素晴らしいシェリー
木目が波のようにたっている茶色の壁の周りには多くの家具がある。オーク材の机、脚が丸まった椅子、天蓋付のベッド。フックの形をした照明は部屋を明るく照らしている。僕はペンをインクにつけながら、何も書かれてない日記を前にしている。黒い装丁に白いタイトルのついた日記だった。年季が入っていて日焼けしている。カーテンは閉めきられていて、外から見るとこの部屋は街灯のように見えるのかもしれないと思った。
何時もこの時間に日記をつけるのだが、今日は何も取り立てて書くこともなく、お気に入りの金縁の黒いペンを軽く握って、ただとりとめもない思いにふける。せっかくの夏の長期休暇なのに書くことが何も無いというのは悲しいことである。だが、それには理由がある。僕が常に頭の片隅に思い浮かべている人が原因であった。ああ、シェリー。
彼女を考えると、なんと言うか、はっきりしない不安が常に胸をよぎる。不安というのも正しくない。ここでは、わだかまりとでも言っておこう。
考え出すと、手の震えが止まらない。手慰みに何かを書こうとしても何も思いつかない。彼女は僕を脅かし、考えを蝕んでいる。
わけのわからないものを前にすると、僕はいつも不安になって、いてもたってもいられなくなる。数学で代数をやっていて、先生の解説を聞いてもさっぱり要領をえないとき。大人たちが分かったか、というふうに僕に尋ねてきてもさっぱり理解できなかったとき。僕はいつも、じっとりとした不安に締めつけられる。
だが不安に抑えられっぱなしというわけじゃなく、僕も気分を解消しようとはするのだ。例えば、よく夜になると、窓を開けて外を眺める。すると石橋が月光に照らされ、黒い水面がさざめくのが見えるのだ。窓から顔を出すと夜風が頬に当たって心地よかった。窓で区切られた景色は一つの絵画のようで好きだった。すうっと気分が落ち着いてくる。
そうやって不安を解消しようとはするのだが、眺め終わって気分が楽になると、また不安の鎌がもたげてくる。いてもたってもこの状態で頭がおかしくなりそうだった。空焚きした大釜の底にいる気分だ。底についた足は熱いが、いったん底から足を離してもまた踏んでしまい熱を感じる。あがいても滑り落ちる。そんな感覚を覚えていた。
握ってるペンを振るおうとしても、空を切るばかり。頭をかいて目の前の日記を凝視する。本来ページは白いのだけども、照明のせいで黄色く見える。何も書いてない日記を見ると、僕がまるで何もしてない怠け者のように感じてしまう。自分のなけなしの名誉のためにも、それだけは避けたかった。
そして目の前の日記をじっと睨んでいると、眠気が襲ってきた。照明がまぶしく光る部屋の中で、眠気でぼんやりしてくると意識がここにないような気がしてくる。
机で寝るのは目覚めが悪いので、大人しく床に就くことに決めた。僕はペンを鈍い黄金色のペン立てにしまい、椅子から立ち上がって照明を消すと、たちまち暗くなった。家具の輪郭がうっすら見える。家具の位置は覚えているので、難なくそれらを避けて、ベッドに向かって歩いていった。
ベッドにつくと、すぐに横になった。柔らかいシーツが弾んで気持ちいい。枕に頭を乗せて、窓を見るとカーテンが風でたなびいていたのが分かった。そういえば、窓は開けっ放しにしていたんだっけ。わざわざ窓を閉めるのも面倒だったので、そのままにした。ぼんやりとした月光がカーテンを照らしている。僕はそんなことを思いながら、意識を手放していった。
ああ、シェリー。不思議で奇妙なシェリー。
2
午前の陽を浴びて、目を覚ました。窓を見ると、カーテンが風ではばたいている。その隙間から見える空は明るく雲が細くたなびき、からっとした天気なのが分かる。太陽が木々に滋養を与えている、健やかな日だなと思った。まどろんだ眠気が頭に充満している。机の上にある古びた置時計を見ると、針は七時半を指していた。
そういや父は泊りがけの商談、母は友人宅のピアノサロンに行くということだった。どちらも昨日の夕方に出かけて、これまた泊まるということなので、今日は両親が不在だった。ピアノサロンの新進気鋭の若手演奏者は母が早くから目をつけていたと自慢していたが、僕には縁のないことであった。確かに白鍵と黒鍵が流れるように、しかも複雑なパズルを描くように動く指は魔術を見てるようで楽しかった。でもピアノを聴くと眠くなる。それとやっぱり長い。僕には三十分、いや妥協して一時間が限界だった。だけど実際は何時間も川のせせらぎを聞いているのでやがて僕は寝てしまい、そして演奏が終わったら母に怒られる、というのがしょっちゅうだった。もう少し短かったらいいのに、といつも思う。
今回はピアノを聴きにいく母についてはいかなかった。母も僕が寝るのは分かりきっているので、無理やり連れて行くようなことはしなかった。演奏の最中寝てる息子は終わったあとに、噂の種になるせいもある。
両親の干渉が少なくなるのは、僕にとってありがたいことだ。でもシェリーはそんな干渉がとっくの昔になくなっていたことを思うと、やるせなくなる。
僕の姉であるシェリーはいついかなる時においても、修道女みたいな服装や偏屈ともいえる行動をきっちり守り通していた。自分でざっくらばんに切った男っぽい髪型で、いつもガラス玉みたいに目をころころ動かしていた。どうも透き通った碧の色で見られると、不気味なものがあった。服はいつも黒真珠色の丈の長いワンピースを着ている、本人はこれが楽らしい。同じ理由で靴はいつもやんちゃな男の子が履く真っ赤な運動靴を履いていた。ワンピースと赤い運動靴は不釣合いでシェリーの人間性をよく表していたように思えた。
