妖怪奇譚①―打綿狸と絡新婦―
いつの世も、狡猾なものは暗がりに潜みたがるもの。それは、時代を違えど、存在を違えど、まして世界を違えど同じなのだ。暗がりがある限り、彼らはそこで罠を張りほくそ笑み続ける。弱者が、正直者が、無垢な者が足を掬われる瞬間を待っている。
では、そんな狡猾な存在を仕留めるにはどうすればよいのか。
幾つか方法はあるかもしれない。だが現在妖怪と魔物の集団である新興勢力に取れる手段は一つだろう。
同じ暗がりに潜り込み、一息に刺すのだ。
龍瘴の森に居を構えている新興勢力の主が、ドワーフとの顔合わせのためにドワーフ九氏族共同体に向かって二週間が経過していた。主の不在の間その代役を務めている太三郎狸は、魔物と妖怪、魔物と魔物や妖怪と妖怪の間でもあまり争いが起こっていないことを意外に思っていた。
主でありかつて大嶽丸であったヴァリスを信奉する一派のトップとも言える雪女、ユキヒメが主と共にドワーフ領へ赴き、この場に不在であることが功を奏しているのだろうか。とにかく火種はあるものの、大きく発火せずにすんでいた。
「もう少し大将への信奉にブレーキをかけて周りの事を気にすれば、もっと先を見渡すことが出来るようになると思うんだがなぁ」
そんなことを口にすれば、妖狸の腹は白いとは限らないのですね、と嫌味が返って来ること必至だろう。その光景がありありと想像できたので、人間ほどもある大きな狸は頭を振った。
「いかんいかん。今はこの場に居ない者の事を考えても仕方ない。しかしそれにしても、どうしたもんかな」
太三郎狸は一枚の紙を四本の指で掴み、その内容に目を通していた。それはサロイザースの代理領主であるオクトの手紙と共に送られてきた冒険者ギルドからの極秘の依頼書だ。実際はその依頼書に、冒険者ギルドと言う名称は一つも使われていないのだが、何を考えているか分からない怪しい集団に対する用心としては当然だろう。
一緒に送られてきたオクトからの手紙には一言だけ、その依頼書に言及している内容があった。
よろしければ。
ただ、それだけ。オクトとしても、積極的な意思表示がしにくい問題のようだ。この依頼が冒険者ギルドのものだと分かったのも、サロイザースに潜ませている忍狸の報告によるものであり、サロイザース、冒険者ギルド側としてはやはり正式な依頼として頼めない事情、立場があるのだろう。
返事の期限はたったの三日。無視するのが安牌ではあるだろう。だが、人間国家のほぼ全てと繋がりを持つ冒険者ギルドが垂らしたこのか細い糸を、断ち切るには惜しい物がある。これが試金石なのだとしたら、問題を起こさず解決することにより危険集団と言う認識を少しでも緩和出来るかもしれない。
しかし、主が不在の状況で勝手をするわけにも。そう悩む巨大な狸は、主がドワーフの領土へ向かう際に交わした会話をふと思い出した。
「例え自分が死んだとしても、この世界で妖怪が受け入れられるようにしたい?大将、どうか不穏なことは言わんで下さい」
「すまない。でも本心だ。この世界において妖怪は、悪でも善でもない。いや、前の世界でもそうだったかもしれないけど……だから、なんて言えばいいか……前の世界で描かれた物語や説話なんかから、解放されても良いと思うんだ。自由に生きて良い。ただ、だからって限度はあるだろう?世界に受け入れられるなら、尚更だ」
「……まぁ、現実と物語の狭間で生きていた頃とは違いますな。確固とした肉体があり、確固とした意志がある。物語ならおしまいおしまいで済んでいた、その"先"なのだと思います。だからこそ、行動に責任が伴うと言うことも」
「そうそう。別に慈善的な集団になれってんじゃないんだが、この世界に受け入れられるための最低限の行動を個々で考えてほしいんだ。『百鬼夜行』のスキルで召喚した際、そんな感じの注意をして残るかどうか決めてもらっているんだが、まぁ、生き方を押し付けるのもなぁ……一応の指導者として利益や状況、相手との関係を天秤にかけて、俺もそうしないことがあるし」
