9月
9月中旬。
ようやく夏休み気分が抜けてきたところだが、まだ厳しい残暑続きだ。
昼休み。私はたまに、クラス全体の心の声を聞くことにしている。
広範囲に意識を集中すると、一人の時より精神的に疲れてしまうことがわかったので、ほんの数十秒だけである。
理亜が新田さんに注意してくれたあの一件以来、直接的な言動はもちろん、心の声も悪意に満ちたものは聞くことはなかった。
こうしてクラス全体の声を聞くのは、せいぜい週一回の数十秒の間だけなので、たまたまと言えばそれまでなのかもしれない。
でもこうして「普通」に過ごせる学園生活は、私にとってはとても大切なものだ。
(ふぅ、今日も問題はないかな・・・)
残りの休み時間を読書して過ごす。
キリのいいところまで読んで時計を確認すると、あと数分でベルが鳴る時間だった。
本をカバンにしまうと、白河さんがこちらに来た。
「芳野さん。こないだ勧めてもらったこの本、すごく面白かったよ。中盤からの急展開が意外すぎたよー」
「やっぱり驚くよね?人によって好みが分かれるかなって思ったけど、気に入ってもらえて良かったあ」
私がお勧めした本をちょうど読み終わったらしい。
白河さんも本を結構読むので、お互い好きな本をたまに勧め合っているのだ。
同じ趣味の友達がいると、やっぱり嬉しいものだ。
「この作者の春の雪っていう本もお勧めだよ」
「へえ、じゃあ今度はそれ借りてみようかな?」
そんな会話をしていた時だった。
『なんで私ばっかりこんな目に・・・もう、死んでやる!』
(っ!?)
意識せず、ふいに聞こえてきた心の声とその内容に、一瞬胸が締め付けられるような感覚に陥る。
どうしよう?どうすればいい?
いや、考えてる暇などない。
「芳野さん?どうかしたの?」
私の変化に気付いたのか、白河さんが少し心配そうに聞いてくる。
と、そこで昼休み終了のベルが鳴った。
「ごめん、私ちょっとお手洗い行ってくる!」
「あ、芳野さん!ベル鳴ったから急ぐのよ」
飛び出すように席を立ち、教室を出る。
廊下には急いで教室に戻る生徒たちが数人。そこに理亜の姿を一瞬確認した。
向こうもこちらに気付いたようだが、事情をうまく説明することが難しいうえに時間もない。
私は全速力で、確率の高そうな屋上に向かう。
ここの屋上はグラウンド側には高いフェンスが張られているが、反対側の一部は腰ほどの高さのフェンスしかなかったはず。
走りながら屋上方面の心の声を聞こうと試みるが、息が乱れてとても意識を集中できる状態ではない。
ベルも鳴ってしまったので、先生に見つからないよう歩きながら息を整え、もう一度試してみる。
『お父さん、お母さん、夕陽、ごめんなさい・・・』
か細い声だが確かに聞こえた。
屋上で間違いなさそうだが、もう一刻の猶予もない。
私は周りの様子を窺い、もう一度屋上に向けて走り出した。
息を切らしながら屋上に辿り着き、人の姿を探す。
・・・いた!予想通りグラウンドと反対側の低いフェンスに、女の子が手をかけて佇んでいる。
ここから彼女のいるところまで15メートルほど。内側にいるので走れば間に合うはず・・・!
一刻を争う事態だが、大声や物音を出したりすると余計刺激してしまうかもしれないので、できるだけ足音を立てないよう駆け寄る。
残り5メートルくらいのところで、足音に気付いた彼女はこちらを振り向く。
「だめっ!」
私は抱きかかえるように彼女をフェンスから引き離した。
「なっ、だ、誰ですか!?」
狼狽する彼女の目には、泣き腫らしたあとがあった。
「そんな簡単に死ぬなんて道、選んじゃだめだよ!」
「なんでそのことを・・・ううん、そんなのあなたには関係ない!私がどれだけ辛い思いしてるかなんて知らないくせにっ!」
泣きじゃくる子供のように話す彼女。
私は慎重に言葉を選んで喋る。
「私も数年間、とっても辛い思いをしてきた。だから・・・生きてればいつか良いことがあるなんて気休めは言わない。でも、死んじゃったらその可能性も自ら捨てることになるんだよ?」
「うっうっ・・・もう、私は死んで楽になりたいの・・・」
真っ赤になった瞳から涙が溢れ出る。
「死んだらあなたは楽になれるかもしれない。でも、残された家族はずっと苦しい思いをするんだよ?」
ビクッと彼女の身体が震えた。
私は言葉を続ける。
「なんで助けられなかったんだろう、どうして気付いてやれなかったんだろうって。だから、自分のためにも、家族のためにも・・・ね」
伝わってほしい、思いとどまってほしい。
そんな想いを精一杯込めた。
「うぅ・・・ごめんなさい。私、一生後悔するところだった・・・」
私はポケットからハンカチを取り出し、彼女に手渡す。
「これ、使って。あなたがどれだけ辛い思いをしたのかわからないけれど、辛い時、苦しい時は逃げたっていいんだよ。学校に通うことが人生の全てじゃないんだから」
「あ、ありがとう・・・ございます」
嗚咽を堪えながら喋る彼女をそっと抱き寄せる。
その瞬間。あの雨の日、理亜に優しく抱きしめられた記憶が強く蘇った。
そうか、この子は昔の私のようだ。
私は、私自身を救えたのかな・・・?
