砂漠、嘔吐する少女、優しいキス、そして誰かのむかえる朝
目を覚ましたきみは砂漠の真ん中に佇んでいる。もちろんきみがそこを砂漠の中心だと理解できるはずもなく、また理解できたところでそれがきみになにかしらの利益をもたらすかと云ったらそうではない。ただ事実としてきみは砂漠の中央で目を覚ましたのだし、つまりこれは事実の確認だ。
まず周囲を見渡すきみはそこが砂漠であるのだと理解する。公園の砂場だとはなぜだか思わない。別にそこがとても巨大な公園の砂場の一部であったって構わないはずなのに、きみはそこが砂漠であるのだと運命的に気づいている。もしも錆びれたシーソーとくたびれた滑り台でもあれば話は違ったのかもしれない。けれど事実としてそこに錆びれたシーソーやくたびれた滑り台の姿はなく、あるのは膨大で目がくらむような砂粒のあつまりただそれだけだった。
歩かねばときみは思う。どうして自分がここにいるのか、きみは未だ理解できない。けれど理解をせずとも時間は流れるし、そして時間は流れれば流れるだけ取り返しのつかないものとなる。だからきみは虚空を仰ぎ、太陽の沈む方角へと進んでゆくことにする。少なくともこの脚が動くうちはできるだけ遠くへゆかねばならないのだときみは思う。そしてそれはけっして間違いではなかった。正解ではないにせよ、その一面に確実なかすり傷をつけることはじゅうぶんに可能だった。
歩くにつれ、きみの思考は段々と覚醒する。現実的な空気が躰じゅうを嵐のように巡ってゆき、それからきみは少しだけながい息を吐く。吐き終えてしまうと、きみは自分の躰がより現実的な核をまとっていることを実感できた。あるいは手足が確かな重量を持ち、その煩わしさをより正確に実感することができるような気がした。
一時間のときが流れた。一時間。そのあいだきみは一時間ぶんの距離を歩いて、一時間ぶんの風が吹いて、そして一時間ぶんの太陽が傾いた。もちろんそんなことをきみが知るすべはないし、それに知っていたところでそれがきみの身の役に立つといったことはこれといって起こりえない。何度も云うようだけど、これは事実の確認だ。ほら、そうしているあいだにも、きみは一時間と一分の距離を歩いた。
それだけの距離を歩いてしまうと、きみはいよいよ疲労感を覚える。一時間と一分のあいだ、きみはきちんと事実の確認をすべくどうして自分がこのような立場に置かれているのかをひたすらに考えていた。けれど答えはでなかった。どう頭をひねろうとも前後の記憶はまるで電源の切れたテレビ画面のようにみえなかったし、そもそもの自分というひとつの存在性についてだって、きみは疑いの目をむけないことにはいかなかった。
自分の限界が忍び足で近づいているということをきみは無意識的に理解していた。脚はとっくに止まっていたし、気を抜けばいまにでも地面に倒れ込んでしまいそうなほどきみはひどく疲弊していた。いっそのこと目を閉じてしまおうかともきみは思う。そうして再び目を開けたときにはじめの砂漠の中心に自分が立っていようとも、それはここで倒れ込んでしまうよりかはいささかましなようにも思えた。
そんなときだった。背後から忍び寄るひとつの確かな足音に、けれどきみは気づかない。その足音がちょうど板一枚ぶんのところで止まり伸ばされた右手がきみの右肩に触れたとき、ようやっときみは振り向いた。
みると、そこに佇むのはひとりの少女だった。年齢は12か13といったところで、15はいっていないだろうというところだった。そしてきみの思う通り少女は14であり、きみの直観は良いところを突いている。
