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もう機械面での作業は多くなかった。最近に至っては、老人の口数も少なくなっていた。サービスマニュアルや整備関係の本や資料が増え、読みながら考えていると、ああ、あの時老人がこうしろといったのはあれだったかと不意に理解が降りてくる。逆に、手付かずのあそこはいつやろうかという気にもなってくる。パーツリストをめくり、部品屋に電話をかけ、廃盤を告げられ、こんどは解体屋に電話する。そんなある意味”変わらない日々”の始まり。だけど、それが好ましいと思えた。愉しかった。整備関連の書籍を納めるために本棚を買い、そして気づいたらミニカーなど買っていた。小さなサイズのギャランクーペFTOを眺めながら、次はデカい方だ、とサービスマニュアルのページをめくる。
『ボディは流石にプロの手がいいだろう。経験則もそうだが、設備投資が馬鹿にならん。真面目にやれば4桁万円飛んでいく』
いよいよバッテリーをつけて始動確認だ、という段階で不意に老人が言う。流石にその額までは出せない僕にとっても、反論などあるはずもない。
『今から言う番号に電話しなさい』
老人の言うところはどうやら隣町の小さな板金屋らしく、個人経営のじい様一人でやっている、そんな板金屋ということだった。老人曰く、腕前は悪くないという。ただし、抜群という訳ではない、とも言った。きっとあいつは割り引いてくれる、そんな言葉を付け加えて。
《あい、サガラバンキン》
電話口からは、気の抜けたしゃがれ声がする。町工場特有の気だるげな接客だ。
「あの、ボディ全体の板金......レストアをお願いしたいんですが」
《レストア?車種はなんでしょうね、結構掛かりますよ》
「ギャランクーペFTO、1973年式です」
《あい、ギャラン......ギャランクーペ?ギャランクーペですか?》
「はい。錆落としと再塗装を」
《それ、何色ですかね?近くから拾ったんで?》
「え、はい、たまたま買いまして、オレンジの」
カシャーンと電話越しに音が響いた。暫く無言が続いて、それから暫くして、失礼、見せてもらえませんかと返答が響く。
「えっと、お受けして頂けるんですか?」
《お受けしましょう。格安で》
そう答えたサガラさんは、えらく上ずった声をしている。その上、あわててトラックに乗り込んでいるらしく、セルモーターの音やドアを閉める音が、いちいちマイクに拾われる。
《どちらにお住まいでして?》
おいおい、順番が逆だろう。僕はちょっと面白くなって、思わず口許に指を当てていた。
「東町です。佐波郡東町、農協のすぐ近くです」
《すぐ向かいますから》
言うなり電話向こうでディーゼルエンジンが吹けている。いったいどうしたというんだろう。
「相良です。この度は」
「あ、はい。お願いします。このギャランです......って!」
セフティローダートラックで乗り付けた相良さんは、ギャランを見るなり崩れ落ちた。肩を落とし、小刻みに震えている。
「ど、どうされたんです!?」
「やっぱり、ヒムロちゃんのギャランじゃねぇかよ」
泣き笑い、感無量、そんな表情で相良さんはギャランを見ている。
何かあったな、どころじゃない。もう一歩も動けないという相良さんは、袖で泪を拭いながらポツリポツリと話し出す。
「俺の......親友だったんだよ。ギャランを弄るのが好きでなぁ......ギャランのために全部投げ打って、まだ62なのに枯れ木みたいになるくらい老け込んで。あげく、肺癌で死んじまった。もう20年前か」
「20年前に」
「いよいよ末期で病院に担ぎ込まれてもよ、ギャランギャランってよ、あげく、最期は路上でくたばっちまった。病室から抜け出したんだ。末期癌だぞ?でも、最期にギャランに会いたかったんだろうさ。磊落に笑う奴だった」
「そしたら、ギャランも消えちまって。探してたんだよ、ずっと」
「ひょっとして、」
ギャランを見る。老人はいつの間にか消えている。
いや、そう見えるだけなのかもしれない。あまりに神出鬼没な老人だった。いつも都合のいいときだけ出てくる老人だった。そして、ギャランの事しか目にない老人だった。
「現世に縛られたままだったのかもしれねぇな、下手したら、永遠に」
「ええ、そうかもしれません。でもきっとヒムロさんなら、成仏したりなんかしないでしょうね」
「なに?」
「成仏なんかしたら、ギャランクーペと離ればなれになっちゃうじゃないですか」
そう嘯くと、相良さんはヘヘッと少しだけ笑ってくれた。
「その全然笑えない冗談の言い方、ヒムロちゃんソックリだ」