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作者: 竹下博志

 小さな海沿いの街だった。穏やかな気候で、人も穏やかであると言えた。悪い言い方をすれば、かなり時間や仕事の具合などにルーズなところもあって、なあなあで、どちらかというと落ちこぼれめいた不器用な人たちが互いに、おおらかに許しあいながら、生きていた。有能な人材はおそらくこの街を出てしまうのだろう。残された人々は残された人々なりのルールの中で生きているのだ。例えば、誰かを何かで責めるという事は、自分もまた、やがてそのことで責められるという事を意味し、それは暗黙のうちに、誰もが他人を責めないことによって自分の責任を逃れるという了解を容どっていた。そのことには皆気づかないふりをしているように見えたが、心の底では誰しも暗くよどんだものを持っている様だった。それらを寛容や思いやり、気遣いと呼びながら。ここでは闘争心や、競争といったものはほとんど見られず、地方の小さな街には有りがちだが、誰かは必ず誰かの知人であって、複雑に入り組んではいるものの、どこかで必ずつながりがあり、噂などは当然のように街全体が知っているという、街全体を何か蜘蛛の巣のようなもので囲まれたような、それが故の一体感、そんな雰囲気があった。都会暮らしからこういったところに来ると、そういった人間関係に気づくのは、もっと後の話で、とりあえずは街全体を網羅する広報用のスピーカーに驚かされる。役場のお知らせは大体どうでもいいようなことを、これまた情けないたどたどしい声で、一日に何回も大ボリュームで聞かされる羽目になる。広報誌があるだろうと思うし、そんなに何度も何度もとも思うが、これが街のペースなのだ。自己責任とか、ぼさっとしているほうが悪いなんて理屈は通じない。ほとんどの人間が、ぼさっとしているこんな街ではこの広報スピーカーは必要であり、一日に何度もこれを大音量で流すことが、役場にとっては大事な使命なのだった。また、警察用のスピーカーもあって、これはほとんどが徘徊老人の捜索と振込詐欺防止に使われる。徘徊老人は日常的に事件となり、誰彼と居なくなってはこのスピーカーのお世話になる。見つかったら見つかったで、見つかりましたの礼放送がある。街を歩くと、徘徊老人予備軍はあちこちに居る。毎日同じ路上で、小便を垂れ流しながら、強烈な臭いの中で座りこんで道行く人に大声で声掛けをする老人もいれば、幼稚園児のような大きな名札をつけられて、中学校の体育ジャージのような服を着せられ、雑草を抜いては歩く日々を過ごす老人もいる。また、かなり高齢だとは思うが、限りなく徒歩に近いスピードで日の出前の暗闇を毎朝ランニングをしている老人もいる。もう足がほとんど上がらず、すり足に近いのだが、一応はランニングのフォームなのだ。競歩ではない。この老人は徘徊予備軍ではないかもしれないが、身に着けているもの、おそらく現役時代のワイシャツ、と言い、その憑かれたように走る無表情さと言い、何かしら不自然なところがあって、落ち葉が舞う季節になって、カサカサいわせながらすり足で暗闇から出てこられると、何か大きな虫が現れたようで、やはりちょっと怖いのだった。

 海沿いの街だけあって、この街には小さなさびれた漁港がある。そんな漁港の例にもれず、不衛生で、中に入ると悪臭が漂い、設備は古ぼけていて、もう新設などというコストの投入は望めず、あちこちに手入れのされていない機械設備が放置されており、この機械が壊れたらもう何もかもおしまいだというような雰囲気を、鼻から入る悪臭とともに目からもその凋落ぶりを訴える。