ふぅ、と重い息を吐く。すでに何度か、サロイザースから派遣された労働者と妖怪や魔物の間で軽い諍いが起こっている。リーダスや、今はいないがシェザーシャ・メイラハクが人間側を何とか説得してくれているため大きな問題になってはいないが、いつ取り返しのつかないことになってもおかしくない状況だ。
「俺がドワーフの領土へ行っている間は、サロイザースからの人間の受け入れは中止しようと思うんだ。太三郎を信用していないってわけじゃないんだが、ユキヒメも一緒に行くし、単純に争いを収めるための人手が足りないだろ?」
「それがよろしいでしょうな。儂では、大将の代わりは務まりませんわ」
「いやいや、謙遜しないでくれよ。人間との接し方や、妖怪同士の喧嘩の仲裁は俺より遥かに上手いだろ。さっき言った通り、俺は俺が死んでもこの世界に妖怪が受け入れられるならそれでいいんだ。だから太三郎も同じ目的を持ってくれるなら、最善と思う様に動いてくれ。俺の代わりを務めてくれるなら、なおさらだ。頼んだぜ、太三郎」
「……ふむ」
白く、真ん丸の腹をつるりと撫でる。答えは決まった。
太三郎は、了承の二文字を紙に躍らせた。
目的の村は、港湾都市サロイザースと農業都市シェザの中間辺りにあった。太三郎の指名を受け、依頼の魔物を討伐するためにその村に赴いたのは打綿狸と絡新婦だ。打綿狸は同じ『四国八百八狸』であり気心の知れた部下として、絡新婦はヴァリスを信奉する一派の代表としてこの任務を任された。彼らはそれぞれ、中肉中背の男と見目麗しい女の姿に化けている。誰から見ても人間にしか見えないだろうし、妖怪としての気配は極限にまで抑えられていた。そんな二体が、村へと近付いていく。
すでに日は落ちかけている。だが、生きるのに最低限の小さな畑を確認する者や、井戸へ水を汲みに行く者に生気がない様に見えるのは、影が広がり始めたからではないだろう。彼らの顔や手に刻まれた皺や曲がった背は、生きることへの苦悩を訴えているようだった。
「くたびれた村ですね。魔物の脅威に晒されているとはいえ、廃村寸前と言った有様ではありませんか。これでは魔物を討ち果たしたとて、意味などないでしょう」
夕暮れの中に赤い衣服を溶けさせながら、絡新婦は無情にそう言った。その言は的を射ているかもしれない。しかしそれは、魔物のせいだけではないようだった。
「忍狸の情報によると、農業都市が収穫を行う際の作業員として雇われることで、何とか食いつないでいる状況のようですなぁ。何せこの辺りでは、農作物を育ててもまともな値段で売れないようですから。他の産業や特産品などがないと、厳しいでしょうな」
「おや、この世界の収穫作業員とはそれほど賃金の稼げるものなのですか?」
「何でもシェザでは、年に七、八回農作物を収穫できるらしいですな。この世界の農業は魔法を用いることがあるらしいですが、それでも年に七、八回と言うのはずば抜けた数字でしょう。どうやらシェザだけで、八都市連盟の食料の七割程度を供給しているようですぞ」
「何と面妖な」
面妖なものが面妖と言葉にするくらいには、あり得ないことだろう。だから打綿狸も素直に頷いた。
表面上は人間の夫婦が和やかに会話をしているように見えるが、実際この二体の妖怪は敵対とはいかないまでも険悪な派閥関係にある。『四国八百八狸』一派は何故かヴァリスから篤い信任を受けており、そのことがヴァリスを信奉する一派には気に食わない。それなのに何故この二体が選ばれたのかと言うと、バランスを取るためだ。『四国八百八狸』だけを選べばよりやっかまれるし、ヴァリスを信奉する一派だけだと主様のためにと何をするか分からない。他の中立的な派閥は、争いに巻き込まれたくないとばかりに積極的に関わらない姿勢をとった。そうして選ばれた二体は、絶対に争ってはならない、と太三郎にきつくきつく言いつけられて刃を水面下に潜らせているのだ。
