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魔王と幼馴染 ~夕と夜が出会う場所~  作者: 寿歌
第四章 永い冬の日
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第四章 永い冬の日 1~5

第四章 永い冬の日


1、

暗雲のかなたから、無数の雨粒が降り注いでいた。

見上げた少女の溜息が、白く輝きながら暗い夜空にたちのぼっていく。

彼女が行くのは、川の横を走る歩道。

薄い茶色のジャンパーを羽織って、小雨にぬれるのもかまわず、欄干に手をつきながら歩いていた。川のこちら側はこぎれいな住宅の姿が街灯に照らし出され、向こう側には薄暗いスラムの町並みが広がっているのである。

「遅かったですね」

冷たく澄んだ声に呼びかけられて、少女の足は止まった。

欄干のそばに黒塗りの車が止められ、人影が一つ立っていた。黒い傘を差し、灰色のコート、暗闇に浮き上がるような白い顔の女だった。

「暗い夜に…」

合言葉を尋ねてくる。

「銀の星」

レーナが答えると、相手の女はうなずいた。

「レーナ、どうしたというのです? 連絡が途絶えて半年がたちました。殺されてしまったのかと、ゼスタ理事長も案じていたのですよ」

「ごめんなさい。ずっと、地下の部屋に閉じ込められていたものですから…」

レーナは首を振り、言い訳をした。

「閉じ込められた。妖王に気付かれたのですか、あなたが我々の間者であることを?」

女性の声はあくまでも冷静だった。顔立ちも声色も気品があったが、まるで機械がしゃべっているかのように、感情の揺らぎが全くうかがえない。レーナは内心で気おされるものを感じながら、

「いえ、それはありません。だとしたら、私が生きているはずないじゃないですか」

「そう、望みましょう」

女性は…マーベル導師はうなずいた。彼女は、ゼスタ理事長の腹心であり、協会情報部の副部長であった。

「時間も無いので単刀直入に話します。

理事長は、妖王の動向について、多大な懸念を抱いていらっしゃいます。

彼は、協会に対して従うつもりはあるのか。何を目的としているのか。

そして、東町の貧民たちにばら撒いている資金はどこから出ているのか。

ディンケルはあなたに手がかりを洩らしましたか?」

「たぶん、協会に従うつもりなんて、さらさら無いと思います。

そもそも、あいつが何かに忠誠心を持つなんてありえないような…」

「それだけですか? 最初の質問には答えていても、あとの二つには答えていませんね」

雨ふりしきる夜の中、凛としてよく通る声。どこまでも穏やかで、どこまでも冷酷だった。

殆ど聞こえない溜息をついて、少女はうなだれる。濡れた前髪が表情を隠す。

「あなたのお母様…リンダ=ラスカーの運命はあなた次第です。あなたが、われわれの期待に沿うことができれば、彼女は救われるでしょう。さもなくば、母娘とも破滅するしかありません」

その瞬間のレーナは、目を見開き、体の全ての動きがとまってしまった。

偉大なる運命の女神から、致命的な宣告をうけた、哀れでちっぽけな罪人。身を微かに震わして、何も言い返せない。

「分かり、ました…」

ようやく、蚊の泣く様な声を絞り出す。

「理解しましたか? では、これを与えましょう」

マーベルの懐から、黒塗りの箱が取り出された。

「これは?」

「我々は間も無く彼を処分する予定ですが、失敗する可能性もあります。その時は、この箱のなかにある刃で、あなたが彼を殺しなさい」

「そ、そんな、無理ですよ!

爆風に巻き込まれても死ななかった男ですよ。

あいつを刃物でさしても、刃物の方が錆びてしまうだけって、そんな噂もあるんです…」

「それは、彼の呪術によるもの。彼は己の肌に守護の結界を張り巡らせている。この箱に入った刃には、それを打ち破る力があります」

「でも…」

「『でも』は要りません。分かりましたか?」

マーベルの声の強さに、少女は頷いてしまっていた。

「今すぐに殺す必要はありません。

分かったことがあれば、我々に伝えなさい。指示は追って出します」

黒塗りの高級車が、サーチライトで雨粒の軌跡を照らし出す。エンジン音を余韻に残し、夜の向こうへ消えていく。

呆然と見送る少女。か細い姿は、雨の中に捨てられた子猫のように、濡れそぼっていくのだった。




彼女たちが密会していたのは、川の西側であった。

そこから対岸までは十メートルの距離しかない。

東岸から、双眼鏡を片手に、セーンは一部始終をのぞいていた。

木霊の術を使い、彼らの会話も全て聞いてしまったのである。

二人が車に隠れたとき、セーンはようやく盗聴をやめた。

双眼鏡を下ろし、後ろに控えていたオズルに手振りで合図をする。

足音をしのばせ、車道を渡り、川から遠ざかった。

水音がほとんど聞こえなくなったとき、今までじっと下を向いていたセーンはようやくに顔を上げ、

「オズル、君には感謝するよ、良いものを見れた。実に良いものを見れたよ」

「このようなものを見せて、さぞ御不快でしょう。

しかし、どうしてもお伝えしなければと思いまして」

オズルは深々と頭を下げる。

少年はしばらく沈思したあと、

「おかしいとは思っていたんだよ。炎上する街中で、あいつと再会するなんて、偶然としては出来すぎていた」

もっと早く気付いても良かった。

幼いころのレーナの、純朴な印象がぬぐい去れずにいたのだろう。

(いや、それだって怪しいものだ)