それでも、季節になればシラス漁が盛んになり、漁港の周辺にあるシラスの釜揚げ場が煙を吐くころになると、街の人々の話題はシラス丼だ。観光用に漁港の隅には古ぼけた食堂があってシラス丼の看板が出てはいるものの、この店に誰かがいるところを見ることはなかったが、街の人にとっては数少ない街の楽しみの一つだった。漁港の周りには漁港と生活を一つにする人々の生活の場があり、小さな古ぼけて寂れた街並みが続いている。街の年齢と同じく、ここに住む人は皆、高齢で、その歯がところどころ抜けているように、街並みもまたところどころに空き家があり、役場も知ってか知らずか、朽ちるに任せられているような家もあった。おそらくこの街が出来た当時は、建築基準法はないも同然で、自動車の通れない狭い通路に面した家も多く、こういった家は当然、その土地での建て替えは出来ず、仮に建て替えが出来る土地だったとしても、やがて確実に来るであろう津波の事を考えると、その選択肢はあり得ないのだった。将来的な緩慢な、だが死は確実で、ただそれを待つのみの街なのだ。若い世代はここで生計を営もうという気にはなれず、独立とともに他所に出てゆき、一層寂れるばかりだった。体の悪い年寄りが、同じく体の悪い年寄りをいたわり、順番に居なくなりながら、自分の順番を待っている、そういう街だ。時に見る若い人間は、ジャージを着たデイケアの人たちで、何もめざましい産業のないこの街で、この分野とパチンコ屋だけは活況を呈している。漁港周辺のこうした街の中には、老人たちと共に生きる猫も多い。犬を飼っても、一緒に散歩が出来なくなると、慰みモノは自然と猫になる。漁港だからエサには事欠かない。こちらから特別に用意しなくても、どこかで何かを食べてくるのだ。そんな状況だから、栄養状態は偏っていて、エサをめぐるけんかも多いのだろう、けんかの相手は猫だけではなく、カラスや犬もありうる話で、だからここの猫たちは、汚れて、毛が抜けて、街に相応しい退廃的な姿かたちだった。

 漁港の凋落はそこで直接働く人でなくとも、感じられた。例えば、隣接するスーパーに行くと、漁港から上がってきた魚が並ぶ、黒くて見栄えの悪いそうした魚を若い人が買って行くことはない。それは一匹丸ごとで売られていて、先ずさばけないし、子供は嫌がるだろう、骨を取るのは、大人だって面倒なのだ。また、老人には大きすぎて、食べきれないくらいの大きさがある。どちらにせよ、それがカゴに入っているところは見たことがなかった。魚自体がもうすでに主力の売れ線ではなく、かろうじて売れていくのは骨のないアラスカ産の鮭、ノルウェイ産のサバ、北陸からやってくるサンマ、というところ。そうなると漁港の商売相手での頼りは、近隣の飲食店や居酒屋だが、こちらも同様寂れており、夜は閉まるのも早かった、飲み屋街を人通りが消える時間も早い。

この勢いは誰にも止められない。止められるとしても、とても不自然なやり方でしか止めることはできないだろう。そうしたやり方に、後で後悔することはあっても、よかったと思えることはないように思えた。この姿は不可抗力で、いわば自然の摂理の様に不変なのだった。同時に人としても自然の姿なのだといえた。隠すことはできるかもしれないが、或いはごまかしてしまうことはできるかもしれないが、果たして、よそに目をやってしまうことが出来たとしても、朽ちてゆくという事実は動かしがたく、逃れられない。それが、ある基準の下では、美しくないからと言って、そのものを嫌う理由にはならない。哀愁というのではない、また、子供を愛でるように、手放しな、自らも癒されるような、そんな気分でもなく、それでもこの街にはどこか愛着を感じるのだった。誰もが落ち込んでゆく人生のその先には、こうした街が定番で、最も気持ちが落ち着くのだと思われた。何もかもが一斉に、ともに同じ時間の流れの中に居て、同じ方向に向かっている。新しいものは滅多になく、常に生まれ変わる、常に変化するというところからはもっとも遠い世界。それだけに希少な新しいもの、特に最も希少な新しい命などは、街全体の、皆の共有の宝物であるといえた。街の子供は皆の知るところだ、どの子が何時にどこを通ってどこに行くのか、最近夢中になっていることは何なのか、昨日は何を食べたのか、誰が何を好きなのか、そうしたことは一帯の老人たちはすべて特別な愛情をもってして、街の小さな可能性、小さな希望の灯として、心得ているのだ。仮に希望の灯が、小さすぎて、全体が消えてゆくことにその力が及ぶことはないとしても。