「ここですな。ここが、村長宅のようです」
「……ここが?」
絡新婦が細い眉根を寄せた。そこは他の村人の家とそう変わらない、荒れ果てた外観だ。村の少し外れにそれよりか遥かに大きな家があり、そこも同じように荒れ果ててはいるが、少なくとも眼前の家よりかは立派に見える。
ただそこから歪で危険な気配が漂っていることに気付き、絡新婦は更に眉間の皺を深くする。それは生物のものではないように感じるが、用心はしておいた方がよいだろう。
「ええ。依頼書にある通り、レバリス教の装飾がされた木細工が二つ、戸口の近くに置かれています」
「ああ、杖と剣が交差して絡み合う意匠がありますね。辛うじて分かる程度ですが。これがレバリス教のシンボルなのでしたね」
「その内の一つですな。事前に調べておいた甲斐がありました。さぁ、お邪魔しましょう」
打綿狸が木の扉を叩くと、少しして返事があった。しゃがれた声だ。用心しているのか、扉が動くことはない。木製の壁一枚を隔てたまま、しゃがれた声が警戒の色を含ませた言葉を発した。
「……こんな夕暮れに、どなたですかな?この村には、何にもありませんよ……何にも」
「いえ、我々は依頼を受けてやってきた者です。何でも、魔物による被害に苦労されているとか。もしよろしければ、詳細を窺えませんかな?」
「……苦労、ですか。そうですな。苦労でしょうなぁ……分かりました。少々、お待ちください」
ゆっくりと扉が開かれる。それが僅かな隙間を作るまで開いた時、打綿狸と絡新婦の目に最初に飛び込んだのは見開かれた片目だった。その片目はじっと、じっと二体の様子を眺め、そしてそれが乾ききった瞼によって覆われた後、扉は再びゆっくりと動き始める。
「お待たせして申し訳ありませんでした。あばら家同然ですが、どうぞお寛ぎください」
扉が開き切ることで姿を現した老年の男性は、小さな背を曲げて二体を招き入れた。意外にも室内は家の外観ほど薄汚れた物ではなかったが、では自信を持って客人を招けるほどかと言うとそこまでではない。苦しい生活の中で、それでも村の長として何とか体面を保とうとしている、と言ったところだろうか。
暖炉で揺らめく炎が、室内をそれなりに明るく照らしている。しかし、窓がほとんどないこの家で暖炉の火さえ消してしまうと、深い闇が訪れるだろう。
村長は、暖炉の近くに置いてある椅子を二体に勧めた。座ると、ぎしぎしと苦悶に喘ぐそれの座り心地は悪い。だが村長が座った椅子が更に傷んでいるのを見ると、これが客に対する最高のもてなしであることは間違いなかった。
客が座ったのを見て、村長が話し始める。村長と二体の話は、日が完全に落ち、それから更に一時間ほど続いたのだった。
旅人風、と言うには少し奇妙な格好をした人間が二人、自らのテリトリーに入って来たのを感じ、その魔物は警戒を強めた。
体より大きく膨らんだ頭、縦信号のように三つ並んだ大きな瞳。対照的に大地を踏みしめてそれらを支える二本足は細長く、ところどころむくんだ青白の胴体とそこから伸びた三本の腕も、頭部と比べると頼りなくさえ見える。しかし、それでも人間にとって脅威的な力を持っていることは、犠牲になって来た村人が証明しているだろう。
魔物は村から少し外れた茂みの中で息を殺し、村長宅を注視し続けている。今日テリトリーに入って来た二人が、数年前にやって来たことがある人間の用心棒と同じなら、素早く村から離れなければならない。それから待って、待って、待って待って待って、そして用心棒がいなくなってから数年前と同じように村人に怒りをぶつけるのだ。
魔物の分厚く大きな口が、巨大な瞳の下で残虐に歪む。その時の村人たちの悲嘆に暮れた様子を思い出したようだ。手の中でじゃらじゃらと音をたてる石を空いた手で一つ摘まみ上げると、その笑みは更に加虐性を増した。魔物が呪いを籠めた石。解呪しないと手放すことのできないそれを手に取った者は、生命力を吸い取られて一時間もしないうちに動けなくなり、最期にはこの魔物の餌食になるのだ。