当然、奇行を仕出かした当初、父や母はシェリーにその振る舞いは品位を落とすだとか文句をつけていたのだが、シェリーは聞く耳を持たず「そう」としか返さなかったため、父は根負けしてなるように任せた。
それにしたって髪型はすさまじいものだった。一時期は髪を自分で料理用のいかめしいハサミを使って切るから見れたもんじゃなかったのだ。そのまま伸びると、カラスが巣を作る途中のようなものになっていた。
父も流石にこの時ばかりは使用人に無理やりにでも散髪させようとしたのだが、シェリーは使用人のジェイムズが銀色の押し車に乗せて持ってきた散髪用のハサミをひったくって、突然髪を切り始めた。意外なことにシェリーは専用のハサミを使って髪を切ると、上手なことが分かった。それでも前髪はばっさり男のように切りそろえられていたのだが、他は見れるだけましだったのかもしれない。あっという間に髪を切り終えると、シェリーはバンと元にあったところにハサミを叩きつけて、すたすたと座っていた椅子に戻ったのだった。
シェリーの黒いごわごわした髪が散らばってる床の上で、僕らは唖然としてシェリーを見ていたことを覚えている。その後、シェリーに散髪用のハサミがプレゼントされることになった。
何にせよ両親はその事件の後、シェリーによそよそしくなった。でも僕は違った。両親の言うことをろくに聞きもしないその態度は、僕の興味をより一層引き立てた。いや、彼女の態度だけではなく、外見を含めた、彼女自身に興味を持っていたのだ。青磁器のような滑らかな肌や、くっきりと陰影がつく顔立ち、くるっと丸みを帯びた髪、黒い服に赤い靴、言い知れないものの考え、突拍子もない言動。その全てがシェリーだった。それで、僕はその圧倒的な存在感に見とれてしまっていた。
漠然とした思考の海を振り払って、ベッドから身を下ろす。柔らかい赤い絨毯を踏んで、部屋を出た。廊下に出ると窓から光がさして、小さなほこりが無数に飛んでいるのが見える。光がさせば、こういうものが見えてしまう。気温の低い朝は頭が冷えて心地いい。自然と頭が冴えて充実感が増す。
僕が朝の癒しを楽しみながら、廊下を歩いていると、シェリーが開いた窓の縁に手をかけながら、景色を眺めているのに気づいた。磨かれたフローリングだと赤い靴はよく目立つ。僕にとっては不意打ちであって、途端に顔が熱くなるのが分かった。しかし、シェリーは僕のことにまるで気づいていないようで、そのまま外を見ていた。何を見ているのか僕も気になって、傍にある窓から外を眺めた。
窓からはこの街を横から一望できて、白い屋敷が続いているのが分かる。白い格子に、白い家。伝統あるこの街はワイトウォールストリートと呼ばれている。その奥には雑多とした街がある、スラムだ。霧に隠れてよく見えない。朝方の街はうっすらとした霧で覆われていて、朝陽と合わさると街全体がしっとりとして見える。ワイトウォールストリートの庭はどこもよく整えられている。黒い通りに街路樹のマロニエが点々と続いていた。道路は露で濡れている。人通りは全くなく、何もかもが静止していた。ただ、なだらかな風が霧を揺らしているだけだった。
この白い街の朝は、改めて見ると綺麗なものだった。僕は窓から目を離し、再びシェリーに視線を戻した。シェリーは未だに外に目を向けていた。ちっとも気にしてくれないのは悲しいが大して気に留めず、シェリーに声をかけた。
「おはよう。シェリー」
シェリーはわずかに身を揺らして、初めて僕に目を向けた。僕がここにいたのは気づかなかったようだ。シェリーの透き通った目で見られると、どぎまぎする。
もう一度僕が「おはよう」と言うと、シェリーは少し頭を横に傾けた。いったい何がしたいのかと言うような仕草だった。気抜けしたが構わず話し続けた。
「やっぱり、この街の朝は綺麗だよね。見てみると爽やかな気分になるし」
「そうね」
そうシェリーが言った。珍しい。「そう」と言うことはあっても「そうね」と言ってくれることは、ほとんど無かった。何を話そうか迷っているとシェリーが続けて言った。
「ええ、この街の朝は綺麗よ。霧がかったワイトウォールストリートを見ると、とても不思議な気分になってね。それで起きた後の気分の悪さがすうっと消えるの。朝起きると、いつも窓から外を眺めているわ」
「そうなんだ。じゃあ、シェリーは毎日そこにいるはずなのに、僕はシェリーが外を眺めてみるのは初めて見るよ」
「当たり前よ、いつもは私の部屋から見てるもの」
「じゃあ、今日はなんでここにいるの?」
「部屋を出た後に気づいてね。戻るのも面倒くさいし。それに違うところから覗くのも新鮮でいいわ」
廊下の窓は一定の間隔でついていて、そこから枠にはめられた光が順序よく差しているのは何となく心地よい。シェリーが思わずそこから見てしまうのも頷ける。
「朝ごはん、どうするんだい。今日は母さんたちいないけど」
「そうね。ピギーに何か出して貰おうかしら。お父様がいなければ羽も伸ばせるしね」
「じゃあ僕も行くよ」
「そう」
そう言うとシェリーは手を窓枠から下ろして、階段を下りていった。赤い運動靴は調子よく音を立ててて、次第に音は消えていった。シェリーの何も言わないその背中は、誰しもを拒絶しているようで、とてもついていけなかった。置いてけぼりを食らったが、いつものことだ。
