第三章 夕と夜が出会う場所 7~10
7、
廃校の地下に降りて行けば、カビの臭いが鼻を通り抜け、肺腑にまで浸入して来る。
洞穴のような壁も床も土剥き出しの通路が続く。どこか地の底から、唸るような音が響いてくる。
進むに連れて音は大きく明確になり、亡者の呻き声にも聞こえてくる。
牢獄長に導かれるまま妖王は進んでいき、やがて鉄格子に閉ざされた部屋を見出した。
人間が、ズタ袋のように横たわっていた。
袋に穴を開けただけの着物をまとい、あちこちが破れている。それどころか、服の裂け目からのぞく彼らの皮膚も、無数に切り裂かれ、どす黒い血が噴き出していた。
むさくるしく伸びきった髭や髪は、血糊でこり固まり、解きほぐすことなど出来そうにもない。
肥溜めのような悪臭が、鼻の粘膜を侵してくるのだった。
「こいつら、本当にケレンを殺した犯人か?」
妖王は、そんな疑いを口に出した。
「それは間違いないです。昼夜を問わず見張ってましたから」
「見張り…というより拷問だね。この匂い、汚物でもぶっ掛けたか」
「ええ、あまりにうるさく騒ぐもので」
「それに、随分と拷問した様子じゃないか。裁判の前に、死んでしまったらどうする気だった?」
「それは…」
獄長は、顔を引きつらせていた。
「…まあ、良いよ。殴りたくなる気持ちは良く分かるから」
セーンは鉄格子をあけさせ、鎖につながれた男たちの中で、一番背の低い男を指差した。
「今日は、こいつが良い。連れて行け」
衛兵たちは鎖を外し、両腕を縄で縛られている小男を無理やりに引き立てた。
「いやだ、嫌だ! 行きたくない、逝きたくない! やめて、やめてえ!」
痩せこけた体から、どこにそんな気力が残っているのかと驚くほどの大声で、騒ぎ立てる。狭い廊下の中を、けたたましい叫びは幾度も反響した。
つかつかと近寄るなり、セーンはその男を壁に叩きつけてやった。
「なぜ、あいつの嘆願を聞いてやらなかった? 自分が殺されるのはいやなくせに、何でケイを無慈悲に殺したんだ?」
相手の水ぶくれした顔面に顔を寄せ、押し殺すような声で問いかけた。
「俺は、何もしていません…仲間が、仲間がやったんです!」
「君は、指一本も触れてないの?」
セーンは男の喉下をひっつかみ、その細長い指の一本一本から蒸気が吹き出て皮膚を侵す。
「ぎ、ぎぎぎ…やめて…やめて…仕方なかったんです。やりたくなかった、でもあいつらがやるから俺も仕方なく…やらなきゃ俺が殺されてました」
「へえ? じゃあ、殴るときはいやいや殴ってたわけだ。
君の心は全く弾んで無かったの? 映像でも、そうは見えなかったんだけどねえ」
廊下の向こうに、蜃気楼のような幻が浮かぶ。小男が、他の男と一緒になってケイを殴り蹴る姿。
かつての彼は残忍に笑っていた。精神の軽薄さが、具現化したような笑顔だった。
「随分と楽しそうじゃない。あれ見ても、嫌々だったと嘘つくの?」
小男が呆然とした表情で、己が所業を眺めていた。そして、
「あれは、俺じゃない…」
そんな言葉が、口の端から漏れた。
「何を言うのかと思えば…。
過去の自分は、今の自分じゃない。随分と哲学的…いや、衒学的なことだ。
まるで戦犯みたいだね。喜々として罪を犯したくせに、人に責任を転嫁し、しかもそれを自分で信じ込むとは! 病気だよ、それは。
せめて、正当化してみたらどうだ?
言ってみろよ、『北漠人は人類の仲間にも入らない、だからストレス解消に殺してしまっても良いと思っていました。今でも間違えたことをしたとは思っていません』とでもな」
少年は乱暴に男の顎を引っつかみ、無理やりに口をこじ開ける。
「さあ、言わないのか! 早く!」
力はあまりにも強く、顎の外れそうな痛みに男は悲鳴を上げた。
そのまま崩れ落ち、床に顔を沈めてメソメソと泣き出す。
後ろで見ていた獄長たちは、いかにも楽しげにあざ笑う。主の一瞥を受け、あわてて口を押さえた。
「そうか、正当化は無理ってわけか。
それなら逆に、自己批判してみるか?」
「じ、じこひはん?」
「自分を自分で罵れと言っているんだ。正当化できないのなら、それしかないだろ?」
禍々しい蒸気に満ちた手をさし伸ばされて、小男は骨の髄から震え上がってしまったようだった。
「わ、私は人殺しです。私は自分の楽しみのために、人を殺しました。
あの男を殺すとき、楽しいと思っていまし…ウガア」
再び喉元をつかまれ、もがき苦しむ。
「まだまだ。もっと自分を何の価値も無いゴミだって罵るんだ、だって実際そうなんだから」
「私はゴミです。私は屑です。
自分の楽しみのためだけに人を殺すサディストです。
生きている価値も無い人間です。
…アア…やめて…絞めないで…
私は人間を名乗る資格もありません。
私は猿なみです。
いえ、それは猿に対してあまりにも失礼な発言でした…。猿さんごめんなさい…。
ゴキブリ以下です…だから…だから…」
「何を期待しているの、君は?」
冷たく言い放たれて、小男は涙でいっぱいの目を見開いた。
「卑下すれば、許してもらえるとでも思ったか」
次の瞬間、小男は思い切り、頭を床に押さえつけられる。床の埃を吸い込んで、男は激しくむせこんだ。
「連れて行け」
衛兵たちは、改めて罪人を引きづっていく。
「ああ、いやだ、やめて…」
ズタ袋のように床を引き摺られ、哀願するように手を伸ばす。目からは涙を流していた
セーンは満面の嘲笑をずいと近づけて、言ってやった。
「泣いたって、ママは来まちぇんよ」
他ならぬこの小男が、言ってのけた言葉である。
死ぬ間際に自分の非道をやり返されて、どのような思いをしたことだろう。
