2.子女郎狸②
子女郎が召喚された翌日。二つの人影と、三匹の獣は大きな川の前で立ち過ごしていた。この川を文字通り飛び越えてさらに南へ進むべきか、それとも川を辿って西か東に向かい、村や町がある可能性に賭けるか。そんなことより川で魚を捕獲しよう、と言う子女郎の意見は却下された。
「うぅ……鯛、鯛が食べたいでありますぅ」
「川に鯛はあまりいない、と言うよりこの世界では鯛どころか魚がいないかもしれないぞ?」
「そ、そんなご無体なぁ!主殿、鯛を異世界転移してくださいであります!絶対大事に養殖するでありますからぁ!」
「いや、鯛の妖怪なら呼べる可能性はあるかもしれないが、そのものは多分無理だからな」
子女郎は食べたい、と主張しているが、そもそも食事自体が必要ないことはすでに確認している。男も、子女郎も、三匹の狸も、空腹と言う概念がない。娯楽としての食事は存在するが、生きるために必要ではないようだった。
「では、それで我慢するであります」
「もっと我慢って言葉を我慢していこう」
うぅ、と子女郎は軽く唸ってから、頬を両手で叩く。それからそれまでの痴態を無かったことにするかのように目尻を僅かに釣り上げて、男の顔を見た。漫画のような涎は垂れていたが。
「それで主殿、どうするでありますか?これほど大きい川であれば、その流れの近くに村や町が存在している可能性がそれなりにあると思うであります。それにこの川の先の森からは、何か妙な気配を感じるでありますよ?」
川を挟んだ先に聳え立つ木々は、これまで歩いてきた森のそれよりもはるかに太く、高く、鬱々としていた。その印象を裏打ちするように、正体不明の禍々しい空気が肌を刺してくる。地球の人間ならば、数時間もその空気に中てられれば意識を失ってしまうだろう。そしてそれは、あくまでその森を外側から眺めた印象にすぎないのだ。
子女郎の言う通り、川に沿って行けば人の生活圏に辿りつけるかもしれない。そもそも男が十数日も魔物溢れる森の中で過ごしているのは、彼を召喚した勢力の手から確実に逃れるためであり、『百鬼夜行』の召喚ポイントが魔物を迎え撃つことで稼げているとは言え、好き好んでの事ではない。
強いて眼前の不吉な森を進む利点を挙げるとするならば、より強力な魔物が生息しているかもしれないと言うことと、居るかもわからない追手から逃れられる可能性が上がるかもしれない、と言うことだけだった。
「まぁ、どちらにせよ主殿は町に近づかないほうが良いと思うであります。服を用意し、主殿を召喚した国の国境を確認してそこを越えるまでは、身を潜めていたほうが良いと考えるでありますよ」
「そうだな。もしかするともう俺を召喚した勢力の圏内ではないかもしれないが、とりあえずどこでもいいから国境を越えて安心しておきたいな」
「我々は昼夜問わず進んでいますし、人間より歩速が速くはありますが、徒歩十数日で国の勢力圏内から出ている可能性はいかほどなのでありましょうな……まだ異世界のことは分からないでありますし、そのことも気にかけながら川沿いに進んでいくのでありますか?」
「そうしようか。ついでに魚を見つけたら捕ってみよう」
川越しの森からはただならぬ雰囲気が感じられるが、水は特に問題なく飲むことが出来た。もしかすると妖怪の強靭な肉体が害を害たらしめないのかもしれないが、少なくとも小さな水生生物の姿は見掛ける。魚、もしくは魚に似たようなものもいるかもしれない。
「さすが鯛殿!あ、申し訳ありません、主殿!子女郎は必ず鯛を捕って見せるでありますよ!」
「召喚してから短いとはいえ、なんか今までで一番生き生きしてない?」
「子女郎は鯛に目がないのであります!」
自信たっぷりに屈託なくそう言われては、もう返す言葉もない。それから二つの人影と三匹の狸は川の流れに沿って東側へと進んでいった。