一年に数度、魔物はこの石を村はずれの屋敷の前に置く。その石の数だけ、村人は生贄を差し出さなければならない。魔物がこの村で活動し始めてから今日まで六年。六年間それは続けられてきた。そして、石を無視すれば石の数以上の犠牲が出ることは、六年間の中で何度となく証明されている。経済的に余裕がないこの村では常に冒険者や用心棒を雇うなどと言うことは出来ず、危機を察知するとすぐに身をくらますこの魔物は、単純に戦闘能力が高い魔物よりも手の打ちようがなかった。
テリトリーに入って来た二人の人間が、村長宅から出て行く。その一挙手一投足を逃すまいと醜い瞳が細まった。だが、続けて村長が木の杖を突きながら外に出てきたことで、魔物は呪いの石を空に放っては掴んでいた腕の動きを止める。村長は、二人の人間を村はずれの屋敷へと案内しているようだ。やはり自分を始末しに来た人間か?この村が常に監視されていることは分かっているだろうに、再度用心棒を雇うなんていい度胸だ。魔物の瞳は怒りで赤く染まっていくが、しかし体は冷静に逃げるための準備を始めていた。
村長と二人の人間は、館までたどり着く。呪いを籠めた石が破壊されたり、解呪されたりすればすぐに逃げよう。そう考えていた魔物だったが、村長が笑顔で石を拾うような動作を旅人たちに見せ、何故か続けてその二人が呪いの石に手を伸ばす光景が見えたとき、堪え切れない愉悦が込上げて来て、押し殺せない小さく不気味な笑い声を上げた。
なるほど。どう騙したのかは知らないが、自分が村長の立場なら確かにそうする。呪いは何も、この村の人間だけに掛かるわけではない。村に立ち寄った旅人を生贄にすれば、村人は守られるのだ。
勿論そんな不正は許さない。魔物は口を手で覆い、愉悦が漏れださないように注意する。自分は、この村の住人が苦しむ姿が見たいのだ。この旅人二人はありがたく頂戴し、すぐに今回の二倍の生贄を要求しよう。
そんなことを考える魔物だが、まだ油断してはいない。呪いに対して抵抗力を持った人間も居るのだ。彼ら二人が聖職者や魔法使いの類なら、数時間は影響を受けずにいることが出来る。解呪される可能性もある。もっとも、魔法使いや聖職者の象徴とも言える魔法の杖を持っていないことから、その可能性は低いものだとも分かってはいた。
だが、屈んだ二人の背後に周った村長の動きを見て取った魔物はそれまでの用心をしばし忘れ、追い詰められた生物の恐ろしさに感心してしまっていた。村長が振り上げた杖が、男の旅人の後頭部を勢いよく殴打する。痩せたその身から繰り出されたとは思えない一撃だ。とてつもない執念。慌てて女の旅人が振り返るも、村長は続けて彼女に二、三と杖を振り回す。
その女の身が、いきなりぐらりと崩れる。魔物には、彼女の右手が呪いの掛かった石を握りしめていることが伝わってきていた。
倒れた女に村長が杖を振り下ろすと、びくん、とその体が一つ大きく跳ねた。そして村長は、動かなくなった旅人たちをしばらく呆然と見つめ、やがて男の手を掴み彼の手に呪いの石を握らせる。それから倒れた二人を、生贄の祭壇とも言える屋敷の中へ運び終え、足を引き摺りながら自宅まで戻っていった。
中々悪くない見世物だった。魔物はにたにたと下品な笑みを浮かべてそう思った。同時に、あの村長は思ったより危険かもしれないとも考え、次は彼の家の前に石を置いて生贄として指名しようと決めた。
だが、ともかく。もうしばらく呪いで弱らせてから、あの旅人二人をありがたく頂くとしよう。その瞬間を楽しみにしつつ、魔物は茂みの中でしばらく待つことにした。
ぎぃ、と軋んだ音がして、屋敷の扉が開けられる、わざわざ人間の出入り口を使って三つ目の魔物が屋敷にやってきたのは、村長が旅人たちを杖で殴りつけてから一時間程度経った頃だった。
魔物は開けた扉に、草を丸めて作ったそれなりの大きさの球体を投げ込んだ。そしてそれに何の反応が無かったことを確認してから、館の中を覗き込む。