とは言っても、彼が気付くことはないだろう。己が非道に思いをいたし、頭を垂れて反省するなど、決してありえぬことだ。
ただ妖王の残忍さだけを恨み、自分は哀れな被害者だと思い込みながら、死んでいくに違いない。
それを思うと、胸のうちに、名状しがたい空虚が生まれるのである。
彼は歩きかけ、そして引っかかるような感触に足をとどめる。見れば、硬い床に白い棘のようなものが突き刺さり、端はどす黒い赤に染まっていた。
何としても処刑場に連れて行かれたくなかった男の執念は、自分の爪だけをここに留めることができたようである。
頭上からは、地鳴りのような轟音がどっと押し寄せてくる。
公開処刑の始まりに沸く群衆たちの、血に飢えた歓声だった。
後を振り返れば、再び閉ざされた鉄格子の奥で、残りの囚人達が身を寄せ合って震えていた…。
処刑の夜が開け、薄光の昼が過ぎ去った。
今、廃校の屋上は黄昏の色に覆われていた。
レーナはあくびを連発しながら、
「昨夜なにがあったの? 少しも眠れなかったんですけど」
「そうだな…昨日は俺が見世物を開催したんだよ」
「はあ?」
「飢えた野獣の群れに、餌を投げ与えてやったとでも言うべきかな?」
セーンは処刑場の光景を思い出していた。
数多の拳が虚空に突き上げられていた。
「吊るせ! 吊るせ!」の大合唱が、太鼓を規則正しく打ち鳴らすにも似た、単調なメロディーを織り成していた。
群衆たちに目をやれば、彼らは馬の目にも似た虚ろな眼差しで、口からは涎までこぼしながら、うわ言のように叫んでいた。
死刑囚の体が引き裂かれていくにつれ、歓声は鼓膜をつんざくほどに膨れ上がり、騒音が幾重にも渦を巻く異様な空間が形成されたのだ。
「厳罰と言うのは、秩序を守るというのもあるし、支配者にとって不都合な人間を消すと言うのもあるけれど、それだけじゃないよね」
セーンはほとんど独り言のように言うのである。
罪人がむごたらしく殺されるのを見て「ざまあみろ」の悦びを味わいたい大衆、言って見れば血に舌なめずりする肉食動物たちへのサービスなのだと確信していた。
「ところで、あの人たちは、誰?」
レーナは鉄柵に手を着きながら、崩れかけた校門より入ってくる人影を指差した。年老いたものたちや、うらぶれた親子連れの姿も見受けられる。
西日に赤く染めた旧校庭に、彼らの姿は長い長い影を伸ばす。黄昏の光に飲み込まれそうな彼らの姿は、みなとても弱々しく、背も曲がって見えるのである。
「難民達だよ」
妖王…セーンの横顔は、火の玉のような夕日を無表情に見つめていた。
「彼らは暴動に参加して、当局から断罪されたんだ。ある者たちは、国外退去まで命じられた。住まいを奪われ、職を奪われた彼らは、もはや妖王の下僕になるしか無くなっちゃった」
「結局、全てはおやかたさまの思い通りって訳ね…」
レーナはわざとらしい欠伸をしてみせた。
「彼らが自ら選んだことじゃないか。俺が強制したわけじゃないのに、そんなこと言われてもなあ」
「…自分で言っていて、恥ずかしくないの? 煽動したのはあなたじゃない」
少女にジト目で睨まれて、少年は顔をしかめたようだった。
「そんな目つきでみてくれるな。
俺は何か間違えたことをしたか?
…北方出身者の労働者が、理不尽に殺されたんだよ。それを酷いことだと言って、犯人を糾弾することがそんなにおかしいの? むしろ、正しいことをしたんじゃないのか?」
「暴動なんかおこさせて良いわけが無いじゃない。…あ、自分は命令してないなんて言い訳は、もう禁止ね」
「禁止かよ」
「私の学校にも、そう言うイジメっ子がいたんだよ。他の子を上手に扇動して、気に食わない奴をいじめさせるの。それでもって、『私は命じてません』って言い逃れるのよね。最低だと思わない?」
「寄宿舎にも、そういう奴はいたな。俺も、学ばせていただいたよ」
「やられる方の立場になろうって、思いなさいよね…」
「いやいや。自分が標的になったからこそ、身に染みて学べるんじゃないか」
かつての自分の不幸さえ、鼻で笑ってしまうのだ。セーンの奇怪なまでの明るさは、暗黒の空虚にも似て、レーナは背筋に不快な冷たさを感じてしまう。何を言う気も起きなくなってしまうのだった。
「レーナは、俺を悪人だと思うのか?」
真顔に戻ったセーンの呟きが、空気を低く震わした。
「今更、何言ってるの?」
「善と悪の違いなんて、本当にあるんだろうかな。
たとえばさ、世の不公正を憤る正義の心と、自分より恵まれた者への嫉妬。この二つの間には、どれほどの隔たりがあるんだろう?」
レーナは、一瞬答えあぐねたようだった。
「あるとしたら、それは言い方の違いだけだ。
怒りはただ、怒りでしかないよ。それが、ある時は義憤だの正義だのと称えられ、別の時には嫉妬だ怨恨だ憎悪だと貶される。
みんな勝手な都合。本質はただ一つでしかないのに」
結界の向こうに広がる町並みは、曖昧な靄に覆われていた。その境界を見極めようと言うかのように、少年は凝視を続けていた。
「なんだってそうだよ。言い方一つ、見方一つの違いだけで、同じものが善にも悪にもなってしまう。
そんな言葉遊びで、自分が善だと自惚れて、他人を悪だと見下すのは馬鹿げたことじゃないか。
本当に賢い人は、そんなことに囚われはしない。そう、気にはしない筈なんだ…」
自分に言い聞かせるように、暗然とした眼差しでセーンは繰り返すのである。
「善悪なんて見方の問題に過ぎない、そう言いたい訳?」
レーナの唐突な質問に、少年はにっこりと笑って
「他に何があるって言うの?
