9.男
だんだん怪我を負ったコボルトが増えていくな、と子女郎が思ったのはしばらく魔物の巣に滞在することを主が決めてから五日後の事だった。
その五日の間に主がしたことと言えば、龍瘴の森を適当にうろついたり、コボルトたちが差し出してくる謎肉の丁度いい火加減を試してみたりと、あまり生産的とは言えないことばかりだ。
小狸たちや『従属登録』したコボルトたちは主の意図を汲んでか、積極的に狩りに出ているいうのに。おかげでポイントはそれなりに溜まり、『従属登録』を行ったコボルトたちの数はいまや十五に届こうとしている。
確かに主は、存在しているだけでコボルトたちの巣から外敵を遠ざけている。それはコボルトリーダーでは不可能なことだ。
しかし、それにしてもぼんやりとしすぎなのではないか。『従属登録』を行ったコボルトたちと肉体言語で狩りの手順を確かめながら子女郎は、ヒモのような暮らしをしている主にちょっとした不満を覚えずにはいられなかった。
「あれほどの武力と『百鬼夜行』のスキルがあるのに、妙なところで消極的なのであります。かと思えば、面倒ごとには積極的に係わっていったり……子女郎が気にしすぎなのでありますかね?口さがない狸なのでありますかね?」
鉄砲小狸の頭を撫でくりながら、子女郎はぼやく。その隣ではコボルトが四体、木の棒を持って得物を待ち構えていた。彼らの視線の先には、青白い人型の炎が揺らめいている。子女郎と忍小狸の狸火だ。この龍瘴の森でも、狸火は獲物をおびき出すための撒き餌としてそれなりに通用しているようだった。
「……気配がするでありますね。みんな、位置に付くでありますよ」
子女郎が小狸たちとコボルトたちに向けて、三本の指を立てて合図をする。即座に鉄砲小狸たちが木をよじ登り、コボルトたちは狸火目掛けてやって来た魔物を強襲できるように茂みの中へ隠れた。すでに十数回近く繰り返した動きだ。勿論規律の取れた軍隊には遠く及ばないが、それでも意思疎通の難しいもの同士が数日で練り上げたとは思えない連携だった。
大きな咆哮が鬱蒼とした森に轟く。それは、木々の間を猛スピードで器用に通り抜け、狸火から少し離れた位置で勢いを止めた。笹の葉型の頭のほとんどを占める巨大な単眼が印象的な四本足の魔物だ。これまで狸火に釣られていた魔物と違い、その単眼の魔物は狸火に突っ込んでこなかった。かわりにその眼をぐるりと一回転させると、その少し下にある眼と比べると小さな口を開けて、そこから狸火目掛けて何かを勢いよく飛び出させる。
「(あれは……舌、でありますか?)」
人間に見え、敵を誘き寄せること以外は特に効果も威力もない炎だ。狸火はその何かによって簡単にかき消される。すぐに、自らが伸ばした何かが目当てのものを捉えられなかったことに魔物が気付いて、怒号を上げた。
「今であります!」
木の上で火縄銃のようなものを構えていた三匹の鉄砲小狸が、子女郎の掛け声を受けて狸火を発射する。
魔物の反応は速かった。飛来する炎の弾丸に対して、すぐさま口を開けて何かを飛ばす。その何かと炎の弾丸が交わると、一条の業火が宙を駆け抜けた。
「やはり舌でありましたか」
怒り狂った魔物が、炎に焼かれた舌をそこかしこに叩きつける。木や地面が抉れ、土煙や木片が舞う。さながら荒れ狂う暴風のようだ。