 街の中心には大きな神社がある。もともとの神社をここに勧請したのが五世紀ごろだというから、由緒ある神社だと言える。この街は漁業も盛んだったが、海にはそれ以外にも海賊が居て、かなり力をふるったらしい。外洋船なんてものがない時代には近海の通行権をめぐってかなり争いがあったそうだ。源平の合戦の時にはこの海賊たちがどちらについたが良いか、この神社で決めたらしい。方法は博打によるものらしく、それ以降はその博打の名前がこの神社の名前となっていた。

 私はしばらくこの街に仕事の関係で訪れることが多かった。その日も、予定より早く用事が終わったので、ふと、この神社を見てみたくなって、そこを訪ねたのだった。

広い敷地の大きな本殿は見ごたえがあり、小さな街と言っても、昔は交通の要に当たる街なのでそれなりの規模である。これには十分に満足し、帰り道についたが、どうやら道を間違えたらしい、しまいには本道に出る道が分からなくなって、昔ながらの狭い道路をくるくると回る羽目になった。白いケーキ屋の角を曲がって狭い道に入っていったが、間違った方向であることに途中で気づき、右折を二回繰り返して、また元に戻りつつあった。しばらく走ると先程のケーキ屋がまた見えてきた。筋を変えたので、同じ店がまた見えるのはおかしいのだが、通り過ぎて気が付いた。そこはちょうど三角形の鋭角に位置する形だったのだ。鋭角部分にケーキ屋があって、右折の二回で三角形を一周した格好になっていた。鋭角は30度くらいだろうか、三角形の先端に三角形のケーキ屋がある。それはちょうどホールケーキを切り分けた、ショートケーキの形だった。30度だから、ホールを12等分である。白い壁はまさにイチゴショートそのものだが、街全体に年季が入っているのと同様に、このイチゴショートも随分とくたびれた感じだった。店の名前は漢字である。カタカナでもなく、英語でもフランス語でもない。ところで、私は甘いものに目がない、店自体に惹かれたわけでもないが、ずっと食べたいと思っていて探していたお菓子があった。エンガーディナーというのは、スイスのお菓子である。スイスのエンガディン地方の焼き菓子だ。クルミをキャラメルヌガーで固めて、クッキー生地で囲んで焼く。これと言って特別美味しい菓子ではない。固くて、甘くて、かなりしつこい。日持ちがして、カロリーが高く、小さい、持ち運びやすいというのは登山の行動食にぴったりだが、エンガディン地方というのは標高が1800mくらいあるというから、やはりそういう使い方もされたのかもしれない。ちなみにスキーリゾートのサン・モリッツはこのあたりだそうだ。それは、まあ言ってみれば、動物性脂肪のないぺミカンみたいなものだ。私は、だからそれを、趣味のジョギングや、ロードバイクで走るときの携行食料にしようと考えていた。アメリカ人が大好きなキャンディバーのスニッカーズなんかでもよかったのだが、この辺は趣味だから、それも含めて楽しみたいのだ。そのエンガディナーだが、地味だからだろうか、あまり美味しくないからなのか、それを扱う店はなかなか無かった。それで、私はこの店に立ち寄って、エンガディナーを探してみることにしたのだ。まあ、ダメ元なのである。車をUターンさせて、道路を挟んだ駐車場に車を入れる。駐車場と言ってもただの空き地なのだが、狭い道なので路駐はできないから、これは助かった。中に入るとなるほど、三角形の先の方つまり、狭いほうが売り場である。広いほうは厨房だ。これはケーキ屋としてはまっとうな間取りだと言える。自家製で色々と商品を作ろうと思ったら、こういう間取りでないといけない。というのも、最近は問屋に行けば何でもあるのだ。タルト生地、パイ生地、スポンジもあれば、マジパンにクリーム、デコレーション用のカットフルーツ、フルーツも最初からコンポートしたもの、などのデコレーション材も何でもある。リンゴを買ってきて、皮を剥いたり、何日もかけてマロングラッセを炊いたり、失敗したマロングラッセを集めて、モンブランにしたりするのは店ではもうしない。だから、ケーキ店を始めたけれども、自信がなければ、こういった問屋からすべて仕入れて、組み立てだけやればいい。味のほうは大企業が研究に研究を重ねた商品だけあって、そこそこ美味しい。普通に食べる分にはもう、十分なほどだ。もちろん形もそろってきれいだ。コンポートされたフルーツはピカピカ光って、見栄えだって立派なものだ。個人のケーキ屋で、大きくてきれいなショーケースが有って、厨房スペースに比べて、商品が種類もあって、数も沢山陳列されていれば、その店のやり方はおおよそ見当がついてしまう。もちろんケーキは同じ種類を大量に組み立てて冷凍して、その日の分だけ、解凍して売っている。これは、何も悪いことではない。美味しいし、とても見た目に綺麗なケーキが安価な値段で手に入る。ただ、どの店も個性はなく、同じ味だ。また問屋にパーツのない商品は作れない。おそらくエンガディナーはパーツがないのかもしれない。ちなみに洋菓子の見た目が飛躍的に美しくなったのは最近の事である。もともと、洋菓子なんて、地味なものなのだ。フランス系はともかくドイツとなると、これはもう地味の一言。そして、甘い。最近のケーキのあっさり加減とは大違いだ。そもそも洋食は料理そのものには砂糖をあまり使わない。これは和食の砂糖の使用量からすると驚くほど少ない量だ。案外和食はどれをとっても砂糖が入っている。だから、コース全体を通して、最後のデザートがいくら甘くとも洋食の場合、その総合的な砂糖摂取量は、和食ほど多くないのではないかと思えるほどだ。さて、この店のショーケースだが、種類が少ない。パウンドケーキは一種類につき一本ずつしか出ていないし、トータルの数も少ない。ショートケーキはイチゴショート一択である。これは良い傾向だ。ほとんどのケーキが冷凍できるが、イチゴを使ったケーだけは冷凍が出来ない。これはイチゴの繊維が冷凍でつぶれてしまうからだ。三角形の鋭角部分には焼き菓子のコーナーがあった。これには結構バリエーションが多かった。バターを使ったいい香りがしている。どれもなかなか美味しそうだ、迷うところだが、ショートブレッドが美味そうだ。焼き菓子でそそられるというのは私には珍しい。期待できるなあと思いながら振り返ると、小さくてかわいらしい白髪交じりのおばあさんと、黒い服を着た若い女の子がショーケースの後ろに立っていた。