実際は、昔から彼女には散々に振り回されていたのだ。時が過ぎるにつれ、記憶はいつのまにかセピアに変色していたのだろう。

「全ては、協会によって仕組まれたことだったのです。

あの日あの場所で、お嬢さんがおやかたさまと出会ったのは」

「だろうね。でも、『大地の裏側』にいたとき、彼女はどうやって協会と連絡していた?」

「族長たちの中に、協会の息の掛かったものがいたのでしょう。ジェノア族長あたりが、そうだったのではないでしょうか」

「俺がジェノアを殺したとき、あいつは俺の邪魔をしたな」

あのときの少女は、必死の力でしがみついたものだ。

「だが、ジェノアは死んだ。だから、彼女は直接に、協会の人間と会わざるを得なくなったわけか」

セーンは息をつく。

「あいつも、変わったものだ」

「人間は、その環境に合わせて自分を変えていけるものです」

「母親がどうこう言っていたな」

路地の細い道に、彼らは入り込んでいた。

「お嬢さんは妖族の血を引いていたという話でしたね。

そのことを種に、協会から脅されでもしたのでしょう」

「ありうることだね」

もし、レーナが妖族の血を引いていることが知られなければ、郊外の小さな町で、今も母親と穏やかな生活を営んでいたのだろうか。

暖かい生活から引き剥がされて、今の彼女は酷い運命の道を歩まされていた。

「彼女に御同情なさいますか?」

オズルの憂いを帯びた眼差しが、曇った眼鏡の下から覗きこんでいる。

「それはないよ。この世界で、不幸な人に一々同情していたら、とても身が持たん。

彼女をどうしてくれようかと、今考えているんだよ」

「彼女は、おやかた様を害するかもしれません。ただちに誅殺いたしますか?」

「…やめとこう。スパイだと分かれば、逆手に取れば良いだけだ」

「くれぐれも、お気をつけあそばすよう」

「分かってる」

セーンの言葉は冷静だったが、どす黒い感情が胸の奥で轟々と渦巻き始めずにいられない。

いっそ今すぐにでも彼女を八つ裂きにしてやりたいほど、苛立ちが頭蓋の内を焼き焦がす。腹立ち紛れの絶叫を喉の底から迸らせたかった。

だが、オズル族長の前とあっては、思いのまま取り乱すことも叶わない。

口を硬く閉じ、奥歯だけで歯軋りしながら、何と虚しいことだと考えずにはいられない。

生れ落ちたつとから、彼の人生は数え切れない恥辱の連続だった。

幾度となく馬鹿にされ、見下され、嘲笑われた。心を引き裂かれるほどの憤怒と絶望の苦悶に耐えかねて、泥の地べたを転げまわった。

惨めさから逃れたくて、いつしか彼は権力を渇望するようになった。だれかれも見下されたくは無い、そのために上へ上へとのぼりつめたかったのだ。

挙句の果てには妖王となり、大衆の心を操る術も身に着けた。

にもかかわらず、今の己の姿は何と情けないことよ。

あの少女には他の誰よりもバカにされたくなかったのに、当の彼女に裏切られ、影で見下されていたのだ。

(ダメな奴は、何をやってもダメ、か)

セーンは、物憂げな表情のまま、白い溜息ひとつを夜の闇に吐き出すのだった。



2、

静謐な暗黒の中で、地球は輝いていた。

緑と茶色に染まった大陸、どこまでも水色の平らな海、気流に白く渦巻く雲。

それらが球体の裏側から現れ、また裏側へと消えていく。滞ることのない自転運動を眺めていれば、巨大な歯車が轟音をたてて回る幻聴が、静寂の裡から響いてくるようにも思えるのである。

「美しい星だ」

オーレルは腕組みをしながら、感慨深い溜息を漏らした。

二人は広大な閉鎖空間の中にいた。セーンは空間のあちこちに視線をやり、星々の数の多さに溜息をつく。この大きな地球も、宇宙の中ではごみのようなものなのかと、そんなことばかり考えていた。

「導師…」

少年はオーレルに声をかける。

「あなたは、この星をどのようにしたいと思っているのですか?

そもそも、巨大な連邦を滅ぼすということ自体、夢幻の類としか思えないのですが」

「私が、いつ、連邦を滅ぼしたいと言ったかね?」

不思議そうな導師の言葉に、セーンは絶句してしまった。

「いやいや、そんな顔をするのはやめたまえよ。

暗示で人を操っておきながら、明確な言質は決してとらせないやり方は、君こそ得意であろう?」

導師の皮肉に気付き、彼は頬を赤く染めてうつむいてしまった。

「さて、ここからは一般論だが…人間の手になるもので、滅びぬものなど何一つない。今の連邦とても例外ではなかろう。

真夏の季節とされる7月や8月には、昼の時間は日ごとに短くなっていくのだ。

繁栄を極めていると皆が思い込んでいるときこそ、誰も気の付かない衰退が始まっているのだよ」

導師はゆっくりと息をついた。

「実際、連邦の辺境部では既に動揺が始まっている。

北方の行政区では、北方人どもの憎悪は日々高まり、背後では妖族の暗躍もみられる。

南方は、宗教がらみの暴動が絶えることがない。

湖北の旧王国も、治安の悪化が著しい。

仮に今あげた地域で、同時に反乱の火の手があがったとしたら…機能不全をおこしつつある現在の連邦に、対応することができるだろうか」

導師の声はどこまでも冷静で、策謀家にはありがちな気負った調子もなく、ただ淡々と語っていくのである。

(なるほど、この男はそんなことを企んでいるのか)

余人が言えば子どもの妄想にしか聞こえない話だったが、深みのある導師の声は不思議な現実味を響かせているのである。

(この俺も、連邦崩壊のための布石のひとつという訳か…)

どこまでも皮肉屋のセーンは、敢えて小馬鹿にしたような所作で小首を振った。

「各個撃破されるのが落ちだと思うんですけど。仮に、連邦が崩壊したとしても、あとに待つのは悲惨な混乱だけですよ。導師はそれを望んでおられるのですか?」

僕は大歓迎ですけどね、とセーンは小さな声で付け加える。

「要は、連邦になり代わって、世界を束ねる勢力があればよいのだろう」

「そんなの、ありますか?」

「無いわけではあるまい」

青い光に照らし出された導師は、足元にある幻影の地球を見つめていた。その視線の先には、中央湖の東側、『湖東』と呼ばれる地域があった。

(あの地域では、経済の発展が著しいとかな。連邦の力があまり及んでないゆえに、却って自由な成長を遂げられた)

セーンはそんなことを思い出しながら、

「導師は、30年前、湖東地域を戦乱から救ったと聞いたことがあります。

あの地域では、今も導師は英雄で、誰もあなたに頭が上がらないとか」

「もう昔の話だ。それよりも、私は君の真意を聞きたい。ディンケル君は、私に協力するつもりがあるのかね」

導師の問いは、その場で即答せねば済まされない、響きの鋭さがあった。

セーンは一瞬だけ口ごもってしまう。

(いったい、連邦が本当に滅ぶとして、どうなると言うんだろう…)

今の体制が腐敗に満ちているとしても、それは人類の常態というべきものではなかろうか。

連邦体制に代わる新たな体制が出来たとして、強者が弱者を虐げる醜い構図が、変わる日がくるとは思えなかった。

セーンの瞳に宿る懐疑を見抜いたのか、導師はゆっくりと首を振った。

「君に、私の理想を共有することは望まない。所詮、こうしたものは押し付けても甲斐のないことだ。

しかし、今のままでは君は滅ぶしかないのだぞ?」

導師の細い瞳は、射抜くような輝きを放っていた。人気の無い公園で邂逅した時と、同じ眼差しである。

「連邦の体制が続く限り、君は利用しつくされ、やがては処分されるしかない。それならば、抗ってみようとは思わないのかね? 

