11.さぁ、商業活動を始めましょう③
初冬の海は寒い。そんなことは、子供でも知っている。荒ぶる潮風に身を晒されると、玉の緒を直接掴まれて揺さぶられるような気分になる。だがそれでも、握り潰されるよりかはマシだろう。
だから男は今日も、漁に出る。
火や風の魔法が使えるなら、この寒さを幾分緩和できるかもしれない。だが魔法の才がある者が、冬の海に船を走らせる機会はそう多くはない。
不平等な世の中だ。
それを呪い、義憤に燃えていたからこそ男は海の上に居た。
そうして感慨もなく水面を見る。その目が求めるのは獲物だけだ。日々の糧を得るための、獲物。男は重い溜息を吐いて、水中に沈ませていた網を引き揚げその数を確認し始めた。
シェザーシャ・メイラハクは、冬の海から送られる寒風に身を打たれ凍えていた。目的の人物を訪ねるためにサロイザースまでやって来たはいいが、その人物がこの死ぬほど寒い中で漁をしていると聞いて、信じられない気持ちで一杯だ。しかし彼女は、目的の人物が漁を終えるまで暖かい屋内で待機することを選ばなかった。少しでも彼の気持ちが分かればと、防寒着に斜め掛けしたポシェットを時たま触りながら、沿岸で目的の男が帰ってくるのを待っている。
そうしていると、海から一人の男が戻って来た。幼い子が見ると泣いてしまうかもしれないほどの強面は傷だらけだ。その上、片耳が無い。漁師より、冒険者の様な容貌だろう。
彼は歩きながらほんの少しシェザーシャに目を向けたが、立ち止まることはなくその横を通って去ろうとした。
「待ってください!マディラ・ベルハムさんですよね?」
名を呼ばれた男は、しかし止まらない。代わりに吐き捨てるように短く呟いた。
「違う」
太く重く、だが疲れた声。三語であっさりと否定した男は振り向かない。だから、追うしかない。
「ま、待ってください。気を悪くされたなら、本当に申し訳ありません。私は」
「シェザーシャ・メイラハク、だろ。有名だからな。メイラハク……汚臭のする名だ。あんたが勘当されたって話は、こんな惨めな負け犬にまで届いてる。だけどな、俺を利用しようとするな。俺はただの漁師だ。何もかもをラプラコーズに奪われて、その上メイラハクと名のついたガキに利用しようと目論まれている、くそみてーな漁師だ」
足音が大きくなる。それはメイラハクやラプラコーズに対する怒りか、自分の惨めさに対する虚しさか。
マディラは付き纏う少女を一切見ない。その少女が不愉快なものだと訴えるように。
「違います!私はあなたに仲間になって頂きたいんです!」
ぴたりとズボンに覆われた両足の動きが停止する。男の沸点は限界に達していた。仲間だって?何て軽い口でその言葉を弄するんだ。彼は感情のままに口を大きく開けたが、そこから声が出ることは無かった。メイラハクとは言え、勘当された子供に怒りをぶつけても何の意味もない。一気に虚しくなったマディラは、背中に広がる海を指さして言う。
「あんた、冬の海の上で何時間も過ごしたことはあるかい?波を全身に被り、指が腐り落ちそうになったことは?魔物に追いかけられて耳を嚙み千切られたことは?そんなの、何一つないだろ。仲間ってのは、高いところで座ってる奴らが低い所で汗水垂らしながら働いている人間に向かって簡単に使って良い言葉じゃないんだ」
「そんな、私は高い所に座ってなんて」
「座ってるだろ?随分あったかそうな服じゃないか、ええ?それで寒いってんだからな。いや、よほど高い所に居るから寒いのかもな」
そう吐き捨てて、ふん、と鼻を鳴らす。
シェザーシャはなにも反論できずに押し黙った。だから彼女は、防寒具を脱いでポシェットを地面に置いた。
何をする気だ?マディラは突然の行動を訝しむ。そんな彼の存在など忘れたかのように、シェザーシャは海に向かって真っすぐ突き進み始めた。
「なっ!何やってんだ!?最悪死ぬぞ!?」
少女は、飛び込んだ。白い空に、その身が吸い込まれる。高く、高く飛んで彼女は、一気に冬の海の中へとその身を預けた。
意外にも風のない海の中は比較的温かかった。シェザーシャは、そんなことも知らなかった。これまで係わらなかった。
海の中では、幾つもの魚が泳ぎまわっている。美しい光沢を放つものや、色を同化させて身を隠すもの。
海中に佇む少女は目を奪われていた。見たことのない世界。想像だにしない光景が、一秒ごとに移りゆく。
しばらく忘我の境地にいたシェザーシャだったが、肺が酸素を求めて訴え始める。だが彼女は泳げない。少しずつ海面へと浮き上がっていく体が、不意に掴まれた。マディラの太い腕が少女を引き吊り上げる。
