0-2.開戦前―ヴァリスサイド―
「大将!空から痴女が!」
「は!?なんて!?」
どこからか轟いた太三郎狸の大声に、龍瘴の森で勢力を拡大している新興勢力の主であるヴァリスは、何の冗談だと思いつつすぐさま反応して上を見上げた。だが、彼の頭の上にあるのは深い緑の葉や木の枝の重なりであり、どうして冬なのにこんなに植物が青々しいのかと疑問になるばかりだ。
「こっちじゃ確認できないんだが、その痴女とやらは何をしているんだ?空中ストリッパーとか新しすぎるぞ!?」
「忍狸の報告では、落ちてきているようです!大将、丁度大将の居る辺りに落下するそうです!儂らも向かっていますが、お気を付けを!」
「えぇ……?」
困惑する元大妖怪に、久々の感覚が走った。強者の気配。死龍エグンシェムほどではない。"不死の神珠"に接触したときよりもまだ弱い。だがその二つは、人智を越えた存在であったのだ。
対して今回空から落ちてきたのは人間だった。胸部と局部の周囲は、鎧や魔物の皮を使って作られたのであろうショートパンツによってガッチリと固められているが、それ以外の部位はほとんど素肌を晒した人間。
寒いのによくこんな格好をしているな、とそんなことをぼんやり思いながら、ヴァリスは落ちて来た少女を受け止めた。そこで彼の手に、ぬるりとした感触が伝わる。血だ。少女のくびれた左脇腹から背中にかけて、裂傷が刻まれている。幸運なことに臓器が傷ついているほど深くはない。だがそこから溢れ出す出血量は、今すぐ命を脅かすほどではないが、処置せずに放置すれば死に至る可能性がある。
「……うわっ!?これやばいんじゃあ!?」
ヴァリスは、すぐに医者に見せないと、と考えて気付く。人間の治療が出来る者など、ここにはいないことを。この新興勢力に正式に所属しているのは魔物、妖怪がほとんどであり、他にはエルフやドワーフが十数人程度いるものの、人間はたった一人の少女しかいない。その一人は現在サロイザース代理領主オクト・ラズームとの商談のために出払っている。
つまりこの場には人間が一人もいないのだ。同じ人型のエルフやドワーフなら、もしかすると多少の心得があるのかもしれないが、期待してはいけないだろう。
「コボルトシャーマンー!塗り薬を今すぐ持ってきてくれー!」
ヴァリスは龍瘴の森に響き渡らん大声を発した。現在彼が『従属登録』を使って配下にしているコボルトの数は八十体程度となっている。最初に配下になったコボルトの一族の他に幾つか吸収しているため、最初は一体しか居なかったコボルトシャーマンの数も三倍ほどに増えていた。
だがヴァリスが"コボルトシャーマン"と呼んでやって来るのは、最初に出会った一体だけだ。それは半ば固有名詞のようなものとなっている。
しばらくして、一体のコボルトが木のボウルを抱えてやって来た。魔物は、大主が怪我をしたのかと思い慌ててやってきたのだが、大主が人間の女の傷口を手で押さえているのを見て、ほっと息を撫で下ろした。
「大主、持ってきた。人間、効くか、分からない」
「ありがとう!……いや、そうだ。魔法でどうにかならないのか?」
自分が魔法を使えないため、それを利用する考えが無かったヴァリスだが、コボルトシャーマンの姿を見てふとそんな考えが浮かび、彼は眼前の魔物の魔法使いに問いかけた。
「無理。私、火と土しか、使えない。他の、祭祀たちも、傷癒す魔法、使えない。ガックシ」
「そうか。いや、ありがとな……くそっ、どうやって止血しようか」
かつて小さな狸がコボルト一体の命を救った時のように、焼いて止血するしかないのか。しかしその方法は、お世辞にも最良とは言えない。
そこでヴァリスは、集まって来ていた妖怪たちの中に絡新婦が居ることを認めて、閃いた。
「絡新婦!耐久性のある糸を貰ってもいいか?縫合に使えるくらいのやつ!」
絡新婦は人間の少女を見た。蜘蛛の妖怪は心底嫌そうな顔を心の中だけに留め、表面上は実に魅力的に微笑んで了承する。
「勿論です。主様のためならば、厭うことなくいくらでもお渡しいたします!」
女郎蜘蛛はまず、鉄すら貫けるほど固い糸を数センチ糸いぼから取り出して主に渡した。次にその固い糸に、縫合に使えそうなくらい柔らかく耐久性のある糸を結びつける。出来上がったそれは、流石に医療用として使えるほど優れたものではないが、普通の糸を針に通して結んだものよりかは幾分マシだろう。
さぁ、いざ縫合、といこうとしてヴァリスは動きを止めた。
「……針仕事とか、したことないんだよな……絡新婦、頼んでもいいか?どんな結果でも責任は俺が持つから」
「分かりました。この傷に沿って縫えばよろしいのですか?どのようにでしょうか?」
「あー……何かこう、良い感じに?」
「は、はい」
もしこの少女に意識があったなら、頼むから止めてくれと泣いて懇願していただろう。幸いなのかどうか止める物は誰一人としておらず。こうしてやたら細かく縫われた傷口の上に、コボルト特製の塗り薬を塗ると言う医療従事者大激怒間違いなしな処置が終わり、少女は拠点にある少し斜めに歪んだ倉庫の中へと運ばれた。
その横に、生きているから食べちゃダメです、との立札を立てられて。