「えっと、沢井さんは1年の何組?私が先生に伝えておいてあげるから、今日はもう帰って休んでて。ちゃんと両親と先生に相談するんだよ?」
名札とリボンの色で名前と学年は分かった。
念のため、心の声を聞いておく。
『私、本当にバカなことするところだった・・・』
うん、もう大丈夫だろう。
少し落ち着いた様子の彼女は、無言で頷いて返事をする。
彼女は私から離れて数メートルのところで、こちらを振り返った。
「あの、本当にありがとうございました」
深々と頭を下げてお礼をしたあと、再び彼女は背を向けて校舎内に戻っていった。
ふぅ、と一息つくと横から声が聞こえた。
「麻里ー!」
「え・・・理亜?」
こちらに駆け寄ってきたかと思うと、そのまま抱きつかれる。
「ちょっ、理亜!?どうしたの?」
予想外の行動に慌てふためく。
「なんか色々こみ上げてきちゃって、こうしたい気分なの」
「ええ?ていうか、いつからいたの?」
「えと・・・ごめん。盗み聞きするつもりはなかったんだけど、あの一年の子が大きな声出したあたりから・・・」
ということは、私の過去に辛いことがあったというのは聞かれてしまっただろう。
その事について言及されなければいいが・・・。
「そっか・・・。でもなんでここにいるってわかったの?」
「ベルが鳴ったのにすごい勢いで教室を出て行ったから、気分でも悪いのかなって思ってあとをついていったの」
普段の私からかけ離れた行動なので、変に思ったんだろう。
続けて理亜が聞いてきた。
「私のほうこそ聞きたいよ。なんでこの事態がわかったの?」
しまった。当然、聞かれるであろう質問の答えを用意する暇がなかった。
間をあけると不審に思われる可能性があるので、頭をフル回転させる。
(なんて言えば自然だろう?学年の違う知らない子が屋上にいて・・・)
「声が・・・聞こえたと思うの。それで窓から外を見たら、廊下に様子が変な子がいたから気になって・・・」
前半、思わずそのまま話してしまう。
昼休み、校舎内の雑音の中で、数十メートル離れた上階の声が聞こえるというのは正直無理がある。
「そうなんだ・・・」
何も聞かず私の手を取って、優しく握りしめる理亜。
「私ね、麻里みたいな友達がいて凄く誇らしいっていうか、自慢したい!私だったらあんな上手に説得できる自信ないもん・・・」
最後のほうは、しゅんとしながら小さく言う。
私はストレートに褒めてもらって、少し照れ臭くなった。
「私だって自信があったわけじゃないよ。ただ、なんとしなきゃって思いでいっぱいで・・・。でも、本当に助けられて良かった」
自分で口に出して、一つの命が救えたという事実をはっきり実感する。
そして騒動が落ち着き、ハッと現実に戻ったように気付く。
「あっ!そういえば授業中だった!早く戻らないと」
「そうだった!麻里は教室出るとき、誰かに声かけた?」
喋りながら小走りで二人とも校舎内に戻る。
「白河さんにはお手洗いに行くって・・・。なんて言い訳しよう・・・」
「麻里が気分悪くなって、私が介抱してたってことでいいんじゃない?」
「それいいかも。さすが理亜」
悪いことをしているはずなのにいいことをした後なので、なんだか清々しい気分。
「なんだかその言い方だと、私が悪知恵働く子みたいじゃない。も~」
「あはは、ごめんごめん。理亜は私にとっても、自慢の友達だよ」
廊下の窓から差し込む日差しが、今の私の心みたいにキラキラと輝いていた。