「一体何なんだあんたはっ!?死にたくなるほど俺の言葉が堪えたのか!?」
海水を軽く吐き出すシェザーシの耳朶を怒声が打つ。少女は面目なさそうに弱弱しく笑んで言った。
「……ケホッ!……これで、少しだけでも、仲間だって認めてくれますか?」
唖然とするマディラの片側しかない耳に言葉を残して、シェザーシャは意識を失った。彼女を抱える漁師は、耳に飛び込んで来た"海の中、とても綺麗だったな"と言う少女の言葉に、自身の目を擦った。
「綺麗……ねぇ」
漁師は誰にともなくそう呟いて、シェザーシャを抱えて海から陸へと上がったのだった。
「とりあえず、話してみろ。一体俺に何をさせたいのかを」
数時間後。マディラとシェザーシャは絢爛な調度品の整った客室に居た。哨兵からの報告を受けたサロイザース代理領主であるオクト・ラズームが、二人を内密に屋敷内に招き入れて衣服と客室を用意したのだ。魔法で動作する熱いシャワーによって体温を取り戻した二人は、その客室で話し合い始める。
「そうですね……その前に、こちらのペンダントを見て頂きたいのです」
シェザーシャがポシェットの中から小さな木製のペンダントを取り出した。精巧なデザインだ。どのような素材が使われているかは分からないが、心奪われるような芳香が鼻腔をくすぐる。
「体ごと引き寄せられそうなほど良い香りのするペンダントだな。だが、これが何だって言うんだ?」
「ところで、聖杖レバリス教国やメイラハク商会が扱っている魔物除けの聖水は非常に高価ですよね。冒険者が用心のために買おうとしても、そうは手が出ないそうです」
当然話を逸らしたシェザーシャを怪訝そうに見つめながら、マディラが答える。
「あん?まぁ、聖水を作るために使用する水は相当純度が高くないといけないらしいからな。で、何が言いたいんだよ……いや、まさか」
マディラは今一度ペンダントを手に取って見つめた。学術都市に店を構えていた頃、友人だった商人から見せてもらったことがある。それは、この世界で目撃された報告があるものの、実在が定かではない素材一覧が記された図鑑だ。その中の一ページに、この世の物とは思えぬ薫香を放つ香木が載っている。
魔退の香木。それは、第三次龍瘴の森調査隊が発見したとされる香木だ。調査隊はその特性を見抜き、それを燃やすことで魔物たちの襲撃を切り抜けたと言う。しかし、森から脱出したころには全て燃えカスとなってしまったため、残念ながら今日に至るまでその実在は確認されていない。いや、いなかった。
「これ、本物なのか!?」
「はい。おひとつ差し上げますので、魔物除けの効果のほどはご自身で確認なさって下さい。一応お伝えしますが、その大きさで大体五分程度は持ちます」
「いやいやいや、本物だとしたらそんなのもらえねーよ」
そう言いつつも、マディラは魔退の香木で作られたペンダントを食い入るように眺めている。
「……同じものがまだ、溢れるほどあるとしたらどうでしょう?つい最近、龍瘴の森の奥地で魔退の香木の群生地を見つけたと言ったら?聖水より安く販売できるとしたら?」
「龍瘴の森なんて危険地帯でどうやって……おいおい、元とは言えメイラハクのお嬢様はもしかして、あの危険集団と繋がってんのか!?だとしたらオクト様共々、信じらんねーよ」
「危険集団ではありません。ちょっと人を……かなり?むちゃくちゃ?人を驚かせることが好きな方々が集まっているだけです。それを除けばそれなりにフレンドリーですよ?」
「あんたに利用価値があるから、そう振舞っているだけじゃないのか?」
「否定は出来ませんが、振舞う意味もないでしょう。今の私に利用価値なんてほとんどありません。逆に、私が自身の価値を彼らに証明しないといけない立場です」
ふぅ、と一息つく。女中が少し前に運んできてくれたティーカップに口をつけると、体が芯から温まって行く。メイラハクの目があるかもしれないのに、館に招き入れてくれたオクトに感謝しながら、シェザーシャはマディラを見つめ、ふと思った。
「ところでマディラさん。昔取った杵柄とは言いますが、今のマディラさんはお店の店主として振舞えますか?その……失礼ながら、あまり店主らしい体格ではないかもしれないと思ってしまいまして」
「本当に失礼だな」
海によって鍛えられた体と、そこや顔に刻まれた幾つもの傷痕。偶に冒険者上がりで店を経営する人物もいるが、それに負けてはいないだろう。
「……いらっしゃいませ!本日は何をお求めでしょうか?何か御用がありましたら、何なりとお申し付けくださいませ」
