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魔王と幼馴染 ~夕と夜が出会う場所~  作者: 寿歌
第二章 笑う夜空
6/11

第二章 笑う夜空 6~10

6、

自分でも奇怪なほど、身体の回復は早かった。

セーンの肉体には、やはり古の妖王の血液が色濃く流れていたのだろう。

彼が寝床から立ち上がり、地下の通路を歩いていたとき、ふと暗い道を一人歩く少女の姿を目撃した。明かりももたず、ただ壁の所々につるされたランプの明かりだけを頼りに歩いている。

行く手を遮ったとき、レーナは身を緊張させ、護身用の武器を構えたようだった。

「それで俺を倒す気なのかい?」

相手の正体が分かって、レーナは幾分か安堵したようだった。

「レーナは地下通路を出歩いているみたいだけど、楽しいのかい?」

さりげない風に、そんなことを聞いてみる。

「部屋に閉じこもってばかりいると、体調がおかしくなってくるよ」

レーナはふてくされたように言うのだった。

「女一人で出歩くなんて危険だよ。

ああいうむさ苦しい男どもに取り囲まれるのは、愉快なことじゃないだろう」

「そう? なかなか面白い話も聞けたよ。あの人たち、野蛮なばかりかと思っていたけど、案外気さくなところもあるのよね」

「まあ、あれだ。普段は悪いことばかりしている奴らが、ちょっとばかり良いところがあったりするのは、逆に印象深く心に刻まれるだろうな。いつも良いことばかりしている人間は、ある意味で損だね。

…それにしても、レーナは筋骨たくましいマッチョどもにかしずかれるのが趣味だったのか。いやいや、俺も今までとんと気づかなかったよ」

セーンはなんとも意地悪い笑顔だった。

「…何を言っているの?」

「どうだい? 俺に忠誠を誓っている男達の中で、気に入った者はいるか? あてがってやっても良いよ。さびしい夜の慰めにでもな」

あどけなさが残る顔で、下品な言葉を嫌味たっぷりに放つのである。

「冗談やめてよね」

少女は流石に嫌悪で顔をしかめている。

(それにしても、なあ)と、少年のほうは思うのである。

彼女が男どもに囲まれて、元気にしゃべっていた光景を目にしたことがあった。

卑猥な冗談にまで愛想よく付き合っているのを見て、愕然としたものだった。

いくら男達が妖王を恐れ、彼女に手出ししないとしても…、よく物怖じしないものだ。

レーナは案外に世馴れしているのではないか、そんな風に疑いもした。

「君は恋人とかいるの?」

レーナは不思議そうに首をかしげていたが、やがてにっこりと笑って

「何人か付き合った人はいるよ。私って結構もてるのよね」

「(自分で言うな…)まあ、顔は悪くないからな、顔は。どんな奴と付き合ってるんだ?」

「そんなこと聞いてどうするの? さては、抹殺するつもりなのかな?」

完全にふざけているとしか思えない、少女の口調。

「なんで、そんなことしなくちゃいけないんだい?」

「だって、顔が引きつっているよ。でも悪いけど、教えてあげられない。今でも友達だし」

少女の笑顔が、セーンをしたから覗き込んでいた。

「気になるの? うふふふ、そんなことで妬くなんて、やっぱりセーン君は幼いころからの思いを引きずっているんだねえ」

己の優位を確信しているような、嫌な表情である。

「…そんなこと、言ったか?」

「言ったよ。どっちにしたっていいじゃない、妖王様だって色んな女がより取り見取りな訳でしょう?」

挑発するような台詞を放ち、軽やかに笑い出す。

腕白で無邪気だった幼馴染は、今はすっかり都会ズレした女になってしまったらしい。

「お前も変わったな」

しみじみとつぶやく少年に、

「あなたが、それを言うかな」

レーナはなおもからかうことを止めようとはしなかった。

どうやらこの娘は、彼を妖王ではなく、あくまでも昔のセーンとして扱いたいらしい。少年は辟易しながら、彼女の言葉を聞き流していた。

だが、あるところで足が止まってしまう。

通路の向こうから、こすれるような音が響いてきた。はじめは気流の音かと思ったけれども、どうやら人の悲鳴がいくつも折り重なっているらしい。

「何…?」

「内ゲバだ」

そういって、彼は走り出す。


階段を登り、長い廊下を走りぬけ、その場所にたどり着く。

向こうの暗がりにバタバタと走り去る足音が遠ざかっていく。

「あいつら…?」

レーナは声を掛ける。

「北方人…だが、俺の下僕じゃない。族長の誰かの部下だろう」

大きな塊がいくつも通路をふさいでいて、よく見てみれば人の体だった。あるものは壁に寄りかかり、あるものは床の真ん中でうつぶせになり、手足を微かに痙攣させて、やがてピクリとも動かなくなる。