君だって、歴史を勉強したら分かるだろう?
戦争を叫ぶことが正義だったのに、ある日を境に平和をひたすら唱えることが正義となる。
知識を詰め込む教育は子ども達の心を荒廃させると糾弾されていながら、あくる年には、ゆとりある教育こそ子ども達を堕落させると罵倒される。
こういった事例は、枚挙に暇が無いよ。善悪の基準なんて、その時々の勝手な都合で変更されてしまうんだから」
「そんなふうに何でも相対化するのって、やっぱり変。
どんなに人を苦しめることも、悪く無いことになってしまうじゃない…」
少女の感想に、セーンはやれやれと肩をすくめた。
「人を苦しめたいと思う残酷な心だって、場合によっては褒め称えられることもあるさ。
その理不尽が、愚かしいと言ってるんだ」
やっぱり分かってはもらえないか、と少年は頭を幾度も振っていた。彼は少し疲れた表情をしていて、レーナは何も言えなくなってしまう。
8、
その日は良く晴れていたのだろう。
東を望めば、全てを呑み込む程に大きな満月が、ゆるゆると姿を現しつつあった。
円い鏡のような月影は、地平線を覆うように立ち並ぶビルの陰影を、くっきりと浮かび上がらせてくれている。
中でも、連邦の象徴とも言われる『理性の塔』の、ひときわ高い雄姿は、ここからでも目立つものであった。
セーンは白い息を吐き出しながら、じっと立ち尽くす。
(全ての欺瞞と偽善の象徴…そこから昇る月…)
あの男は確かに言った。
(満月の夜には会えるだろう…)
儚い約束を頼みに、ここまで来てしまった自分は、世界でも指折りの愚か者と思えてならない。たが、今更引き返すわけにも行かなかった。
オーレルのいかめしい体躯を求めて、少年の視線はあちこちを巡った。
ここは金網に囲まれた公園。
不毛の地面が広がり、ところどころから硬い地面を突き破るように、無骨な樹木が生えている。公園の投光機に照らされて、四方に黒く長く伸びる影に目を凝らしても、人の姿は見当たらない。
やはり謀られたのか、それとも言葉の解釈を誤ったのか。物に怯えるような心地で、硬い地面の上を彷徨いだした。
公園の中ほどまで進んだとき、彼は足を止める。
(あれは…?)
まぶしい常夜灯の照明から、程よくはなれた場所。
土と埃ばかりの茶色い地面に、円の形が白く浮かびあがっていた。
その場所からは青白い光が、淡いオーロラを思わせるような輝きとして空に上っていた。光の円柱はどこまでも高く続いていき、闇の渦巻く夜空へと消えていくのである。
少年は息を呑み、目をつぶり、円柱の中に足を踏み入れるのだった。
身体の重みが消えてしまう。
(飛んでいるのか?)
水の底から浮力によって引き上げられるように、セーンの身体は地上を離れ、どこまでも浮かび上がっていく。
四角い公園、周囲の建物、そして都市の全体が見る間に小さく離れていった。
空高く上昇しているというのに、肌の寒さは無く、息苦しくも無い。夢にいるような心地でもあったが、意識だけは冴え渡り、自分が地上から遥か遠くにいることの恐怖と寂寞感はしっかりと胸を包み込んでいた。
手や足を必死でバタつかせてもみたが、既に遠くなった大地を招き寄せるすべは無い。
このまま大宇宙へ投げ出されるのだろうか。
果てない闇に一人漂う己の姿を思い浮かべ、少年の心は深い絶望へと沈みそうになったが、傍に誰かの気配があることに気が付いた。
「そこにいるには誰なんです?」
大陸と大洋、うっすらとただよう雲を見下ろしながら、彼は囁くのだった。
「約束どおり、来てくれたのだね」
力強く、優しい声。
暖かい空気が、ゆっくりと渦を巻きながら、少年の身体を包み込んでいた。
「オーレル導師ですか?」
「私と一緒に来てくれるかね」
声はすれども姿は見えない相手の問いかけに、うなずくしかない。断りでもしたら、永遠に宇宙空間で漂う羽目になりそうである。
ついには、惑星の全貌をみおろせる場所にまで来てしまった。
見下ろす? ここまで来てしまえば、すでに上下の感覚も失われ、茫漠とした宇宙空間を漂うだけである。見上げようと思えば青い輝きは上にあり、見下ろそうと思えば足元にも見えるのだった。
「よく来てくれたな」
オーレルが腕組みをしていた。青い輝きに照らされて、彼は直立の体勢を維持している。少年も手をばたつかせた末、何とか導師と向き合う形となった。
「ここは、どこです?」
こうして息が出来ることからも、本当の宇宙空間ではないのだろう。導師の術力で生み出された、閉鎖空間なのかもしれない。
「ここなら、誰にも聞かれることは無い。しかし、時間が無いので率直に話を進めよう。
君は、どのように生き延びる積もりなのかね?」
一瞬、答えあぐねたセーンに、導師は厳しい言葉をつむぐ。
「確かに、東町での君の人気はたいしたものだ。だが、いつまでも続くものではなかろう」
セーンは頷かざるを得ない。
「ちょうど、今は治安権限が軍部から協会へ移行される時期だから、当局も色々と混乱しているみたいですよね。おかげさまで、僕も遣りたい放題やってますよ」