ならばその暴風の目は。
茂みで待機していたコボルトたちが飛び出し、魔物に向かって一気に間合いを詰める。魔物は怒り狂いながらもそれを察知すると、その獰猛な気性に反して伸ばした舌を冷静に口の中に一度戻し、コボルトたちに体勢を向き直った。
木の棒を振りかぶった魔物たちと巨大な単眼が向き合う。血走ったその眼はあまりにおぞましい。
死の予感。コボルトたちにそれが過った直後、二発の炎弾が魔物へ直撃し、その体を燃え上がらせた。すかさずコボルトたちが、力の限り木の棒を目玉へ叩きつける。
ぐしゃりぐしゃりとなんとも生々しい音と、分厚い瞼でも防ぎきれない強烈な衝撃を受けて今や盲目となりかけている魔物の絶叫が混ざり合う。だが段々と魔物の声は小さくなっていき、ついには小さな呻き声を上げるのみとなっていった。
「あとはコボルトたちに任せて大丈夫そうでありますね。で、木から落っこちた鉄砲小狸は大丈夫でありますか?」
魔物の舌によって折れ曲がった木の上に居た一匹の鉄砲小狸が、子女郎に駆け寄り自らの頭を擦りながらこくこくと頷く。
「コボルトたちも小狸たちも、素晴らしい動きだったのでありますよ!かなり強めの魔物だったと思うのでありますが、大怪我を負った者も居なくて良かったのであります」
コボルトたちと手を合わせ、妖狸たちを撫でてから子女郎が戦果をまじまじと眺める。ここ二、三日で狩った魔物の中では最も強い魔物だっただろう。
コボルトたちが魔物を抱え上げて巣に戻っていく。忍小狸がその先を進み偵察を行うのが、狩りを重ねるうちに出来た流れだ。
「この獲物を見たら、主殿も少しはやる気や興味を持ってくれるかもしれないのでありますよ」
子女郎は上機嫌で、獲物を抱える魔物たちの後に付いて行った。
かつん、かつんと足音がする。
見慣れた廊下を、男が歩いていた。ひたすら続く廊下に、彼は嫌気が差している。
それでも歩き続ける理由を、彼は思い出せない。胸の中でただただ湧き上がる焦燥感に突き動かされ、重みの増していく両足を必死に引きずり、前へ前へと進んで行く。
不意に、廊下の明かりが切れ真っ暗になった。闇こそは怪異の温床である。だから男は、この中でこそ強かに笑うべきなのだ。
けれど男の表情は、切羽詰まったものになっていく。
アァ……アァ……
背後から、音がする。潰れた喉を必死に動かしているような耳障りな声だ。
男は振り返らない。背中に伝う冷や汗が、背後の潜むものの正体が決して好ましいものではないことを訴えてくる。だからこそ彼は、鉛のように重くなった両の足を前に出そうと力を込めた。
その足を、何かに捕まれる。嫌な感触だ。ぬるりとした液体が、男の皮膚を湿らせる。液体を滴らせる二つの小さな何かは、簡単に振り解けそうなほどに欠損していると言うのに、男は足を動かせなくなっていた。
やめろ。そう、口に出すことも出来ない。喉に出掛かりすらしない。脳をぐちゃぐちゃにするようにその言葉が頭の中で暴れるだけだ。
け…………むけ……ふり、むけ……
男は最初、その訴えが背後の絶望から発せられているのだと思っていた。
だが、そうではない。他ならぬ自身の乾いた唇が、そう動いていることに気が付いてしまう。
振り向け。振り向け。振り向け!