ピギーというのは厨房の料理人だった。丸々と太って背の低い男だ。白いエプロンははち切れんばかりに膨らんでいて、いつもにたにた笑いながら父のご機嫌をとっている。料理でおべっかを使うならまだしも「旦那様は今日も素晴らしい服を着なすって」とか関係ないことを父に言っているから、憎たらしい。ちなみに父は父で満更でもないような態度をとる。それと当然の事ながら、ピギーはシェリーがつけた愛称だ。ピギー(子豚ちゃん)。それを僕も面白がって言ってるにすぎない。
彼はシェリーと仲が良くて、シェリーの好きなものを父や母に秘密でよく渡していた。ピギーに何を渡しているのか尋ねてみたら、「シェリルお嬢様には秘密ですよ」と前置きをして、ジンジャエールやグミを渡していたと言った。ジンジャエールなんかこの家では出ることが無いので、 シェリーはピギーにお願いしたのだろう。僕は学校で友達に飲ませて貰ったことがあるが、口の中で生姜の泡が弾けて、とても辛かったのを覚えている。でも刺激的だったからつい何口も飲んで、友人に「馬鹿、飲みすぎだ」と注意されたのも記憶に残っている。
家に篭りっきりのシェリーがどうしてジンジャエールを知ってたのか気になったが、どうやらピギーがこっそり飲ませたらしく、そこから知ったのだろう。
それからしばらくシェリーのいた窓から景色を眺めた。このささくれだった木の縁に彼女が手をかけてたんだ。そう思うとわけもなく嬉しい気分になる。彼女の存在が間近で感じられるみたい。
気が済むと僕も階段を下りて、広間から食卓に向かう。階段の手すりは握る度にぎしぎしと鳴るのが面白く、わざと音を立てながら降りていた。丸い広間を右に出ると居間があり、薄く白い格子の模様がついたテーブル掛けがかかった、四角い食卓を見ると、シェリーは既に朝食を食べているのが見える。
食べていたのはトーストにハムエッグ、サラダ。それだけならまだいい。油でぎとついたフライドポテトに、真っ赤にべたつくトマトケチャップ。他にチキンナゲット、ポテトチップス、サイダー。見るからに油で塗れた食事は、見てるだけで胸にくるものがある。それを甘いサイダーで流し込んでるんだから、趣味が悪い。両親がたまたま居ない日はピギーに頼んで、こんな脂ぎったものを食べている。
彼女は飢えた孤児のように、矢継ぎ早に、食べ物を口に入れていく。がつがつと、これから食べるあてのないかのように、それらを貪った。林檎色のぽてっとした厚い唇は油でぬめって照明の光を反射している。また、しきりに顎を動かしながら、次に食べるものにフォークを突き刺していた。フォークは握るように持っていて、鯨に止めをさすかのように、大きく銛を振りかぶって油の海に浮かぶチキンナゲットを仕留めていた。ぶよついたナゲットの肉を抜けたフォークの先は皿の底に当たり、高い音を立てた。
シェリーの趣味のいい食事を眺めていると、僕の目の前にあるトーストや目玉焼きは、食べ物のように思えなくなる。黄色い円の縁には薄い膜がかかって、のっぺらとしている。折角焼いたトーストは冷めて、噛み心地がよくない。喉から不快がにじみ出て、とても飲み込めない。
僕はこの食事と格闘している内に、もう勝てないことを悟って、食事を半分も食べずに席を立った。シェリーは僕に目も寄こさず、ただポテトチップスを口いっぱいに頬張っていて、リスみたいで愛らしいと思ってしまう。だが、泥みたいに喉に引っかかる食感を感じると、思いがけず辛くなってしまう。
後ろでシェリーが食器をかたかた鳴らしているのを聞きながら、部屋を出て行った。
3
それから家を歩いている内に、この家には僕とシェリーと使用人たちしか居なくなったことに改めて気づくと、自由になった気がしてせいせいする。せっかく夏の晴れた日なのだからその下で昼を過ごしたい気分になった。朝の食事の余韻を覚ましたかったのもある。
そこで使用人のジェイムズを呼んで紅茶の用意をしてもらった。中庭にあるテーブルを拭いて綺麗にし、その上にティーポットとカップを置いた。ビスケット、バターケーキ、マドレーヌ、マカロンといったお菓子を乗せたケーキスタンドもテーブルに置いた。庭は丁寧に手入れがされていて秩序が保たれている。草木は人の手で刈り入れられ、健やかに伸びるようにされているため、茂った森なんかよりよっぽど自然が生かされている。
庭の垣根の葉は若草色であり、光のせいでところどころ白く見える。白い槍の格子に沿って、乱れなく四角に整えられていて好感がもてる。植え込みの花は鮮やかな緑と相まって、より際立って見える。境界がにじんで見えるほど赤いダリア、日光の下で黄金のように輝くマリーゴールド、清潔な白い花びらの中に黄色の花弁がこっそりとある可憐なコスモス。こういった美しい花壇は熟練した庭師がいてからこそだ。他の家の花壇も見てみたかったが、惜しいことに向かいの家の花壇は遠い上に生垣があってよく見えない。それに格子も間隔が狭い。窓から見た景色はどうだったろうか。あの出っ張りにある窓は、確かシェリーの部屋のだ。藤色のカーテンがしまっていて、中を伺うことはできない。
あれこれ考えて、鳥のさえずりを聞くうちに、そしてほのかな陽光を浴びているうちに、僕はまるで自然と一体化したかのように、ここにいた。人間の僕でさえこの庭の一部であるような、不思議な感覚に陥る。
そして次第に鳥の音が微かに聞こえ、目に映る景色もおぼろげになり、うららかな温かい日差しに溶けるような感覚を覚えた。