少女が目覚めたのは、それから二日後の事だった。
彼女は曖昧な意識の中でまず、反射的に周囲を見回した。そして自分が横たわっている場所が、とりあえず屋内であると言うことを認めると安堵の息を漏らす。が、直ちに左わき腹に激痛が走る。それによって意識が完全に覚醒した少女は、自身の身に起こった出来事を思い返すとともに、改めて辺りを観察し始めた。
まず目に入ったのは、生きているから食べちゃダメです、と書かれた立て札だ。まだあどけなさが残る少女は絶句する。こんな立て札を立てる意味が分からない。生きているから、と言うことは死んでいたら食材にでもされていたのだろうか。こんな注意書きを何故しなければならないのか。
「……お母さん……お父さん……」
少女はこの世界にはいない両親を思い浮かべ、彼らに助けを請うよう名を呼ぶ。だが、彼女が弱気を見せたのは僅かな間だけだった。軽く溢れた涙を指で拭うと、唇を軽く結び眉根を寄せて逃亡するために思考を巡らせ始める。
傷は手当された跡があるのだ。少なくとも自分を生かす理由がある。
だが思考のために与えられた時間は、大してなかった。倉庫の扉が歪な音を立てて開いたのだ。
「……」
「……」
目と目が合う。魔物?いや、違う。だが見覚えがある。この世界ではない。元の世界で見たことがある。あのつるりとした頭の皿は。
「か、河童……!?」
「あ、どうも、河童です。お近づきのしるしに尻子玉をください」
「!?!?」
もはや理解の範疇を越えていた。頭の中には様々な思考が浮かんでいたが、それは現実逃避の類で全く益の無いものだ。
しかし、少女の片手は咄嗟に動いていた。緑の体の妖怪を狙う様に、それが向けられる。だがスキルを発動しようとした彼女は、貯めていた物を使い切っていたことに気が付いていなかった。
「むっ……人間、まさかっ!」
河童が近づいて来る。少女は突き出した手を何度が揺すったが、何も発動しない。立ち上がって逃げようとするも、痛みと気怠さで体が鉛のように動かない。
「やめっ……!助けて下さ」
薄い膜のある手が伸ばされる。人間とそれ程変わらない太さの手だが、相撲が得意な彼らのそれが見た目通りの腕力しかないわけがない。
殺される。
少女はそう思ってギュっと目を瞑ったが、襲ってきた衝撃は伸ばした手に対するものだった。
「ふっ……これで俺たちはダチだな」
河童はそう言い、少女の手をガッチリと掴み握手をする。
何故そうなったのかは分からない。分かるのは、このヌメヌメした感触の手をした妖怪が、意外にも友好的な事だけだ。
「あ、はい……そうですね?」
「懐かしいなぁ。よく人間の子供と相撲をしたんだ……今度、相撲しような!じゃあ、ヴァリスの兄貴を呼んでくるよ!」
そう言って河童は疾く早く遠ざかるが、残された少女は全く思考が追い付かない。あまりに情報量が多すぎる。異世界に妖怪が居るなんて、一体どう言うことなんだろう。
そこで彼女は、そう言えば、と思い出した。戦士の冒険者が鬼の絵が描かれた盾を持っているのを見たことがあったのだ。それは異世界に転移してすぐの頃であり、考える余裕のないまま奥底に沈んでしまっていた記憶なのだが、それがこう思わせる。
もしかして、この世界には妖怪が存在している?
自然と深く考え込んでしまいそうになる頭を、少女はニ、三度ほど軽く叩いた。彼女には考えるよりまず、やらなければならない事があった。
スキルを強く意識する。先ほどのように、貯蔵を切らしてはいては何もできないのだ。
だから彼女は皮膚で呼吸をした。
自分でも正確にはどこにあるか分からない空間に、吸い込んだ酸素が充満していくのが分かる。異世界の大気は元の世界のそれとは微妙に違うのか、元の世界では吸収できるはずの気体が集められないことがある。だが、窒素、酸素はこの世界においても常に存在していてかつ大量に吸収することのできる気体だ。
化学の専門的な知識があれば、少女のスキル『皮膚呼吸』はもっと強力なものだっただろう。残念なことに、彼女が思いつくことが出来る有用な用途は限られている。
大体容量の四分の一程度酸素を集められたところで、ガタイの良い男がこちらに向かってやって来るのを認め、少女は吸収を止めた。
「おお、本当に目覚めてる。龍瘴の森の瘴気がうんぬんってあてにならないな」
ヴァリスはそう言ったが、少女が龍瘴の森の瘴気の影響をほとんど受けず意識不明の状態から二日で目覚められたのは、彼女が肉体強化の恩恵を受けている異世界転移者だからだ。普通の人間なら今頃、生死を彷徨っているだろう。
「あの……あなたは?」
「あ、悪い悪い。俺はヴァリス。龍瘴の森に拠点を持つ新興勢力の、一応の主だ」
「あなたが……!」
少女の目の色が変わった。警戒するような、疑るような視線は和らぎ、代わりに真剣味が増す。その様子から、この少女は自分に用があるのではないかとヴァリスは感じた。
「でしたら伝えなければならないことがあります!仲間が、私の仲間が、ガルドオズムとあなた方の戦争の口実を作ろうとしています!いえ、もう作ってしまった後かもしれません!」
「は!?なんて!?」
突然の告白に、ヴァリスはもう一度聞き返したのだった。