深夜にも近い時間帯に、光源一つない室内。人間なら、目が慣れたとしても先の様子を探るのに苦労するが、三つ目の魔物にとってはそうではない。昼間とそう変わらい様に見渡せた屋敷内に、目的の二つの影を見つけた。一度は意識を取り戻しただろうか。それとも村長がそこまで運んだのか。二つの影は、玄関ホールから少し離れた奥の個室に続く扉の前でこちらに背を向けて倒れていた。
未だに彼らの手の中に呪いの石が握られていることは、感覚で伝わってきている。それはまだ、彼らが生きていると言うことを示していた。だから魔物は、屋敷内に入り少し進んでから、二人を遠距離で確実に仕留められるように魔法を唱え始めた。一面の闇の中に、魔物を中心として青色の円が浮かび上がる。それは幻想的な光景だったが、ここから行われるのは魔物の一方的な殺戮と食事だ。
魔物は手にしていた石を砕いだ。それにより、唱えていた魔法が強化される。円は二重になり輝きが増し、そして魔物の前に出現した氷の槍が二人目掛けて飛翔した。それは一筋の青い軌跡を描きながら二人を貫いて、その周囲を一瞬で凍らせた。
歓びに見開かれた魔物の大きく醜い三つの瞳が捉えたのは、宙に舞う鮮やかな赤の衣服。それは、女が着ていたものだ。だがその赤は突然、汚らしい茶色へと色を変えた。いや、異変はその衣服だけではない。人だと思っていたものがまき散らしたのは臓腑ではなく、白く細い何か。それが、人が衣服を着ているかのような形状を作り出していたことを、魔物は理解できなかった。
「狸の幻術と蜘蛛の糸の併せ技、堪能できましたか?」
それは女の声だった。近いようで、遠いような場所から聞こえる声。魔物は、上を向いた。そこに、天井に先ほど仕留めたはずの女の旅人が張り付いているのを見て取り、魔物はすぐに屋敷から出るために古びた壁目掛けてその身ごと突撃しようとする。
何だ、あれは何だ。明らかにか弱い人間などではない。なんで呪いの影響を受けていないのだ。なんでこんなやつがここに。
「駄目です。そんなそんな。羽虫が蜘蛛の巣を揺らそうだなんて、愚行ですよ?」
屋敷から飛び出そうとして魔物が踏みしめた床が揺れた。いや、床が浮き上がった。絡新婦によって屋敷内に張り巡らされていた糸が、蠢き始めたのだ。用心して屋敷内を確認していた魔物だったが、床や壁の僅かな隙間や傷から屋敷の基礎や土台、壁の内にまで伸ばされた糸を見抜くことは出来なかった。強靭な蜘蛛の糸が床下から床を掬い上げ、網目状の糸が左右から壁を破って飛び出してくる。四方八方から同時に襲い来る糸をどうするべきなのか、魔物に与えられた時間は対応できるそれより遥かに短かった。ただ直感で、魔物は上に、絡新婦に向かって飛んだ。
幸いなことに、そこに糸は仕掛けられていなかった。
罠にかかった者を、業とそこに誘い出すかのように。
「ああ、ああ、たまりません!どうしてここまで思い通りに藻掻いてくれるのでしょう、この羽虫は。さぁ、最期まで抵抗なさい。その羽が折れて千切れるまで!或いは、千切れて地を這うことになっても!」
三つ目の魔物は、これまで人間の生命力を大量に吸い取ってきた呪いの石を、邪魔だと言わんばかりに手から落とした。いや、一つだけ残っている。魔物は、呪いの石の中で最も大きなそれを昂る絡新婦に見せつけて、宙で握りつぶした。人間に対しては強力な呪いをかけるその石だが、三つ目の魔物にとっては吸い取った生命力を自らの力に変えることのできる便利な道具だ。宙に飛び、僅かに許された猶予の間にそれを行使した魔物は、光明があるように見える空中にあえて固執せず、落下するとともに拳を宙に浮いた床に叩きつけた。
凄まじい破壊音ともに床であったものが砕ける。この先に、危機を脱する一縷の望みを見出すしかない。床を次々に瓦礫へと変え、ついにそれを砕き切った拳が掴んだものは。
結局、蜘蛛の糸だった。