いや、思っているのだろう。ディンケル君は確かに、万事に対して冷ややかな態度をとっている。

しかし、私には分かるのだよ。きみの心の奥底には、君を押し潰そうとする世界への怒りが暗く燃えさかっている…」

囁きが、奥底にまで響いてくるようで、セーンはゆっくりと顔を上げる。

「ともに戦おうではないか。私と一緒に」

少年の肩に、導師の大きな片手が重なっていた。

「僕は…」

セーンは何かを言いかけて、そのままゆっくりと頷いた。どちらにしたところで、今の自分には、彼に逆らうことは出来ないのだ。

「ありがとう。本当に、ありがたい」

オーレルは、少年の手を握り締めていた。導師の手は暖かくて、握り締める力の強さには心底からの喜びが感じられて、セーンは柄にも無くうろたえてしまうのだった。




広大な宇宙空間は消え去っていった。

彼らが戻ってきたのは、オーレル邸の応接間。窓の外には冬の夜空がどこまでも暗く、凛とした雪の粒子が舞い降りていた。

室内では暖炉の炎が明々と燃え盛り、暖かい明るさに満たされていた。

導師は、さきほどまでのことが嘘であるかのように、正面の椅子にゆったりと身をもたれさせかけていた。セーンはしばらく立ち尽くしていたが、

「そうだ、忘れていました。お渡ししたい物があったのです」

少年はそういって、懐から封筒を取り出し、導師の机に置いた。

封をやぶり、中身のメモや写真をちらりとみた導師は、少し意外そうに眉を寄せた。

「このような情報、君はどこで手に入れたのか?」

「いえ…繁華街の情報筋から。最近では、私のところにも色々と情報が集まるようになりましてね」

情報が集まるようになった、とは首都の裏社会で妖王への支持者が増えていると言うことだろう。

「これも、オズル族長からの援助のおかげです。…感謝しています」

財界とつながりのあるオーレルは、手先のオズルを通じて、妖王への資金供与を行っていたのである。

「この情報は何かの役には立つかもしれぬ。感謝する」

彼は出て行こうとして、ふと振り返る。

導師の背後には、あのアクルス=ゲイザーの肖像画があった。半世紀も前に連邦を変えようとして、無残に敗退した男である。

「幼いころから、この方を尊敬されていたのですね」

導師は画を一瞥して、小さくうなずくのである。

少年はにっこりと微笑んで(彼にはかなり珍しい、無邪気でうれしそうな笑顔だった)

「私にとってのオーレル導師と一緒ですね。小さいころ、私もあなたの写真を部屋に飾ったりして、幼馴染や伯母から笑われたものです。

それにしても、分からないことがあります。あなたの方がゲイザー導師よりも余ほど優れているというのに、なぜ彼をそこまで崇拝なさるのです?

所詮は、時流に乗れなかった人じゃないですか」

導師は、珍しくも不快そうに眉をひそめ、

「それだけ、人々が愚かということだ。

始めに正しいことを言ったものは、損をするのだよ。

最後に勝つのは、決まって二番煎じ、三番煎じだ。

先駆者の言った事を小ずるくも盗み取り、己の薄汚い野心に利用する俗物どもばかりが得をする。まことに遺憾なことだね」

肖像画のゲイザー導師は、厳しくも哀しそうな眼差しで、オーレルを見下ろしていた。じっと見つめ返しながら、オーレルは嘲りの笑いを小さく漏らす。その軽蔑は誰に向けられているのか、少年はじっと見極めているようだった。

「でしたら…でしたら、あなたがその俗物とやらになっても良いじゃないですか?」

「…?」

オーレルは少し意外そうに息を呑み、顔を上げるのである。

「確かに、先駆者は滅び去り、それを真似した者が勝つということは幾度もあったことだと思います。

けれど、二番煎じをした人々の心にあったのが、薄汚い野心だけだったとは、私は思いません」

少年は静かに話しながら、不可思議な深みを湛えた瞳で、導師をじっと見つめているのである。

「彼らはきっと理想を叶えるために、あえて汚い手を使った。

先人の理想を唱えながら、一方で金のあるものたちとつるんだ。

人々の感情に付け込んで、煽り立てもした。

俗物的な方法でなければ、世の中を動かすことは出来ず、時代を変えることも出来はしないと弁えていたのでしょう」

「中には、そのような考えの者も、いたのかもしれないな」

オーレルは気の無さそうな返事をしながら、脳裏では昔を思い出していた。

あの少女…妖王二世を名乗らされていた彼女も、似たようなことを言って自分を励まそうとしたことがあった。

彼女の面影を良く引き継いでいる少年の顔を見上げながら、オーレルは少しだけ胸の痛くなるような懐かしさを覚えるのである。

だが、彼は冷たい笑いを浮かべ、

「君はそれで、私の機嫌を取っている積もりなのかね」

と言い放つ。

「え?」

少年の大きな瞳が、戸惑いに揺れた。

「相手の意見に反対するようなことを言いながら、その実は相手を持ち上げる。なかなか高等なおべっかといえよう。たくみだな、君は」

からかい半分に評価を下され、さすがのセーンも戸惑っていた。

「いえ、私は、そんな」

「残念ながら、ディンケル君の言い方には欠点がある。そもそも君のように理想の欠片も無い男が、『理想をかなえるために敢えて汚い手段を使え』といったところで、説得力が全く無いのだよ」

