第11話 結ばれるためのメタモルフォーゼ
もと花と先輩たちが下校してから私も校舎を離れた。
少しだけ晴れやかだった気持ちも、家に戻る頃には暖かさを失って、代わりに家での空漠とした日常が私の胸を満たした。
義務的に親の分まで料理を作り、先に食事を済ませたら、まるで犬にでも餌をやるかのように「勝手に食べて」と母親に言い放って、いつものようにやっぱり返事はなく、私は逃げるように自室へ閉じ籠る。
いつもと変わらない。それなのに、今日はもと花とあまり話せなかったせいか、いつも以上にひしひしと虚無感が感じられた。
寂しい。
そんな気持ちを紛らわすために私は勉強をする。
どうして?
自由になりたいからだ。
どうして?
私の居場所がどこにもないからだ。
私は孤独なのだ。だから、自分で自分を愛せる場所に行かねばならない。
どうして?
そうでないと私は……。
勉強を終えて一段落したところで、スマホが揺れた。
もと花からメッセージが来ている。
――今日はありがとう。なんとなく、傍にいてくれる気がしたんだよね。
――いるのばれてたよね。
おどけたような顔文字を付けながら私は返事を返した。
――心配してきてくれたんでしょ? わたしって情に流されやすいところあるから。本当は好きって言われた時、お受けしますって答えようかなとも思った。でもあいちゃんの言葉を思い出してね。わたし、ちゃんと分からないって言えたよ。それで結局、先輩とは友達から始めることになりました。始めるったって、お互い部活でのことは知ってるけどね、へへへ。でも言いたいことはちゃんと言えたよ。あいちゃん、本当にありがとう。
――本心が伝えられたのなら良かったわ。このまま先輩と付き合っちゃったりして。
――どうなんだろう。わたしはまだ恋愛分からないし、誰かを好きになる自信がないから。でもいつかそうなれたら素敵だな。その時もあいちゃんとはずっと友達でいたいな。
友達。その言葉が深く胸に刺さった。
「私は――」
言葉が出ない。そうだね、私ももと花と友達でいたい。とタップする。メッセージを送るか悩んで、やっぱり文章を変えた。
――そうね。
これでは素っ気ない。慌てて続きのメッセージを投げた。
先輩とうまくいくといいわね。そこまでタイプして、また消してしまう。
何がしたいんだ、私は。
――もと花の相談に乗れて嬉しかった。
悩んだ末にそう送った。
ハッピーの文字が書かれたかわいらしいウサギのスタンプがもと花から送られてくる。
私はぼんやりと画面を見つめたまま少し固まって、互いにやりとりを終えたのが分かった。
もと花は他のことを始めたのだろう。
私と彼女はメッセージでわざわざ「おやすみ」なんて言わないことも珍しくない。日をまたいでいきなり違う話題から始まることも茶飯事だ。そしてそのまま会話は続くのだ。
スマホを閉じて、ベッドに寝転がる。
ずっと友達でいたいな。
「私は――」
頭ではわかっているのだ。もと花がそんな気持ちではないということぐらい。
あの子は私と友達の関係だと思っている。それは当然で、それ以上の関係はない。
私が女である限り。
親友と友達は近しい関係だ。
でも恋人は違う。それは親友以上の関係で、将来を共にする関係だ。
私が男に生まれていたら、どんなに単純だったことだろう。
あの先輩のように、誠心誠意を込めて告白するだけでいい。
でも私は女だ。
女同士の恋愛は、原田や武藤の同性愛と同じように周りから排斥される。
そしてそれは、もと花を傷つける原因にもなりうる。
同じことは当然私たちにも起こり得るのだ。
もと花はまだ傷から立ち直れているわけではない。
たとえ傷が癒えたとしても、私のこの好意は永遠に伝えられるべきではない。
もと花を守るために。それは絶対だ。
でももし正直に私の思いを彼女に伝えたなら、私たちの関係はどうなってしまうのだろう。
体を丸める。
きっと気持ち悪がられるに違いない。そうなったら友達の関係にすら戻れなくなるかもしれない。
そして私はまた孤独になる。孤独にはもう……耐えられない。
だから私は告白なんてするべきじゃない。考えるべきですらないんだ。
私には、どうすることもできないんだ。
自覚して、絶望した。
いつも、いつもいつもいつもこの結論に至ってしまう。
無力だった。情けない気持ちに打ちひしがれて、私は頭を掻く。
いつか本当にもと花は、あの先輩と付き合うかもしれない。
友達なんて、親友なんて儚い関係だ。何かあればすぐに解消してしまう。
私はそれを知っている。
愛してるなんて言葉は思うよりずっと脆い。ましてやその前の『友達』の関係なんて……。