「…………くふっ」
「この野郎!笑いやがって!」
低音ボイスを響かせ、筋肉がミッチリと詰まった肉体を揺らしながら、迫力のある顔を笑顔にする男はどう見ても店主には見えない。角々しい言い方の方が、よくマッチしている。
「申しわけ、ふふっ、ございませんっふ」
「語尾まで笑うな……いい加減笑いを堪えろ。で、わざわざ俺に店長の振る舞いをさせたってことは、それと関係あるってことなんだろう?」
「はい」
一瞬で理知的な表情に戻ったシェザーシャは、サロイザースで店を開くこと、その店長としてマディラに働いてほしい旨を伝えた。
「元商人であり、メイラハクに義憤を持つマディラさんなら、メイラハク家から追放された私に代わって、必ずお店を軌道に乗せてくれると信じています」
「……あんたの代わりに表立って動けってことか」
マディラは極めて冷静に独り言ちた。じっくりと考えるように腕を組み、唇を動かせる。一口も手が付けられていないティーカップに注がれた液体を眺め、かつてメイラハク商会に異を唱えた男は静かに頷いた。
「……実際に販売する商品を見せてくれ。これだけじゃないんだろ?それを見てから決めるよ」
「ありがとうございます!まだまだ見て頂きものがあるんですよ!」
まだ引き受けると決まったわけではないと言うのに、シェザーシャは勢い良く立ち上がり、男のごつごつした手を両手で握った。もし居れば娘くらいの年頃の少女の謝意にマディラは初めて微笑んだ。
「それでは早速、龍瘴の森に向かいましょう。ヴァリス様に、新興勢力の長に了承を頂かなければなりません」
「あんた、溺れかけてたんだぞ!?元気すぎないか!?……若いってすげーな……情熱って、すげーなぁ……」
二人はオクトに何度も礼を述べ、サロイザースを後にした。
「販売する品々を見て意思も決まったようですので、これより面接を始めます。えー、就職希望者一名……ウチは終わりですね、太三郎人事部長」
「いやいやヴァリス社長。この一名はきっと、とてつもなく優秀な方に違いありませんよ。いやぁ、これでわが社は安泰。妖証一部上場間違いなしですなぁ。あ、ユキヒメくん、就職希望者の方にお茶を注いであげて」
「……ちっ!……こちら、うんと冷えたお水になります。凍えるので、一息に飲みほしてお腹を壊してください」
木製の簡易的な台を取り出してまでくだらない茶番をし始めたヴァリス、太三郎と、物凄く嫌々ながら茶番に付き合っているユキヒメが持てなしたのは、シェザーシャが連れて来た店長候補だ。魑魅魍魎の巣食う魔境へとやって来たその男は、すぐ前に置かれた三分の一程度凍っている水を確認して、意識を失いそうになっていた。
何だ、ここは。かつて魔王が人間を支配していた時代があったが、ここはそれを再現しているのだろうか。
ただ一つ分かるのは、対面している化け物たちが自分より圧倒的な存在であると言うことだ。彼らを前にして、何故自分より小さなシェザーシャが背筋を伸ばして立っていられるのか不思議でならない。
「えっと、マディラ、であってるよな。シェザーシャがサロイザースに出店する店の店長になってくれるってのは、間違いないか?」
「え、ええ。まち、間違いありりませんん!」
漁師になってからほとんど使わなかった敬語が上ずって飛び出た。別に殺意や害意を向けられているわけではない。だが、彼らに見られるだけで体が警鐘を鳴らし、痺れが走る。
危険集団?そんな可愛らしいものではない。これは純然たる暴力だ。そこに居るだけで暴力になる圧倒的強者。かつてサロイザースで行われた"百鬼夜行"を直接目で見たことが無かったマディラは、どうしてオクトがこの集団と協定を結んだのかを、シナプスの隅々まで納得させられる。
「あ、すまない。気を抜いて気配を抑えてなかった……よし、これでいいかな。じゃあまず……趣味を教えてください」
スイッチのオンオフの様な他愛なさで、ふっ、と場の空気が幾分か和らぐ。呼吸がすんなり気管を駆け抜けるようになって、マディラは胸を撫で下ろし安堵した。
「えっと……釣りですかね」
「釣りですか、良い御趣味ですね。ちなみに、一番大きかった獲物は何ですか?」
何を聞かれているんだ。意図が読めず、しかし沈黙するわけにもいかず、釣りが趣味の漁師は口を開いた。
「一番大きな釣果ってことですよね?ベアンダラですね」
「ベアンダラ?それは海坊主よりも大きいんですか?」
「ウミボウズ?聞いたことありませんが、どれくらいの大きさなんです?」
「大きいものだと数十メートルになりますね」