滔々と流れる川の傍で、ささやかな灯りが揺らめいている。それは辺りの深々とした暗黒と比べると弱弱しいものであったが、普通の炎とは違っていた。
その炎は幻想的なまでに青白く、人の形をしていたのである。だがそれが人を模した炎なのだとわかるのは、この場にいる存在が人間ではないからだ。もし人間がこの炎を見たとしても、同じ人にしか見えないだろう。そしてこの炎は、誘蛾灯の様に獲物を惹きつけるのだ。
そんな炎を使って男と少女、そして三匹の獣は、魚をいい具合に焼いていた。
「いやー、便利だな狸火って。料理に使うのにはほんの少し火力が足りないが、人間をおびき寄せるにはぴったりだな」
「子女郎は、はふぅ、おびき寄せた人間を襲ったりはしないで、ふぅぅ、ありますよ?んぐ……せいぜい化かすぐらいであります」
焼き魚に息を吹きかけて頬張る子女郎が、そう抗議した。妖怪とは言え、獣の要素もあわせ持つ彼女がわざわざ魚を焼いて食べるのはシュールととるべきか、見目麗しい少女の姿が魚を生のまま平らげている様の方が滑稽と見るべきか。つられて焼き魚に口をつけた三匹の小狸は熱に耐えられなかったようで、結局生のまま口にしている。
「鯛がいなかったのは残念でありますが、魚はいるようで安心したのであります。海を見つけられればもしかしたら、と言う希望が湧いてきたのでありますよ」
「いきなり狸に戻って川に飛び込んでいった時は何事かと思ったぞ。泳ぎが得意とは言え、用心しないとな」
「面目ないであります……鯛に似た色合いの魚が目についたのでありますよ」
「まぁ俺も、子女郎が口にくわえてきた魚を見たときは、まさか鯛か?とは思ったけど」
その紅い魚鱗を持った魚は、すでに子女郎のお腹の中に入っている。味はまぁまぁとのことだったが、鯛と比べてどうなのかは少女の悟りを得たような表情が物語っていた。
川と並んで東へ向かうこと半日と少し。未だ森は開けず、人とも出くわさない。魔物の姿も見かけず、川越しの森が発する不気味さにも慣れたとあれば、今日は転移してから一番静かな一日だったと言えるかもしれない。
男は狸火に木の枝を投げ込んだ。ぱきぱき、と小気味いい音が木霊して、男は目を瞑る。眠気が襲ってきたわけではない。そもそも睡眠欲は感じられないし、夜こそが彼らの本領だ。ただ何となくそうしたくなって男は黙り込んだ。
主に合わせるように、子女郎も目を瞑って座ったまま体を左右に小さく揺らす。
しばしの間、静謐な時間が流れる。
「……さてと、出発しようか。子女郎、狸たち、大丈夫か?」
「勿論であります。魚も食べられて、この子女郎、元気もひとしおであります!ただその前に」
三匹の狸たちが一斉に何かを構えた。それを何とか形容するなら火縄銃だ。あまりに小さく、そして弾を発射するために必要な構造がいくつも抜けてはいたが、もっとも何に近いかと言われるとそう言うしかないだろう。
それを、それまで彼らが歩いてきた森に向けている。
「狸火に釣られるのは何も人間だけではないと言うことでありますな。もしくは、魚の匂いが原因かもしれないでありますが」
小狸たちの小さな指が、実際にはない引き金を引くような動作をした。瞬間、青白い小さな光が火縄銃に灯り、続いて少し間抜けな小さな発砲音と共にその光が森に吸い込まれる。
突然、何かが青白く燃え上がった。木だ。三発の光は、彼らが察知した気配にではなく、それがいたであろう場所に着弾した。哀れにも犠牲となった木は、辺りを淡く照らすための光源となってしまった。
照らされた一面をとてつもないスピードで一匹の影が走り抜けていく。かなり素早い魔物だ。必要がないように思えるのに、洗い矢のようなものを取り出して火縄銃を掃除する狸たちが外したのも仕方がない、と男は思う。その男の後ろで子女郎は自身の小さな掌に収まるような狸火を生み出し、それを小狸たちの後ろ姿へ向けた。