少し甘えるような、かすかな媚びを含んだ声で、彼はオーレル導師に応えるのだった。
この導師に対しては、どことなく女性的な、なよやかな態度が良いかもしれない
導師の奇妙な眼差しを、セーンは忘れかねていた。妖王二世と呼ばれた少女と、自分とを重ねあわせにしているようだったのだ。
「ほう、分かっておるのだな。だが、当局の混乱とていつまでの続くものではあるまい」
セーンが足元を見れば、青く輝く地球が、ゆっくりと回っていた。その回転を止めることはできない。
少年は、愁いを帯びた表情になる。
「協会が本腰を入れれば、僕の教団なんて木っ端微塵ですよね…」
「では、どうするつもりなのかね?」
そんなことを聞いてどうするのか、と問い返そうと思ったがヤメにした。この導師に誤魔化しなど無駄である。
「滅ぼされる前に部下を引き連れて、北漠にでも行こうかと思ってます。僕を支持してくれる人たちもいるかもしれませんし」
導師は呆れたように首を振って、笑い出した。
「ハハ…なかなかに賢い少年かとも思ったが、やはり若い。君の策略は児戯のごときものと言わざるを得ないな。
北漠は混沌の大地だ。割拠する支配者たちのしたたかさは、君を悩ましている族長たちとは比べ物にもならん。君がいかに妖王の血を引いているとはいえ、容易く覇権を握れると、そもそも生き残れると思っているのか?」
次から次へ鏃のような言葉を放たれた。
少年の胸のうちに、どろりとした憎しみがこみ上げて来る。公園で怪我を負わされたとき、導師の姿が如何とも動かしがたい岩山のように見え、憎くて仕方なかった。その気持ちが、今また蘇るのである。歯軋りしたくなる衝動を辛うじて抑えながら、少年は震える声を振り絞った。
「それでも、足掻くしかないんですよ。
確かに僕は、どうしようもなく愚鈍ですけど。でも、愚か者は愚か者なりにもがき苦しむしかないんです。
あなたみたいに、何もかもに恵まれた方には、分からないことでしょうけどね」
まるで少女のむせび泣くような、悲しさの混じった憤りを、迸らせるように叫んでいた。
「いや…君を無能とはいっておらん。
確かに、君のやり方は見込みの少ないものだ。
それでも、座して滅びを待つよりは遥かにマシだろうな」
導師は少しだけ、表情を和らげていた。彼もいつか、青く輝く地球を見下ろしていた。
「この世に生を受けたものならば、死に抗い、生き延びようとするのが当然なのだ。例えどんな下らぬ生物であっても、生きようとする権利までは否定されることはない。君だって、そして私だってそうだ」
胸の奥底まで響いてきそうな声。
(生き延びようとする…権利?)
誰も彼もが妖王の死を望むのに、この導師は自分に生き延びる権利を認めるというのだろうか。
「実は、私が君に接触したのは、ある目的があるのだ」
「僕に…?」
「幼いころの君は、このオーレルの崇拝者だったと。私の伝記や著作を愛読し、写真まで壁に張っていた。
ならば、私が生涯を掛けていた目的、今まで決して明かされなかった意図とは、何であったと思うのかね?」
これは試験なのだろう。導師は、セーンがものの役に立つだけの素質があるか、見極めようとしている。
ここでの答えが己の運命の分かれ目と察したセーンは、しばし沈黙した末に口を開く。
「術者協会の失墜。あるいは、連邦の崩壊。…あなたの目的は、そこにあるのでしょう」
導師の顔が微かにほころんだようにみえた。だが、彼は再び厳しい表情に戻り、
「思いもかけぬことを言うものだな。私は確かに協会上層部の意に反したこともある。
それは、協会や連邦により良い統治を行ってもらいたいがためと言ってきた筈なのだが」
「いえ、そうしたことじゃないですよ。
たとえば、の話になりますけどね。
あなたがオーナーを務めていらっしゃる多国籍企業は、術道具(術者でなくても術を扱うことを可能にする機械)を世界中で販売していらっしゃる。術道具の大量販売はあなたの会社が先駆けで、他社が追随していると言うじゃないですか。それこそ、あなたの叛意の現れじゃないかと、僕は見て取りました」
「どういうことかね?」
「だって、そうじゃありませんか。術者は人に出来ないことが出来るからこそ、権威を保てます。協会だって同じです。
もし、術道具が普及して、皆が術を扱えられればどうなっちゃいます? 術者も協会も、もはや崇拝の対象ではなくなってしまいます。
権威や必要性を喪ったものが、権力を保つのは無理です。無理はいつまでも続くはずがありません」
「それはやり方として、あまりに迂遠ではないのかね?」
「いえ、確実な方法だと思います」
きっぱりと断言した。
「君は、面白いことを言う。なかなか、面白い…」
声も立てずにオーレルは笑う。愉快そうな表情だった。
「他にもいろいろあるんですけど、続けて良いですか?」
なおもしゃべり続けようとする少年を、オーレルは手振りで留める。
「もし、君の言うことが正しいとして、君は私に協力する気はないのかね?