「はぁ、興醒めです。羽が千切れたならともかく、自ら地に落ちるなど。まぁ、お似合いかもしれませんし、どの道同じ結末ですがね」
絡新婦は、何もないように見えた宙に張っていた透明の糸を、蜘蛛となった下半身の糸いぼに戻した。少々強度の低い透明の糸は、そこかしこに張り巡らせるには不適格だが、敵を欺くには非常に使えるものだ。
そして彼女は下を向く。床が抜け地面となったそこでは、糸に絡まった魔物が何やら叫んでいる。どうにかして地面を掘ろうとしているように見えるが、粘着性の糸が動きを制限しており、満足に動けはしないだろう。
「……いえ、あれはあれで楽しい玩具になるかもしれませんね」
ぺろりと舌なめずりし、下半身が蜘蛛となった女が天井から降りてくる。それから彼女は暴れる魔物に近づき、その身をいたぶろうと手を伸ばした。
それが、魔物が最後の最後にとれた策だった。魔物が背を上に逸らすと、それまでその体が隠していた呪いの石が姿を現した。丁度良いところに落ちていたこれを砕いて一時的に力を得て、この怪物に一発入れる。本当に僅かな可能性だが、何もしないよりはましだ。そうして自らの体を粉砕機にしようと勢いよく地面へと叩きつけたところで、その呪いの石から白い何かが伸びていることに気が付いた。
蜘蛛の糸ではない。綿だ。それがどこまでも天高く続いている。
魔物の体がその綿に吊り上げられて高速で飛び上がった。高く、高く。これでは羽虫などと呼べませんね、と忌々し気に絡新婦が呟いてからすこしして、魔物の体は地面へと落下し轟音が発せられた。
「あなたが村長に提案した下らない演技に乗る代わりに、魔物の相手は私がすると言った約束はどうなったのですか?痛くも痒くも無いとはいえ、人間ごときに叩かれるのを歯を食いしばってまで我慢したと言うのに」
ほとんど原形を留めていない魔物を見て、それを痛めつける気満々であった妖怪は不満を表明した。いつの間にかその隣に立っていた中肉中背の男は、ふぅ、と聞こえるように息を吐いて返事をする。
「もう決着はついていたと思いますがなぁ。それに、この屋敷の後始末をどうつける気なのですか?太三郎殿に出来るだけ穏便に済ます様にと言われていたと思いますが、どう報告する気なのですか?」
「我々にしては、非常に穏便だったと思いますが?私をいつまでも待たせた魔物が悪いのです」
打綿狸は周囲を見渡して沈黙した。もはや屋敷は崩落寸前だ。むしろ倒壊させてあげることが、情けとすら言える有様だろう。
「あたしをあなたと一括りにしないで頂きたい。とは言え、なってしまったものはどうしようもありませんからなぁ。村長様に許しを請うことにしましょう」
「人間ごときに頭を下げると?私はごめんですね」
「おやおや。悪いことをすれば、謝るのが道理でありましょう。ヴァリス様ほどのお方でさえ、非を感じられた時にはその人間ごときに頭を下げることもあるのです。下々のあたしらが同じ場面で偉そうにふんぞり返るなんて、ヴァリス様に対して失礼な話だと思いますがなぁ」
「……ちっ!」
使い手の命が潰えてただの石となったそれを、美しい女性の姿で用済みとばかりに握りつぶしながら、心底忌々し気に絡新婦は舌打ちした。
それにしても、屋敷が倒壊寸前まで崩れたり魔物が空高くから落下したと言うのに、村長も村人も家から出てくる様子が無い。生贄にならなかった村人たちは、こうして何事もなったかのように振舞ってきたのだろう。
「行きますよ。村長からまだ聞きたいこともありますからな」
「はぁ。ああ、そう言えば魔物を仕留めた証拠がいるのではありませんか?村長をここに連れてくればいいとは思いますが、二度手間でしょう」
「ふむ。そうですな。それでは」
五分後。そこには口をあんぐりと開けた村長の姿があった。村長は魔物を討伐してくれた二人に最上の感謝をしつつ、頭部の大きな魔物だったものの生首を平然と素手で掴んで持ってきた妖怪たちに、それ以上何も言うことが出来ないでいた。