妙に体を捻じ曲げたその姿は、叩き潰された昆虫の有様を連想させた。

死体の一つが、以前に昔話を語ってくれた男だと見て取って、レーナも思わず目を背けてしまう。

暗闇の影から、生き残っていた妖王の下僕たちが震えながら姿を現す。

主の姿を認め、彼らの非法ぶりを口々に訴えた。

「おやかたさま、奴らはジェノア族長の部下です。俺たちの縄張りにずかずかと入り込んできたのです」

「それで、君たちは恥知らずにも負けたというわけだね」

フードの下から伝わる冷酷な怒りに、男達は泣き顔を新しい恐怖でひきつらせていた。今にも懲罰を与えかねない雰囲気だったのだが、

「やめてよ。今はそんなことしている状況じゃないでしょ」

少女は素早く間に割ってはいる。彼女は倒れている男達の脈をすばやく計りながら、

「まだ、この人は息してる。治療しなきゃ、一緒に運んでください!」

呆然と立ち尽くす男達に向かって、レーナは呼びかけた。地下の空間に少女の声は良く通り、彼らも打たれたように動き出した。

(こういう時、しっかりしている女だよな)

大の男達に向かって、華奢な少女が颯爽と指図している光景は、何となく面白い。

彼女の立ち振る舞いには、人を従わす力でもあるのだろうか。

彼女がガキ大将だった昔も思い出されて、少し嫉ましい気持ちもよみがえるのだった。




闇濃い地下迷宮の最下層、玉座の間に掛けられた御簾の内に、妖王が座している。

そのように言えば、聞こえは良い。

実際のところ、玉座の間とは言っても、殺風景な石室の真ん中を古びた布製のカーテンが仕切っているだけのことである。

玉座とか呼ばれている黒い椅子(ペンキ塗りである)は、王が座すと尊ばれているわりには、座り心地もよろしくない。

何よりも、肝心の妖王がまだ二十歳にもならない青二才なのだから、どうにもならないことである。

妖王の下僕たちと、族長の下僕たちとの争いが地下のあちこちで繰り広げられていた。あろうことか、族長であるジェノアやその眷属までがその争いに介入し、妖王の部下たちを殺傷していた。

「このままでは…」

と窮状を必死で訴えるひげ面の男に、

「ジェノアに問いただすことにしよう」

と答えたとき、人の気配が空気を動かした。

「もう来ております」

召使が言ったことではない。玉座の間の入り口より、当のジェノア族長が入ってきたのだ。

妖族の出現に、下僕は小さな悲鳴を上げ、部屋の隅へと退く。

「彼らは、討たれて当然のことをしたのですよ。

欲望の赴くまま騒ぎを引き起こし、注意しようとした私の部下に、理不尽な逆恨みから狼藉を働こうとしたのです」

彼は、挨拶もそこのけに、己の正しさを主張していた。

「それを決めるのは、お前でなく私ではないか?」

「なるほど。つまり無神経に騒ぎまくり、注意されれば逆切れというのがおやかた様には相応しいことと。なるほど、自分で言えば世話は無い」

いかにもバカにしきった口調で言うのである。

このジェノアという男は、族長筆頭のバルゴスの甥である。それを良いことに、人を見下す言動を慎もうともしない。

代々にわたって地下世界で歳月を過ごしてきた割には、浅黒い肌の男だった。その顔立ちは彫りが深く、整った顔立ちといえる。

だが吊り上った双眸とにやけた唇は、いつも誰かをあざ笑っているようでもあった。

「それで、私をどうなさるおつもりですか? 私に罰でも与えられるおつもりですか?」

挑発さえ厭わない。

腰抜けのあなたに、私を罰するなど出来ないでしょう、とでも言いたげな態度があからさまである。

その無礼を咎めたとしても、「私は質問をしただけです。おやかた様は被害妄想の気があるようですね」と聞くに耐えない嫌味を放つに違いない。今まで何度、この男の口達者に屈辱を味あわされてきたことか。

セーンは黙ったまま口を拭う。

振り向くと、うしろの丸椅子でレーナが座り、退屈そうに本を読んでいる。

時々は、視線を上げてこちらを伺っているようだった。

今の俺を、彼女はどのように見ていることだろう。

部下にまで軽蔑される、情けない傀儡。レーナの目には、さぞや惨めな道化の姿が映っているに違いなかった。

重苦しい屈辱感が、胸の底から沸きあがらずにはいられない。

「どうしました、おやかた様。

もはや、反論の言葉もありませんかな」

ジェノアはせせら笑ってさえみせるのだ。

この男は始めの頃からそうだった、セーンは思い出すのである。

彼がまだ妖の王になったばかりの頃から、ジェノアは族長の一人であった。

あの頃のセーンは、慣れないことの連続に怯え、怯える自分に自己嫌悪し、不安を押し隠すため虚勢をはる毎日だった。

幼いセーンの、そんな浅ましい心の動きを、どういう訳かジェノアは逐一見抜いていたようである。

事ある毎に、胸を突き刺すような言葉でセーンの情けなさを当てこすり、自尊心をズタズタに引き裂いてくれたのだ。

(だが、そういうお前はどれだけ偉い人間なんだ?)