私の助力が無くては、君は生き残ること適わぬ。そして、妖王の血筋を引いた君が、私にとっても必要なのだ」
どうかね、と誘いかける導師。
「でも、ゼスタ理事長にはこう言ってあるんじゃないですか? 『ディンケルは私が騙して手懐けておいて、いざという時にだまし討ちにしましょう』とでも。僕だって、そこまでバカにされたくありませんよ」
「明察だ。だが、騙されているのは君か、理事長か、どちらかな?」
「僕には、あなたがどちらを騙そうとしているかなんて、分からないですよ…」
困ったように、うろたえたように、少年は首をかしげる。
「その答えは、君自身が見極めなくてはな」
導師は地球の上空にたたずみながら、あっさりと言い放った。
9、
初冬の晴れた日に、術師のアレートは師匠の家を訪れた。
「お久しぶりです、導師」
オーレルは、いつも通り光あふれるリビングで待っていた。
「久しぶりだね、ファルン君」
太陽の光に包まれながら、ソファーにゆったりと身を任せている。紅茶のカップを片手にくつろぐ師匠の姿は、そこはかとなく古風な優雅さを漂わせているようだった。遥か昔から、彼はずっとこの場に憩っていたのではないかと、錯覚さえおこしてしまいそうになる。
(実際には、オーレル導師ほど忙しく動き回っている人も滅多にいない…)
昨日も一昨日も、導師はこの自宅にいなかった。かくも多忙な人が、ここまで落ち着いた雰囲気でいられることに、ファルンは驚いてしまう。
「どうした? 君はとても顔色が悪い。疲れているようだな」
「いえ、そのようなことは。」
肉体的な疲労より、精神的な徒労感が心身に重くのしかかっていた。
ファルンは、東町での掃討作戦に携わっていたのである。
妖王の信奉者たちを虱潰しに捕らえていく作戦だった。
だが、うまくいっていない。信奉者達を取り逃し、無実の人間を捕らえてしまった過ちを数え上げれば限が無かった。
警察も協会も張り合うばかりで、満足な協力もしていなかった。ただ得点のあげたさに、手当たり次第に北方出身者達を連行しているのが現状だった。
(北漠人といっても、全てが妖王や他の妖族たちの下僕と言うわけでもないのにな…)
父親を連行されて泣き喚く子どもの声。
家を滅茶苦茶にされた女の呆然とした表情。
思い出したくも無い光景が、今でも脳裏にありありとよみがえってきそうで、眠ることさえ難しい心地になってくる。
(あんなやり方をしたら、却って妖王の信奉者を増やしてしまう…)
もどかしさに胸が焦げそうになるのである。
「つらいだろうな…」
導師は、何もかも見通している表情で、深い憂いを帯びた口調で言うのだった。
「君が望むなら、理事長に頼んで今の任務を外してもよいのだが」
「いえ…それはありません」
師匠に不満を洗いざらいぶちまけたい衝動にも駆られるのだが、生来の慎み深さでファルンは耐える。代わりに、
「今日、参ったのはそのことではありません。
師匠はレーナと言う名の少女について、覚えていらっしゃいますか?」
「無論だ。幼い日の妖王…セーニス=ディンケルの幼馴染で、どういう理由か今は妖王と共におるそうだな。彼女がどうかしたのかね?」
「レーナの義理の母親…リンダ=ラスカーが協会情報部に連行されたそうです。
彼女とは以前に会ったことがありますが、妖族と協力するような女性ではありません。レーナを養子にしたのも、きっと個人的な理由からでしょう。
なぜ、彼女が連行されたのか、私には分からないのです」
「ふむ、情報部か。秘密主義の強いところだ。協会の他の部署に対してさえ、心を許そうとしない。
このレーナ嬢の件についても、情報部が一枚かんでいるのかもしれぬ」
「そんなことが?」
「無いと言えるかね」
オーレルは、カップを置いて立ち上がった。日光を浴び、外の青空をじっと見上げながら、
「…思えば、哀れな少女だ。家出をしたのも、自分が妖族だと言うことで母親に迷惑をかけたくなかったからであろう。
今は妖王のそばにいて、かつての幼馴染の悪逆非道を見せ付けられているのだ。
世界はどうして、かくも弱者に対して残酷に出来ておるのだろうな」
肺の底からため息をつく導師の瞳には、微かな潤いさえ認められた。
「師匠…?」
ファルンは首をかしげる。
(まさか、師匠は懸想をしているのでは?)
その懸念も、ありがち妄想と振り捨てがたい。
オーレル導師は若いころから艶聞のたえない男であった。薄幸の女性を見つけ出しては世話をして、愛人にしてしまう奇癖まであったといわれている。
この導師において、ファルンが唯一尊敬できかねる欠点とみなすところである。
あれだけ噂となることを仕出かしながら、世間からは大した指弾を受けていないのも不思議と言えた。
「どうしたね、ファルン君。何か邪推しているようだね」
導師は弟子の不安を見透かしたのか、からかうような表情を浮かべて見せた。
「安心したまえ。いかに私でも、会ったこともない少女に興味は持たぬ。
それより、君のほうが心配なのだよ」
「私が?」
「そうとも。この機に言わせてもらうとしよう。
君は女性に好意をもたれる条件が揃っておりながら、まったく女気がない。
もしかしたら、恋愛に過大な幻想を抱きすぎているのではないかね?
そのような者に限って、いざ恋に落ちた時に逆上せあがり、生涯を棒に振るしくじりをしてしまう。
ファルン君がそうなってしまわないか、私は不安でならぬよ」
冗談半分の説教だったが、眼差しは本気で弟子を案じているようである。
(このことだけは、師匠からとやかく言われたくない…)
流石のファルンも、内心では毒づきたくなるのだった。
「お嬢さま、困ります! 許可が無い限り、ここは誰も通せません!」
やせっぽちの門番は、少女の頼みに困惑している様子だった。
少女は手を合わせ、何度も拝む。
「そんなこと言わないでください…。お願いします」
門番は首を振りつつも、邪険な態度は取れない。彼女を丁重に扱うことが、妖王からの厳命である。
「どうしても、ダメなんですか?」
レーナは困ったように俯いた。見ると、目には涙を浮かべているのだ。
「ダメなのかな…」
ため息をつく。灰色の空の下で、少女はとても儚げで、今にも消え入りそうな様子だった。
門番の男は、視線を泳がせた。
「それなら、どうしてもって言うのなら…」
迷いの末に口から滑り落ちた独り言を、彼女は聞き逃さなかった。
「え、通してくれるんですか? わあ、本当にありがとうございます!」
あどけなさの残る少女が目を輝かし、花のほころぶような笑顔を浮かべるのである。
門番の体はよろめいたようだった。
「え、ええ。でも気をつけてくださいよ。なんなら、私がついてきても」
男の口元が微妙に緩んでいることに、彼自身は気付いていないのだろう。
「本当ですか? でも、ここからあなたが離れたって分かったら、あとで大変じゃないですか?