「別に、理想が無いわけでは…」

少年はうなだれてしまうのである。

彼はたしかに賢いのだと、導師は見て取っていた

だが、話を交わすたびに、精神の卑しさにも気付かないわけにはいかない。

セーンの心の奥底には、あらゆるものへの冷え冷えとした感情があることは明らかであった。

信仰、道徳、理想、信念…普通の人間であれば、多かれ少なかれ敬意を払わずにはいられないもの全てが、この少年にとっては無価値だったのである。

人間の勝手な思い込み、妄執の類に過ぎないと、見下してさえいるのだろう。

彼の冷笑的な思想は、不幸なまでに鋭敏な彼の知性と、おそらく無関係ではなかった。

「君はいったい、私のどこを尊敬している?」

オーレルは試しに尋ねてみるのである。

「あなたが強いからでしょう。私も妖族ですから。

それに、あなたの邪魔をしようとした人は、みんな奇妙なことになります。不幸な死を遂げたり、廃人になったり、ひょんなことで失脚したり」

顔を赤らめながら、少しだけ視線を逸らせて、窺うようにして言うのである。

媚びるような彼の表情も、あの少女にそっくりだと内心では呆れてしまいながら

「…君は何か、勘違いをしているみたいだな」

導師はげんなりした口調で、不思議そうに首をひねってみせた。

「どうでしょう? 30年までの裁判に掛けられた時、結局は無罪を勝ち取ったのも、岳父の財産を活用してとの話も聞きますし。

オーレル導師は世間で言われているほど『良い人』じゃないと思います。

そこがまた、私にとっては最高なんですよ」

少年は、またにっこりと笑う。

(俗物は俗物を尊敬するというのは、本当のことか…)

導師は心の中だけで苦笑いした。




オーレルの元を辞し、妖王は雪降りしきる空の下を歩いていた。

(ゲイザー導師のことになると、あの落ち着いた人がムキになるとは…)

彼は少し可笑しくも、興味深くも思うのだった

導師が崇拝しているゲイザーは、かつて魔性の女と結ばれ、そのことをきっかけに失脚した。二人の間に生まれた男の子は、行方知れずであった。

オーレルとゲイザーの肖像を見比べたとき、奇妙な類似性を直感したことを思い出す。

そして、還暦を過ぎたオーレルが未だ若々しい不思議。彼の人間離れした才能。

答えはすぐに出そうなものではある。

(でも、オーレルがゲイザーの息子であるとの確証は、どこにもない)

証拠の無い以上は、仮説であり妄想に過ぎないと分かってはいたが、胸の内でうずく予感は確信に近いものだった。

(ファザーコンプレックスか…あんな人でも、そんなのがあるのか?)

「ねえ、セーンは何一人で笑っているの?」

図書室に入ったときも、まだ一人笑いを浮かべていたため、レーナに気味悪がられてしまった。

「いや、なんでもないさ」

セーンは屈託ない視線を送る。少女は小説本を読んでいるようだった。

「今日は、こんな寒いのにどこに行ってきたの?」

レーナは尋ねてくる。

「いや、今日はちょっと考えをまとめたくてね。何とかして、妖族の族長たちと仲直りしたいと思っているから」

「へえ。どういう風の吹き回し?」

相変わらずレーナは本を読みながら、関心も無いふうを装っていた。

部屋の中は暖かい。だが、灯油ストーブの放つガスで、嫌なにおいが充満している。

「俺の部下たちも所詮は烏合の衆だからな。

いつまでも族長と仲違いしているわけにも行かないじゃないか。協会との関係だってあるし」

「ふーん…じゃ、あいつらを攻撃するとか、そんな気はないの?」

「あるはずもないだろう」

セーンはあっさりとうなずいた。

「へえ」

レーナはそれきり、また本に視線を落とす。セーンは少し本棚をあさった後、

「じゃ、俺はまた出かけるね。ちょっと、会わなきゃいけない人がいるから。しばらく帰れないよ」

「いってらっしゃーい」

少女は気の無い返事をするだけである。



3、

族長アベクがいつものように、世界の珍味を闇雲に取り集めた食事に手をつけようとしたときのこと。

彼はエナスの裏社会に勢力を持つ、妖族の族長の一人だった。しかし、他の族長たちとは違い、主に地上にいることが多かった。そのほうが怪しげな商売からの収益も多く得られるというのが理由である。

扉を乱暴に叩く音が聞こえた。始めは耳のせいと言うことにして、目の前の食事を飲み込んでいた。

三度目に音がしたとき、彼はようやく、渋々と立ち上がった。

おそらくは、心得のない部下が騒いでいるのだろうと思った。

「なんです、騒々しい」

いつもの通り、丁寧な言葉遣いで声を掛ける。目下のものに対しても丁寧語を使うよう、彼はいつも心がけていた。

無論、対等の付き合いを望んでいたわけではない。

貴族的(いつも丁寧に話すのが貴族的だと彼は勝手に思っていた)な振る舞いに、自分で酔いしれているだけのことである。

彼が向かおうとしたとき、その扉が向こうから開かれた。

「アベクさま、お久しぶりですね」

入り込むなりそういったのは、貧相な顔に安物のサングラスを掛けた彼の部下であった。

「何の用です?」

「そのように呑気にしてよろしいのですか? 妖王の信奉者たちが攻め込んでくるかもしれないのに」

「わざわざ、そんなことを言いに来たのですか」

アベクは軽蔑にみちた目つきで部下を見やり、

「あなたは知らんでも良いことだが、妖王から和平を提案されているのですよ。然るべき情報筋からも、妖王は我々と和解を望んでいることが確認されている」

微かな笑い声が漏れた。

みると、北方人のレムが含み笑いをしていた。黒いレンズの下にある小さな目が、嘲りの光を放っているのだ。

「な、何ですか? その目つきは!?」

「まだ、ご存知ないので? 外では大変なことになっているというのに」

部下である筈の男の、不敵な笑みがひどく薄気味悪い。アベクは促されるまま、窓の方に向かうのである。

窓の向こう側には、先ほどまで雲ひとつない空が広がっていたはずだった。

それがどうしたことだろう、今や奇怪な色彩が西空を染めているのだ。

黄色や緑、紫や桃色。空の色としてはありえない光彩が渦を巻き、妖しげな混沌を織り成している。

それも次第に形を取り、徐々に人の顔に近づいていくのだ。

輪郭が明らかになったとき、アベクはほとんど悲鳴を上げそうになった。

空に映し出された人の顔、それはいつも鏡で見る自分の顔を、何百倍にも巨大化させたものだったのだ。

「わ、私…?」

薄雲につつまれながら、巨大なアベク族長はいやらしく笑っていた。笑い声までもが、空全体に響きわたっているのだ。

『あのお方は本気で連邦と戦争するおつもりなのですかね? 私はそんなことに興味などありません、むしろ連邦の役人とつるんで金儲けしている方が、よほど儲かりますからな』