言ってやりたい言葉が、喉もとまでこみ上げそうになる。所詮は叔父のおかげで族長になれただけの、霊力もたいしたことは無い坊やではないか。

内にわだかまる鬱屈とは裏腹に、セーンは感謝に耐えない口調で

「全く、君の言うとおりだ。俺はまだまだ未熟だから、色々と忠告してもらえるのは実にありがたい」

「まだまだ未熟、とは面白い。

将来には期待が持てると、言っている自分で思い込める効用のある言い方ですね。そういう未来に逃げる人間に限って、永遠にだめだったりするのですがね。

ああ、これはあくまで一般論ですよ」

胸のむかつくような言い方をしながら、ジェノアは悠々と背を翻す。

入り口のあたりに座り込んでいた下僕を

「ふん、流れ者が!」と足蹴にした。

悲鳴を上げながら這い蹲り、これ以上は蹴られないように必死で逃げる。

妖王はゆらりと立ち上がり、御簾を開いて族長へと歩み寄った。

「どうなさいました…?」

彼は無言で杖を振り上げ、殴りかかった。

「なっ!」

ジェノアは辛うじて交わし、手を振りかざす。突風が吹きぬけセーンの体を数メートルは吹き飛ばした。

「ちょ、ちょっとセーン!」

レーナが始めて本を置き捨て、立ち上がった。

ジェノアは嘲るように、

「とうとう本当に発狂なさったようですな。このことは叔父貴に報告しなくては…」

言いかけた言葉がとまってしまった。

いつのまにか、広間の床一面に、ドライアイスでも撒いたような煙がうっすらと漂っていた。ジェノアの足に絡みつき、体を上っていく。

「ぐわ」

白い蒸気がジェノアの足を包み、蝕み始めた。足の皮膚がみるみる黒ずみ、赤い裂け目が広がっていく。

男はたまらず膝を折った。床に着いた手が蒸気にさわり、驚くべき速さで身を仰け反らした。

妖王は再び立ち上がり、ジェノアに迫っていく。

「叔父貴に言いつけるとな? 泣きつくというわけだな。

『うわーーーん、おやかた様が虐めるよぅ。叔父さま助けてぇ』と泣きつくのか。

情けないね。それでも男か。…どうしようもない、ゴミだ!」

嘲笑いながら、ジェノアの右頬を杖で打ちつけた。

何かがつぶれるような響きは、とても心地よい。胸の中にさらなる衝動が沸き起こる。体中が震えだすほどの怒りにうち任せ、憎むべき醜悪の塊を何度も何度も打ち据え、怒りをこめた蹴りを放った。

