1
1
三菱・ギャランクーペFTO。
1971年から75年まで製造。1439cc直列四気筒SOHCの4G33型”サターン”エンジン搭載、駆動方式はFR、乗車定員5名。
......つまり、クルマだ。誰がどうみても死んでいる。僕にとってはそれだけにしか思えない。自宅の駐車場に置かれたそれをまじまじと眺め、ふと思い立ち、キーを差し込み捻るなどするが、うんともすんとも言わない。やはり、錆び付いた外見通り、このクルマはもう死んでいるのだ。
『あんまりにも放置するからだ。おかげで何もかもやり直しだ』
隣で老人がフガフガと憤慨している。
「そうみたいですね。で、あなたは?」
『電装、エンジン、駆動系、ボディ、全部が全部だ。全く許しがたい』
「そうですね。で、どちら様で?」
『ボンネットを開けなさい』
「あ、はい」
参ったな。この老人と来たら、万事この調子なのだ。道を歩く通行人も異様な光景を見るようにこちらをチラリと見て、面倒事はごめんだとそそくさ立ち去っていく。
ギギイと音を立てて開いたボンネットの中は、マスクの用意が無かったことを後悔してしまう程に埃の山だ。
『先ずはバッテリーを外すんだ』
「工具がないですよ」
やけっぱちに言えば、そんなときばかり
『トランクに車載工具が入っている』
と返答がある。トランクを開け、ボロボロになった皮のケースからスパナを取り出し、バッテリーのナットを回そうとすれば、ボソリという手応えと共にナットがもげる。やはり、このクルマは死んでいるようにしか思えない。そもそも僕はなぜこんな事をしているのだろうか?
『ステーくらいはどうって事ない。汎用部品で事足りる』
「あの、随分とお詳しい様ですが、僕はこういう経験ないんです。ご自分でやられては?」
『バッテリーのマイナスを外すんだ』
「......あの」
『バッテリーを外したら......そうだな、エアクリーナーとキャブだ。燃料ラインを外して、クリーナーにどぶ漬けしなきゃならんだろう。それからオルタネータに、ファンベルトだ。ベルトは新品に変えなきゃならん』
「あの、僕は......」
『誰だって初めは経験がない』
「それもそうですが、」
『嫌なのか?』
老人がこちらを見る。嫌か?と問われてしまえば、不思議と嫌ではなかった。クルマを引き取った時にいきなり湧いたあの情熱。錆び付いて、どう見ても死んでいるクルマに、あのときの僕は同情した。僕と重ね合わせて、これからいよいよ形すらなくなるという存在にやりきれない思いを抱いた。けれど、老人はあの車はまだ動くと言ったのだ。そうしてやりたいと思った。動くなら、動かしてやりたいと。
「......」
再び手元を見る。錆の塊になった茶色いバッテリーステーとナット。やはり、誰がどう見ても死んでいる。
「本当に、また動ける様になるんですか?」
『動く。このクルマは生き返る』
もとより趣味も何もない。この老人が具体的に何を考えているのか、僕にクルマを直させて、その後何をさせたいのかもわからない。だがしかし、このまままた道端の石ころのような、安定感ばかりの変革のない人生に戻るよりはいいのかもしれない。
「具体的に、何をどうすればいいんでしょうか?」
『教えてやる』
「必要なものはありますか?」
『沢山だ。明日は買い出しにいくとしよう』
老人が乱杭歯を見せびらかすようにニタリと笑った。その笑みがあまりに不気味で、少しばかり自分の発言を後悔したが、しかし笑みの奥の獰猛な気配は、それ以上に彼が頼もしいアドバイザーである事を感じさせるものだった。
『先ずはバッテリーのマイナスを外すんだ』
「はい。......えっと、因みに何故?」
『放電しきったバッテリーの筈だが、それが電池である限り、感電の危険がある。取り除ける危険は取り除かなければならない』
老人は続けた。
『それに、重整備を始めるときの作法だな。剣道がまず互いの礼を持って始める様に、先ずは感電の危険を取り除くところから整備は始まる。つまり、バッテリーのアース撤去だ。剣道の礼だ。......マイナスはこっちの配線だな』
どちらかわからず、プラスの線を外そうとしかけた僕を、老人はそっと静止して、煤けた様な配線を指差した。
『外れたな。バッテリーは案外と重たい、気を付けろ』
手を真っ黒にしながらバッテリーを持ち上げる僕。言葉以上に手伝うつもりはないという面持ちで腕組みをする老人。
地面にバッテリーを下ろして、再びギャランクーペに向き合う僕の右足が、不意に小石を蹴飛ばした。
道端の小石の様な人生だ。唯一の取り柄である安定感も、これから少し......あるいは大きく失うだろう。
だけど......ひょっとしたら。
『こんなに汚れたバッテリーを外して笑うやつはそうそう居ないだろう』
不意に老人が言った。
「そう思いますよ?持ちたくないです」
『君の事だぞ』
「え?」
『君は今、笑っている』
笑っている?そうだろうか。言われて初めて気がつけば、確かに頬が少し緩んでいる気がした。