かつてアベク自身が放った言葉が、空から降ってくる。

笑い声があとに続いた。自分自身の笑い声なのに、どうして他所から聞くと、こんなにもいやらしく聞こえるのだろう。アベクは全身、総毛立つ思いがした。

しかも、その一部だけが繰り返すのである。


『連邦の役人とつるんで金儲けしている方が、よほど儲かりますからな』


『連邦の役人とつるんで金儲けしている方が、よほど儲かりますからな』


『連邦の役人とつるんで金儲けしている方が、よほど儲かりますからな』


同じ言葉がどこまでも執拗に繰り返す。そのたびに、窓ガラスが微かに震えた。

「あなた自身のおっしゃった言葉が、昨日からずっとあちらこちらで響いているのです。そう、東町のスラム全域で。アベク様、このことの意味が分かりますか?」

「じゃあ、住民全員が聞いているということなのか?」

「その通り。反連邦でいきり立ち、夜な夜な暴動を起こしている連中もね。そいつらがあなたの言葉を聞かされて、どんな気分になるか」

レムは歯をむき出して笑うのである。

声は今も繰り返していた。これが、群衆に聞かれていると言うのか?

「や、やめなさい。止めなければ…」

「無理ですよ」


『連邦の役人とつるんで金儲けしている方が、よほど儲かりますからな』


『連邦の役人とつるんで金儲けしている方が、よほど儲かりますからな』


際限ないリピートの裏側からは、どこまでも粘着質な悪意が不気味な哄笑をあげているのが聞こえてくるようで、アベク族長は身震いせずにはいられなかった。

「これは、あいつの…ディンケルの策動か!?」

「その御名を、みだりに口にしないでください。あなたの汚い口を通るには、その名はあまりに尊いものだ!」

「貴様…裏切ったか!」

もはや敬語を使う余裕もなくし、アベクが目の前の北方人をにらみつけたとき、地鳴りのような響きが窓ガラスを揺さぶった。

『連邦の手先がいる場所は、ここですかぁぁぁ!!!』

空から響く幻術の音とは違って、下のほうから聞こえてくる。

あわてて窓を開けて、悲鳴を上げそうになった。

この建物の周囲は、古びたアパートが連なる住宅街であったが、その細い路地を通って大勢の人間が押し寄せてくるのである。

先頭を走るのは、獣の顔をした男達だった。牛や馬の仮面で空をあおぎ、ほとんど狂人に近い叫びを上げていた。

あとから雲霞の如く付き従う群集たちは、仮面などつけていない。

動物の仮面などより、目を血走らせ白い歯をむき出しにした彼らのほうが、よほど獣じみて見えるのが恐ろしい。

手に棍棒や松明、なかには銃器を持っているものさえもいた。道を行く人々は、口々に悲鳴を上げ、各々の家に駆け込んでしまう。

アベクもあわてて首を引っ込めた刹那、鈍い銃声が空気をつんざく。身を引いたアベクの目の前で、ガラスが粉微塵に砕け散った。

「連邦の手先は、ここですかぁぁぁ!!」

仮面をかぶった男たちの叫びが、今度は間近で響く。その叫びに呼応するように、ものを叩き潰す音、今にも息絶えそうな悲鳴が、あちこちで木霊するのである。

ドアが開けられ、傷だらけの男が飛び込んできた。

「アベク様、大変です! 敵が、敵がこの建物に押し寄せてきました。建物中を破壊するつもりのようです!」

「くそ! ここは警察に電話だ!」

「ギャングが、警察に電話ですか?」

レムが皮肉混じりに言う。

「今更何を言うのですか、我々は警察にだってコネがあるのですよ」

アベクはひきつった笑いを浮かべながら、電話の番号を何度も押した。

それなのに、電話は何の反応もしてくれない。

「無駄です。このあたりの電話線は、全て切られていますから…」

「な、何…」

次の瞬間、レムは報告にやってきた男を殴り飛ばしていた。

別の男達の一団が、ぞろぞろと別の扉よりはいってくる。みな、レムと同じ、迷彩服を身にまとっていた。

「レムさま、この階はすでに制圧しました。敵の主戦力は、一階に降りて外の味方と戦っています」

「上と下とで挟み撃ちだな。勝利は近い」

「う、裏切ったな…」

アベクの声は、獣じみたものになっていた。

「普段の余裕はどこにいったのですか? アベク様…いや、アベク殿。言葉は謹んでくれ。俺はすでに、おやかた様の勅使に列せられているのだ」

「…お、お前が? 妖族の血を引かないお前が、勅使だと…。冗談も程ほどに」

「おやかた様は偉大だ。あのお方の前にあっては、妖族も平民も等しく無辜の民に過ぎない…」

レムはサングラスを放り出し、くぼんだ目を異様に輝かせるのである。

「平等だと…あのガキに何を吹き込まれたか知らんが、よくもまあ…成敗してあげましょう」

アベクは腕をさしだそうとしたが、その一瞬前にレムが左手につけられた籠手をふるった。

光が瞬き、アベクの体を包み込む。だが、取り立ててどうと言うこともなさそうだった。

「はん、こけおどしを…食らいなさい!」

族長は叫び、腕を振り上げた。

だが、何もおきない。

「あ、あれ…?」

何度も腕を振り上げた。それでも、何もおきないのだ。

しまいにはレムは笑い出し、相手のしぐさを滑稽に真似てみせる。わざと呆けた顔をしてみせ、右手を頭上でぶらぶら揺らし、くるくるとバカみたいに回りながら、

「なに馬鹿踊りをしている? あなたの言う成敗とやらはどうした?」

あざけられ、屈辱に顔をゆがめながら、アベク族長は必死で念をこめる。全身から霊力が抜けてしまったようだった。

「その籠手…」

改めて、謀反人の左手に備え付けられた、奇妙な機械に目をやった。

「おやかた様こそ、力の源なのだ。おやかた様に従うものは力を得る。逆らうものは力を失う。