「ぐぁああ! があぁ!」

「ちょっと、やめて!」

レーナが止めようと駆け寄るが、セーンは彼女を突き飛ばす。

わずかな隙を突いて、ジェノアは悲鳴を上げながら、駆け出すようにして逃げ出そうとした。

だが、次の瞬間、なにかに押し潰されたようなうめき声をあげ、膝をがっくりとついた。

「何、逃げようとしているんだ? お仕置きは、終わってないよ」

セーンはゆっくりと迫っていく。彼の右手からは、もうもうと白い蒸気が立ち上がっていた。

「ひい! ひぃ!」

ジェノアはわめきながら、手を必死に振舞わした。突風が妖王に向かっていくのだったが、彼はびくともしない。

細い腕がジェノアの震える首筋をとらえた。もはやしゃべることもできず、族長が「ふが、うが」とあえいだかと思うと、その息は止まってしまった。


「こんなことして、どうする気なのよ…」

まだ床に腰を落としたまま、レーナは呆れ顔だった。ミイラのように干からびたジェノアの遺体が、仰向けに横たわっている。

先ほどまで腰を抜かしていた下僕は、すでに部屋からの退出を命じられていた。

「さあ、どうしようかな」

セーンはうろたえもせず、悪びれることもない。

「族長どもには、格好の材料を提供したかもしれないね。

ジェノアの挑発に乗せられて、狼藉にまで及んでしまった。いよいよ排斥されるかな?」

まるで人事のような言い振りである。

どんよりと曇った眼差しを中空に向け、

「今頃、あいつらは秘密の会議を行っているだろう。そして、どうやって俺をやりこめるか、あるいはもう俺を排除するかの相談をしているだろうね」

笑い声まで交えながらうそぶく彼が、軽薄にすら見えて、レーナは思わず声を荒げてしまう。

「冗談じゃないでしょ。そこまで分かっているなら、なぜ…!」

「言われっ放しだとしたら、君は俺をどのように思った?」

振り向く少年の眼差しは、先ほどまでの虚ろさを突き抜けて、刺すような光が宿っていた。レーナは思わず息を呑む。

「従者を殺されながら、家臣に対して何もできず、悲しげな薄笑いを浮かべるだけの腰抜け君主。

途中まで、君もそう思っていただろ。違うと言うの?」

「そんなこと…」

レーナは抗弁しようとしたが、彼は聞こうともせず喋り続ける。

「何も君だけじゃないんだよ。

あまり弱腰が過ぎれば、今は俺に従っている部下達でさえ、俺に失望し、侮るようになるだろう。

どちらにしろ、俺の足場はやせ衰える一方だ」

玉座の間は光も少ない。

御簾の方も、入り口の方も、薄い暗闇に包まれている。

壁を照らす照明だけが、この場所を真っ暗闇から救っていた。

「愛されなくてもよい、恐れられるのもよい。だが、軽蔑されるのだけは、なにがあっても…」

壁の明かりを食い入るように見据えながら、うわ言のように繰り返す。

少年の瞬きもしない瞳は、赤い灯火を宿しているようでもあった。

「でも、今日の事は予定通りではあるんだ」

気を取り直したように、セーンは言うのである。

「ええ?」

「実のところ、この地下は退去するつもりではあったんだよ。そのついでに、厄介な族長を一人二人は殺しておこうと思ってね」

そういいながら、彼は死骸を運ぼうとした。一人では少し荷重な様子だったので、

「手伝う」

といってレーナは両足をもった。

「気持ち悪くないか?」

「こんなところに長くいたら、今更なれてるよ」

レーナは皮肉交じりに嘯きながら、二人して遺体を便所に隠してしまうのである。

妖王は扉を細い指でなぞり、何やら呪文を唱えていた。

「これで、少しは発見が遅れるだろう。その間に、逃げてしまおう。

このままじゃ、天井の爆弾がいつ炸裂してもおかしくないしな」

「え? 爆弾なんて仕掛けられているの?」

「俺をいつでも処分できるようにね。

だけど、座して滅びるのを待つというのも、間抜けた話じゃないか…」

最後の言葉はとても低い響きで、呆けたように口をあけ天井を眺め回すレーナには、ほとんど聞こえなかっただろう。

「そうと決まれば、すぐ決行だね」

セーンはきっぱりと言い放つ。

それって、どこかで聞いた言葉…。レーナは即視感に心が揺らぎ、そして彼女自身の言葉だったことに気がついた。

幼いころ優柔不断だったセーンを、ちょっとした冒険に誘うとき、彼女はこんな言葉で引っ張り込んだものだった。



7、


『大地の裏側』とよばれる地下の空間において、地上への道はひとつではなかった。

果てしなく続く螺旋階段、郊外の山林にひっそりと口をあける洞窟など、秘密の出口は枚挙に暇が無い。

彼らが使おうとしているのは、そうした出入り口のひとつである。

「ずいぶんと岩だらけの道ね…」

今までレーナが歩いていた地下通路は、床が四角い石で敷き詰められている場所が多かった。だが、今通っているのは岩むき出しの洞窟であった。

セーンが呼び出していた赤い術光によって、床の凹凸が影となって浮かび上がっていた。

「古の術者たちが作り上げた通路の中でも、一番古い場所だ。

いざというときの脱出路」

族長のジェノアを殺したのはわずか数時間前のことである。族長たちは、今頃は妖王の乱行に対する報復を相談しているのだろう。

妖王は、逃げ出そうとしているのだった。

レーナはため息をつく。いくら強気を示したいところで、そもそも族長全部を敵に回すだけの実力が無い以上、どうしようも無いではないか。

(昔とは全く変わったと思っていたけど、セーンはやっぱりセーンね…)