「育ちすぎだわ!釣りってレベルじゃねぇぞ!」
思わずツッコミを入れてしまったマディラは、なんちゃって面接官を演じるヴァリスが機嫌を損ねていないかと顔を青くさせる。だがヴァリスは、何故かニコニコしながら続けた。
「ツッコミの勢いが良いですね。それでは最後の、と言うか聞きたかったのは実質これだけなんだが……」
頼むから最初からそれだけを聞いてくれよ。この存在と一秒でも長くこの場に居たくなくて、マディラの心中は茶番に対する文句で一杯だった。
「どうして俺たちに雇われても良いと思ったんだ?メイラハク商会に対する憎悪か、商人としての腕を再び揮いたいのか、それとも単純に金銭的な問題か。それだけを念のために聞かせてほしいんだ」
一つ間があった。だがマディラが答えを返すために要した時間は、同じ状況に置かれた人間が答えるよりも早かっただろう。
答えは押し込めた憤怒が爆ぜたようなものではなく、耳障りの良いものだった。
「……仲間だから、です。この嬢ちゃんが、そう言ってくれたんだ」
「マディラさん……!」
これから運命共同体となるマディラの元に喜びのままに駆け寄るシェザーシャの様子を見て、ユキヒメは実に彼女が子供だと思う。実際、そうなのだ。年齢から言えば彼女は子供だ。
「めでたく店主も決まりましたし、私は再びサロイザースに戻って荷馬車と冒険者の手配を進めたいと思います。今から待たせている馬車を使えば、ギリギリ間に合うかもしれませんから」
「……それで、よろしいのですか?」
急いで龍瘴の森の外に待たせている馬車を利用してサロイザースにとんぼ返りしようとする働き詰めの少女に、雪女が当然問うた。これまで開店の準備に一切口出ししてこなかった雪女のその問いに、シェザーシャは少々面を喰らう。
「はい。この手配が終われば、後はエルフさんが制作されている工芸品の納品を待つだけなので、少々休むことが出来ます」
「あなたの身を心配しているのではありません……いえ、こればかりは言葉など無意味でしょう。ただ、一つ言わせて下さい。全てを自らの力でやり遂げられる、などと言う思い上がりは、子供のものです」
「……分かっています」
疲労が限界近くまで溜まっているのか、シェザーシャは憮然とした表情を取り繕う余裕もなかった。だが、もう少し。もう少しでひと段落するのだ。それまでは、休むわけにはいかない。そうでなければ何故、父を、メイラハク商会を越えられると言うのだろう。
何度も何度も母から聞かされたメイラハク家の、華々しく、正道に満ちた成功譚。今、自分を渦巻いている環境は、あの成功譚を越えることが出来るものだ。
体が重いのが何だ。関節が痛むのが何だ。視界が霞むのが何だ。
「それでは、行ってまいります」
ユキヒメから逃げるようにそう言って、シェザーシャはマディラと共にそそくさと去って行った。
面接官を楽し気に演じていたヴァリスは、二人が去って行くのを見届けてから、何とはなしに呟いた。
「聞いてたより、すげー冷静だったな。もっとこう、恨みはらさでおくべきか、って感じの奴を想像していたんだがな」
その日の夜。
マディラは物音に気付いて、目を覚ました。彼が住んでいるあばら家同然の建物は、隙間風が吹いたり、羽虫が侵入してきたりと睡眠を邪魔されたい人間にはうってつけの場所だ。だからマディラはいつも通り瞼を少しだけ開け、形ばかりの用心を行おうとした。
胡乱な男の意識が一気に覚醒する。寝起きのぼやけた視界でも奇怪と分かる、白と黒のまだら模様の仮面。そして闇夜に紛れるには最適な真っ黒なマントとローブ。それを着た何者かが二人、自分を覗き込んでいた。
マディラは反射的に大声を上げようとした。だが、滑るように伸びた手によって口が塞がれる。続いて短い刃物が流れるように闇の中を奔り、マディラの首筋を冷たい金属の感触が襲った。
切りつけられたわけではない。刃の脇腹が当てられているのだ。凍える冬の夜よりも更に冷たいそれが意味しているのは、善意ではないだろう。
不幸なことに、サロイザースで活動する忍狸はここ最近急激に数を減らしていた。非常にキナ臭い軍備増強を進めるガルドオズムへの諜報活動に人員が充てられているのだ。数を減らした忍狸たちは出店予定の店舗とシェザーシャの周りを警戒しており、店長として雇われる予定のマディラには定期的な巡回が行われるのみだった。
黒と白の仮面がマディラの唯一残っている耳に近づき、言葉を発した。身動きの取れないマディラに残されている権利は、その言葉をひたすら聞くことだけだった。