「いらっしゃいませ」二人同時にそう言う。おばあさんはお盆を抱えている。それに載せた湯飲みにはお茶が入っていて、どうやらこれをどうぞという事らしい。にっこり笑ってショーケースの上に湯飲みを置き、そのまま奥に引っ込んでしまった。お茶は日本茶である。いい温度で飲みごろ、すっと喉の奥に滑り込む。私はショートブレッドを差し出した。

「どれもおいしそうで悩みますね」言わずもがなだが、なんとなく口に出てしまう。

「奥で職人が焼いています」若い女性はにっこりしながら、奥に視線をやった。隙間から職人らしき人が白い上っ張りを着て同じく白いコック帽をかぶって、少し開けたドアから外を眺めているのが後ろ姿でちらりと見えた。おそらく先程のおばあさんの息子さんくらいの年齢だから、きっとそうなのだろう。とすると、この女性はアルバイトか?アルバイトの女性にわかるかなと少し不安だったが、思い切って聞いてみる。

「エンガディナーは置いてますか?」

「職人の気が向けば、作りますよ。その時は店に出ます」即答、だった。意外だったが、託をすることにした。

「店に出たら教えてもらえますか?」私は携帯電話の番号を女性に渡し、その場を後にした。

ショートブレッドは本物のバターで、うまく仕上げられていた。サクサクほろりとその名の通りの口当たりと、後からふわりとバターが香るその加減がいい。バターは最近良い香料があり、そっくりに作れるのだが、香料はやはりきつい。一口目でバターの香りがいきなり強く広がるようなら、だいたい香料だ。駄菓子の中にはバターの原材料表記のないバタークッキーもあったりする。うまく作ってあって、駄菓子としては十分だと思うが、これはもう、最後の方でバターの香りに飽きてくる。バターの香りのサラダ油なんてものもある。バターみたいに焦げたりしないから、オムレツやスクランブルエッグを焼くときにちょうどいい。卵の色がきれいに出る。私のようなずぼらな料理人にはちょうどいい。味はさすがにバターには負けるが、サラダ油よりはずいぶんとマシだ。それにバターの異常な高さを思えば満足できる。