考えて見れば、実力などというものは易々と身につけられるものでもない。

実力などありもしない少年が、術者協会の身勝手なエゴで、煮ても焼いても食えない族長どもの上に立たされてしまったのだ。

その理不尽を思えば、流石に幼馴染が気の毒で嫌味も言う気にはなれなくなるのだった。

「どうして、こんな運命になっちゃったんだろうな…」

我知らずつぶやく少女。彼はそっけなく肩をすくめて

「運命なんて、とやかく言っても仕方ないよ。どこまでも足掻き続けるしかないんだから」

少女を、と言うよりは自分を励ますようにうそぶく。

付け加えるように

「なんでそんな暗い顔をしているんだ? 君も言っていたじゃないか、どうせ最後は死ぬって。

けど、その日を少しでも先送りする努力は、やめられないよ」

地上はまだまだ遠いところにある。

傾斜のきついのぼり道もあって、次第に息が切れる。術光をかかげて見れば、気持ち悪くなるほど無数の蝙蝠が、天井からぶら下がっているのが見えた。

どのような思いで、彼らは道行く二人を見下ろしているのだろう。物言わぬ数多の瞳は、薄気味悪い光を放っているのである。

「蝙蝠の糞とか落ちているから、足を滑らすなよ」

妙に柔らかくなった地面を踏みしめながら、セーンは注意を促した。

「分かってる…」

「それにしても、気味悪い奴らだな…」

蝙蝠たちは身動きひとつしない。彼らにとって寝る時間なのだろうか。

こちらに喰いかかって来るのならば、片端から殺してやろう。少年は殺意にギラギラと目を輝かしながら天井を睨みつけてやった。

だが、不意に気配が生じる。

「怯えているようじゃな…」

しわがれた声がひびいたかと思うと、通路の遠くから、ゆっくりと人影が近づいてくる。

黒い頭巾をかぶり、腰の曲がった老婆。松明らしきものを右手に、左手では杖をついている。

大地の裏側のあちこちに出没しているジェダ婆さんだった。

婆さんはわざとらしいまでにゆっくりと首を上げ、

「かわいそうな蝙蝠たち。いつ皆殺しにされるんじゃないかと、身を震わしておる。

…おや、お嬢ちゃん。そして、こちらはおやかた様。どうですかな、お二人にそれぞれ差し上げたお薬は効きましたかな」

「ああ、感謝しているよ。それより、こんなところで何をしているんだ」

老婆は直ぐには聞き取れないようだった。レーナが耳元で同じ質問をささやくと、ようやく「蝙蝠の糞などを集めております」と答える。

「そんなものを、薬に使うのか?」

ジェダばあさんはしわだらけの顔をゆがめていた。それが笑みだと気付くのに少し時間がかかった。

「安心なさいませ。お二人にはそんな薬を渡しなどはしておりませぬよ」

錆びきった声だったが、聞き取りにくい訳では無い。

「それよりも、お二人はこのまま道をいくつもりかね。おやかたさまの敵が、待ち受けておる」

「分かるのか?」

少年が驚くと、老婆は気味悪い笑い声を上げ、

「分かるとも。あたしの耳は遠いけれども、噂だけは直ぐに分かる。

族長たちは怒り狂っておる。

おやかたさまを地上に出したくないと考えておる」

「そんなことを、わざわざ伝えに来てくれたのか」

だが、どんな困難があったとしても地上を目指すのだと彼が心の中で繰り返していたとき、

「あたしはもっと良い道を知っているんだがねえ」

老婆は言い出すのである。

「もちろん、支払いがあればのことじゃ」

セーンは懐から財布を取り出す、ふとその手を止めて

「実は、すでに族長たちの支払いを受けているというオチなんじゃないの?」

嫌味たっぷりに問われても、この老婆は動じない。そもそも彼女が動揺などということがありえるのかというほど、分厚そうな面の皮だった。

「族長たちはケチでいらっしゃる。胡坐をかき、自分の代々の下僕たち以外は試みようともしないのじゃ。

その点、おやかたさまは気前が良い。

流れ者、族から外れたものに目をかけてくださる。地上から奪ったものは、気前良く分け与えなさる。金、食べ物、そして女…まあ、そちらのお嬢ちゃんは別じゃろうが」

化生じみた忍び笑いをひとしきり漏らした後、

「さて、行くとするかね」と、こちらの了解も取らずに歩き出していくのである。

二人は他に仕様も無く、彼女の影を踏むようにして後をついていった。

「あの人って、どれくらい昔から棲みついていたの?」

そっと尋ねるレーナに、セーンは肩をすくめ、

「俺の下僕で40歳になる男が言っていたよ。子供のときからあの老婆はいた。そのときから彼女は薬を売っていて、杖を突いていた記憶があるとね…」


絶え間の無い轟音が近づいていく。それが水流の音だと気付いたときには、洞窟の光景も一変していた。固い岩盤と見えていた天井や壁が、石灰質に変わっている。

そして、天井には岩ツララがびっしりと広がり、あちこちから伸びる石筍が足を突き刺しそうになるのだった。

「鍾乳洞?」

「このあたりの地層は複雑でしてな。火山で出来上がった硬い地層の上に、このあたりが海だった時代にできた珊瑚の層が重なっておる。だから、先ほどの洞窟と今の洞窟ではまったく違うんじゃよ」

「ばあさん、なかなか勉強をしているな」

セーンは呆れながら言った。

「年寄りを馬鹿にしちゃあ、いけないさ」

ジェダ婆さんは健脚だった。凸凹だらけの道をものともせずに登っていき、棘のように行く手をふさぐ石筍も巧みにかわし、かすり傷ひとつ負わない。

(あんなに腰が曲がっているのに、よくもまあ)

レーナは驚いてしまう。

視線に気がついたのか、ジェダは振り返り、

「あたしの腰の曲がり具合が気になるか? 若いころはろくなものを食べていなかったからねえ。

お嬢ちゃんだってカルシウムとビタミンDを取らないと、いずれこうなってしまうよ」

ずいぶんと現代的な婆さんだった。


絶え間ない水の流れが、闇の近くから、そして遠くからも聞こえてくる。

懐中電灯を上に向け、天井をあおいでみれば、複雑怪奇な構造が目に飛び込んだ。

岩のカーテンが、幾重にも垂れ下がっていた。

無数の陥没が口を上げ、岩ツララが垂れ下がっている。全く不規則な配列だったのに、何かしらの秩序を感じてしまうのは何故なのだろう。

天井からの石ツララと、地面よりの石筍が、所々で握手をして石柱を作り出していた。

横から生える岩と岩が握手をして、自然のアーチがいくつも結ばれ、深い陥穽が広がっていた。

壁に目をやれば、天然の紋様、縞模様を望むことが出来る。

素朴なのに、意味を感じさせる壁模様。

地上のいかなる芸術家でも、実際に見ることなしに、このようなデザインを編み出すことは出来ないだろう。

レーナはため息をつき、わずかに傾斜する道を下っていく。

やがて、切り立った崖の上にたどり着く。崖の下では激流が咆哮をあげ、洞窟のはるか多角にある天井まで揺さぶっているようだった。

ひょっとしたら地下の住民たちが出す下水が混じっているのかと思ったが、悪臭などは感じられない。上流と同様に、澄んだ流れが続いているようだった。

「汚水などは混じってないよ。裏側の住民が垂れ流す下水はすべて、汚濁の湖へとつながっておる」

汚濁の湖とは何なのかと、水音に負けぬよう声を張り上げて尋ねた。

「昔、『大地の裏側』を築き上げた連中の手による排水槽と伝えられているがね。そして、怪物たちの住処じゃ」

「怪物?」

「君が食われかけた、大ミミズのことだよ」

セーンが横から耳打ちをした。

今、三人は地下川の上にかかるアーチ状の石橋を渡っていた。人工のものではなく、天然の浸食作用が生み出したものであるようだった。

飛沫を上げる地下の激流、その遥か上方を緩やかなカーブを描いてかかる岩の橋。その上を渡る3人の人影。

絵になる光景であるには違いなかったが、それは傍から見てのことだろう。

不安定な足場を渡るレーナにとっては、絵になるどころではない。足元の滑りやすさと、下から絶え間なく聞こえる激流の叫びに怯えながらの橋渡りである。前を行く少年をそっと窺うと、顔つきは平然とした風を装っていたが、両手を傘状に広げ、半歩ずつこすり合わせるように進めていく足の動きには、やはり怯えが認められた。

