空気
「あら、ヨーコちゃんじゃない! お久しぶりねぇ」
おばあちゃんは本やらお菓子やら物が煩雑しているレジから私たちのいる入り口に向かって声を出した。物が多すぎてお互いしっかりと見えないはずだが、それでもおばあちゃんはヨーコちゃんに気づいた。ニコニコ愛嬌のある笑顔を浮かべてこちらに手を振る。
「お久しぶりです。タエおばあちゃん」
ヨーコちゃんは礼儀正しくおばあちゃんに挨拶してレジの方へ足を進めた。途中、店内の様子を観察する素振りを見せた。そういえば、先月店内の模様替えをしたときから一回もヨーコちゃんはここを訪れていないんだった。店の変わりように驚いているのかもしれない。
「だいぶ変わったね。なんか新鮮だけど……落ち着きは変わらないなぁ」
ヨーコちゃんがほっと一息ついているのを見て、今日誘ってよかったと思った。ここは学生たちの憩いの場……なんてのは言い過ぎかもしれないけれど、平日の夕方にここを訪ねる学生の数は多い。みんなこの店と、何よりも優しいタエおばあちゃんが大好きなんだ。
文房具が並ぶ商品棚の反対側にはお客さんが誰でも自由に使える広々とした座敷がある。建築当初、ここはおばあちゃんの部屋にする予定だったけれど、もっとお客さんにゆっくりしてほしいというおばあちゃんの意向でここを解放したらしい。ここを訪ねる人、主に学生は、この座敷でおしゃべりを楽しんだり、課題を終わらせたり、ひいては仮眠をとったりしている。
私とヨーコちゃんは、おばあちゃんにちゃんと顔を見せたあと、この座敷に上がった。今日はまだ誰も来ていない。貸し切りだ。
「今のうちに、私も数学の予習進めておこっかな」
ヨーコちゃんは座布団の上に座るなり、そそくさと鞄から参考書を取り出した。ほんと、勉強熱心な子だなぁ。
「ヨーコちゃん、すごく予習してるよね。もう問題集最後までやってそうだもん」
ヨーコちゃんが開いたのは後ろから20ページ目。私とは比べ物にならないほどペースが早い。もうこれからやることがなくなっちゃうんじゃないかと逆に心配になる。
「ほら、アヤちゃんも喋ってばっかじゃなくて一緒に勉強しよ? そんな調子じゃ、また先生に怒られちゃうよ?」
ヨーコちゃんは微笑みながらも私の心にグサッとくる言葉をかける。正論だからこそ、くる。私は以前、数学の宿題をやらずに堂々と開き直って授業に挑み、みんなの前で数学の先生にこっぴどく怒られたことがあるのだ。確かにあんな思いは二度としたくない。
「うぐっ……はーい」
私はしぶしぶ自分の鞄を開けた。アヤちゃんに言われたらもうやるしかない。アヤちゃんが怖いってわけではないけれど、なんか、アヤちゃんの言葉には人を素直に動かす力があるみたいなんだよね。
私は明日が期限の課題に取り組んでいたが、これがなかなか進まない。わかったと思っても途中で行き詰まる。
「あーその問題ね」
ふと顔を上げると、ヨーコちゃんが私の課題を見下ろしていた。もうヨーコちゃんの予習は終わったようで、参考書が綺麗に机の隅に片付けられていた。
「うーん……難しい。問1の答えは合ってると思うんだけど」
「確かに私も苦戦したよ。どれどれ……」
ヨーコちゃんが私のすぐ隣に寄り、私の書いた数式をチェックする。ヨーコちゃんの眉がぴくっと動いた。
「たぶんここ、計算間違っているような……」
「ありゃ?」
ヨーコちゃんの指差したところを見る。あ、本当だ。45×3を145って書いている。もう何やっているんだろ私。
急いで消しゴムを使い、135に書き換える。そしてそこからの計算もやり直す。それでも、前には進めない。ここからの解き方はまだ暗闇の中だ。
「お邪魔しまーす」
そのとき玄関から声がした。
「あ、柿谷くん! いいところに!」
柿谷くんは私たちの方に手を挙げて応えてから、商品棚から何かを手にとって、おばあちゃんのいるレジの方へ向かう。確かその辺りに置いていたのは万年筆だったはず。
「お久しぶりです、タエさん。これ、お願いします」
「いつもありがとうねぇ、柿谷くん」
おばあちゃんはレジを叩き、てきぱきと会計を済ます。慣れた手つきで商品を梱包する。
「こちらこそ、いつもありがとうございます」
