no,3
「ごめんなさいね。葵」
「かーさん。なんで泣いてるの?」
「お母さんね。もう疲れちゃったの」
「そっか。なら一緒にねよ」
「そうね。一緒に寝てくれる……葵?」
「うん」
「ありがとうね。大好きよ葵。本当にごめんなさい。こんなダメなお母さんで」
彼が覚えている会話はそこまでだ。
それ以外で記憶にあるのは……自分の背中に押し付けられた鋭くて熱い激痛のみだ。
振り抜いた拳はソファーに突き刺さっただけだった。
「気に入っていたのだがね」
「なら一緒に捨ててやるよ」
「そう怒るな人間。少しは神を敬え」
金縛りにあったように指一つ動かせなくなり、葵は自分の隣に立つ少女を睨み続けるしか出来なかった。
「暴行を受けた女性が産んだ子供。厳格な家柄だったせいで実の家族からの支援を得られず、孤立したその女性は幼い子供を抱えて必死に頑張った。馬鹿な男たちに騙されながらもただ必死に……でも耐えられずに自分の子供を包丁で刺し、そして自身も自死した。親子そろって終わり方は同じだな」
舌も喉も動かず葵は相手を睨むことしか出来ない。
「幸運なことに子供は助かった。普通の人とは違い、心臓の位置が右寄り……人体の中心にあったからだ。突き刺さった包丁は心臓に傷一つ与えることは無かった。だがそのせいで背中に傷跡が残っている。消したいのなら心の中で『消えろ』と念じると良い。今なら消してやろう」
人の悪い笑みを浮かべて神は言う。
彼がそれを消すことなど無いと分かっているからだ。
唯一の母親が体に刻んだ"形見"を彼が消すことなどあり得ない。
「それから実家と喧嘩別れしていた母親の姉に引き取られた訳だ。こっちは貧しくても幸せな家庭だったろうに? 子供を成せなかった叔母夫婦は君を実の子のように愛していた。叔母が妊娠し出産するまではね」
その通りだ。
あの日から愛を失った。居場所を無くした。
自分が"他人の子"なのだと強く知らされた。
高校を卒業したら家を出て働いて一人で生きて行くつもりだった。
だから頑張って勉強して、特待生であの学校に入ったと言うのに。
「人助けで全てを失ったか。でも君は頭が良い割には愚か者だよ。子供が生まれればそれを愛おしむのは当然だろう? 飼い犬ですら赤子を前にすれば大切にするのだからね。でも君は違った。愛に飢えていたからこそ……全てを失ったと、全てを奪われたと思い込んだ。事実叔母夫婦の愛情は君にも向けられていたのにだ。変わったのは愛情の割合だろうな。でもそれは仕方の無いことだ。どんな家族でも"お兄ちゃん"は我慢するものだと相場で決まっている」
葵が拳を突き刺したままのソファーを消し、彼女はまた新しくソファーを出した。
それに座り優雅に足を組んでジッと話し相手を見つめる。
「我慢すべき存在の君は我慢出来なかった。それから連鎖的に不幸が重なった。転がり落ちる様に……どん底まで落ちた君は全てに絶望して、そして人とこの神を呪った。実に悲劇的だな。でも底が浅すぎて笑い話でしかないよ。君は本当に何様かね? たかが十数年生きただけの子供が全ての問題を抱えて生きられるほど世界は甘くない」
「ならどうしろと?」
声が出せた。いや相手がそう出来るように仕向けたことぐらい分かった。
うっすらと笑っているのだから。
「甘えれば良かったのだよ。叔母夫婦にね。愛を欲している割には……相手に対して壁を作っていたのは間違いなく君の方だ。最初の問題で素直に相談でもしていれば君の人生は変わっていただろうにな」
「そうかもな。そうすれば俺はここに居なかった」
「それはそれで少々悩ましいか」
困った様子など微塵も見せず、神はやれやれと肩を竦めるだけだった。
「転生が嫌だと言うなら転移でも良い。どちらが良い?」
「転移で」
「迷わんな。他に……そうだな。何かサービスをやろう」
「サービス?」
「ああ。武器でも何でも言えば良い」
「武器は要らんな。戦いたくもない。防具も却下だ」
「ちなみに職業は固定だ。変更などさせん」
「何をさせる気だ?」
「会話続きで忘れたか? 君の本来の仕事だよ。"神官"となって世界に広く神の存在を広めるのだ」
やれやれと彼も肩をすくめる。
「寝言は布団の中で小便でも垂れながら言え」
「決定事項だ。変更は無い」
「へいへい。なら……ステータスとかは存在してるのか?」
「ある」
「ならそれをMaxで。数字は俺にいじらせろ」
「それで良いのか?」
「それで良い」
「分かった」
パチンと指を鳴らしただけだが……それだけで注文の仕事は終えた。
「あとは?」
「特には無いな」
「ならさっさと送れ」
「ふむ。神と語らえる貴重な時間だと言うのにか?」
「忘れたのか。俺が誰を恨み呪っているかを」
クックックッと神は笑う。
「だからたっぷり話しているのだろう?」
「性悪を通り越して最悪だな。こんな神の存在を広めろって? 邪教か何かが生まれそうだな」
「それは広める者の人格と人望にも寄るだろう。期待しているよ葵」
「決めた。絶対に何もしない。ひっそりこっそり生きて静かに死んでやる」
「それが出来るならすれば良い。出来るなら」
「してやるさ」
「期待しているよ。それと特別な"スキル"を授けよう。対価を支払えば使用できる物だ。使ってくれるなよ葵」
「与えておいて使うなとは無茶苦茶だな」
「使われると面倒臭いだけだ」
「……次会う時は絶対に泣かす」
「奇遇だな。同じことを考えていた」
睨み合い両者は間を空けた。
このまま殴り合いの喧嘩をしたい気分だ。
「さっさと送れよ。このドチビ」
「分かった。なら最後にこれだけは言おう」
パチンと彼女が指を鳴らすと、床に不思議な水面が現れた。
ゆらゆらと揺れるそれが転移に使う何からしい。
不思議そうにそれを見つめる葵の背後に回り……神は告げた。
「異世界で学ぶと良い。本当の……を。で、忘れるな。今度会ったらお前の命日だ~!」
全力の蹴りと一緒に。
(C) 甲斐八雲