婆さんといえば、変わらぬ足取りで話を続けているのである。

「あの怪物は、『汚濁に潜むもの』と昔は言われておった。古の術者たちが戯れに作ったものじゃ。

彼らは澄んだ水を嫌うはずなのだが、時折はこの鍾乳洞にも姿をみせる。まれなことじゃがのう」

レーナは恐々と足元を見た。下を流れる激流には、生き物の影は無い。しかし、絶え間ない轟音と舞い上がる飛沫の渦は、レーナを落下へといざなっているようにも見えて、彼女はあわてて目をそらすのだった。

天然の橋を渡り終えたときには、少年少女は我知らず安堵の溜息をもらしてしまう。ジェダが『近頃の若い者は情けないのう』と言わんばかりに顔をゆがめていた。

やがて、川の音も背後に遠ざかっていき、上りは急勾配になっていく。ジェダはなおも独り言のように話を続けていた。

その話は次第に同じことの繰り返しになってきて、さらには婆さんの個人的な悩み(最近は腰の曲がりが酷くなった等)まで混じり始め、若い二人は次第に退屈になっていく。

「会うたびに思うんだが、婆さんはそういうことをどこで勉強したの?」

ふとした弾みに、少年は話題を変えようとした。

「あたしには、噂が良く耳に入ってくるんじゃ。そして、彼がいろいろと知っておる」

「『彼』とは?」

「さて…。地上ではどうやら術者のようだが、本質は神族(北方人は妖族をこう呼ぶ)に似ているのかもしれん。

いや、やはりどちらでもない。彼は、彼じゃからな。

ときおり、この地下を訪れる」

そして、老婆は声をいっそう低めて、

「彼は、時折りやって来る。

一ヶ月ほど前には、二度もここに来た。つい先日も」

「なぜ、分かるんだ?」

セーンは興味津々と尋ねるのである。すでに川は遠く、再びの静寂に彼らの声だけが良く響いていた。

「さきほど、蝙蝠たちが天井に怯えて縮こまっておりましたな。

あたしは術者でも神族でもない。ですが、獣たちの怯えでわかりますのじゃ。

先ほどは、おやかた様の殺気に恐れをなしていた。

彼が来るときも同じことになるのです。彼が来るときは、いつも獣たちが怯える。彼らは強いものを本能で見抜くゆえな」

「どれくらいの昔から、彼は大地の裏側を訪れていたんだい?」

「おやおや。『彼』に心当たりがあるようじゃね。だが、私は歳じゃけ、いい加減にしゃべり疲れてきたのじゃ」

ジェダ婆さんは意味ありげに笑うのである。

「あとで、礼金はずむぞ」

苦りの混じった声でセーンが譲歩する。

「…彼をこの地下に始めて現れたのは、30年くらい前のことじゃったね。

そのあとも、時々は鍾乳洞の洞窟に姿を見せた。

彼は多くの知識を欲しておった。特別な目的があったというよりも、何でも知りたがる子どものようじゃった。少なくとも始めのうちはな。

彼が頻繁に現れるようになったのは、ここ一年のことじゃ。

今までは純粋な好奇心だったはずが、何かの意図を持ち出したようじゃ。

果たして、何をするつもりか、あたしには分からん。だが、彼がこの地下で何かを企んでおるのであれば、おやかたさまが大地の裏側から逃れるのは正しい判断なのかも知れぬ。

「彼はいつも優しい眼差しで、穏やかなしゃべり方じゃった。こちらを落ち着いた気持ちにさせ、和ませてくれた。

いつしか、彼と話すことはあたしの楽しみとなっておった。彼と話した人間は、誰しも同じように思うじゃろう。

だが、一度だけ…」

老婆はここで口をつぐむ。

うつむいたままで口をもぐもぐと動かし、何か独り言を言っているようだった。セーンは続きを促すように、じっと老婆を見つめていた。

ジェダは不意に顔を上げ、その黄ばんだ両眼でじっと見つめ返す。

「あれは、何について語っているときだったろうか。一度だけだったが、あの方の瞳に暗い影が宿ったことがあった。

燃えるようなあの眼差しは、きっと殺意じゃ。

いや違うな、何かを滅ぼしたいと願っている者の目つきじゃった。

だが、それは本当に一回きりのこと。

ともかく、不思議な御仁じゃったよ。

…そういえば、おやかたさまの目つきは、あの時に彼によう似ておる…」

ジェダはそういった内容の言葉を、くどくどとしゃべり続けるのである。

レーナは、自分にはまったく理解できない話が続いていて不服だったが、それでも次第に興味が沸いてきた。恐るべき力を持つ「彼」とやらが何者なのかが気になってきたのである。

