マージナルごっこ
「兄さん、何処行くの?」
「別にそこのコンビニまでだけど」
近頃、すっかり夕食後は居間にあるテレビの前を定位置にしてしまった招かざる客に呼び止められて、凪は気の抜けた声を返した。
家計を一身に担う身として、凪はコンビニの利用はなるべく慎むことにしていたが、何事にも限界というものはある。
ふと得体の知れない期間限定のスナック菓子に手を伸ばしたくなるという衝動。この知的生命体であれば避けては通れない本能から、凪もまた自由ではないのだった。
「コンビニ、それはコンビニエンスストアの略称だねっ」
光理は身体の中にバネでも仕込んでるかのような駆動で立ち上がった。
「そうだけど。もう夜の十一時だぞ。その声のボリュームはないだろ」
「おっと、光理ちゃんとしたことが、ついテンションを上げてしまったよ」
わざとらしく両手で口をふさぐジェスチャーをする悪魔と、何も言わずにそれを見ている人間が一人。先に沈黙に耐えかねたのは、言うまでも無く口数の多い悪魔の方だった。
「兄さん、ここは優しく同伴を申し出るものじゃないのかい、同伴を」
「いや、コンビニはそんなに面白いもんでもないからな。言ってくれれば買ってくるし」
「馬鹿だなぁ、兄さん。光理ちゃんの初コンビニだよ、初コンビニ。知識あっても経験はない初心な妹を、優しくエスコートするのが筋ってもんじゃないか」
「別に」
「凄いね、兄さん。有名女優もビックリのそっけなさだよ。おにい様と呼ぶべきレベルだね」
「それは止めろ」
その呼称を忠臣たちが聞く画を想像して、凪は真剣にお願いした。
「じゃあ、迷うといけないから」
そう言って光理が差し出してきたのは右手だった。
「歩いて10分だぞ」
呆れたように呟いて、凪は光理を振りきるように家を出た。
凪の家から最寄のコンビニまでの道のりは、街灯が途切れることのない明るい道である。迷う方がどうかしている。一人のときと変わらない凪のペースに、光理は何も言わずについて来ていた。
コンビニへの道中、光理のテンションは馬鹿みたいに高かった。別にそれは今に始まった話でもないが、調子はずれの鼻歌まで披露しているのだから只事ではない。
「何がそんなに楽しいんだ?」
「だって、夜の町を歩くのってテンションが上がるじゃないか」
「ガキか」
凪は光理の言葉を鼻で笑った。
「じゃあ、明後日の決戦をひかえて武者震いしてるってのはどうだい。まあ、光理ちゃんは「感染」者への直接的な干渉は出来ない立場だから、兄さんの話相手が精々なんだけどね」
「この段階で気を使うくらいなら、そもそも巻き込んで欲しくなかったかな」
「気を使う?」
不思議そうな表情を浮かべている光理を見て、凪は自分の勘違いを悟ったが、先に全てを理解したのは悪魔の方だった。
「ごめん、端的な事実を述べただけのつもりだったんだけど」
「いや、こっちが自意識過剰だったわ」
凪は両耳が熱くなるのを感じながら、言葉短くそう言った。
「もちろん、兄さんに今思うところがあるなら、どんなご意見ご要望も謹んでお受けする所存だよ。むろん、それ相応の代価はもらうけどね」
気まずい沈黙が二人の間に漂った。
己の発言が原因であるせいか、先ほどとは違い、光理は自分からその空気を変えようとはしなかった。コンビニまでの残り五分、一言も発さずに夜道を進んだ。
その空気が変わったのは、コンビニの前でだった。コンビニの駐車場でたむろしていた三人組の男たちに、光理の髪の色が目をつけられたのだ。
「ねえねえ、その髪痛かったでしょ、分かるよ、俺もさ、最初にこの色にしたときは、ちょっとビビったからね、マジっかって感じでさ──」
自らの金髪をかきあげつつ男の内の一人が、はなから凪のことは無視して、光理に際限無く言葉を投げかけてくる。それに対しての彼女の返事は一言だった。
「別に」
後ろにいた長髪と短髪の男は、その発言に爆笑したが、金髪の男は耳を赤くしながら、口から奇妙な息を吐いている。
トラブルになる前に光理をうながしてコンビニに逃げ込もうとした凪だったが、その試みは失敗に終わった。金髪の男が横を通り抜けようとした凪の肩を掴んだからだ。
「おい、自分のツレくらい少しは教育しとけよ」