 その次の日の事、そのケーキ屋からいきなり電話が入った。最初はそれほど早く職人の気が向くとは思ってなかったので、その登録されていない電話番号を見た時にピンとこなかったのだが、出てみるとあの若い女性だった。

「焼きましたよ。今日から出ています」

「全部でいくつありますか?」

「15個焼きました」

「それ全部もらいます。今日伺いますので、置いておいてください」

焼き菓子なので、毎日一つずつ食べて、半月くらいは持つだろうと思った。それよりなにより、探し続けていたものが意外な場所であっさりと手に入ったことがうれしかった。気が向いたら焼きますよ、という返し文句も気が利いている。気が向いたのが次の日だったというのは、もっと気が利いていると思った。これに応えるのはやはり全部買いだろう。これが、私の考えるところの気の利いた客というやつだ。そのためなら、半月にわたって毎日食べたって、全然かまわない。そのカロリーを考えると、めまいがしたが、その分余計に運動すればいい。

店につくと、ショーケースの後ろにまた二人が立っていた。おばあさんはまたお盆を抱えている。昨日と同じようにお茶を置いたらさっさと引っ込んでしまった。若い女性は、昨日と同じように黒い服を着て、私の注文の品を持って立っていた。エンガディナーはひとつ50グラムぐらいあるだろうか、それが個包装で透明のセロファンに包まれている。機械ではなく、手包みの包装は何とも味がある。それが15個入った袋が手渡される。いわゆる栗饅頭と呼ばれる饅頭の類がだいたい40グラム前後だ。あれと大きさは同じくらいだが、ヌガーの重さがあるのだろうか、また、中身がぎっしりと詰まっていて生地はかなりの硬さだ、栗饅頭よりはやはり少し重い。15個入ってまとめて袋に入れると、お菓子としてはかなりの重さになった。 

この重さは嬉しい重さだ。出会いの偶然と言い、気持ちの良い対応と言い、やっと手にした商品と言いそういった実感を伴った重さだった。つい、口も軽くなる。

「ありがとう。ところで、クリスマスにはシュトーレンは焼きますか?」

これには、若い女性が微笑みながら答えてくれる。

「はい。毎年焼くんですよ。中に仕込むドライフルーツのラム漬けは自家製で拘りの品です。製菓専用のラムだと味が悪いので、そのまま呑んでもおいしいダークラムの最高品を使うんです」これはどうやらよくぞ聞いてくれました!という質問だったらしい。女性は目を輝かせて嬉しそうに説明する。こう生き生きと説明されると、期待は膨らむものだ。

「へーっ、楽しみだな。いつごろから出ますか?出たら連絡欲しいのですが」

「例年11月ごろから出始めるんですよ。また、ご連絡しますね」

「お願いします」これは是非とも食べなくてはという気にさせられた。毎年シュトーレンは買っている。いつもはドイツ製の、マジパン入りのものを取り寄せている。このマジパンはいわゆるデコレーション用と違い、あの同じくドイツのマジパン専門店を思わせる、ねっとりしてとても美味しいものなのだが、今年はここのものにしようと思った。

うちに帰り、エンガディナーをさっそく一つ食べた。クルミの香りが立っている。これはどうしても自分では再現できないのだ、私は自分でパンを焼いている。クルミパンも焼くが、いろいろと試してみたが駄目だった。だいたいクルミは火が通ると香りは飛んでしまうものだ。札幌のパン屋でこれと似たようなクルミの香りが立ち込めるパンの体験をしたが、あのパン屋は大繁盛していた。札幌はいろいろと美味しいものが多いが、結局あのパンが一番美味しかった。それに引けを取ってない。シュトーレンが楽しみだ。