勾配はやがて緩やかになり、周囲の光景も鍾乳洞から岩肌の洞窟へと再び姿を変えていた。

頬に当たる涼しい風にふと気がつく、肺に吸い込む空気も、喉に絡みつくような湿り気が無くなり、心地よい冷ややかさを含むようになっていた。

どうやら、地上は近い。

「そういえば、のう」

ジェダは笑っていた。

「『彼』が最近、台地の裏側のことで一番に知りたがっていたことが何か、分かるかの?」

「なんだ…」

少年はフードをかぶりながら、老婆に向き直る。

老婆は枯れ枝のような指で、相手を指差していた。

「ほかならぬ、おやかたさまのことでございますよ」



8、

協会本部の地上23階に、オーレル導師の個室がある。

弟子のファルン少年が部屋を訪れるとき、いつも目を引かれるのが、机の上におかれた地球儀と、壁に大きく飾れた世界地図であった。簡素な部屋模様の中で、それだけが目立っているのである。

国々や都市の名前がこと細かく書かれたこの地図を、導師はいったい何を考えながら眺めるのだろう。

ファルンはふと、自分の目が狂ったかと疑った。国境線が、現在とは全く違う。北方では妖族の支配領域がずっと広く、中央から南方にかけては小王国が乱立していた。

(これは1000年前の地図だ)

とファルンは合点がいく。連邦も存在せず、それ以前の中央王国すらなかった時代のことである。

(しかし、前は現代地図だったのに、いつ取り替えたのか…)

と思ううちに、地図の絵柄がかわっていくのである。

国境線がなくなっては、新たに現れる。北方妖族の領域は次第に後退してゆき、南方の小王国は次第に数が少なく、一つ一つの国は大きくなっていくのである。

やがて中央湖の北方から現れた国が、他の国々を併呑しながら、大陸の半分を支配した。妖族勢力は大陸の北方、地図で言えば上方に追いやられる。

(なるほど、魔法仕掛けの歴史地図というわけか)

今の段階で表わされているのは中央王国の時代なのだろう。しばらく、地図の絵柄はほとんど変わらなかった。

だが、やがて変化が訪れる。中央王国は北と南に分裂した。それはまもなくひとつに収められたが、今度は東と中央と西に分かれてしまう。

王国時代の末期だった。

気がつけば、北方に追い込まれたはずの妖族勢力が、再び領土を拡大していた。

黒で表わされた領域が風船のように膨らんでいき、中央王国の領土の過半を侵して、やがて世界の半分を支配した。

初代妖王の君臨した、暗黒の時代である。

しかし、長くは続かない。黒の領域は、西方の赤の領域、協会領を幾度も飲み込もうとして、それが出来なかった。やがて反撃するかのように、赤の領域が一気に広がっていく。

今度は妖族の王国がいくつにも分裂し、そして縮んでいった。協会領が世界の半分を覆った。連邦の誕生である。

(壮大な…)

絶え間の無い歴史の移り変わりを目の当たりにして、ファルンは息を飲まずに入られなかった。

国境線が入れ替わり、都市が消えては現れるたびに、時代の大河が轟々と流れおち、巨大な歯車の軋みが聞こえてくるようだった。


そして、地図は現代に至る。

連邦は大陸の西方と、中央湖の周辺部を支配していた。かつて妖族の属国だった地域には、いくつもの弱小な国々が乱立し、連邦の行政区も存在していた。

大陸の東側には、連邦の自治州が5つほど存在していた。

南方にも、連邦の支配権を認める自治共和国が散在している。

(こうしてみると、世界のほとんどが連邦支配下にあるんだな…)

改めて、連邦の強大さを思う。

(けれど、これも不変ではないのかもしれない)

唐突な考えだった。たった今、国々の移り変わりを目の当たりにしたゆえの発想かもしれなかった。

と言って、これからどのように変化するかなど、予想がつくはずも無い。

ファルンが感慨に浸りながら現代の地図を見ていると、ふと奇妙なことに気がついた。

もう地図の絵柄は現代までになったのに、まだ地図が微妙に揺らいでいるように見えたのだ。

(なんだ…何が起ころうとしているんだ)