かのお方の偉大さの前に、私も貴様も平等だ!」

アベクの細長い顔を、岩のような拳が直撃した。叫びを上げることも出来ず、床に叩きつけられる。

「さあ、拳固と拳固で勝負だ!」

肩を怒らせながら、レムはかつての主に迫っていく。

敵が大きな野獣にも見えてしまい、族長は小さく悲鳴を上げる。血まみれになった顔面を拭う間も無く、脱兎のように逃げだすしかなかった。

「やつらを、倒せ、ラグナスと!」「ささげよ、全てを、ラグナスに!」

勝利の雄叫びが、階下より響き始めていた…。




隣の建物は、既に炎上していた。窓と言う窓から、紅蓮の炎が噴き出している。

眩いまでの赤い光を背にして、妖王が屋上に立っていた。

彼の姿は影よりも濃く、羽織るジャンパーは、巻き起こる風にたなびいていた。

『連邦の役人とつるんで金儲けしている方が、よほど儲かりますからな』

こんな状況になっても、アベクの失言はどこからともなく繰り返されていた。そのたびに男達はいきり立ち、引き立てられるアベクの頭を太鼓みたいに乱打するのである。

かつての族長は血まみれで、スーツもぼろぼろに破れた姿のまま、屋上に引き出された。あれほど軽蔑していた少年の前に、奴隷のようにひざまずかされる。

大勢の男達が建物を取り巻き、こちらを見上げている。

妖王は大きく手をゆっくりと振り、地上より歓声が沸きおこるのだった。

「やつらを、倒せ、ラグナスと!」「ささげよ、全てを、ラグナスに!」

大歓声に包まれながら、妖王は一息すって声を張り上げた。

「見るが良い、この男の無様な姿を! 妖族でありながら、術を使うことも出来ず、平民に取り押さえられてしまった。

私を前にして、妖族も平民もない。私に従うものは力を得る。私に逆らうものは力を失うのだ!」

「嘘だ嘘だ嘘だ!」

アベクは血にまみれた顔を恨めしげに上げ、必死に叫ぶ。

「こんなのはいかさまだ! お前は、術道具を使って私の術を封じ込めたのだ! 決して妖王の力などではない!」

「ふーん、術道具って、これのことかい?」

少年はレムの左腕から籠手を取り上げ、アベクに見せ付けた。

「そうだ、それで私の術を封じ込めたのだ!」

「なら、君が使ってみなよ。この俺に。そうしたら、君の言葉の真偽か分かるだろう」

そう言って、銀色の籠手を手渡した。

「使い方は簡単。とがった部分を俺に向け、黄色いボタンを押せばよい。さあ…」

「く…」

少年のあまりにも余裕に満ちた態度に、アベクはわけも分からず恐怖に襲われた。

だがそれでも、彼の言うとおり、籠手を動かしてみるのだった。

青白い閃光が、刹那の間だけ妖の王を包み込む。

「さ、さあ、どうだ」

少年は一瞬だけ、自分の右手を眺めていた様子だった。

地上で大騒ぎしていた男達も、一瞬だけ沈黙する。

セーンは右腕をゆっくりと前にかざし、白く輝く蒸気が噴き出した。

全てを蝕む恐るべき霧。絶たれた命は限りなく、知らぬものなど誰もいない。

「あ…、あぁ、あー」

気の抜けたような声を上げ、アベクはがっくりと手を突いた。

下からは、先ほどよりもいっそう激しい歓声。

「君は、何ていった? 君の力が奪われたのは術道具のせいだって言ったよね。じゃあどうして、俺は力を奪われないのかなぁ? ねえねえ、教えてよ」

絡みつくような声で質問責めにしたあと、少年は左手を振るう。アベクの細い顎が、見えない力ではじかれて、彼は無様に仰け反った。どっぷりと赤く染まった空は、彼の目に映っていたのだろうか。

「我だけが、特別なのだ!」

少年は高らかに叫ぶ。気流が舞い上がり、賛意のどよめきが沸きあがった。

「我が前にあって、妖族も平民も変わりはない。王である私だけが、別なのだ!」

アベクは、ただ地面を見たまま、何も言わない。世界を見ることそのものを、拒んでいるようである。彼の耳元に口を寄せ、少年はささやくのだ。

「言っている意味が、分かる? …分かんないかぁ。

そんなおバカさんは、生きていても仕方ないね」

蒸気の吹き上げる右手で、アベクの顔をわしづかみにする。

「ああぁぁぁ…」

声にならない叫びを上げ、彼の体は見る見ると萎びていった。

妖王は、動かなくなったアベクの髪をわしづかみにし、右手で軽々と引きずって、屋上から突き落とす。群集はあわてて散らばり、アスファルトの広場にぽっかりと空間が出来た。

体が地面に落ちたとき、うつろな音が鳴った。

四つの手を広げた体が、うつ伏せに潰れて路面に張り付いていた。

いったん逃げ出した群衆は、轟音のような歓声を上げる。

津波のように押し返し、アベクの遺体に襲い掛かった…。


これは全て、わずか半時の間に起こったことである。

連邦警察や消防団の到着を告げるサイレンが、ようやく遠くから聞こえてきたとき、妖王も、その追随者たちの姿も、悪夢が醒めたあとのように消え去っていた。

破壊の限りを尽くされたビルの廃墟と、あちこちに散らばったアベク一味の死体だけが、黄昏の空の下に取り残されている。

火は未だくすぶり、黒い煙が筋となって空へ上がっていった。



4、

「いったい、どこから漏れたというのか…」

協会総理事長のゼスタ導師は、新聞を片手に部屋を行きつ戻りつしている。

これで何往復目かな? とオーレル導師は皮肉な思いを胸に抱きながら、

「落ち着いてください。対処さえ誤らなければ、怯えることなどありません」

あくまでも穏やかに諭す。

協会本部の地下5階、小会議室にいるのはゼスタとオーレルの二人だけである。

この建物は、公式には地下3階までということになっていた。存在しないはずのこのフロアは、緊急時の避難場所であり、誰も聞いてはいけない会話がなされるところでもあった。