そういや昔、父にガラス工場に連れていってもらったことがあった。ガラスを炉に寄せて溶かし、筒に息を入れて膨らましてガラスのコップを作る工程は、熱気のこもる工場でやっていた。溶けるガラスがゆらめく炎に照らされ虹色に輝く。青から赤に、橙に、紫に、緑に。透明な色々は不鮮明だった。滑らかな液体になったガラスが複雑な手先で微細に動かされ、形づくられるあの光景を思い出す。見とれていると思わず溶けそうになった。
さらさらのガラスの表面がゆっくりと流れ落ちるのを目で追いかけると、いつのまにか形が変わっていた。見逃すまいと凝視すればするほどわからなくなってくる。音もなく飴のように自在に形を変えていた。滑らかなガラスと炉で燃える炎の境は曖昧で互いに侵食しあっていた。きらりきらら。そんな音がした気がする。いつのまにか僕はその空間と一体化していたのだった。暗くとろける僕の思考はあの時とよく似ていた。
まどろむ最中、奇妙な感覚を覚えた。くすぐったい、こそばゆい感じ。僕はおもむろに頭をあげて霞んだ目で前を見た。すると、そこには一人の少年が格子を掴んでいる姿があった。炭鉱の労働者が使うような、つばがなだらかに傾いている茶色の帽子、垢だらけで汚い茶色のレザーコート、破けた灰色のズボン、底が擦り切れた革靴。どれもこれもサイズが合ってないので、全体的にぶかぶかとしている。どっかのゴミ捨て場でも漁って取ってきたのだろう。極めつけに、不潔であった。洗顔していないようで、顔は真っ黒。顔や体の周りには蝿がぶんぶん飛んでいる。右手に何か黒々としたものを持っているが、目がまだ慣れてないのでよく見えない。
こういう、汚い身なりは間違いなくスラムの連中だ。スラムは石橋の向こう一帯にある。危険だから僕は行ったことがなかったが、噂を聞いたことぐらいはある。それにしてもどうしてこんなところに来たのだろうか、物乞いにしても、もっと人通りが多いところがいいだろうに。
いずれにせよ彼がそこにいるのは確かであった。彼は格子を掴んでずっと僕を見ていた。背丈や顔つきからして、少年は僕と同じくらいの年齢に思えた。大きく目が開かれていて、黒いパールのように円く見える。もし近くに行けば彼の目には鏡に映ったみたいに僕の姿がくっきりと見えるに違いない。彼は言葉を発しない、彼はただ僕を見るだけだった。
そうあれやこれや考えているうちに、目が慣れてきて気づいたことがあった。それは少年の手の内に固く握り締められたものである。ネズミの死体だった。灰色のぶよぶよした体が太い指でかっちりと握られ、格子に押し付けられていた。気味の悪い白いぎょろ目は空を見ている。動物であれ何であれ、死んでしまったら何も見ることはできない。そんなことが頭に思い浮かぶ。
彼はなぜネズミの死体を持ち歩いているのか? 食うためか。いやスラムの住人だって病原の塊を食べるとは思えない。嫌がらせのためか。それならさっさと投げ込んでいるはずだ。なら一体どうして持っているのか。
僕はふと思い至ったことがあった。もしかしてあれは玩具じゃないのだろうか。汚い路地裏で暇を潰すための。ボールみたいに投げるのかもしれないし、何の目的もなくただ手慰みにいじるだけかもしれない。でも、何らかの方法で遊んでいるのだ。それがスラム街で他人に羨ましがられない、他人にとられない最高の玩具であった可能性がある。彼にとってネズミは辛い人生の隙間を埋める至高の遊び道具であったのだ。何の根拠もないのだが、僕には確信があった。あの目。あの素振り。全て僕にそう思わせるに足る材料であった。
そう思うと彼を気の毒に思わないことなんて、出来ようか。彼が他人に取られない玩具を見出して、ここに来たとき。この街をどう見たろう。清潔なゴミ一つない大通り。その通りには同じような白い家が立ち並ぶ。そこを玩具の死体を握りながら、幽霊みたいな足取りで歩いていると、庭の花々に囲まれてお茶をしている僕を見る。きっと想像もしていない世界がそこにあった。ここに来るだけで、彼のちっぽけな世界は粉砕され、ただそこに立っているだけしか出来なかったのだ。何を思おうが、どうしようとできないそんな瞬間、彼はそこで僕を眺めるだけであった。それしか出来ない。
彼には悪いが、貧しいという問題のおおよその原因は彼がついていなかったという話に過ぎない。もし彼がここで生まれていたら、何不自由なく暮らしていただろうし、僕がスラムで生まれたら悲惨な生活を送っていたに違いない。だが運命はそうならなかった。可愛そうなやつ。
「おい、君。早く出て行け。面倒になる」
僕は静かだった空間を自分から壊した。彼と見つめ合うのも悪くはなかったが、僕の休日を彼のせいで無くしてしまうのも嫌であった。彼には悪いが、ここから離れてもらおう。
ところが彼がとった行動は、僕の期待してたものではなかった。彼は今まで見開くだけであった目を、睨むように狭めた。茶色い帽子の影に隠れて、ある種の凄みがあった。格子を掴む手は筋ばっていて、口元は唸るように歪み、不揃いの歯がむき出しになっていた。
僕はこの少年が、突然、怖く思った。何をするかわからない。怒ったやつほど面倒なものはない。怒りは人の頭を馬鹿にするようで、理屈にかなわないことを本人は平気でしでかす。彼のやるであろう行動が理解の範疇を越えていて、僕は本能的にイスから立ち上がった。僕が勢いよく立ったせいで、白いイスは芝生に向かって後ろに倒れた。カップにいれていた紅茶が大きく波立ってこぼれ、白い机に波紋を広げるみたいに紅茶が広がる。立ったはいいが、足が動かない。彼の目に射すくめられてられてしまったせいだ。何も聴こえない。風の音も、息の音すらも。まるで綿でできた耳栓がつまったかのように、何もかもが遥か遠くにあるように聴こえる。蝿の羽音が耳の中にひっそりと響いて、気味が悪い。不気味な沈黙が僕らを押しとどめていた。蛇に睨まれたように、僕は動けなかった。まるで、本で見たコカトリス。待てよ、確かあれは頭が雄鶏で腰から下が蛇? なら、なんだっけ。バジリスク? もう、わけがわからない。ああ、何でもいい。緊張の余り石になってしまいそうだ。