通してもらっただけでも悪いのに、これ以上迷惑かけられませんから…」
レーナは柔らかい口調で言い捨てて、足早に門番の脇を通り抜けてしまう。
「あ、ちょっと…」
門番の声は、もう届かない。
「ふう、これでOKと」
廃校舎の落とす陰から抜け出し、人知れず舌を出してみせるレーナだった。
「なかなかやるじゃないか」
「え…」
心臓の飛び上がる思いがして、振り返る。黒いフードをすっぽりと被る妖王が、腕組みをして壁に寄りかかっていた。
「や、やだ。見てたの?」
「俺は気配を消し去ることが出来るんだよ。
それにしても、どこに行くつもりなんだ。家に帰るのか?」
「それが無理だって、知ってるくせに」
少女はふてくされたようにそっぽを向いた。
「あんな陰気な校舎にいたら、気持ちにカビが生えてきそうで。
たまには良いでしょ? 外に出ても」
「いいけどね。でも、俺もついて行ってよいか?」
「え…べつにいいけど」
レーナはうれしそうな笑みを見せていたが、刹那の間に見せた失望の表情を、妖王は見逃さなかった。
例えるならば、楽しみにしていた遠足が、当日の雨で台無しになってしまった子供の不機嫌に近いだろうか。
だが、セーンはそ知らぬふりでフードを脱ぎ、
「じゃ、いこうか」
と歩き出す。
陰鬱な町の中を、あてもなく歩き回った。
二人とも、話すことは特に無い。夜になると暴徒達が繰り出す路地も、昼間は墓場のような沈黙に覆われていた。
ただ、とある角を曲がった時のこと、ゴミ捨て場を奇妙な動物があさっていた。
猫にしては大きすぎると思ってよく見れば、顔を出したのは髪も服も汚れきった小さな子どもたちだった。
セーンたちの姿を見て、きゃっと悲鳴を上げて駆け出してしまう。
「そう言えば、さ」
沈黙ばかりが続くことに嫌気がさしたのか、セーンのほうがしゃべりかける。
「レーナはどこか、行きたいところがあるの?」
「別に…でもとりあえず、東町からは出てみたい」
川を渡り、東中区にたどり着いた。
町並みは整い、車や道路がひっきりなしに道を行き買っている。
「この辺は、時々来たことがあるな」
レーナはつぶやいた。
駅前の麺屋に入ると、客は誰もいない。時刻はまだ、正午を回っていなかった。
狭い部屋、カウンターの向こうでは、大きな鍋からもうもうと湯気が上がり、部屋の空気が白くかすんでいる。
店の奥では、店主が一人でせわしなく動きまわっているらしかった。大柄な中年男の姿が霞んで見える。
二人に気付いた彼は、つかつかとカウンターまで歩み寄り、
「はい、いらっしゃい」
と威勢の良い声で呼びかけた。
二人の頼んだ品がカウンターに置かれた時、ちょうどがらがらと引き戸が開き、背広の男たちがぞろぞろと入ってくる。
職場の昼休みなのだろう。カウンターの左端に並んですわり、壁際のテレビに目をやっていた。
時刻は正午、この街で繰り広げられる暴動の光景がブラウン管いっぱいに映し出されていた。
画面を震わすような爆発音、眼を突き刺すような炎の光景。車が転覆し、幾重にも折り重ねられ、赤い炎に包まれながら潰れていった。
周辺には大勢の男たちが群がり、暗い夜空に向けて歓声を上げていた。類人猿もかくやと思わせる、獰猛な叫びが空気を震わせていた。
けたたましい音を立て、眩いランプをともしたパトカーが列を成し、怒号とともに石が投げつけられる。
武装した警察隊の盾が壁をなし、道を押しつぶすように進んでいった。暴徒たちが手に棒を持って踊りかかり、高圧の水流が突き出される槍のような勢いで彼らを直撃していった。
暗い街のあちこちで上がる火の手が上がっている。赤く染められた空を、濃密な煙が覆っていく。その下で、大勢の人間が右へ左へ走り回っていた。
「すげえな、おい…」
一人があきれたように呟いた。
「ここからもそう遠くは無いんだろう、おっかない…」
彼らはニュースの画面が切り替わり、アナウンサーがしゃべっているときも薄気味悪そうに顔を見合わせていた。
その中でようやく一人が、
「しかし、北漠人なんて恐ろしい奴らだな…。同じ人間とは思えんよ」
「すぐにキレる劣等民族、か。たしかにあんな映像見せられるとな…」
「なんと言っても、教育程度が低いからな…」
「でもよ、おい、聞いてくれ」
と口を挟んだのは、小太りの男だった。
「元はといえば、どっかのバカが、奴らの一人を虐殺したのが原因なんだろう…」
「だからって、車を壊したり、あちこちに火を付けたりして良いことにはならないだろう?