「だが…」

ゼスタは何かを言いかけ、口ごもる。彼の手にしたタブロイド誌には、大見出しで

『ゼスタ理事長に疑惑浮上・賭博組織との癒着疑惑』

と書かれていた。潔癖さを売りにしていたゼスタ導師とっては、ゆゆしき不祥事であろう。彼に弾劾されたものたちは、今こそ復讐の牙をむくに違いなかった。

もっとも、この地位にまで上り詰めた人間にしては、ゼスタはそれほど悪質な部類にも入りはしない。だとしても、叩いて埃の出ない人間は余りいないものだ。

それを思えば、オーレルも多少の哀れすら抱くのだった。

いつもは尊大なゼスタ導師が、いまやソファーに座り込み、叱られるのを待つ子どものように、頭を抱えているのである。

「あなたが時流に乗っていれば、多少の不祥事が明るみに出たとしても、皆が見逃すことでしょう。

あなたが時流に乗っていなければ、ほんの些細なことであっても、皆が騒ぎ立てるでしょう。スキャンダルなど、所詮はそれだけのことです」

「だが、その時流が問題なのだ…。

警察と協会の連携も上手くいかず、東町の暴動はなかなか完全鎮圧できん。

国民の怒りは軍や警察を通り越し、ついに術者協会にまで及んできておる。この上に不祥事とあっては…」

導師は顔を上げ、何かに気付いたように顔をこわばらせる。

「ディンケルが問題なのだ。地下から逃げ出したと思えば、急速に支持者を拡大させ、今ではバカにならぬ勢力になっていると言うではないか。

なぜ、あの子どもにそこまでの芸当が出来るのか? なぜ、あいつの組織は当局の取締りを巧みに逃れることが出来るのだ? 何かある、何かあるに違いない…」

理事長は興奮したようにまくし立てた。

「彼を利用しようとしたのが、そもそもの失敗でしたな」

オーレルのほうは、どこまでも沈着だった。

「かもしれん…。だが、過ぎ去ったことを言うのはやめてくれ」

己の過ちのことなど、考えたくも無いという風にゼスタは頭を振るのだった。

消沈した理事長の肩に、静かに手が重ねられた。

「…?」

理事長は顔を上げる。顧問官は穏やかな微笑を向けていた。

「過ぎ去ってしまったことを無くすことは出来ません。しかし、挽回することは出来るでしょう。

ゼスタ理事長は、決して時流から見捨てられている訳ではありません。

なぜなら、あなたを必要とするものがいて、あなたの果たすべき役割が残っているからです。天運の尽きていないものは、決して滅びることはないのですよ…」

淡々とした語りかけでありながら、真摯な響きがあった。

ゼスタの心は、言ってみれば北風にさいなまれる小鳥のように震えていたのだが、導師の囁きは暖かい春の日差しのように、彼を和ませ、落ち着かせてくれるのである。

「だが…、それならばどうすればよいのだ」

「セーニス=ディンケルは、私が責任を取って始末いたしましょう。

ですが、彼を殺せば終わりというものではありません」

「というと、何だ?」

「彼を背後で操るものの存在があります。

…あなたがおっしゃるとおり、未熟な若者に、あのようなテロ組織を作り上げられるものではありません。

必ずや、誰か協力するものが居る。おそらくは、族長クラスの大物でしょう」

「しかし、族長たちは妖王と仲違いしたということだったぞ?」

「腹の中は殺意で満たされていても、顔では微笑んでいる者たちなのですよ、彼らは。偽り多いものを、信用してはなりません。

ここは、彼らに警告を与えるべきかもしれません」

「ふむ…例えば、大地の裏側に大規模な取締りか?」

「さて、どうでしょうな。今は東町の暴動が大事であるのに、…大地の裏側を攻撃とは、的外れと非難する者もいるかもしれません。ですが、国民は妖王と族長の対立など知りはしません。大地の裏側の勢力も、東町の暴動も、彼らにとっては同じようなものです」

「なるほど…

妖王の信奉者と一般人が入り混じっている東町で取締りをしたところで、目立った効果をあげるのは困難だろうな。

大地の裏側で取締りを行い、成果を挙げられたとしたら、協会は反逆者を許さないという強いメッセージとなるし、…それに、一時的とはいえ国民の目を逸らすことができる。くだらん不祥事からも…東町での苦戦からも…」

ゼスタは納得したようにうなずく。猾そうに笑ってみせた。どうやら、多少の余裕が戻ってきたようである。

「だが、大地の裏側で取締りを行うとして、どれくらいの規模でやるのだ。まさか、壊滅させるわけでもあるまい。

族長たちを完全に敵に回すわけにもいかぬからな…」

「そこは、私に任せればよいのです。決して、協会に迷惑はかけませぬ」

「…それはつまり、失敗しても責任は君が取るということか?」

うかがうような眼差しで、ゼスタは導師を見上げるのである。茂みに潜む蛇が獲物を窺うような眼差しだ、とオーレルは疎ましくも思うのだが、おくびにも出さない。

「当然ですよ」

きっぱりと言い切ってしまうのだった。



5、

妖王が人々の前に姿をあらわすのは、きまって日没の前後であった。

空がオレンジに染まり、あたりが黄昏の薄闇に染まった時刻、黒衣をまとった姿が現れる。

昼間の生活に倦み疲れた人々へ、深みある声が語りかけるのである。

「連邦の残酷な弾圧は、決して収まることはない。

日々、無実な人々が殺され続ける。みるがよい!」

妖王の骸骨にも似た細い手が指し示す先には、男の亡骸がひとつ、筵の上で仰向けになって横たえられていた。

小さい男の子と、さらに小さな女の子が傍らで泣いていた。

妹は冷え切った遺体に取りすがり、泣きじゃくり、父親の名を呼び続けていた。そうやって呼びかければ、もはや顔の筋肉ひとつ動かそうとはしない彼が、再び笑いかけてくれるとでも思っているのだろう。

