9 進路
私は音大を目指した年から、地元のピアノ教室の発表会にゲストとして毎年演奏させていただいている。
地元の先生は、お会いする度に私のことを褒めてくれた。母も先生にお礼を言った。私も、先生のおかげであることを心から伝えた。高校時代の友人も、いつも皆で来てくれて、ちょっとした同窓会みたいになっていた。私から連絡するわけじゃないのに、わざわざ集まってくれる。そして、私の演奏に喜んでくれた。口々にいただくその感想は、どれも嬉しかった。
来月から大学四年生になる。地元に向かう新幹線の中で、これまでのこと、これからのことをとりとめなく考えた。
三年生の後期試験前に、二回の試演会があった。一回目は、主に受験生のための試演会。二回目は音大生の後期試験のための試演会だった。一回目の試演会の後、るり子先生の旦那さんがいらっしゃった。私はあることを思い出して、思い切って旦那さんに話かけてみた。
「あの、ちょっとお伺いしたいことがありまして、よろしいでしょうか?」
「るり子じゃなくて俺に?」
「はい」
「いいよ?そこのベンチで待ってて」
旦那さんは笑ってくれた。緊張するな。旦那さんは、自販機で飲み物を買ってきてくれた。
「話って何?」
「あの、私、前にるり子先生に伺ったことがあって。旦那さんが、るり子先生のリサイタルで出会ったって」
私は一気に言った。
「その時に、旦那さんからの感想がすごく嬉しかったからって仰っていました。旦那さんは音楽家じゃないけど、わかってくれたって。旦那さんは、……るり子先生のこと、どんな風に感じられたんですか?音楽的なこととかもお聞きしたいなって」
旦那さんは、笑顔で私の質問を最後まで聞いてくれた。
「正確に言うと、それだけじゃない。もともと上司の紹介だ。るり子は幼稚園から高校まで女子校で、あの通り真面目だ。かおりの母親と親友で、かおりの父親は俺の上司だ。多分、るり子には俺みたいなタイプが合うと思ったんじゃないかな。るり子も、……上司は藤原さんて言うんだけど、信頼している藤原さんの紹介だから俺と会う気になったんじゃないかな」
なるほど……。
「俺は音楽にはそれほど詳しくはない。教養程度だ。リサイタルで、演奏前に解説文を読んだ。るり子が書いたというその文章は、ただの曲目解説ではなく読み物としても面白かった。知性が感じられたし、演奏を聴いてみたくなった。演奏は、情熱的で好みだった。俺は、自分で聴きに行くならだけど、教科書みたいな演奏とか、無難なだけの演奏は好みじゃない。学習過程の子供の目標となる演奏とか、教授陣の求める学生さんの模範的な演奏とかは、リサイタルと違うこと、わかるだろう?」
私は深く頷いた。
「そういう意味で、感性が合ったんじゃないかな。るり子も、いろいろな人から演奏の感想をもらうだろう。社会人になると、社交辞令だってたくさんある。その中で、俺の心からの感想を嬉しく感じてくれたってことは、俺達だけの何かを共有できたんじゃないかと……今日はこんなところかな?そろそろ行こうか」
旦那さんは、サッと立ち上がった。るり子先生に見つかった。秘密ってわけでもないけれど、何て言えばいいだろう。
「あなた何してるの?さやかちゃんも?」
「試演会の感想を伝えてた」
みかちゃんも来た。
「何歳か聞いた?えー?何を話してたの?いいなぁ」
私はピアノのことだよと曖昧に答えた。
私は、るり子先生のリサイタルはどんなに素敵だったんだろうかと想像した。
私も、いつかリサイタルをする時には解説を書こうと思った。いつできるかもわからないけど、プログラムは何にするか。何ならできそうか、何のために、誰のために演奏するのか……。
そして、これから自分はどうするか。
一つだけ、確かに決めていることがあった。そしてそれは、るり子先生とのお別れを含むことで、考えたくないことだった。