声が反響し、勢いを増していく。ついには耳を塞いでも、頭を痺れさせるほどになっていく。振り向けば、待つのは絶念だろう。さりとて声に抗い続けることも難しい。
結局男は振り向いた。意を決した、と言うわけではない。本当に認識する間もなく体がくるりと翻ったのだ。まるで本能が、その絶望など大したものではないと言わんばかりに。
広がっていたのは、血と骸の奔流だ。原形を留めて居ない何かが、男の足元から暗黒へと流されていく。次から次へと現れて、男の足を、手を掴もうと必死に藻掻きながら、廊下を醜い赤で彩っていく。
男への怨嗟は明らかだ。顔の半分が千切れた死体も、両手両足のない死体も、黒く濁った血も、生物だったとは思えない数センチとなった何かも、その全てが男に対する声なき無念を、憤りを、それぞれの形で訴えている。
自分では止められない哄笑を浮かべながら、男は泣いていた。血と屍の川は何処までも何処までも続き、しかしやがて、再びなんて事のない廊下へと戻っていた。
いまや男は虚ろだ。自分のものとは思えない重い鎧のような体を、何とか意志の力で動かしている。
そんな男の肩が掴まれた。とは言え不快なものではない。彼は覚悟を決めて振り返ろうとしたが、打って変わって今度は体が言うことを聞かなかった。
男の肩を掴んだ何かは、振り返らない彼に焦れたのか、自ら男の前に現れる。
それは彼と同じような存在たちだ。かつて恐怖の裏で常に蠢いていたものたち。そして時の流れの中に消えていった、そこにいたはずの者たち。
それらは男に何かを託すようにその体を叩き、廊下の奥へと消えていく。泡沫のように絶え間なく、そして儚く。
男は走り出す。それは無駄なことなのだと、どこか冷えた頭で彼は理解していた。だからこそ彼は、現実でそのような惨めなことはしなかった。これは、抑えきれない肉体の反射的な叫びだ。
消えていく者たちへ向かって伸びる手が、何かを掴むことはない。虚空を切るばかりだ。それでも何度も何度も繰り返し、やっとその一つに届きそうになった所で、 唐突に廊下が消滅して男の体は闇の中へと沈んでいく。
――やっと、これで終われる。
一体の妖怪は静かに笑って目を瞑り、自らの肉体がその闇へと溶けていくのを待っていた。
「起きろ」
だが彼に安息は訪れなかった。武装をした二人の男に覗き込まれていることに気付いて、妖怪は顔を歪めた。
言われるままに起き上がろうとすると、体が痛む。全身青あざだらけだ。ああそうか耐久実験中だったっけ、と男は立ち上がって武装した男たちを見た。
何百回耐久実験と言う名の理不尽を繰り返したことだろう。結果など、とっくに出ているだろうに。
こいつらは、陰陽道と科学技術を組み合わせた厳めしい新装備の威力を試したいだけなのだ。それを耐久力のテストだのと言って誤魔化し、非人道的な行為を正当化しているなんて、妖怪よりもたちが悪い。
男はそう考えたが、そこで思いがけず笑ってしまう。妖怪の自分が非人道的なんて、滑稽に過ぎるじゃないか。
男の笑いを敵意と受け取ったのか、武装した男たちがハンドガンに似た武器を構えて言った。
「何が可笑しいんだ?可笑しいのは今のお前の姿だろ?もはや生身の人間すら一息で殺すことが出来ない無力な役立たずが、どんなことを考えたら笑えるんだ?」
「おいおいやめろよ。こいつは天然記念物だ。それだけで価値があるんだぜ。まぁ、見世物には出来ないから精々俺たちが愛でてやらないとなぁ?」
「そうだな。じゃあお前たちに、可愛がってもらうとするか」
今の俺なら、お前らなんて雑兵ですらない。
自信に満ちた男は、武装者たちにこれまでの借りを返すべく腕を変化させようと力を入れた。だが少しばかり腕回りが太く、薄赤くなっただけだ。魔物たちの体を易々と突き破った暴威とは比べ物にならない。
転移して取り戻したはずの力が失われていることを知り、男は棒立ちになってしまう。
「……何だこいつ?初めて反抗的な態度を見せたから、何か隠し玉があるのかと思ったが、やっぱりゴミはゴミだな」
「そうだな。お望み通り、可愛がってやるとするか。なぁに、お前の耐久力は研究し尽くしているから、死なない範囲ってのは熟知している。大丈夫、いつも通りだ。安心しろよな」