光理をいまいましそうに一瞥した後、金髪男は改めて凪に凄んでみせた。
「兄さんとの初めてを、こんな馬面に汚されるとはね。ほんと、不快だよ」
「兄さん?お前ら、兄妹でこんな時間に出歩いてんの、気持ち悪いな」
横で光理の表情がどんどん欠落していくのを視界の端で把握しながら、凪は目の前の男たちを観察した。
心臓は破裂しそうなくらいドキドキしていたが、ここで間違えると血を見るのは明らかである。素早く方針を決めると、凪は顔にヘラヘラとした笑みを浮かべた。
「そうなんですよ。ボクたち変態なんです」
そう言いながら、凪は冷静に肩を掴んでいる男との距離をはかった。
虚を図って頭突きを顔面に食らわした後、一目散に家と逃げ帰る。これしかないと彼は心の中で決意を固めた。
「おい、止めこうぜ。このコンビニ使えなくなるとめんどいだろ」
撤退を口にしたのは、凪が密かにリーダー格と目した長髪の男だった。
台詞とは裏腹に、自分の口にした言葉が、凪にどういう影響を与えるかを観察している鋭い目が、路上の世知のようなものを感じさせる。
「ちっ、分かったよ。」
金髪男は、地面にたんを吐き捨てると、他の二人を連れてコンビニの前を去っていく。すれ違うとき、短髪の男がこちらに小さな会釈を垂れた。
「幸運だったね。あれが兄さんの足にかかってたら、全員殺してたよ」
無事コンビニに入った後、カップ麺のコーナーに釘付けになった光理の第一声がこれだった。
両手でカップ麺を掲げながら、他人の生命について云々するのだから、好事家から見ればギャップが堪らないのかもしれないが、凪からすれば生まれるのは気苦労ばかりである。
「止めろよ、そういうの」
辛さ押しの新作カップ麺を見比べながら、凪は淡々と言った。別にあの男たちに思い入れもないが、殺したいほどの何かがあるわけでもないのだ。
「屋上のときは躊躇いもしなかったのに、わたしには抑制を求めるって矛盾してない?」
「過剰防衛って言葉があるだろ」
「ふーん、じゃあ、あの馬鹿面がナイフとか出して向かってきたら、どうするつもりだったんだい?」
そう言いながら光理が手に取ったのは、先ほど凪が購入を決めたカップ麺と同じものだった。別のものを分け合う間柄でもない。凪は入り口までカゴを取りに戻ると、二人分のカップ麺をそこに放り込んで、今日の目的の棚へと歩き出した。
凪の後ろにピッタリ着く形で光理は楽しそうにコンビニの中をキョロキョロしながら歩いてゆく。
「あの体勢からナイフだされても怖くないよ。それに、コンビニの前で傷害事件起こすほど頭がおかしそうにも見えなかったし」
「はぐらかされた気がするんだけど?」
「ケースバイケース以外の答えなんて無いだろ」
「そういうちゃぶ台返しは嫌われるよ、人に」
前に忠臣に持論をぶったときも似たような反応を返されたことを思い出して、何とも釈然としない気分に襲われた。
「必要ならする、不必要ならしない。それだけの話だろ」
「要するに兄さんは、殺されたくないから、殺さない派なんだね」
スナック菓子の棚に立ち止まり、光理の言葉をしばし咀嚼した後、凪は小さく首を振った。
「ボクは殺したくないから、殺さない派だと思うな」
「けどそれって、この国の道徳の問題だろ。ちょっと退屈な答えだね」
「うーん、そうかな」
「じゃあ、何で誰かを殺してはいけないんだい?」
「そりゃ、人を殺すのは簡単だからだろ」
彼の答えに唖然とした表情を浮かべている光理に、凪は己の持論を披露してみせた。
「だって考えて見ろよ、人間が人間を殺すのなんて、野犬殺すよりよっぽど簡単だろ。人間、楽な方に流れたくなるもんだが、そういうのは堕落だからな」
「前提に善悪の価値判断が存在している故に詭弁だね。生理学的から検知から考えても、ほとんどの人間は人間を殺すのに忌避感を覚える生き物だよ」
「お前な、前に人間は殺しあうのが好きって言ってただろ。自分で言ったことと矛盾してるぞ」
「生理学的な制約を超えてまで、同族殺しに勤しんでるんから、よっぽど好きなんだなって結論に達した可愛い悪魔が一匹」
「それだけ人間が簡単に死ぬってことだと思う常識的な人間が一人」