その虚しい叫びは、鼓膜を劈くかと思えるほどだった。

10歳くらいの兄は、呼びかけても無駄と理解できるほどには分別があるようで、何も言わず、立ち尽くしたままであった。だけど、彼の瞳からは涙があふれ、頬をぬらすのである。

そんな兄妹に、黒い大きな影が覆いかぶさってきた。妖王が歩み寄り、彼らの背後に立ったのだ。

「言いたいことがあれば、言ってみて…」

低い声でささやく。

男の子は意を決したようにうなずく。ずらりと並ぶ群衆に顔を向け

「父さんのあだを討ってください。どうか、お願いします」

良く通る声で言い放ち、頭を下げる。

群衆はどっと沸いた。先頭に立つ気のよさそうな男などは、「おう、討ってやるとも!」と胸まで叩く始末である。

「君は、何かあるか?」

妖王は、今度は女の子にささやきかけた。

「…お父さんを帰してください。お願いですから、おとうさんをかえしてください」

舌足らずな口で、何度も繰り返していた。

旧校庭に集まった北方人たちは動揺し、涙ぐむものさえいた。

妖王の鋭い叫びが、追い討ちのように木霊する。

「彼ら親子はささやかな、暖かい家庭を築いていたことだろう。

だが、それも、今は無い。

彼らが殺した、彼らが奪った。

心あるものは、子どもたちの叫びを無視してはならない!

彼らの悲しみを、我らの悲しみとして受け止めようではないか。

この悲劇を目の前にして、怒りで身を震わさない者が、存在してよいだろうか!?」

「良くない!」「良くないぞ!」

多くの声が彼に応える。どっぷりとくれて行く空の下で、妖王の訴えはいつか絶叫に変わった。そして、多くの声が唱和するのである。

「やつらを、倒せ! ラグナスと!」


(そこまでやるのか、あなたって人は…)

物陰からそっと眺めるレーナは、不快を意識せずにいられない。

みなし子の涙さえ、彼の手に掛かってしまえば憎悪の苗床となってしまうのだ。そこまでして、彼は何を望んでいるのだろう。

燃えるような夕陽を背負い、子どもたちの頭をそっとなでる妖王の黒々とした影は、いっそ地獄絵図に描かれた悪鬼の姿よりもおぞましく見えるのだった。

レーナは騒ぐ群衆の背後をすり抜け、そっと校庭から抜け出すのである。




いつか、空は夜になっていた。身に当たる風はひどく寒く、また雪になるのかもしれないとレーナは思う。

不透明な結界を乗り越え、川の近くまでやってきた。

東町を横断するこの川は、意外なほど流れが速い。跳ね上がる飛沫を見下ろすと、鍾乳洞の地下水流がたてる轟音がふと連想されて、あの時の竦み(すくみ)を両足が思い出してしまう。

何を馬鹿馬鹿しい、と思い直してレーナは柵の脇を歩いていった。

やがて、遠くから何かが近づいてくる。

夜目の効くレーナにも、しばらく分からなかった。

近づいてくる人影は、頭から足先まで黒い布地で覆われて、夜の闇に擬態していた。街灯の光の下で初めて、彼らの幽鬼のような姿が浮かびあがったのである。

「だ、誰なの。あなたたち!」

声が、恐怖に震えてしまう。

「協会より参りました」

と答えたのは、黒尽くめたちではない。彼らの背後に腕組みしていた背の高い女性。情報部の副部長、マーベル導師だった。雲に埋め尽くされた暗黒の空、彼女の羽織るコートは風になびいている。

死の予感にも近い胸騒ぎに襲われて、レーナは身を翻した。だが、背後からも迫る黒尽くめたちの姿に、足は凍りついてしまった。

「どうやら、あなたがスパイであることが妖王に発覚してしまったようですね」

「そ、そんなこと!」

「あなたの情報によれば、妖王は族長たちと和解を望んでいるとのことでした。しかし、実際には妖王は族長の一人を殺害した。

彼は、あなたが我々に通じていることを知って、あなたに嘘の情報を流したのでしょう」

どこまでも淀みなく、どこまでも冷静な声。

「そんな…」

族長たちと和解したい、と語ったセーンの表情。真剣そうで、だけど今から思えば、どこか笑っていたようだった。

いまさら、気がついてどうなると言うのだろう。

「あなたは用済みです。処分します」

マーベルの声は、怒りや憎しみの揺らぎは無く、刃のような冷たい。

黒尽くめたちが迫ってくる。目の部分だけ、小さな穴が開いていた。

穴から覗く彼らの小さな瞳は、街灯を反射して、鈍く輝いている。

野獣の虚ろな眼球を思わせた。

「いや!」

レーナは叫び、懐の杖を取り出して振り回した。

電撃が放たれ、黒尽くめの男たちの何人かが打ち倒される。

その隙を突いて、レーナは川に飛び込もうとした。冬の川は、どれほど寒いのだろう。身も心もすくみそうだったが、ほかに助かるすべはない。

「川に飛び込む。それもよいでしょう」

マーベルのつぶやき。

そして、レーナの全身がこわばった。

手も足も、指先までが動かせない。麻痺の術を受けたのだ。

(や、やだ!)

少女の弛緩した体が、欄干に寄りかかる。背後からは激しい水音が響き続けている。

マーベルはつかつかと歩み寄ってきた。

氷のような瞳の奥底にあるのは、明確な殺意と見て取ることができる。

なのに、レーナは動けない。

悪夢の中で殺されそうになったときと同じだった。逃げなきゃと思っているのに、どのようにすれば足を動かせるのか分からなくなっていた。

目の前の事態がひどく遠い光景だった。冷静な自分が(これから、殺されるんだな)と呟いていた。

レーナの体は持ち上げられる。川の轟音が、いやに鼓膜で響いていた。

少女は手も足も動かせないまま運ばれて、放り投げられる。

体の重みが消え失せるような、落下の感覚。

我知らず甲高い悲鳴が喉からほとばしり、固い水面に叩きつけられた。

(私、死ぬんだ…)

凍えそうな暗黒の流れに飲み込まれていく。リンダの笑い顔や、幼いセーンが泣きべそを浮かべる表情が、脳裏を一瞬だけ駆け巡り、全てが闇に消えていった。

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