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憧れの先生  作者: 槇 慎一


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8 実技試験


 私は音大ピアノ演奏科に入学し、7月に実技試験があった。自由曲ということで、受験が終わってから練習したメンデルスゾーン作曲『ロンド・カプリチオーソ』に決めた。4月の発表会でも弾いた。大学でのレッスンは、ショパンの『エチュード』や、バッハの『平均律』も進めた。レパートリーを増やし、試演会には必ず参加した。


 高校生の門下生もいて、新しい後輩ができた。数年前の自分を見るようで、懐かしかった。同時に、あの時に感じた先輩方への印象、自分もそのようにならなければと思わずにいられなかった。


 ある日のレッスンの最後に、いつも明るい雰囲気のるり子先生が真面目な表情になった。

「さやかちゃんには前もって言った方が頑張るかなと思うのでお伝えするわね」

「はい」 

 私はちょっと緊張しながら返事をした。

「実技試験の成績優秀者は、演奏会に出演できます。学外に公開されるの。学年で何人選ばれるかは特に決まっていないけれど、私の門下生は良い評価をいただけることが多いから。さやかちゃんにも期待しています」

「はい」

 私はびっくりした。そんな話をしてくださったのは嬉しいけれど、選ばれるなんて、そこまでは。ただ、頑張ろう。


 実技試験の数日前に、試演会があった。平日の夕方で、私はもちろん参加の返事をした。


 試演会の当日、会場変更の連絡があった。どこの教室になったのかなとメールを最後まで読んだ。メールの宛先を見ると、参加者は少なかった。受験生がいないのは当然としても、四年生もいなかった。会食は無し、という文言もあった。実技試験はすぐだしね。


 会場は、実技試験の会場でもある大ホールだった。すごいチャンスだ!ピアノは一台一台違うし、私はホールで弾くことも慣れていない。


 私は、より緊張感を高めるために寮に戻って本番で着るつもりのワンピースに着替え、本番の靴を履いた。

 

 試演会の会場であるホールに行くと、まだ鍵が開いていなかった。私はロビーで楽譜を開いて、音の響きをイメージした。


 「お待たせしました」という声がして、るり子先生がいらっしゃった。綺麗な色のスカーフを添えた、いつものスーツ姿だった。慎一くんとかおりちゃんもいた。初等部一年生になったかおりちゃんは制服姿で、とてもお姉さんに見えた。今日は、かおりちゃんからスタートした。


 かおりちゃんは、ブルグミュラー『25の練習曲』を全曲弾いた。それはもう、ちょっとしたリサイタルだった。ステージで弾く姿を初めて見た。まるで指が歌っているようで、響かせ方が良く、それは慣れていない私にもわかる程だった。大人のように大きな音は出せないし、ダイナミクスの幅は少ないけれど、それよりも音色や和声の響きが豊かで素晴らしかった。かおりちゃんは、お辞儀をして客席に戻った。

 

 後ろの扉が開いて、客席に誰かが入ってきた。大柄な男性だった。るり子先生が案内していた。

「慎一、どうぞ。ステージに上がって」

 慎一くんは、モーツァルトの『キラキラ星変奏曲』、ショパンの『スケルツォ2番』を弾いた。

 それから私。みかちゃんはいなくて、先輩が三人演奏した。先輩方は少し長い曲だった。


「皆さんお疲れ様。今日はこれで解散ね」


 るり子先生は、客席にいらっしゃった外国人の男性と話をしていた。それから慎一くんとかおりちゃんを連れて外に出た。


 

 試演会のおかげで、実技試験は、我ながらいい感触だった。響きの行方が見えたようだった。ホールで演奏できたことはもちろん、聴いている人がいるありがたさを痛感した。また頑張ろうと思った。週末は新曲の譜読みをして過ごした。


 週明けから、また日常の生活が始まった。

 授業前に、クラスのお友達と外国語の予習したところを確認しながらおしゃべりしていた。

「さやかちゃん、おはよう!掲示板見たよ、すごいね!一年生から、今年は少なかったって私の先生が言ってた」

「えっ?何?」

 私のこと?掲示板は見ていなかった。

「あ、まだ見てないの?実技試験の結果。優秀者演奏会の発表だよ。さやかちゃんの名前があったよ」

 思い出した。るり子先生がそんなことを仰っていたが、自分には関係ないと思っていた。


 そこへみかちゃんが教室に入ってきて、何?どうしたの?って雰囲気になった。私達は同じ門下だし、皆発言を遠慮した。私は正直に言った。

「実技試験の……演奏会に出られることになったみたい。確認してないけど。私、出られると思っていなかったから、ちょっとびっくりしてる」

 みかちゃんは「あぁ」という感じだった。

「そう?頑張ってたの、私知ってるから驚かないよ。招待券、待ってるよ!あそこのお店のクッキー持って聴きに行くから、頑張ってね!」

 明るく言ってくれた。それは嘘ではなかっただろう。でも、何か違和感があった。それが何だかは、わからなかった。


 授業が始まった。

 皆は席に戻り、外国語のテキストを開いた。




 

 実技試験の優秀者演奏会は、それから何日か後の平日の夜だった。

 るり子先生からは、聴きに行けないけど頑張ってと言われていた。


 私は、演奏順が一番最初だった。やるだけのことはやった。私は演奏した後、次の演奏を聴くために、後ろから客席に入った。


 客席の一番後ろに、試演会にいらっしゃった大柄な外国人の男性と慎一くんが並んで聴いているのが見えた。


 みかちゃんが、小さい声で私を呼んでいるのが聞こえた。そちらを見ると、私の知らない男の子が一緒で、笑顔で会釈された。つられて私も頭を下げながら、みかちゃんの隣に座った。みかちゃんが、知らない女の子みたいに見えた。


 演奏会の後、慎一くんがその男性と一緒に外に出ていくところを見た。私はみかちゃんに言ってみた。

「ねぇ、向こう、るり子先生の息子さんの慎一くんじゃない?」

「あぁ、そうね。アレでしょ?ロシア人の……名前は忘れちゃったけど、すごい巨匠のピアニスト」

「へえ~私にはご縁のない方々だわ」

 この後、みかちゃんから違う言葉を聞きたかったわけではない。

「そうよ、私達一般人には頑張ったって無理よ」

「えっ?」

「えっ?て、そんなに頑張っても頑張らなくても変わらないわよ。先生の息子さんはもともと天才だし、そういう道に進むべく育てられてるでしょ?自由に選べなくて、ある意味かわいそうよね」

「かわいそうなの?頑張れば、変わっていくじゃない?」

「やだ、そんなに真面目に受け取らないで。ねっ、……水島くんていうの。この前から付き合ってるんだ」

 私は言うのを止めた。

 さわやかな男の子が私に言った。

「さやかちゃん?お疲れ様!演奏良かったよ!よろしくね!」

 ……何を言おうとしたのかもわからないけど、みかちゃんの彼に失礼のないよう、笑顔で挨拶だけは、しておいた。


 みかちゃんは、私が好きだと言った、以前一緒に食べたことのあるお店のクッキーを持ってきてくれた。可愛い赤いリボンが結んであった。嬉しかったけれど、何だか……違う感情が湧いた。


 もともと天才?頑張っても頑張らなくても変わらない?そんな、そんなことない。私は何に反論したいのかわからなかった。


 その赤いリボンを見て、発表会の日にかおりちゃんの襟元のリボンを結んであげたことを思い出した。






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