「ちょっとあんた」とまず少女は云った。
それはひとりの少年とひとりの少女の初めての邂逅としてはいささか不適切であったのだけど、きみはそんなことはこれっぽちも気にならなかった。きみの興味がむいたのはこの少女がどこからきてどこへ向かおうとしているのかというふたつであって、適切なあいさつの手法などではなかった。
助かったのだと、またきみは思った。少女は自分よりも10ほどしたにみえるけれど、なぜだか強い頼りを感じた。ひとりでいるよりもふたりでいるほうが安堵はまして、そしてその片方が少女であるというところに、不思議とさらに強い安心感を抱かずにはいられなかった。
けれど少なくとも少女のほうは違った。撫でるようにむけられた視線を少女ははずして、それから男の肩を叩いてしまった自分を少しだけ責めたりもした。
一時間と三分。
少女の自己嫌悪はそれから三十二秒のあいだ続いて、ある一定のラインまで貶してしまうと、少女は諦めたように顔をあげた。
「どうしてあんたみたいなやつがここにいるのかわたしは知らないし知りたくもないのだけど、よければここから出ていってくれるかしら?」
ここ、ときみは呟いた。ここというのが果たしてどこのことを指すのかきみは試しに考えてみる。もしかしたらこの砂漠にはラインのようなものが引かれていて、なにかしらのいくつかのブロックに分かれているのかもしれなかった。それともここというのはさらに狭く、目の前の少女のパーソナル領域のことを示しているのだろうか。あるいはそもそものここなんてものは端から存在せず、少女も、自分も、この広く敷き詰められた砂漠も、すべては胡蝶のみるひとつの夢なのだろうか。でもそれってどういうことだろう?
少女は少しだけ目の前の男に同情を覚え、けれどそれからそんなことに意味はないのだと深いため息を吐いた。そんなことにはなんの意味もないのだ。
「ねえ、ここはわたしの夢のなかなの。判る? わたしの知らないところでそうやって夢のなかを踏み荒されるのって、正直サイアクよ。吐き気がするし、いまにでも吐いちゃいたいくらいなの。ねえ、もう一度だけしか云わないわ。ここから、いますぐに、出ていってくれるかしら? わたしがこれから早くて数秒後だかに怒ってしまう前に、あなたのほうからここを出ていくの。わたしの云っていること判るわよね?」
それが少女の精一杯の説明だった。それで少女は男がすべてを理解してくれると思っていたし、また心のどこかではそう願ってもいた。けれど残念なことにそれは叶わなかった。きみは未だなんの理解も得られないまま目の前の少女の頭からつま先までをざっと眺めて、それからようやっと口を開いた。
「あの――」ときみは唾を飲んでから続ける。「ここはいったいどこなんだい?」
少女はいよいよ明確な吐き気を覚えた。
一時間と八分。
いっそ立ち去ってしまおうかとさえ少女は思う。けれど再びここで目を覚ましおなじようにこの男の姿を認めたとき、果たして自分は正常な行動を起こせるだろうかと少女は自身に問いかけてみた。そうして飛び交うたくさんの自問と自答の果て、そこにはひとりの男の遺体が転がっていた。壊れた人形のように空いた男の口元から垂れる唾液を想像して、少女の吐き気は喉元を通り過ぎた。
目の前で嘔吐する少女を横目に、きみはいったん情報の整理をしようと考える。情報の整理。それは14の少女の嘔吐を前にするにはいささか不適切であったのだけど、ならば適切とはなんであろうかともきみは思った。果たしてこの世界に適切なものがどこにあろうか?