 そんなこんなで気が付くと、11月になっていて、やはり忘れたころに電話が鳴る。

シュトーレンはクリスマスっぽい包装で、ちょっと気が早いような感じがしたが、やはりうれしいものだ。それよりもラムの香りが、包みを受け取った時から既にしていて、これには顔がにやけるのを止める事が出来なかった。クリスマス包装の袋を持って中年男がにやけているのは気味が悪いが、これだって自分で作ってみればわかる。レーズンを漬け込んで、ラムレーズンにして、パンに焼きこんだが、これもなかなか思うようにいかないのだ。ラムがぼやけてしまう。おそらく、この店の職人に言わせると、製菓専用のラムがまず悪いと言われそうだが。

そのシュトーレンだが、どっしりずっしりとして重く、日持ちさせるためだろうか、糖度は高め、少しだけでも満足でき、紅茶によく合った。それを薄切りにして毎日楽しむ。上に乗った粉砂糖のアイシングが最初はサラサラしているが、日が経ってくるとねっとりと変化する。生地もまたしっとりして、ラムの芳香は柔らかくなるのだった。そうした変化を楽しみつつ、ほとんど半月いっぱいを洋菓子三昧で過ごした。前回のエンガディナーの分もあり、もう当分の間は洋菓子には目が向かなくなって、心はふんわりと薫る小豆の香りなどに揺れていて、日本最古の製餡所の作る餡の入ったどら焼きなぞにはまっていたりしたが、ふとした拍子に昔食べた洋菓子の記憶がよみがえってきた。大阪に勤めていた私の父のお土産と言えば、その界隈で有名なシュークリームと相場が決まっていて、これにはリキュールスポンジと呼ばれる、スポンジケーキに甘いリキュールをしみこませたケーキが混ざっているのが通常のパターンだった。私はどちらかというとこれに目がなくて、今はもう販売していないそのお菓子をまたあの店で作ってもらおうと思った。

「うちのサバランは特製のリキュールを使ってます」とでも説明されそうで、それが楽しみだったが、久しぶりにそこに行ったせいなのか、それとも道を一本間違えて入ってしまったせいなのか、店が見当たらない。さんざ迷った挙句、見覚えのある二股の鋭角の分岐路にきたが、そこに店はなくただ三角形の小さな空き地があるのみだった。さては、とも思ったが、解体したような跡はなく、雑草がかなり茂った状態で土の状態も締まっている。

途方に暮れていると、隣の家から老人が顔を出した。

「ここにケーキ屋さんがありませんでしたか?」そう尋ねる私に、

「あったけど、ずいぶんと昔だよ。まだ昭和のころだ」と老人が応える。

「・・・」この老人ぼけているのだろうか?

と、雑草をかき分けて近づいてくる二匹の猫がいる。白黒ぶちの年取った猫と、黒くて若い猫。白黒ぶちはそばまで来たが、暫くすると、引き返していった。引き返した先には白い猫が一匹。その時、そばに居て私を見上げていた黒い猫が鳴いた。

私はしゃがみ込んで、猫に語り掛けた。

「サバラン」

これに猫が返事をする。そしてどこへともなく三匹ともいなくなってしまった。

その場に立ち尽くし、ぼんやりと考えている。

あの時次の注文をしていたら、ここはケーキ屋のままだったのだろうか?

とりあえず、電話を待つしかない。だが、春になり、夏になっても電話は鳴らなかった。

あの空き地にも何度も行ってみたものの、猫もまたあれから見ることはない。

それ以外にこの街は依然として変わるところはない。急に生まれるものもなく、急に無くなるものもない。すべてが、自然に朽ちてゆくのを待っている。

その空き地のそばで面白いパン屋を見つけた。いつも数種類だけ、しかも少量しか置いていない。大きさも形も不ぞろいのパンはイーストをあまり利かせていない重たいパンで、あんパンの餡は糖度の高くないものを使っている。このパン屋は突然無くなったりはしなかった。あと何回か通ったら、例のケーキ屋の話をしてみようかと思う。


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