そうだ。
俺は無力で無価値で何も成せないゴミだった。
ハンドガンに似た物から放たれる、陰陽道を媒介とした特別な製法の弾丸に貫かれて男は倒れこんだ。
すると、頭上から何かが大量に降り注いできた。仮面だ。色々な表情を模した人の仮面が男を埋め尽くしていく。
ああ。
その一つ、無表情な仮面を手に取って男は重く呟く。
「何をしても、無駄なんだな」
男は仮面が敷き詰められた暗闇の中でやっと、微睡へと落ちていった。
「ん……?……嘘だろ、寝てたのか」
妖怪の主は目を擦りながら体を起こした。本来妖怪に睡眠は必要ないのに、人間的な習慣を強制させられていた影響なのだろうか、男はコボルトたちの巣の中で眠ってしまっていたのだ。
「なーんか嫌な夢を見た気がするな。気付けに、心が晴れるものでもないか探検するとするか」
そうして薄暗い洞窟を出た矢先のことだった。心が晴れるものを見行くつもりだった妖怪の主の眼前に、血で染まった少し焦げた胴体とあらぬ方向に曲がった四肢、破裂したような穴が開いている大きな目玉を持った魔物の死骸が飛び込んでくる。
「あ、主殿、ちょうどいいところに……見てほしいのであります!小狸とコボルトたちで狩った大物でありますよ!」
「うわぁ……寝起きに大目玉をくらっちまった」
飼い主に褒めてもらいたい猫のように死骸を持ってきて自慢する子女郎と、息絶えたグロテスクな魔物を交互に見つめながら男は、ついつい引いてしまう。これが目覚めの悪い寝起きでなければ、もっと別の反応ができただろうが、そんな余裕は今の男にはなかった。自分の心を落ち着かせるのに、必死だったのだ。
「主殿、どうしたのでありますか?なんだか顔色が悪いのでありますよ?あと、大目玉を食らうは意味が違うので上手くないのでありますよ?」
子女郎が上目遣いで尋ねてくる。主の反応は彼女が望んだものではなかったが、それより様子のおかしな主を心配しているようだ。
「ああいや、寝覚めが悪かっただけなんだ……それにしても単眼の魔物か。一目連とか豆腐小僧とか結構妖怪の中にも多いけど、異世界でもいるもんなんだなぁ」
妙な感心をしつつ男がまじまじと魔物を眺める。そうしていると今度は、コボルトリーダーの側近だったコボルトソーサラーが率いている一団が巣に戻ってきた。彼らも『従属登録』が済んでいるコボルトたちであり、担いでいるのは子女郎たちには及ばないものの中々の大物だ。
「おおっ、こっちも凄いな。これでまた、ポイントを使って『従属登録』が出来るな」
獲物を自慢してくるコボルトたちをねぎらう様に、その肩を軽く叩いていた男の元へ、我先にと争うように他のコボルトたちがやってくる。実際彼らは『従属登録』の権利を賭けて争っているようなものだ。何せ彼らにとって『従属登録』は正式に男の配下になるための栄誉であり、一族の中で自らの立場を上げるための手段なのだ。
「ちょっと、喧嘩するなって。最近、狩った魔物が巣に運ばれるたびにこんな状況になってるなぁ。狩りで怪我をしている奴も結構いるし、あんまり無理はしないでくれよ」
コボルトたちの不和は『従属登録』が行われていないもの同士だけで起こっているわけではない。『従属登録』が終わったコボルトたちと、終わっていないコボルトたちの間でも、明確な上下関係が出来たことによる亀裂が走っているようだった。
コボルトたちが互いに互いを威嚇しあっている姿を見ることが、日に日に多くなってきている。
コボルトたち全員の登録が終わればこの諍いは収まるのかもしれない。だが、登録した順番による格差などが生まれない保証はない。
「(このままでは、コボルトたちが自滅しかねないのであります)」
せめて首領が動けるようになるか、言葉が通じれば。子女郎は歯がゆそうに唇を引き締めたが、彼女がまず第一としているのは主の利益だ。最悪、このコボルトたちを捨て石にしなければならない。
主は気付いているのか、いないのか。
落ち着くようコボルトたちに声をかける男の参った顔を、しかし彼らに請われてどこか嬉しそうな顔を見て、子女郎はどうすべきなのか考えあぐねるのだった。