情けないが、そのまま何も出来ず立ったまま、少年と対峙していた。緊張した時間が何分も続く。唐突に、彼は格子を力任せに叩いた。格子が小刻みに震えて、無数にその影が写る。大きく音が響いて、耳をこだまする。
すると心臓の鼓動が弾けた。いつもは手をあてれば、かすかに分かるぐらいだけど、今は飛び出そうなぐらい弾んでいる。それで人を呼ぼうなんて、ちっとも考えられなかった。彼がそこにいるというだけで僕は思考が止まってしまう。
だけども彼は口をもごもごさせるだけで、何もしないし、何も言わない。俯いたせいで目が帽子に隠れて見えなくなった。彼は糸が切れたように佇んでいる。握りこんだ拳は、白い鉄格子を不規則に、軽く音を立てて叩いている。
そして、やけっぱちになったのか、彼はネズミを勢いよく投げた。ネズミは格子を飛び越え、芝生に何回か弾み、横たわった。彼はネズミを投げるとすぐに、横に向いて、全力で走り出した。あっという間に彼の姿を見失った。
僕はあまりの出来事に呆然としていた。唐突なことで頭が回らない。これから、何をするんだっけ。いくら記憶を巡らせても、僕にはさっきまで考えてたことの糸口を、針の穴ほどにも見つけられなかった。
何も考えず、ただそのネズミを見ていた。近くで見てみると、ネズミはでっぷりと肥えて、たるんだ吸殻のような皮にはいくつかの傷跡がついていたのが分かる。傷跡からは乾いた血が見え、周辺の血痕は指紋まみれだった。ぐるりと上を向いた目は、紙で出来た真珠のような色合であった。その目は燃えたぎる青い空を見つめていた。この整然とした美しい庭の中に一つある異物。
汗で肌をべたつかせながら、僕はずっとネズミと目を合わせていた。ネズミは死んでいてなお、僕の目をひきつける。生きていようが、死んでいようが、どうでもいい。僕はそこにいる生物に釘付けになった。そして一瞬、紙を巻いたような目が、光を反射して眩しくなった。
突然、手が僕の後ろから出てきた。細い色白の腕は、倒れていなかったケーキスタンドのお菓子を握ると、そのまま引っ込んでいった。今度こそ、心臓が張り裂けるかと思ったが、後ろを見るとシェリーの顔がすぐ傍にあった。不揃いな横髪が僕の耳をさする。あまりに素朴な目鼻立ちは、間近で見ると磨き抜かれた磁器のように、隙がなかった。細い切れ目から見える、双眸は、じっと下を見つめていた。おそるおそる視線を追うと、シェリーはネズミを見ているのが分かった。もう一度視線をシェリーに戻すと、いつのまにかシェリーは生姜色のマドレーヌを咀嚼していた。そして、顔つきが、獲物を前に爛々と輝く猫のそれと似ていると思った。
マドレーヌを食べ終えると、喉を滑らかに動かして、たおやかな手を僕の肩に置いて、「ねえ、これはどういうこと」と僕に尋ねた。今まで沈黙を満たしていた、綿で出来た耳栓が外れて、シェリーの声が鮮明に聞こえた。僕は言葉に詰まり、意味の分からないことを呟いていた。
シェリーは柔らかな唇を横に広げて、新芽の淡い緑色の、つぶらな目で僕を見ていた。光の具合で、目の艶が散乱反射している。そして下唇を歯で軽く噛んで、こう言った。
「知ってるわ。だってずっと、見ていたもの」
「カーテンが下りてたじゃないか、見れるわけないよ」
「内側から、見えるのよ。知らなかった?」
「知ってたよ、知らないわけないじゃん」
つい、むきになって、考えもせずに返事をすると、シェリーはふふっと笑って、丸テーブルに手を押しあてながら、僕の横を通り過ぎた。髪がわずかに揺れた。足と連動する腰のラインはとても魅力的だった。
シェリーの足取りは迷いが無く、彼女はネズミが倒れてる芝生に向かった。原色さながら鮮やかな芝生の草に、真っ赤な靴が歩んでいく。そしてネズミのすぐ側にまで来ると、腰を屈めて、ネズミを拾い上げたのだ。ワンピースのしわが、お腹のあたりに集中し、女性らしさを感じた。
シェリーは拾い上げたそれを、指で弄繰り回して、遊んでいた。ネズミの腹を指の背で押し上げたり、閉じた口を乳白色の爪先でこじ開けたりしていた。爪先とネズミの口との間に糸がひいて、輝いている。お気に入りの玩具を見つけたみたいに、いかにもシェリーは楽しそうだった。このまま放って置けば頬ずりまでしかねない。僕を放っておいて、それはないだろ。
「いい加減にしなよ、シェリー。そんなもんの何が楽しいんだ」
「そう? 私は、とても楽しいわよ。だって、あの子はとっても可愛かったじゃない。仔鹿みたいに震えちゃって。そんな子の玩具を横取りできるなんて、最高よ」
シェリーの返事はよく分からなかった。彼女のとろけた目つきは、熱さから来てるんだろう。まとわりつく熱気、紅潮した頬。彼女は興奮しているみたいだ。
「じゃあ、シェリー、君はあいつの物を手に入れたから嬉しいわけ?」
「そうね。それもあるかも、知れないわね。路上で惨めな生活を送っていたはずのあの子が、必死になって考えた玩具を横取りするのって、何だかすごく胸がざわめくのよ。その子の人生を奪ってやったって気がして、胸の奥から熱が伝わるの。やだ、私、恋をしてるのかも」
「その気持ちは理解できないけど、それでも恋じゃないことは僕にも分かるよ」