その考えはひどく正しい。きみの考えは支離の滅裂でまるで深夜帯における自動販売機や信号機やコンビニエンスストアの明かりの飛び交いのようにゆき先を失って久しいけれど、それでもなんの因果か、きみのひとつの考えはこの世界の正しさにきちんと着地しようとしている。
夢、ときみはその言葉を頭の空白にイメージする。少女はここが少女のみた夢の世界だと云う。つまり自分も少女のみる夢の一部であって、それがひどく煩わしいのだと云う。
一時間と十分。
少女の口元からこぼれるピザトーストの欠片をみて、きみはふと考える。もしもこの世界が少女のみる世界なのだとしたら――その考えが脳裏を貫くよりも速く、きみの手は少女の喉元へと伸びていた。
少女が息絶えるのにたいした時間はかからなかった。壊れた人形のように空いた少女の口元から垂れる唾液に視線を落とし、それからきみは虚空を仰ぐ。
そこはなにも変わらず、いつも通りの空と砂漠が広がっている。そこできみはようやっと理解する。ここは自分のみる夢のなかであって、少女もまた、この世界の一部にすぎないのだと。
そしてきみはまた歩き出す。ここが夢のなかなのだと判ってしまえばもうなにも怖いものなどなかった。夢ならばいつか覚めるのだし、いつか覚めるのならばそれまでのあいだこうしてひたすらに歩みを進めたってなにも問題はないだろう。
ただ殺してしまった少女のことだけが気がかりだった。それはひとりの少女を殺してしまったという自己の嫌悪などではなく、夢の一部を壊してしまったという喪失感に似ているのだときみは強く感じていた。
二時間。
ねえ、きみは確かに正しかったよ。あとほんのちょっとでも疑いの目を自分や世界にむけていれば、この砂漠の砂の底に眠る薄い膜でまもられた冷たい核にたどり着くことができたのかもしれない。あとほんのちょっとの、ささいな蓋然の行き着く先の、自然的な振り向きで、ね。
けれどやはりきみはきみであって、少女の嫌悪したきみであって、そしてこの世界のちっぽけなきみでしかなかったんだ。
それはとても残念だけど、またおなじように安心している僕もいるんだよ。僕はまたこの世界を生きてゆくことができた。昨日も、きょうも、そしてきっと、明日の朝も。
二時間と五分。
もうあと五分もしないうちに朝がくる。そうすれば枕元で目覚まし時計が狂ったように音を鳴らし、それで僕は目を覚ます。ぴったりと重なりあったカーテンを開けるとぬるい朝日が落ちてきて、それから小鳥の声や軽自動車の走行音だかが遅れたようにやてくる。
これは事実の確認で、そしてそれだけがこの世界の真実なんだ。
きみはまだ砂漠のどこかを歩いている。疲れや気怠さはまるで底の空いた砂時計のようにこぼれてしまって、ひたすらなバイタリティであふれているのだと君は強く思っている。
二時間と八分。
けれどそうしたきみでさえも、またいつか僕が目を閉じたとき、この砂漠のどこかにあるということはありえない。きみはきみであり、この世界の一部であり、そしてやはり、少女の嫌悪したきみでしかないのだから。
そろそろお別れの時間だろう。けれど僕は、きみにその言葉を云うつもりはない。
いま僕は歩いている。そして息を失ったひとつの少女の前に立ち、ゆっくりとした動作で身をかがめ、その柔らかな頬にそっとキスをする。それが僕のすることができる、この世界に対しての大きな敬意なのだから。
二時間と十分。
そして僕は目を覚ます。
狂ったように鳴る目覚まし時計を止めてからぴったりと重なりあったカーテンを開けるとぬるい朝日が落ちてきて、それから小鳥の声や軽自動車の走行音だかが遅れたようにやってくる。
それを確認してしまうと、僕はひとつ大きなため息を吐く。僕はまたこの世界をむかえることができた。それは安堵のため息であり、そして誰かにむけたお別れであったりもした。
けれどまた僕は考える。夢をみるということがありえるのなら、現実をみるということだってじゅうぶんにありえるんじゃないかって。それがどういった名前をつけられるのかは知らないけれど、そうしたことが世界じゅうでは、もしかしたら当たり前のように連続しているんじゃないかって。
いま僕は振り返る。そこにあるのは一階へと続く廊下へ出る扉だ。けれどその先、いくつもの壁と木々とひとの群れといくつにも重なりあった時と場合とを潜り抜けたその先に、僕は誰かの視線を夢想する。そして心のうちで問いかける。
ねえ、君はいったい、いつどこで目を覚ますんだい?
無論、そこにはなんの声もない。