不安の黒波
眠りの世界に半身が取り残されつつ、おばあちゃんの声で飛び起きた。
「アヤちゃん起きなさい。柿谷くん待ってるよ」
時刻は既に朝の8時過ぎ。あ、寝坊した。遅刻確定じゃん。
ってちょっと待って。今おばあちゃん、なんて言った? 柿谷くんがどうとか……。あの人、通学路にここは通らないはず。というかこんな遅刻ギリギリの時間にどうして家を訪ねたんだろう。私、今日一緒に行こうなんて約束はしていないはず。なんなのストーカーなのあの人。
「アヤちゃん! そんな怖い顔でぶつぶつ呟いてないで、早く準備なさい」
さすがにおばあちゃんにも怒られてしまった。こうなったら仕方がない。年に数回起こる遅刻ギリギリ事件をくぐり抜けてきた私の特技、火事場の馬鹿力な速度の朝の準備を披露するしかない。
「おっそいよ福添」
息を切らしながら家を出て、本当に柿谷くんが家の前で待っていたことにようやく気づく。準備中は必死で、外に目を向ける余裕なんてなかった。
「ねえ、約束なんてしてなかったよね!? なんでいるの!?」
勢いはそのまま、柿谷くんに迫り寄った。柿谷くんは焦りながら後ずさる。
「話は歩きながら……! このまま立ち話だと、大遅刻するから」
それもそうだ。大遅刻なんてしたら、さっきの努力が無駄になる。暗黙の了解で早歩きを始め、柿谷くんが口を開くのを待った。
「福添の言う通り、約束なんてしていない。俺が勝手に待っていただけなんだ。そのことで慌てさせてしまったことは申し訳ないと思っている」
「本当に。一歩間違えたらストーカーだよ? このご時世、そういうことしていたら通報されてもおかしくないんだから」
私を慌てさせた腹いせに、ちょっと大袈裟に返した。いつもの柿谷くんなら、「学生が突っ立ってるくらいで通報なんてしないだろ」って苦笑いしながら返してくれるはずだった。
けれど、今日は何か違った。彼は妙に思い詰めたような表情で黙りこんでいる。忙しない二つの足音だけが聞こえる。
「柿谷くん……どうして待っていたの? 家、こっちの方じゃないよね。学校でも会えるはずなのに、わざわざ家まで会いに来るなんて、どうしたの?」
何か重要なことを伝えに来たのかもしれない。そう思った瞬間、おふざけのスイッチはオフになった。怖いくらい真面目なトーンで問いかけると、やっと柿谷くんが口を開いた。
「あんまり、みんなに聞かれたくはなかったから……もしかしたら面倒事に巻き込んでしまうかもしれないから……それを避けようとしたら、登校中くらいしか機会がなくて」
やっぱり、何か大事なことを伝えに来たんだ。それなのに、こんな遅刻ギリギリで忙しくさせちゃって、ちょっと悪かったな。
いやいや、私が悪く思う必要はないか。そういうことなら、柿谷くんの方から事前に連絡くれればよかったんだから。
そのことを伝えると、曖昧に誤魔化された。さては思いつきで行動したんだなと察した。その程度の大事なことなら、ここまでバカ真面目にならなくてもいいかもしれない。
「それで、用件は?」
ちょっとだけ友達らしいノリが戻ってきて、軽く投げかけた問いが返ってくるのにそこまで時間はかからなかった。
「今日、放課後空いてるかなって。こんな状況だし、話が話で長くなっちゃうから」
「私はいいんだけど……柿谷くん、部活あるでしょ?」
不思議に思って聞いてみると、彼は黙って歩く速度を落とした。そして教科書やノートが溢れんばかりに詰め込まれた鞄から、一通の封筒を取り出す。
差し出されたその封筒を受け取ってよく見てみると、表にしっかりと柿谷くんの字で、それが何なのか書かれていた。
『退部届』……癖のある字が、意志の込められた字が、そこにあった。万年筆で書かれている。もしかして、昨日家で買ったのって、このためだったのかな。
「それ、出しに行くだけだから。すぐに終わるよ」
何も言えない私のもとに、何も気にしていないような柿谷くんの声が届いた。
「部活……辞めるの……?」
やっとの思いで声を出した。信じられなかった。
どうしてよ。どうして急にそんなことになるの? そんな素振りなんて見せなかったじゃん。私、ずっと柿谷くんは部活熱心で、部活が楽しくて楽しくてしょうがないって感じていると思っていたのに。
「うん。辞めるよ」
すぐに返ってきた声。私の中で何かが崩れていった音がした。今まで見てきたことが全部、私の妄想だったんじゃないかって。私は本当の柿谷くんを全然見れていなかったんじゃないかって。柿谷くんだけじゃない。みんなの本当の思いに気づけていなかったんじゃないかって、苦しくなるほどの不安が襲い来る。
「理由とか、詳しいことは放課後に話すから。今はとりあえず、遅刻しないように急がないとさ」
柿谷くんは私の先を走っていってしまう。勝手な人だよ、まったく。さっきまでは柿谷くんが思い詰めていたはずなのに、今は私の方が深刻に思い詰めている。
「福添! お前も急げよ。遅刻覚悟でも、急いでるフリくらいしないと先生に怒鳴られるぞ」
走りながら、柿谷くんは私に声を飛ばす。反射的に返事をして駆け出したけれど、頭の中はまだ不安の黒い波で溢れていた。