7 音大生活
ピアニストであり、音楽大学講師のるり子先生のレッスンを受けた私は、無事に志望校に合格した。地方から東京に出てきたから寮に入った。食事の時間、ピアノの練習室の予約、練習、大学の授業の予習復習、試験の準備を全て自分で時間管理する。同じ門下のみかちゃんはもともと東京だから、家から通っている。メールのやりとりだけだったみかちゃんと授業で会えるし、お昼も一緒だし、嬉しかった。そして、それぞれのお友達も増えた。
ある時みかちゃんが、男の子を紹介してくれるという。みかちゃんは幼稚園から高校まで、るり子先生が通った女子校だったらしい。女子校には、系列の大学もあるけれど、幼稚園からずっと皆一緒だったから、ちょっと刺激が欲しかったと笑っていた。公立の共学しか選択肢のなかった私には想像もつかない世界だ。
よくわからないまま、強く否定しないでいたら、男女五人ずつ会う話がまとまったらしかった。女の子の五人は、私とみかちゃんと、あとは知らない子。男の子はもちろん一人も知らない。高校に男子はクラスに半分いたけど、つきあうとかは実感がわかなかった。今もだけど。
女の子で寮に入っていたのは私だけだった。門限もあるし、練習するために先に帰ることにした。みかちゃんが「え~!帰っちゃうの?」と残念そうな顔をした。
「うん、明日レッスンあるし」
私はみかちゃんに会費を渡し、スプリングコートを畳んで抱えて、外に出た。
「さやかちゃん!」
えっ?誰?振り返っても、その男の子の名前はわからなかった。さっき自己紹介されたけれど、お店は賑やかだったし一度に覚えられなかった。
「もう帰っちゃうの?送るよ。どこなの?」
「◯◯駅の、大学の寮です。じゃあ……そこの駅まで」
「寮なんだ?ねぇ、よかったら付き合わない?」
「えっ?ちょっと、まだわからないですから、すみません」
「こっちもまださやかちゃんのことわからないけどさ、可愛いなって。付き合ってみるっていうかさ」
「ご、ごめんなさい。あの……電車に乗るので!さようなら!」
逃げて来ちゃったけど、電車にも練習時間にも門限にも間にあった。これでレッスンにも準備が間に合う。けれど、気が散って、練習が捗らなかった。手が動かなかった。こんなの、初めてだ。困ったな。私は、高校の同級生をちょっとだけ思い出した。今、どうしてるのかな。練習する生活をわかってくれるし、気を使わずにおしゃべりできる、いい友人だった。
翌日。
一時間目はるり子先生のレッスンだった。私は正直に話した。
「先生、すみません。昨日の練習が捗らなくて、自分でどうしたのかわかりません。一昨日までは、練習できたんですけれど……」
私がいきなりそんな話をしたので、るり子先生はびっくりしていた。
「真面目なさやかちゃんが珍しいわね。どうしたの?よかったら話して?昨日?」
「昨日……お友達に男の子を紹介されて、付き合ってって言われたんです。いきなりだったし、断りましたけど、練習もあるのに、いつ付き合うんでしょう?」
るり子先生は、大きな瞳を開けたまま私を見た。
「すみません。レッスンなのに、こんな……でも、お友達じゃなくてるり子先生に相談したくて。先生は、学生時代にこんなことで悩んだり……しました、か?」
まさか、同じ門下のみかちゃんに紹介されたとは言いにくかった。
「……さやかちゃんも大人になったのね。そうね、そんな年頃よね。ごめんなさい、私は聞くことしかできないけど。私は普通に練習を優先してきて、確かにそんなことも何回かあったけれど、『遊びなら付き合えません』って言ったら皆直ぐに離れていったから……」
「先生は、美人ですから。でも旦那さんとは付き合ったんですよね?それまでの男性とは何かが違ったんですか?」
「そうね、違ったわ。リサイタルに来てくれたの。彼は音楽家じゃないけれど、芸術が好きで、私が書いた解説文にも興味を持ってくれたの。演奏の感想を聞かせてくれて、私のこともわかってくれた感じがしたの。その時も『遊びなら付き合えません』て言ったけれど、真面目に言ってるって。それで結果的に結婚したの。……あまり人に話したことがないから、うまく言えないわ。和声が変わる話みたいにはいかないわね。ごめんなさいね」
るり子先生らしい。何だか納得した。照れている感じは全くなかった。これは旦那さんに相当惚れられたんだなと、私でもわかった。
「そうよね、私達は練習があるものね……」
先生は、独り言のように言った。
「それで断り続けても、あんな素敵な旦那さんに申し込まれた先生は素敵です。私は、ひとまず練習と勉強を頑張ります。すみませんでした」
「ううん、さやかちゃんは今までピアノを頑張っているから、そういう気持ちもいろいろ味わえるといいかな、と思っているわ。……慎一が」
「えっ?」
何か聞き間違えたかと思った。旦那さんじゃなくて慎一くん?
「慎一くんが?……どうしたんですか?」
「ごめんなさいね、親バカな話なんだけどね、これは私が初めて教えた頃の生徒さんは知っていることだから……」
私はドキドキした。
「慎一、下手だったのよ」
「ええっ?またまた。先生、あんなに上手な子見たことありませんよ?」
私は先生が謙遜しているとしか思えなかった。
「まぁ、ありがとう。……昔の慎一は、正しく弾いているのに、ちっとも丁寧じゃなくて、どうにも素敵じゃなくて。私の教え方が悪いとしか思えなかったから、誰にも相談できなくて……」
「先生にもそんな悩みが……それでどうしたんですか?」
「結局、私にはどうにも出来なかったの。かおりちゃんが産まれて、……かおりちゃんは私の親友の娘なの。慎一と学年は4つ違うんだけど、かおりちゃんは3月末に産まれたから丸々5つ違うのよ」
「5つ……」
「慎一が五歳の誕生日の発表会の日に、かおりちゃんのパパが連れて来てくれたの。そうしたら……」
「……そうしたら?」
何だろう?
「それまで指だけ回してガチャガチャと速く弾いていた慎一が、音楽的に弾いたのよ」
「ええっ?素敵!」
「その日の朝だってガチャガチャだったのよ?」
「何で出来たんでしょうか?」
「私も聞いたの。何に気をつけて弾いたの?って」
「そうしたら、何て答えたんですか?」
私は身を乗り出して聞いた。
「……かおちゃんに素敵な音を届けたいからって言ったの」
私は感動してしまった。何て素敵なんだろう。言葉も出なかった。
「だから、さやかちゃんも素敵な恋をしてほしいな、と。誰か好きな人はいるの?」
「えっ?」
私は、高校時代にちょっと気になっていたサッカー部の男の子を思い出した。地元の発表会に来てくれたっけ。でも、それだけ。
「あ、いるんだ!是非生かして頂戴!」
チャイムが鳴った。
次のレッスンはみかちゃんだ。みかちゃんには会わずに帰りたい。私は素早く片付けた。
「すみません、ありがとうございました。来週はきちんと弾きます!失礼します!」
私は空いている練習室を探しに行った。
旦那さんが何歳なのか、聞けばよかったな、と思いながら。