もと花と山谷先輩が付き合ったら、私たちの関係は終わる。
繋がりが永遠に隔たれてしまうのがなによりも怖かった。
それもこれも全部、私の持つこれのせいだ。
いよいよ私は生まれ持った性別を呪った。
女という呪縛。
愛されずに生まれ、愛したいのに愛せず、愛してとも言えない。
永遠の孤独――。
キリキリと激しい苦悩が全身を灼き始めた。
頭が締め上げられるような感覚にうなされながら、解なき答えを自分の中に求める。
そこにはなにも浮かびはしない。
この苦痛を何度、あと何度味わえばいいのか。
それでも答えは何もない。
永遠の孤独に私は悲鳴を上げた。
助けて。誰か、助けて。
でも。私を助けてくれる人は…………。
……………………。
…………。
「――あい。君は、自分が女性であることを後悔しているのか?」
夢を見ているのだと思った。
何もない真っ白な空間に、私と『彼』が立っていた。
この人を知っている――ずっと前から。
何故だか分からないけれどそう思った。いつもどこかから見守り、話しかけてくれる声。その声の主を私は初めて見た。
腰まである長い髪が目についた。束ねることなくなだらかに落ちるその姿は、どことなく私に似ている。くっきりとした顔立ちに浮かぶ二重の目は凛々しく、唇は瑞々しさを帯びてぷっくりとしている。ともすれば近寄り難い雰囲気を帯びてしまいそうなのを、緩やかに落ちる目尻が和らげて、女性ウケの良さそうな優男顔を演出している。恐らくそれは、彼自身の心根の美しさが外見に表れたものと捉えるべきだろう。
私と同じ女子にしては少し高いぐらいの背丈なのに不釣り合いなほど低く落ち着いた声が、私よりも遥かに年上の相手なのだということを理解させられた。
「あなたは誰なの……?」
「僕はずっと君の中にいた。君の願いを叶えるために。君を幸せにするために」
「ひょっとして、いつも私に話しかけていたのは……貴方だったの?」
彼は小さく頷いた。
私は驚いた。幻聴に姿があったとは……いや、もはや幻聴とは言えないのかもしれない。
てっきり幽霊とかご先祖様とか神様とか、そんなものだと思っていたけれど、こう姿をハッキリと見た今では、その存在を疑いようがなかった。
「あなたはそんな顔をしていたのね」
私はまじまじと彼の姿を見ようとするが、集中すればするほど、見えているはずの彼の姿がどんどん曖昧になっていく。意識を反らせば、また彼の姿がくっきりと浮かび上がって来る。
奇妙な感覚だ。やっぱりこれは夢なのだろう。
「幽霊なんかじゃないよ。というより僕は君のお兄ちゃんだからね」
「お兄ちゃん?」
意外な発言だ。私に兄はいない――はずなのに、不思議とそれは間違いない、噓ではないという奇妙な納得感があった。
「あなたに名前はないの?」
「僕の名前は英吾。もし君が本当に男になりたいと望んでいるのなら……僕が力を貸すよ」
彼はそう言った。
「どうやって」
浮かんでくる疑問たちよりも先に、口を突いて出てきたのはそんな言葉だった。
「あなたが私のことを本当にずっと見ていたのなら、私がどうなりたいかなんて言わなくても分かるはずでしょう?」
試すように言った。
そう、これは夢なのだ。
どうしようもない私の希望的観測が生み出した幻想。
だから何も起きるはずはなく、何も変わるはずがない。
……それなのに何かを期待をしている自分がいる。
「目を閉じて」
私は彼の指示に従った。
次第に眠気に支配される。
この夢は幻で、彼の声は幻聴で。
だからこれはきっと、自分を慰めるための無意味な夢だ。
存在すらしない。それなら忘れてしまおう。目を覚ました時の現実を受け入れよう。
体がけ怠い感覚に包まれて、自分の輪郭も朧気になっていく。残る暗闇に誘われるままに、私は深い眠りへと落ちていった。
静かに目を開くと、壁掛け時計は午前6時になったばかりだと教えてくれた。
学校に向かうには早いが、朝食と弁当の用意を始めるにはちょうど良い時間だ。
全身がぼうっとしている。疲れた感じはしないが、顔を洗いにいきたい。掛け布団を振り払って起き上がると、全身になんとも言えない違和感を感じた。
締め切っていたカーテンを開いて朝日を浴びながら、机の上にある三面スタンドを覗き込んだ。鏡に映っているその姿に、私は目を見張った。
「これが……私?」
そこにいたのはいつもの『織櫛あい』ではない、夢の中で見た『英吾』の姿だった。
手で何度も顔に触れて確認するが、嘘ではなかった。
なだらかに落ちた目尻に凛々しい二重の目。
間違いない。
私は『男』になっていた。




