3 夏期講習
るり子先生の3回目のレッスンの前に、音楽大学の夏期講習があった。私は申し込んでいなかった。もし、るり子先生とご縁がなかったら参加していた筈だった。講習は、学校見学というよりも、その大学の先生に出会って、習うチャンスを作るためだと地元の先生に聞いていた。講習の前にるり子先生に出会えてよかった。
2回目のレッスンで、同じ高校一年生のみかちゃんというお友達ができて嬉しかった。地元では、音楽大学に行く人は……多分ほとんどいない。東京にはたくさんいるんだろうし、この辺りには音楽科のある高校もない。両親も私も、こんなにピアノをやるなんて、思っていなかった。同じ高校の仲良しのお友達だけには、音大を目指すことを伝えた。普通に応援してくれると思ったし、東京にレッスンに通うために、これから日曜日のお誘いを断ることもあるだろうし、普段の練習も増やすから。……それなのに、彼女達の反応は、私の予想とは違うものだった。
「ふうん、まだ一年なのに志望校とか決めてるんだ?いいよね、ピアノ弾いてれば、もう勉強しなくていいんでしょ?楽でいいね」
えっ?今の言葉は、目の前の私のお友達が言ったの?私はショックで何も言えなかった。でも、次の瞬間から、私はお友達との誘いを断ってでも音大合格に向けて練習することを選んだ。るり子先生のおうちにいた、あの小さな女の子の素晴らしさに、東京から離れたこの地から追いつけるようにしなければならないんだ。
私は新しいお友達を思い出した。るり子先生が「お互いにいいお友達になって」と言ってメール交換した、みかちゃんのことを。みかちゃんは、日曜日の朝9時からのレッスンに通えるくらいだから、多分こんな地方の子じゃないだろう。試演会で、もっと仲良くなりたい。せめてみかちゃんに恥ずかしくないくらい、きちんと弾けるように練習していこう。私は、お友達を紹介してくれたるり子先生に改めて感謝した。
夏期講習の最終日。
講習の最後の授業の後の16時から試演会をすると連絡があった。ホテルのチェックインには時間が早すぎたから、荷物は持って行くことにした。1泊だから、そんなに重くはないし。それより、私は大学には入ったこともなかったし、試演会の教室の場所もわからない。早めに行くことにして電車から降りた。
大学のカフェで軽く食べてから事務室の先生に教室を聞いたら、試演会の場所はすぐにわかった。まだ15:30になるところか……。早く着きすぎたかな。
ドアに「槇るり子」という名札が掛けてあって、
「試演会の生徒さん、演奏中でも入ってきてね」
と書かれた紙が貼ってあった。ドアからは少しだけ中が見える。もう、誰かが弾いている。何人か聴いている人もいる。みかちゃんもいる。まだ30分前だよね?私は遅刻したのかと思って、ドキドキして携帯を確認した。メールには16時からと書いてある。
るり子先生が私に気づいてドアを開けてくれた。
「大丈夫よ。時間前に息子が弾いているだけだから。まだ入らなくてもいいし、よかったら聴いていっても」
私は迷わず教室に入った。音を立てないように歩いていって、みかちゃんの隣に座った。
るり子先生の息子さん……。私が先生のおうちにレッスンに行くと、いつも妹ちゃんが弾いていた。お兄ちゃんの演奏は聴いたことがなかった。すごい……。まさに、るり子先生の演奏と同じだ。きちんとした弾き方、教科書とかお手本といった感じの演奏だった。知らない曲だったけど、ツェルニーかな?どれも短い曲で、暗譜ではなかったから、自分でページをめくって次の曲を弾いていた。
まって?次、16時から弾くの、私じゃない?お兄ちゃんの教科書みたいなお手本演奏に感心している場合じゃないかも。……それでも、いつまでも聴いていたいほど綺麗な演奏だった。教科書みたいって思ったけど、つまらない演奏という意味ではない。楽譜に書かれたことをきちんと再現できると、こうして美しい曲なんだなと思った。
聴いている学生さんは、多分私とみかちゃんが高校一年で一番年下かなとすぐにわかった。大学生はすぐにわかるほど大人っぽかった。私も、この大学に入りたい……。
お兄ちゃんの演奏が終わった。1拍分、たっぷりのばした後、休符にフェルマータがあるんだなって、曲を知らないのにわかった。次の瞬間、チャイムが鳴った。私が来た時にはもう既に弾いていたし。見計らって開始したのだとしたら、すごすぎる!
「時間になりましたから、始めましょうか。息子の演奏を聴いてくれてありがとう」
お兄ちゃんがとても礼儀正しくお辞儀をして、皆が拍手をした。その時に教室に入った人も何人かいた。
「新しい門下生です。みかちゃん、さやかちゃんです。二人とも高校一年生。いろいろ教えてあげてね。さやかちゃんから始めてもいいかしら?次にみかちゃん、その次に高校二年生ね」
ひゃー来た!でも、皆にとっては、みかちゃんも新しい門下生なんだ。ちょっと安心しちゃったりして。私は、バッハのシンフォニアを2曲と、ツェルニー40番の1番から10番までを弾いた。暗譜ではなかったからちょっと気が楽だったけど、通すのは大変だった。力が入ったから手も痛くなったし、集中力も……。おうちでも通して練習したのに、全然ちがう。やっぱり、人前で弾くってすごく意味があることなんだ。
全てうまくいくなんて思っていなかったけど、足りないことだらけの自分にがっかりした。もちろん、まだまだこれからだって、わかってる。
皆の演奏も聴こう。
私は前を向いた。