「なるほど、いちようの理屈は通ってるのかな」
「納得したか?」
「兄さんが常識人じゃないってことだけは分かったよ」
光理の気のない返事に、凪は少しばかりキツい視線を投げかけた。九割がた、お目当ての商品がパッケージを見たら、あまりそそられなかったことへの八つ当たりだったが、視線を向けられた方は焦った仕草を見せた。
「ごめん、ごめん。とはいえ、嘘はつけない性分だからね。出来るかぎり、兄さんの意志を尊重するってことで手を打ってもらえないかい」
光理の口調は常よりも早口で、彼女が本当に焦っているような印象を与えてくる。しかし、これがほぼ間違いなく演技なのだ。
「出来るかぎり、か」
「それこそ、私たちにとっては簡単なものなのさ。つい、やってしまうくらいに」
凪の言葉尻を捉えて、完璧なウィンクを決める目の前の存在を眺めながら、彼は異種間コミュニケーションの難しさを思ったりした。
「そう言われると弱いな。まっ、そうしてくれよ」
「うぃうぃ」
目当ての商品も手に入れ、レジに行こうとする道すがら、光が化粧品のコーナーのところで足をピタッと止めた。
「そんなもの必要なのか?」
「必要無いといえば無く、必要あると言えばあると言ったところかな」
凪は利用方法のよく分からない道具を手に取りながら、無言で光理にその謎かけの答えを促した。この分野で凪が考えて分かることなどほとんど無いのである。
「光理ちゃんのパーフェクトフェイスは、こんなもので補う必要はないけど、その事実をクラスの女子に露骨にアピールするのは下の下なことを近頃悟ってね」
「自分でパーフェクトとか──」
「美醜の問題は置いとくとして、光理ちゃんは肌荒れもなければ、無駄毛だって発生しない身体だからね。まっ、「感染」者も大体がそうなるわけだけど」
「初耳だぞ」
「言ってないからね。セルフイメージが身体に固定すると言うかな。自分が思う完全な状態に身体が勝手に近づいちゃうんだよね。これは、どこの系統の候補者でも大なり小なり同じさ。風邪もひかなきゃ、にきびも出来ないという寸法でね。平均的な「感染」者でも、切った身体の部分押し当ててれば、すぐに元通りになるよ」
「不治の病でも治るってわけか」
「それは何とも言えないかな。病気の自分というものが、候補者のセルフイメージを形成していれば、病気もその人の一部ってことになって、逆に治るものも治らなくなるケースだって十分考えられるし」
そこそこに真面目な話の横で、カゴには次々と化粧品が放り込まれていく。少しずつカゴを持った右手がダルくなるのを感じながら、凪は呆れて苦言を呈した。
「使いこなせるのか?」
「知識はあるし、失敗してもツッコミどころが出来て、クラスに馴染むキッカケになるという計算だよ」
「考えがあるなら構わないけど。まっ、頑張れよ」
その言葉を光理はここぞとばかりに鼻で笑ってみせた。
「光理ちゃんが人気のあまり、姫と呼ばれて、体育館でコンサートを開くレベルの人気者になってから、今日、気の無い言葉をかけたことを後悔するがいいさ」
ウザかったので、凪は目の前の鼻を摘まんでペナルティーを課した。避けられるかとも思ったが、光理は凪が引くくらいノリノリで鼻を差し出してきた。
「そもそも、こういうのってお前の力でどうにかなるんじゃないのか」
「フカノウデハナイヨ」
鼻を摘まれたままの調子外れの声で、光理は質問に答えた。その毅然とした態度に負けた気分になって、凪は光理の鼻から速やかに撤退した。
「とはいえ、これはそもそも一点ものを呼び出すための力でね。工業製品を召喚するのは少し疲れるんだよ」
「無理すれば、何でも呼び出せるってことか」
「何でもは無理だよ。例えば、有機物の類はほとんどが呼び出せないかな」
「それは能力として無理なのか、呼び出すと、時空転送の反動で死ぬみたいな話で無理なのか、どっちだ」
「前者だね。何ていうか、「豚バラ肉」を呼び出そうとしても、世界中に「豚バラ肉」って呼ばれる物質は存在するわけだろ。そうすると、私の力ではその中の一つを召喚することが出来ないんだよね。全召喚なら出来なくもないんだけど」
「その理屈だと、工業製品だって──基準があれば判断できるわけか」
