学校にて
「……アヤちゃん……アヤちゃん!!」
その声ではっと我に返る。
「あ、やっと気づいた。次、移動教室だよ、アヤちゃん」
さっきから私のことをアヤちゃんアヤちゃんと連呼しているこの子は私の親友のヨーコちゃん。ちなみにアヤもヨーコもあだ名であるが、小学生の時からお互い染みついた呼び方だから高校生になった今でもそう呼んでしまっている。一部の知人もこの呼び方をするから、私たちにとっては本名以上に馴染みがある呼び方だ。
「あ~そっか。次って英表だっけ?」
「違うよ、化学だよ。今日は実験やるから第一実験室に移動って朝言われたじゃない」
「あっ、そうだった」とようやく理解する私に、ヨーコちゃんは不思議そうな眼差しを向けた。
「珍しいね、アヤちゃんがこんなにぼーっとするなんて。昨日寝てないとか?」
私は机の中から化学の教科書とプリントが入っているファイルを引っ張り出しながら、唸り声に似た声を出した。
「そうじゃないんだけど……確かに睡眠の質は悪かったね」
昨日の夜はずっと、自分の恋愛下手っぷりを恨んでいたばかりだったからなあ。起きてからもさぞかし機嫌が悪かったようで、朝食を用意してくれたおばあちゃんに「体調でも悪いのかい?」と心配される始末。
「アヤちゃん……」
ヨーコちゃんは何か言おうとしたけれど、仕方なさそうに閉口した。この子はそういう子なのだ。自分の心の中では気になっていることがあっても、相手の気持ちを考えすぎるために、声に出して問うことができない。私も同じだ。だから私たちは親友になったのだろう。
「あ、ヨーコちゃん、先行ってていいよ。私、トイレ行ってから行くから」
「じゃあアヤちゃんの荷物、一緒に持っていくね。もうすぐチャイム鳴るから、急いでね」
「わかってる。ありがとう」
ヨーコちゃんが私の荷物をヨーコちゃんの荷物の上に重ねて持つのを横目に見ながら私は教室を出た。ヨーコちゃんの言う通り、授業開始まであまり時間がない。小走りで廊下を進む。
「あっ」
その足がぴたっと止まった。とある人影が向こう側からやって来る……。
「…………!」
向こうも私の存在に気付いたらしく、気まずそうに視線を逸らす。こんな心地悪い空気を今までに感じたことがあっただろうか。
私はきゅっと顔を強張らせ、大幅に視線を逸らし、何事も無かったかのようにすたすたと歩きだした。まっすぐに女子トイレへと向かう。
どうしてよりによって今日、あの人と出くわしちゃったのかなあ。昨日破局したばかりだというのに。よく掃除されずに水垢が目立つ鏡に映る自分がひどく動揺している。手を洗いながら必死に笑顔を作ってみるが、どうも不自然だ。
今までもああいうことはあった。いつの頃からかは覚えていないけれど、二人の関係が冷めてきたとき。二年生になって隣のクラスになったあの人と目を合わさないようになった。お互いに顔が険しくなり、口元をきゅっと結んで無言で距離を置く。多分、私とあの人の関係を知っていた人なら、その様子を見ただけで私たちの間に何があったのかすぐに察したことだろう。
と、こんなことを考えている暇はない。私の体内時計が正しければ、チャイムが鳴るまであと一分を切ったところだろう。廊下を全力ダッシュしないとチャイムが鳴り終わるまでに第一実験室までたどり着けない。
廊下への扉をガラッと開け、全力ダッシュの体勢をとる。まだ間に合う。どうかまたあの人と出くわしませんように……!
「アヤちゃん、ギリギリセーフだったね」
教室へ戻る道を並んで進みながら、ヨーコちゃんが私を労わってくれる。
「ホント、もうダメかと思った……」
何とかチャイムが鳴り終わる前に第一実験室までたどり着いた私だが、体力の消耗が著しくて実験どころじゃなかった。あとでヨーコちゃんに考察に何を書けばいいのか聞かないと。提出は次の授業の時でいいって言われたけれど、すぐやらないと忘れてしまう。
「チャイムと同時に扉開いたからな、福添。すんげえ顔してたぜ」
「ちょっと柿谷くん、からかわないでよ」
後ろからいきなり声をかけてきたのは同じクラスの柿谷くん。私たちとはまあまあ仲がいい、良き男友達だ。ちなみに今柿谷くんが呼んだ「福添」というのは私のことだが、これも本当の名字ではない。私の母親の旧姓である。なぜこの呼び方がみんなに浸透しているのかは、じきにわかることになるので割愛する。
「ところで福添、今日お前んとこ開いてるっけ?」
「うん、いつも通りだよ」
「じゃあ部活帰りに寄るわ」と言って、柿谷くんは私たちを追い越し、教室に吸い込まれていった。
「私も久しぶりに行こうかな。最近、タエおばあちゃんに挨拶できてなかったし」
隣でヨーコちゃんがうれしそうに笑う。それを見て、私の沈んだ心も少し軽くなる。
「来て来て! おばあちゃんもヨーコちゃんの顔見たら喜ぶだろうし……何より私が喜ぶ!」
「もう、アヤちゃんってば」と照れ臭そうなヨーコちゃんの声が私の鼓膜を心地よくくすぐった。