「こんなに胸がときめいているのに? 不思議ね。恋って気持ちが昂るものじゃなかったの?」
「その昂りは、苛めっ子のもんだよ。とりわけ、人を台無しにして喜ぶなんてのは、まさにそう」
「そうかしら。まあ、そうなのかもね。でも楽しければ、何だっていいのよ」
シェリーは頬をくぼませて、唇に手をあてながら、にっこり微笑んだ。それを見てると僕まで幸せになってくる。シェリーが喜べば僕も嬉しいし、シェリーが悲しめば僕も悲しい。彼女の姿は僕を映す鏡であった。
僕がこぼれた紅茶をハンカチで拭き取り、屋敷に戻って、ジェイムズに昼食を出してもらうように頼んだ。庭に戻ってみるとシェリーは居なかった。料理にふたをしたまま、庭を眺めてぼんやりしていると、三時間ぐらい後にシェリーが戻ってきた。その際ネズミは手持ちになく、どうしたのか僕が聞いたら、シェリーは「ちょっとね」と言った。その包んだ言い方が怪しく聞こえたが、僕はあえて気にしなかった。シェリーに尋ねてもはぐらかされてしまうのは、分かりきっている。そして僕は、どこか一抹の不安を残して、それでも昼食を兼ねた午後のティータイムをシェリーと一緒に笑いながら過ごした。
あの張り詰めた緊張、震える空気、スラムの少年が残したネズミ、それを手にしたシェリー。それらの風景や感覚が僕の頭に、次々浮かんでは消えていく。点滅する思いは落雷のように落ち、締め付ける不安が遅れてやってくる。遥か遠くに感じてはいるものの、そこにあるというだけで、僕の胸は締められているような気がする。シェリーの考えに触れると、僕の意識は深淵に落ちていく。僕の理想であったシェリーは、この事件でその形を変え、実態は理想と大きく異なることが分かった。やはり彼女はそこに居るだけで、僕の思いをかき乱す。暗雲が僕の思考の海に垂れ込めている。心中は嵐のように吹きすさんでいたが、外面は何ともないように、そっけなく過ごしていたのだった。
4
あの日から三日が過ぎた後、家族で食事をしているときに、ピギーが厨房の入り口の壁から、こそこそこちらを伺っているのが分かった。というのも、肉が詰まったエプロンは到底隠しきれないのであったからだ。たるんだ肉から垣間見える目玉は、落ち着きもなく動いていた。いかにも恐怖に怯えたような仕草で気に障った。何かあったのだろうか? 後ろめたいことがあったのか? 両親もピギーの行動を不審に思いながらも、咎めることはなかった。いつもおどおどしている人物であったためだろう。しかし、この時ばかりはいつもと違うような気がした。彼の目は、じっとシェリーを見つめている。明らかにシェリーに対して、怖がっているのだ。シェリーは一体何をしたのだろう。
そう思って、机の真向かいに居るシェリーに目をやった。オリーブと共に煮込んだ、皮の厚い鴨肉をナイフで上品に切り取っていた。彼女はピギーからの視線をくすぐったく思わず、黙々と食べている。やましいことなど何もない、と言わんばかりの堂々とした姿勢だった。結局、ピギーは食事の間はずっとその壁でうろちょろしていた。
食事が終わって、シェリーと両親がダイニングから去ると、僕はピギーのいる厨房に向かった。厨房に入ると銀色の調理台が目に入った。橙の裸電球が目に眩しい。ピギーは木で出来た四つ足の背もたれのない椅子に座っていた。彼はうめき声を出しながら激しく貧乏ゆすりをしていたため、椅子の台座に収まりきらない尻の肉が食い込んで揺れていた。
見ていられない程無様な姿だったので、話しかけるのを躊躇したが、どうしても先の様子が気になったのでピギーに声をかけた。
「ピギー、さっき何やってたんだ。かなり怪しかったぞ」
「はい? ああ、坊ちゃま。いえ、失礼しました。何かご入用ですか? もしかして先ほどの量ではお足りにならなかったので。なら、お作りしましょう。プティングにしましょうか、それともソーセージとか、ああデザートもございますよ。他に……」
「いや、いい。十分だ。ご飯はこれ以上いらない。それ以外に聞きたいことがあるんだ」
「はあ。何でございましょう」
「さっき、何でずっとシェリーを見てたの?」
「ああ、それは、その」
ピギーの振るまいがしどろもどろで要領を得ない。らちが明かないので、もっと詳しく聞いてみることにした。
「シェリーが何かした?」
「ええ、はい。それはそうなのですが、その」
「ピギー? もっと、はっきり喋ってくれないか」
「分かりました、分かりました。お話しますから。その数日前にお嬢様が、午後でしたっけ。陽が強く照りだしたころに突然、厨房にお越しなさいまして、いつものようにお菓子をせびられるかと思いきゃ、なんと片手にドブネズミを握っておられたんですよ。いやあ、たまげたもんです。 思わずぎょっとして言葉が出なくなりましてね。私が黙ってたもんですから、お嬢様が声をおかけになりましてね。ええ、確か鍋を貸してちょうだいと仰ったんですよ。仰天しましてね、ええ。何にお使いなさるのか聞いてみましたら、何とまあ、この子を溶かすのよって仰いましてね。あっしが何が何だか分からなくて呆然としてますと、お嬢様が小ぶりの鍋を取ってまして、ほらあそこから。火を滅茶苦茶強くお点けになりまして、怖かったのなんの。鍋に水を汲みまして、煮立ててたんですよ」
途中まで話を聞いていたが、思わず遮ってこう言った。
「本当に? ドブネズミを?」