何を馬鹿なことを」
「でもよ、でもよ…、連邦人が北漠人を襲撃するということは今までも結構あったらしいぜ。あいつらが怒るのも無理はないんじゃ…」
「だからって、俺たち連邦人全員を敵視するのは勘弁して欲しいね。そんな北漠人襲撃なんてするのは、ごくごく一握りのバカだけなんだぜ? それをまるで、俺たち全員が迫害しているみたいにさ…」
「あいつらは、自分のことを棚に上げているんだ。その身勝手さが…」
「けど」
「おいおい、なんでそんな必死にあいつらを庇うんだ? お前、回し者か?」
明らかに気分を害した声でなじられて、小太りの男はつまるように沈黙し、あとはうつむくしかない。
天井近くの壁に備えつけられた扇風機が、鈍い音を立てながら首を振っていた。
蒸しかえるような店の中で、時折こちらに吹き寄せる風が、つかの間の涼しさを与えてくれた。
いつの間にか、店の主人が肉を刻む手を止めて、包丁を握ったまま男たちのほうを眺めていた。
彼らは気がついていなかった。彼らの野蛮さについて、あれやこれやと楽しそうに論じ続けるのだった。
「あの」
とレーナが声をかける。店の主人ははっとわれに帰る。そして、少年少女が興味深げに彼の表情を見ていることに始めて気付き、すぐに包丁を置いて
「なんでしょう?」
「水、くれません? こっちの人の分がなくなったみたいで」
セーンは最後の一滴を飲み干そうとしているところだった。
男達は仕事があるのか、またガヤガヤと出て行ってしまった。
二人も食べ終わり、勘定を済ませて店を出たところで、今まで黙っていたセーンが口を開く。
「あの親父の表情を見た?」
「なんだか、変だったね」
「そりゃそうだろう。あの親父も、北方の出身者なんだからな、仲間の悪口を楽しそうに言い交わされて、心が震えずにいられるはずもない」
「そうだったの? あの人たちも、随分と命知らずなことをしたものね」
レーナはそっと店の中を覗きこむ。
ガラスの向こう、湯気立ち込める店の奥で、親父はもくもくと面をゆでているだけだった。
「まあ、彼なら滅多なことはしないだろう。
聞くとことによれば、流れ着いてから数十年、苦節の末にようやく店を持てたんだから。それを自分から壊すようなことなんて…」
親父が不審そうに顔を上げたので、二人はすぐに窓から離れる。
「だけど、あそこまで馬鹿にされれば、腹も立つだろうね。
軽蔑って言うのは、時に心を引き裂く刃のようなものだからな。
さっきの親父は我慢したけど、中には我慢できない馬鹿だってきっといる。軽蔑に耐えかねた彼らが暴発でもしてみろ。
連邦人たちには、キレやすい彼らを軽蔑して楽しむネタが、また増えると言うものさ」
「それじゃあ、ますます暴発するよね」
「全くだ。軽蔑が暴発を生み、暴発が軽蔑をいや増す。限りない連鎖の果てには、いったい何が待っているかな…」
半ば他人事のように、そして残りの半分は楽しむような口調で、セーンは忍び笑いをもらすのである。
「軽蔑されてうれしい奴なんてほとんどいないのに、どうして人は人を軽蔑したがるんだろうね。そんなに楽しいものかな?」
「そりゃ、楽しいんじゃない?
人を小馬鹿にすれば、何となく自分が偉くなった気がするし。それに、誰かの悪口を皆で言い合えば、仲良くなれる気がするじゃない」
レーナはこともなげに答える。彼女が学校に通っていたときに、身につまされたことなのだろう。
「実に惨めな楽しみだな」
セーンはせせら笑う。
「そーう? セーンだって、連邦人と北方人の両方を軽蔑して楽しんでんじゃないのぉ?」
レーナは悪戯じみた笑いを浮かべ、覗き込んでくるのである。
「ははは、それもそうだね」
セーンは動じることもなく、楽しそうに手を打ち鳴らしながら、あっさりと認めてしまう。
10、
「さ、好きなだけ食べていいよ」
少女は優しく語り掛ける。
ボロボロの服をまとった小さな子どもが二人。目の前におかれた粥に、顔を見合わせていた。
「遠慮しないで、ね?」
優しく語り掛けられ、兄らしき男の子が、勇気をもって一口食べた。
「おいしい…」
信じられないような表情をして、腹が減っていたのだろう、そのまま皿を持ち上げ貪ってしまいそうになる。思い直して、脇で指を加えていた妹にも、食べるよう促すのだった。
男の子と女の子が景気よく粥をすする様子に、レーナは微笑んでいた。
「そいつらは誰だ?」
図書室に入るなり、妖王は厳しい声をかけた。子ども達は怯え上がり、食事もやめてテーブルの下に隠れてしまう。
「もう、やめてよ。せっかく食べていたところなのに」
「その子達は、どこから連れてきたんだ?」
「学校の周りをうろついていた。すごくお腹をすかしているみたいで。門番達は追い払おうとしたんだけど、私がやめさせた」
「また、色仕掛けか?」
その時の光景が目に浮かぶようで、セーンは苦笑してしまう。
「バカなこと言わないでよね。…そんなに怯えなくていいから」
テーブルの下で頭を抱え、怯えた子猫のように震える子どもたち。レーナは必死で慰めようとしている。
「その通りだ。怯える必要なんて、無いんだよ」
妖王も打って変わった優しげな声を出し、フードを取り外した。少年の色白い容貌が、穏やかに微笑んでいる。
「え…妖王様じゃないの…?」
女の子が、驚いたように机から顔を出す。
「そうだよ、妖王だよ。だからこれから君たちを食べちゃうんだ。がおぉぉ」
ふざけているとしか思えない口調で、わざとらしくおどかしてみせる。
妹は身をすくめたようだった。少年のおどけた様子に、兄の方は首をかしげていた。セーンは楽しそうに笑い出し、
「なーんて、そんな訳ないだろ。
みんな妖王を、怖いと思っているみたいだね。本当は、そんなことないのに」
屈託ない話し振りに、どことなく寂しさがにじんでいた。傍で見ているレーナも、こんな彼を見たことがなかった。
「そうなの?」
男の子はこわごわと聞くのである。
「そうだよ。王様なんていったところで、自分勝手ができるわけじゃない。
民衆が望んでいることを、代わってしなくちゃいけないんだ。
みんなが連邦をやっつけてほしいと望むなら、僕は連邦と戦うだろう。
