の方だと思う。グラウンド側のとこ」
「それってかなりまずいんじゃない?」
当然だが学校へのスマホの持ち込みはご法度である。教員に見つかって没収されたなら、自首して回収しに行くしかなくなる。そうなれば二言三言では済まず、親に来てもらうという面倒くさい手順を踏まされることになる。
緑陵は基本的に生徒の自主性を重んじているために表立ってあまり注意することはないが、見つけた時は必ず何かしらの罰則や内申書に明記するという几帳面な部分を持っているのだ。
「花壇の周辺に落ちてるのならまだしも、グラウンド側だと何もないわ。どうりで返信したけれど反応がなかったのね」
「うっかりしちゃって……」
わたしは頭を掻いた。
「4限目までにはなんとか見つけたいなあと」
「どうして?」
「お昼、部活の山谷先輩から誘われまして……」
「はーんなるほどね。そんなこと言ってる場合じゃないでしょうに」
あいちゃんが含み笑いしている。そりゃそうだ。でも昨日満足にお話しできなかった以上、今日こそは先輩とじっくり話さなければ。
とにかくそれまでになんとか見つければいいのだ。最悪の場合、先生が持っていると思うし。
「仕方ないからいっしょに探してあげる。休憩時間中にとっとと見つけましょ」
「ありがとうあいちゃん」
わたしは両手で拝んだ。
「どうしよう、全然見つからない……」
見つからないままとうとう昼休みになってしまった。
「もしかして……」
ひょっとすると誰かが見つけて職員室に届けてしまったのかもしれない。それだと本当に面倒臭いことになる。職員室で私を待っている先生の姿を想像して頭を抱えた。
そこに誰かの手が置かれて、髪の毛が撫でられる。
「しょうがない。もと花は先輩との用事を済ませてきなさい。私が探しておいてあげるから」
あいちゃんだ。
「いいよ、もう。たぶん先生が持っていると思うし。それにわたしの責任だし……」
「私がそうしたいんだからいいの。ほら、食堂に行くんだから途中までいっしょでしょ? はやく行ってお話してきなさい」
いっしょに教室を出て廊下を歩き始める。
隣を歩くあいちゃんは相変わらずきつそうな目をしている。機嫌悪くしちゃったかも。
しゅんとして俯く私の頬をあいちゃんが捻った。
「くすっ……不っ細工。そんな暗いと食事も楽しくないよ?」
軽く肩を叩かれる。
「これでも私は応援したいと思ってる。もと花が楽しんでくれるならそれでいい。好きか分からないから会ってみる。良いことだと思う。今日はその先輩に譲ってあげる。でも――」
前へ一歩出たあいちゃんがくるりと振り返り、わたしを正面から見据えた。
「私のことも忘れないでほしい。私とも時々でいいから、食事したり遊んだりしてほしい」
そういうあいちゃんの表情は少し寂し気で。
「それじゃ、また教室でね」
わたしは何も言えなかった。
彼女が行ってしまった後になってから、ちくりと胸の痛みを感じるのでした。
 