「ええ、そうです。ドブネズミでございます。ぼこぼこ煮だった鍋に、あれをぶち込みましてね。熱湯が飛び散ったんですよ。思わず、あっしはあっと言ったんですよ。沸騰した湯ですよ? 危ないじゃないですか。運よく顔には、当たらなかったみたいでございましたが。あんな、お綺麗な顔にあたったら、どうなってしまうか! それからどれだけ経ったか、分かりませんがお嬢様がずっと煮立てている間、恥ずかしながら、何もできませんでして。ただただ見てるだけでした。お嬢様が火をお消しになると、糸が切れたみたいにあっしの体から力が抜けまして、あっしが鍋の方を見ましたら、それはもう。濁ったぐちゃぐちゃの様子でしたよ。そしたら、流し台の方に行かれましてね、ふるいに鍋を突っ込むんですよ。べちゃべちゃしたものが、それに付いてまして、その中から骨が見えるんですよ、ああ恐ろしい。お嬢様があんなことをなさるなんて」
僕はその話を聞いて絶句していた。シェリーが変わっているとは、常々思っていたが、まさかこんな事をするとは想像できなかった。ピギーの話しぶりから、嘘をついてるように思えなかったので本当なのだろうが、それでも到底信じられる話ではなかった。ピギーは顔を真っ赤にしながら話を続けた。
「それからですね。そのざるから骨を一本一本取り出して、お皿に乗せてたんですよ。ぐちゃぐちゃの、あれから。お嬢様は見たことないくらい真剣な眼差しでして、邪魔なんてとても出来ませんでした。骨をみつけることに全神経を注いでらっしゃいました。それで、ようやく全部移し終えましたようで、私に言ったんですよ、後はよろしくねって。冗談じゃない! 鳥をさばいたあとならまだしも、そんなわけの分からんものをやる気になれるわけがない! それで答えかねていましたら、お嬢様がお近くに来なさってですね。片手に骨を盛った皿を持って、あっしの耳に顔を寄せて、やってねってささやくんですよ。もう怖いったら! あの時のお嬢様ほどおっそろしいもんは、あっしゃ見たことありませんよ。がたがた震えながら、分かりましたって答えましたら、そうって言い残して去っていったんですよ!」
「じゃあ、結局ピギーが片付けたんだね?」
「ええ、そうでございます。そうでございますとも! 気味悪い肉塊を処分して、使った鍋は、申し訳なかったのですが、捨てさせて頂きました。それから片付けはともかく、お嬢様という人がよく分からなくなったのです」
興奮しきったピギーは話し終えると、途端に静かになり顔から赤みが引いて、さっと顔が青白くなった。貧乏ゆすりがまた激しくなって、椅子がタイル床と擦れてがたがた鳴った。白い帽子は強く握られているせいでくしゃくしゃになり、薄い髪が汗でずぶ濡れになっていた。照明で出来た影が食器棚に重なっている。
そして「話してくれてありがとう」と僕が言っても返事はなかった。よっぽど怯えていて、これ以上話してくれる気配もなかったので、早々そこから立ち去った。
どうしてシェリーはそんなことをしたんだ? 彼女はネズミを気に入っていたのは、まだ分かる。でも、なぜ骨にまで溶かす。放っておいたらやがて腐ってしまう。だから溶かしたんだという理由が、すぐに思いつくことなのだが、これでも到底納得はできない。シェリーはあれを手に入れて、真っ先に溶かしに行った。どうしてそうなった。彼女はどういう考えで骨にするという考えに至ったのか。僕にはさっぱり分からなかった。
理解の範疇を越えてしまったシェリー。衛星軌道から遠のいた星。紙一杯に書かれた数式の証明が、たった一行の反例でだいなしになる。僕が分かってきたつもりだったシェリーという像は、ここまで来て霞のように消えてしまった。
残ってしまったものは、追求しえない一人の人間だった。多分、とどのつまりシェリーはシェリーであったのだ。それ以上、分解してもそれ以上はきっとでない。そんなよく分からない結論が頭にこびりつくようになった。太陽を眺めたあと、目蓋を閉じるとできる焦げ目みたいに、残っている。ただそれと違うのは、しばらくしても消えないということだった。その焦げ目から、絶え間なくイメージが溢れ出るようになった。
5
月の明るい夜になった。僕は屋敷をあてもなく歩いている。ふと見える、カエデが幾何学的に模様を描くカーペット、そこに佇むシェリー。枯れきった草木。しわがれた母の頬。えくぼの影。街路樹が夕陽を遮って、できた木陰。カーペットの模様が黒いグランドピアノの側面に写っている。ピアノの奥にぼさぼさの頭を覗かしているシェリーがいる。彼女はワルツを演奏し、そのとち狂ったリズムのワルツが、頭に残響している。ずんたった、ずんたった。聞こえもしない幻聴が頭に鳴り響いている。あれは数年前の雨の日、湿気がじめじめとしたとき。雨粒が窓に叩きつけられていた。矢次ぎ早に、水滴がもたれかかっている。木の縁に黒く透ける水が溜まって、落ちた。斜めに光る紫の雷。遅れる音。甲高い和音。幻影が、あそこにも、ここにも! シェリーの陰、シェリーの背中、シェリーの頭、シェリーの足。あちこちに僕が今まで見た彼女の姿が見える。あちこちに在る照明から、何重に影が重なる。薄い影、濃い影。僕の写る影。彼女が居た影。グラデーションを上から、下に見落とす、モノトーンの影絵。あのしかめる顔、ふらつく足、転がるガラス玉。在りし日のシェリーがごった煮になる。そして、未だに、あの下手なワルツが頭に鳴り響いて、気分が悪い。理由も分からない、これが現実でないことは知っている。だが知っているからといって、何も出来はしない。ただ、理不尽な悪夢をやり過ごすことしか方法はなかった。終いにはその旋律もメロディーだけでなく、明確に彼女が弾いている姿が、頭にイメージするまでになった。眼球に写るシェリー、頭の中でイメージされるシェリー。文字通り身も心もシェリー一色だ。もう何も考えたくない。考える度に、心の底がよどんでいく。黒い、ごわごわした髪の色。ああ、もう。何も考えないでいたい、考えれば考えるほど、狂おしい思いが窓を曇らせる。足取りも定まらず、ふらふらと歩く僕は、近くにあった部屋のノブに手をかけて入っていった。とにかく、救いが欲しかった一心で、何も考えてはいなかった。