「話が早くて助かるよ。工業製品は明確にその製品を構成する要素が規定されているからね。無数にある物質の中から、その純度が一番高いものを選べばいいわけさ。それだって、複雑な作業機械とかになると、こっちの手には余るわけだけど」
「不便だな。適当には選べないのか」
光理は可愛らしく首をちょっとだけ傾げた。
「兄さんが、適当の基準を教えてくれれば出来るようになると思うよ」
「一番最初に見つかったやつとか」
「全部同時に把握してるね」
「ここから一番近い距離にあるやつとか」
「この世界における座標のような概念で、こっちは物質というものを把握してるわけではないんだ」
「そっちの気分で決めるとか」
「それなら、気分の基準を教えて欲しいかな」
凪は口から大きく息を吐いた。
「要は、無理なんだな」
「そういうことだね」
光理のすまし顔を見ながら、凪は遅まきながら自分が地雷を踏んだことに思い至った。
「あれだ、悪い」
「謝られる理由が特に無いよね」
表情を変えずに光理は言葉を返してきた。先ほどの金髪男への対応よりはマシだが、そこと比べなくてはいけない時点で詰んでいるとも言える。
考えてみれば、これは光理のこの世界での在り方に関わる話だったのだ。それを「不便」の一言で片付けようとしたのだから、どう考えても非は凪の方にあった。
「自己満足なんだろうが、悪いと思ってることだけは分かって欲しい」
凪はその場でしっかりと頭を下げた。下を向いたまま彼が己のコミュニケーションスキルの低さを反省していると、頭上からくぐもった声が聞こえてきた。光理が口元を押さえて笑っているのだ。
「重い、兄さん、その反応は重いよ」
「それはそれで傷つくんだけどな」
「傷ついて傷つけて、素敵な関係だと思うけどね。それが嫌なら、気にしなければいい。わたしも別に気にしないよ」
どうせ利益ありきの結びつきだろと言わんばかりの光理の言葉に、凪ははっきりと首を振った。
「出来れば、許して欲しい」
「変なところで貪欲だね。ところで、ハーゲンダッツって美味しいんだよね?」
凪は無言で頷くと、扉つきの冷凍庫に仕舞われている高級アイスをカゴに放り込みにいく。
「何個だ?」
当然のように着いてきた光理に、冷蔵庫の扉の前で問いかける。
凪も流石にここであるだけの種類をカゴに入れるのが「重い」と分かる程度の分別はあった。しかし、どれくらいがベターなのかは全く判断がつかなかったのだ。
「バニラ、チョコ、ストロベリーが基本だと風の便りで聞いたことがあるよ」
言葉のままに、凪は三種をカゴに放り込んだ。少し不満そうな光理の様子から考えると、ここで丁々発止の駆け引きをするべきだったのかもしれないが、ここ数年、凪の人間関係の基本は攻められることだったので、こういう場面に上手く対応できないのだ。
互いに見知っている気配はある店員のレジでさっさと会計を済ませると、凪は予想よりかなり大目になった戦利品の袋を右手に持ってコンビニを出た。
「あっ」
二人が自動扉を抜けてから三歩ほどして、光理は急に奇声を上げた。凪は一瞬、先ほどの三人組が潜んでいたのかと思ったが、それはすぐに否定された。
駐車場に停まっているのは軽一台だけで、彼らが隠れられるだけの死角を作るには不十分だったからだ。
「何か買い残したものでもあったか」
「いや、ハーゲンダッツ三個はちょっと貰い過ぎたなと思ってね。こっちも公正公平が売りの商売だろ。貰い過ぎってのも良くないのさ。」
「なら、一つはこっちの分にすればいいだろ。ボクだって別に嫌いじゃないしな」
「それでも、まだ少しばかり天秤が傾いているような」
光理はそこで満面の笑みを浮かべると、握った右拳で、左の手のひらを打った。凪は現実でそのジェスチャー見たのは初めてだが、その示すところは誤解の余地もなかった。「ポンッ」というやつである。
「兄さん、重いだろ。その袋半分持つよ」
「拒否権は?」
「それはこっちに頭下げるより、今の要求が耐え難いという意味かい」
傷つくなぁ。凪に聞こえる程度の小声で呟く光理に、凪は相手に聞こえる程度の慎ましやかさでため息を返した。
「随分と高くついたもんだな」
アイスは二人で美味しく頂きました。