小狸たちの隙を見抜いたのは野生の勘か、それともどこかで観察したのか。再び構えた三匹に対して、魔物が躍りかかった。刹那、子女郎の掌で狸火が強く輝き魔物の視界を僅かに奪ったが、その勢いは落ちない。鋭利に輝く牙、爪、尾。そのどれもが容易く三匹を引き裂くに足る威力を持っていることは明白だ。
魔物の右前足が振り下ろされる。狸たちに照準を合わせる時間は残されていない。獣は右前足で一匹の狸を貫き、その右前足を軸にして素早く身体を翻らせると、スピードの乗った尾が残りの二匹を正確に断ち切った。
そして魔物は、いよいよ本番とばかりに男と少女を鋭い目で見上げる。
――再び間抜けな音が響いて、魔物は自身の死期を悟った。前足で、尾で引き裂いたはずの狸たちの死体が煙の様に消えている。どこからか放たれた三つの光が今度こそ魔物に命中すると青い火柱が上がり、一瞬でその身を焦がした。
「数や役が揃っていないと言っても、甘いでありますよ、小狸鉄砲隊!」
子女郎は項垂れる三匹の狸を軽く叱る。もし魔物が彼女の狸火を見ていなければ、一匹二匹は彼女の幻術通りに地に伏せることになっていただろう。もっともそれは、主が魔物に対して手を出さないことを前提とすればの話だが。
「やっぱり幻術って便利だな。俺は使えないから、羨ましい」
「幻術などと言う小賢しい技は、主殿には必要ないように思えるでありますが。あの獣が狸火を見ていたからこそ掛かりが良かったでありますが、普段は小手先だましが精々でありますよ?」
ほんの少しだけ自慢げに子女郎が謙遜する。彼女は鉄砲狸たちのような攻撃的な術はほとんど持っていない。だが、幻術、変化は多少なりとも自信を持つ分野だ。それを羨ましいと言われて喜色を見せないわけがない。
「そもそも強い存在に素早く幻術をかけるには、もっと準備をするか忍狸の補助が必要であります。ただ今回は運が良かったのであります、恐らく子女郎の狸火に惹かれていたこと、夜でかつ暗闇だったこと、同じ狸の姿を幻術で見せればよかったことetc...etc..etc...」
予想以上に長くなりそうなので、男は相槌を打ちながら三匹の小狸たちの状態を確認することにした。
特に問題はない、と主張してくる。子女郎ほどではないが、何となく彼らの言いたいことが感じられるのは、格は違えど同じような存在だからなのか。むしろ同じような存在なのにそれだけしか分からないのか。
無事が確認出来た後は、燃えて灰となった木、続けざまに魔物を見る。青白い炎は延焼を起こさないようで、他の木々に燃え広がってはいない。魔物は木よりか丈夫なのか、灰になることなく姿形は残っている。だが、触れると崩れてしまいそうだ。
「(やっぱり俺以外が倒すと、ポイントの獲得が少なくなるような気がするな……)」
それなりに力を持った魔物であることは間違いない。だが『百鬼夜行』上で示されているポイントの増量は、その力に見合っているとは思えない。召喚した妖怪が生物を倒してもポイントを獲得できることはすでに確かめていたが、その獲得量の低さが気になっていたのだ。
ふと思考を止めると、子女郎はすでに解説を止めていた。だが小悪魔っぽく笑っているのは何故なのだろうか。
その理由を探る前に彼女が言った。
「子女郎の気を逸らさなくても、あれ以上小狸たちに何か言うつもりはなかったでありますよ?」
「……いらないお節介だったか」
「少なくとも子女郎は、そんなお節介をする妖怪に会ったことはないのでありますね。でも子女郎は、嬉しく思うのでありますよ」
男は子女郎から顔を逸らして、さぁ行こうと東を指す。夜はまだ始まったばかりだ。