部屋に入ると、薄暗い中で安楽椅子に腰掛けたシェリーが見えた。月の光が明るいお陰で案外、部屋はつぶさに見えた。安楽椅子が床と掠れてリズムよく音を立てている。椅子の足先は丸く、背もたれは滑らかな曲線を描いていた。シェリーは頭を横にもたれかけて、こっちの方を向いた。眠たげに目をそばだてる、こんなシェリーは見たことがなかった。これは幻覚じゃない、本物だ。左手を肘掛けにおいて、右手を軽く左腕に乗せて、うつらうつらと体を揺らしていた。その度に椅子も揺れ、きしんでいる。
気づくと、頭の中で響いていたワルツは止まっており、静かになっていた。あちこちにあった、シェリーの残滓のこともすっかり頭から飛んで、今は偶然にも彼女の部屋に入ってしまったことを考えていた。今から部屋を出るのも気まずい。青いタペストリーの壁紙が僕を取り巻いていて、水の中にいる様な圧迫感があった。気後れしながら、この部屋を観察していると机の上にあったものに目がいった。
それはネズミの骨格標本だった。象牙のような色合いの骨に、ところどころ肉がこびりついて乾燥しきっている。また、背骨は針金で固定されているのが分かった。頭から胸にかけては肋骨などもあったため、膨らんで見えたが、足から尻尾にかけては非常に細く見える。特に尻尾が長いことも相まってだろう。また標本全体が、明るい木板に針金で固定されている。
骨格標本は黒檀の机にあったが、この部屋に最初からあったかのようにしっくり馴染んでいた。これを外すと、逆に部屋が落ち着かないような、そんな気さえもしたのだ。また、引いてあった黒い椅子に図鑑が乗っかっていたのに気づいた。僕がじっくりそれらを眺めていると、シェリーは焦点を定めず、目を壁に向けながら呟いた。
「作るのは骨が折れてね。図鑑と睨めっこしながら、ずっと弄ってたわ。どこの骨がどこに繋がるかなんて、検討もつかなくて。困ったわ」
「それなのに良く出来てるじゃないか。初めて作ったんだろ、これ? ほんと、立派だね」
シェリーは僕の言葉には全く反応せず、ただ椅子を揺らしていた。窓が開いており、そこから爽やかな夜風が吹いている。たなびく藤色のカーテンは、月光によって黄金に上塗りされて、神秘的な感じすらもした。
「骨は素敵ね。飾りっ気のない、単純で、素直な形。こういうのが私は好き。死んでしまえば皆こうなるんだから、骨が美しいのがやっぱり理想よね」
彼女の呟きが部屋の中に消えていく。僕は反応もできず、突っ立っていた。彼女の言葉が泡みたいに、浮かんでは、消える。
「いや、違うわね。さっきのは嘘。きっと生きているのが、素晴らしいんだわ。彼だって健気に生きてたし、このネズミだってそうよ。例え死んでも、私の中では彼が息づいてるし、あのネズミだってそこで生きているわ」
とりとめもない彼女の言葉は、分かるような分からないような、気味の悪い感じがした。彼女はつづけて言った。
「ずっと、ずっと、そこにいる。私はそれだけで幸せになるの。どこにいなくても、ここにあれば。でもこれも嘘よ。そう感じるのは本当だけど、奥底にあるどこかで、満たされないことがあるわ。無限の仮定が、私を形作っているのかも。そう考えると、そうね。実のところは、私には何もないのよ。生きていることも、死んでいることも。私の中のあらゆるものは、ぜんぶ嘘。やっぱり、何もないけれど形になるのよ。あら、これは本当かもしれないわね」
それっきり、シェリーは何も言わなくなった。彼女はあごを引いて下を向き、涼しい風を浴びている。髪がわずかに動いていた。髪で隠れて見えないが、多分目を閉じているんだと思う。
それを見ると僕は喉の奥が詰まったような思いがした。彼女の奥底には、細かくカットされたダイヤモンドみたいに無数の側面が光っていた。彼女はきっと、プリズムみたいに光を通すだけに過ぎなかったんだ。その角度が変われば光の色が変わるように。景色を楽しむシェリー、野蛮な食事をするシェリー、ネズミを溶かすシェリー。そのどれもがシェリーであり、シェリーでない。彼女はプリズムであり光でもあった。僕は、そんな確信を持った。
そして、部屋を出ることにした。今まであったシェリーへの執着は、自分でも驚くらいになくなっていた。その代わりに言いようのない怖れと同情が僕の中にあった。
「シェリー。いつかきっと、よくなるよ」
そう言い残すと僕は鈍く光るドアノブをゆっくり回して、重い足取りで外に出た。見渡してみると廊下は暗く、しんとしている。自分の息すら押し止めてしまうほど張り詰めた空気だった。屋敷がきしむ音、置時計が鳴る音。それらを抑えてなお足りる、黙々とした静寂が、屋敷を支配している。廊下の果てが見えないようで怖く、不安になる。寂しさの余り、廊下の窓から景色を覗くと、月の下で、誰もいない街が明々と見えた。どうも見覚えがあると思ったら、そこは、あの日の朝、シェリーが手を掛けていた窓であった。そういや、あの時も、人はいなかった。
初めましてSOM太郎と申します。
拙い小説ですが、評価、感想の程いただけたらと思います。