みんなが悪い奴を懲らしめてほしいと望めば、僕はそいつをやっつけるだろう。
でもそれは、妖王としての義務。僕自身がそうしたい訳じゃない」
二人は目を丸くしていた。少年は微苦笑して、
「ちょっと、難しすぎたか…。
でも、僕は見てのとおり、そんな怖くなんてないんだ。ただ、勝手に皆がいろいろ思い込んでいるだけだよ。君たちは、そんな怖がる必要なんて無いさ」
優しげな顔立ちの少年の、柔らかい語り口に、少し安心したのだろう。
二人の子どもは、机の下から恐々と這い出してくるのである。
粥をすすり終わった子ども達に、セーンは机の正面から語りかける。
「そっか…お父さんが殺されちゃったんだ。そうなんだ…」
手を伸ばし、涙ぐむ男の子の頭を優しくさすっていた。
「遺体も、見つかっていないんだ…僕が探してあげても良いよ」
「ありがとうございます…」
頭を下げる兄の横で、
「お腹すいた、もっと食べたい」
妹は、舌足らずにおねだりをしていた。まだ食い足りないようである。
「どんなものが食べたいんだい? クリームのケーキ? それともビフテキ?」
めったに食べられないご馳走の名前を挙げられて、子ども達は目を輝かす。
「今から希望を言っておいてくれないか? 三日もしたら、必ず食べさせてあげるから」
と、まるで幼稚園の保父のお兄さんのように、優しく話しかけるのである。
意外なほど、子ども達を手なずけていた。
「これで、いいんだろ?」
少年は低い声で囁く。
レーナはうなずきながらも、気味悪いものを見た心地がしないでもなかった。
校舎の影が黒々と落ちる旧校庭で、篝火が闇に揺らめいている。
暗闇の空の下で、赤々とした炎が、天を仰ぎ叫び続ける人々の姿を照らし出していた。
地獄の底で蠢く、亡者たちの群れにも似ていた。
廃校舎の上層にある図書室で、妖王は腕組みをして窓際に立っていた。地上の信奉者たちが額づくありさまを、ただじっと見下ろしているのである。
「誰が来てるの…?」
隣部屋で、子ども達を寝かしつけたレーナが、こちらの部屋に戻ってきた。
「あいつら、もう寝たのかい?」
「ええ。あの子達、知ってる? 暴動の後の取締りで、父親を殺されてしまったんだって。身よりも無くて、私とたまたま出会わなかったら、飢え死にするところだった。
それだって、あなたの扇動が原因じゃないの?」
彼女は昂ぶってはいなかった。冷静さを失わない声には、心にピシピシと響いてくるような強さがあった。
「じゃあ、どうすれば良いんだ?」
「え?」
「この理不尽な世界では、あいつらはどうあっても幸福になれないんだよ。暴れたら不幸になると言ったけど、じゃあ暴れなかったら幸せになれるか?
そうじゃないだろ」
声がかすかにうわずっていた。彼は一息飲み込んでから、またしゃべりだす。
「俺にはね。彼らの気持ちが手に取るように分かるんだよ。
人は、希望なくして生きていけない。
それなのに、彼らには希望が無い。未来にあるのは底の知れない闇だけだ。
昨日よりも悪い今日、今日よりも悪い明日しかないとしたら、何もかもを滅茶苦茶にしてやりたくなるのも道理じゃないか」
正気とも狂気とも付かぬたわ言を、妖王は延々としゃべり続けているのだった。
「だったら、もっと良い明日のために努力すれば…」
「努力するって、何を努力するの? 周りは完全な闇に包まれていると言うのに、どこに向かって歩き出せというの」
彼は笑いだす。軽薄な嘲笑が、悪霊のすすり泣きのように、いつまでも響いていた。
「どうしたんだ、その目は?」
少女はゆっくりと首を横に振った。
校庭の騒ぎもいつしかおさまり、今は窓より降り注ぐ月光だけが、少女を包み込んでいた。
「未来が無いなんて、セーンはかわいそうだなって、思って」
え、と少年は息を呑んだ。
「でもね、お母さんは言っていたよ。未来なんて探せばよいんだって。
私も、そう思う。セーンも、明るい未来を探せばよかったのに。ううん、今からでも遅くは無いよ」
「だから、どうやって…」
気がつけば、少女の顔が間近にあった。髪がさらさらと額をくすぐり、石鹸のやわらかい匂いが鼻の奥をなでる。
そして頬に軟らかい感触がした。
(え?)
レーナは顔を離し、微笑みかけている。
気遣うような優しさと、得意げな誇らしさが奇妙に交じり合っていた。彼女のまなざしは今まで見たことも無いほど大人びていて、誘うような色気すら漂っているようで、セーンの何処かが痺れてしまった。
「もう、こういうことはやめようよ。人を傷つけ、自分を傷つけて、馬鹿みたいじゃない。
二人で一緒に、どっかにいっちゃおうよ。昔みたいにさ」
甘えるような、誘うような。心を暖かく包み、蕩かしてしまいそうな少女の声だった。
柔らかい体を抱きしめてしまいたい衝動に、思わず彼は一歩足を踏み出しかけた。
けれど、少女の表情はどこか空恐ろしくて、ようやくのことで思いとどまった。
彼はつったったまま、何度も喘いだ。腕も足も動くことを渇望していながら、動かすことが出来ない。
「セーン…?」
レーナは不安に満ちた瞳でこちらをみている。彼女の瞳をいつまでも見ていれば、きっと気が狂ってしまうに違いなくて、彼は努力して目を逸らした。
「馬鹿が…」
彼女に、というよりも自分に対して軽蔑の言葉。少年はほとんど逃げ出すように部屋を飛び出した。
妖王はフードを被り、椅子に腰掛けたまま鬱々と考え込んでいた。
レーナの前に蕩けそうになった自分の心を思うとき、思わず唇が震え、今でも心の臓が震えだしそうになるのである。
これほど恐ろしい思いをしたことは、これまで無かったのではなかろうか。
ようやく思い定めたように、部下のアジャハを呼び寄せた。
「なんでしょう?」
「レーナへの監視をつけてくれるか? 名目は護衛でよい」
「お嬢様に、ですか? どうして」
「ともかくつけておけ。今言ったことは決して口外するでない」
「お待ちください」
声は、入り口からとんできた。古びたコートを身にまとう、オズル族長が立っていた。
「ご無礼、お許しください。
その件につきまして、お耳に入れておきたいことがあります」
淡々とした口調で、頭を下げた。黒い手袋をした彼の手には、一枚の写真が握られていた。