柿谷くんはおばあちゃんから商品を受け取ったあと、私たちの方を向いた。意味ありげな笑顔。柿谷くんはその表情のままこちらに向かってきた。座敷に上がるなり、私の課題に目をつけてきて。
「どこまで進んだことやら」
半笑いのその態度に少し苛立ちながら、素直に進捗状況を報告する。それを聞くなり柿谷くんは、「まだそこか」なんて呟いた。
「というか柿谷くん来るの五時くらいって言ってたよね。早くない?」
私は座敷の奥に掛かっている時計を見る。五時までまだ一時間近くも時間がある。部活がこんなに早く終わるとは思えないけれどな。
「まあいろいろと」
柿谷くんは曖昧に濁してすぐに私の隣に座り、私の課題をまじまじと見た。
「やっぱり。みんなそこで一度止まるんだよなぁ。でもちょっと考え方を変えるだけですぐわかるようになる」
「それができたらこんなに苦労しないよ」
ずっと問2の途中で止まっている。同じような問題を解いたときと同じように解けばいいのかと思っていたら、どうやらそうではないらしい。
「だってこれ、いつも使う式を作って数字が出ると思ったら文字も入っちゃって、なんかよくわからないんだよ」
「この場合はそのやり方だとまず無理だよ。面倒かもしれないけれど、二つの式を作る方法でやらないと」
ああ、そういえば二つ方法があったんだっけ。
「でもなんでこのやり方でできないの?」
「簡単に言うと、もともと福添がやろうとしていた方法は学者たちが生み出した裏技みたいなもので、解が定数じゃないと使えないんだよ。この文字は変数だから、裏技が使えないってこと」
柿谷くんはヨーコちゃんともっと詳しいことを話し合っているようで、私もそこに参加したかったけれど、いかんせんなかなか難しかった。
その間に私は方法を変えて問2に挑んでみる。この方法は柿谷くんの言うように面倒だけれど進まないことはない。忍耐力があれば解ける。長くても知っている道を通るって感じだ。
「えっと、ここをまた文字でおいて……」
「うん。順調そうだな」
休むことなく手を動かす。もう少しで解ける。面倒だったけれど、ここまでくると楽しく思えてくる。
「アヤちゃん、こうなるとすごいんだよね。集中してて、楽しそうで」
「これが続けばかなり成績よくなると思うけどな」
「柿谷くん余計なこと言わないでよ!」
手を止めずに柿谷くんを睨みつける私と柿谷くんのやり取りをヨーコちゃんは微笑ましそうに眺めていた。
「ほらアヤちゃん、字が曲がってるよ?」
ヨーコちゃんに言われて、視線をノートに戻す。そしてすぐに書き直す。今度はちゃんとまっすぐに。
「あ、もう解けてた」
気づけばもう終点だ。なんだ、本当に方法を変えただけでよかったんだ。
「おめでとうアヤちゃん!」
「これでもう怒られずに済むな。感謝しろよ?」
素直に褒めてくれるヨーコちゃんと違って、柿谷くんはやっぱり上から目線。この上から目線がなければそこそこモテると思うのに、残念な奴だ。
「はいはい、ありがとうございますありがとうございますー」
「心込もってなさすぎだなそれ。一周回って感心するわ」
またこのやり取りでヨーコちゃんが微笑む。これがいつもの光景みたいになっている節がある。
そのあと私は素直に手伝ってくれたヨーコちゃんと柿谷くんに感謝して、時計を見た。なんだかんだ言ってたらもう二人が帰らないといけない時間になっていた。
「じゃあ私たち、そろそろお暇するね」
「またお前が数学わからなくなったら来てやるからさ」
二人は自分の荷物をさっさと片付け、おばあちゃんにも挨拶してから表に出た。私もお見送りとして店の前まではついていく。
「また明日ね」
「うん、また明日!」
「じゃあな」
私は手を振って二人を見送る。二人ともいい笑顔で私に手を振り返してくれたが、二人が私に背を向けたとき、どうしてか二人の間の空気が変わった気がする。気になって店先にずっと突っ立って二人を見てみようと思ったが、おばあちゃんに呼ばれたためそれは叶わなかった。
あの二人の間の空気、決して平和なものではなかった。例えるなら、今日学校で私とあの人がすれ違ったときの空気のような……。もしかしてあの二人も? いやいやそんなことはないと思うけどな。考えすぎ、なのかな。私がこんな気分だから、そう感じちゃうだけなのかな。
今日もまた、曇天になりそうだ。