北方の様子がおかしかった。行政区が拡張したかと思うと、また縮んでいく。

大陸の東も怪しく蠢いていた。国境線が揺らいでいる。まるで各自治州が融合していくように…。

思いがけない成り行きに、ファルンが見入ってしまったとき、

「待たせてしまって、すまん」

落ち着いた足音が響く。オーレル導師が入ってきたのだ。

悪事をしたわけでもないのに、ファルンは心臓が痛いほどに飛び跳ねていた。オーレルは察したようだったが、機嫌も損ねずに

「どうだね、その地図の仕掛けは。

過去から現在までの国家の移り変わりを見ることができる、一種の歴史地図だ」

面白かったかね、と鷹揚に微笑みながら尋ねる。

ファルンはうなずきながら、最後の奇怪な光景はなんだったのかと考えるのである。

まさか未来かとも思えず、かといって導師に尋ねるのは何と無しにはばかられることだった。そっと地図に目をもどしたが、現在の世界地図が広がっているばかりである。

「それで、用事とは?」

「この間、魂抜けの術で妖王の間近まで私は行きました。そのとき、私は妖王のそばに少女が一人いるように思われたのです」

「私も感じた。彼女について調べたのかね?」

導師は相変わらず察しが早い。ファルンはうなずいて

「はい。かつて妖王が成り代わった少年…セーニス=ディンケルには幼馴染がいました。

私も昔、彼女にあったことがあります。名前はレーナ=ラスカーと言って。

今は首都の近郊で母親と暮らしているはずでした」

すでに導師は椅子に腰掛け、じっと弟子の話を聞いているのである。

「この前、レーナの母親に会いにいったのですが。依然とは打って変わった、恐ろしく無愛想な態度で追い返されました」

「実の娘が地下にいると言うのに、知ってか知らずかその態度か。確かに不審なことだ。

それに、その娘さんにとっては、妖王は幼馴染に成り代わり、故郷まで破壊した敵であるはず。それが何故、彼の元におるのか。誘拐されたか、あるいは…」

導師はふっと顔を上げた。突然に視線を浴び、ファルンはうろたえる。

「実際、ディンケル少年は、妖王に殺されたという訳ではないのかも知れん」

「え?」

「前に言わなかったのか? 妖王とは、ディンケル少年の心の奥底に潜んでいた、あるきっかけで彼の心をのっとってしまったのかもしれない。だとしたら、ディンケル少年と、妖王3世は同一人物と行っても良い」

「そんなことが、ありうるのでしょうか。聞いた話では、ディンケルは内気で大人しい性格だったと聞いております」

導師はゆっくりと首を振る。

「幼いころ気弱で仲間はずれだった少年が、長じてからは恐るべき殺戮者となる。決して歴史に例のないことではない…まあよい。話を続けてくれ」

「は、はい。続けます。母親…リンダさんの態度があまりに不審だったので、私は彼女の近辺について色々と調べることにしました。本来、個人について調べることは、好ましくないのですが…」

実際、様々な人に話を聞くには相当の時間が掛かったのだが、ファルンはあらましだけを伝えることにした。

「少し、意外なことが分かりました。

レーナはリンダの本当の娘ではありません。

幼いころは山奥の村に住んでいて、旅行をしていたリンダとはたまたま知り合いになったようです。村でのレーナは嫌われ者で、身寄りと呼べるものも無く、虐げられてさえいました。リンダは彼女の境遇に同情して、自分のもとに引き取りました」

「幼い少女が、何故それほど嫌われなくてはいけなかったのかね?」

導師にはすでに答えが分かっているようにも見えた。だが、敢えて言おうとはしない。

「彼女にまつわる、奇怪な噂が広まっていたのです。

レーナ=ラスカーの実の父親は人間ではない。彼女の父は妖族であり、彼女もまた、その血を…」



9、


乾いたアスファルトの上に、小さなミミズがもがいていた。

薄暗い地中に棲まう生き物が、なぜ青空の下にまで辿り着いてしまったのか。

むき出しの地面に、しきりとぬめり毛のある体を頻りとくねらせていた。

柔らかい皮膚をアスファルトに引き裂かれ、体の水分を見る見る奪われ干からびていく苦しみに、最期の身悶えをしているのだろう。

(明日になれば、ミミズともつかない乾燥した糸切れになって、道路を転がっているんだろうな…)

ふと哀れを催した少年は、近くにあった枝切れでミミズをすくいあげ、近くの植え込みに移してやった。

「何をやってるの?」

レーナは少年の奇行に首をかしげていた。後を通る中学生たちが、気味悪そうな、嘲るような表情で後ろ指をさしている。

「いや、たいしたことじゃないよ。

レーナはミミズを素手でつかめる? 昔は平気でつかんでいたね」

「うーん、かぶれそうだから…」

レーナは首を振った後、少し微笑んで、

「でも、優しいんだね」

「そう?」

「普通は、そんなことしないよ」

レーナは何故かうれしそうだった。

「その優しさ、もっと別のところに向ければ良いのになぁ」

例のごとく嫌味を付け加えるのも忘れなかったが、響きにはそれほどの棘も無い。むしろ本心から残念に思っている口ぶりである。

今は晩春、心が弾むほど暖かい日だった。

青空からは明るい日光が降り注ぎ、整えられた雑木林や、おもちゃの家を大きくしたような建築物を照らし出していた。

わざわざ古風に作られた建物や街灯に囲まれた道を、父親と母親、その間に小さな子どもといった家族連れが、何組も道を歩いている。

楽しそうな笑い声や話し声で辺りは満ち満ちているのだった。

「遊園地って、久しぶりよね」

レーナも晴れ晴れとした顔をしていた。横を歩く少年は、いつもどおり無愛想な表情である。

「もう、少しは楽しそうにしなさいよね。自分が来たいと言ったんだから」

少女は面白半分に、少年の頬をペチペチと叩く。レーナの手は意外と柔らかい。


ジェダ婆さんに財布の半分を渡した後、日の暮れかかった山中を彷徨い歩き、ようやく町とよべる地域に辿りついた。エナス市南の近郊都市だった。

安宿に泊まった翌朝、遊園地に行くと突然言い出したのはセーンのほうである。

ここは有名な遊び場であるらしく、平日なのに客も多い。

目立つのは若者たちの集団で、たいていのグループは男だけか女だけで愉快そうに群れていた。

笑顔を交し合うアベックたちの姿も見かけられる。乳母車を押している老人もいれば、ちょこまかと走っていく子どもを、呼びかけながら追いかけている親たちもいるのだった。

「どこに行くつもり?」とレーナに尋ねられても、セーンは生返事をするばかりだった。

スピーカーからは陽気な音楽が鳴り響き、絶叫マシーンの楽しげな悲鳴が、近くから遠くから聞こえてくる。

「あれ、乗って見ない?」

とレーナが指を刺したのはジェットコースターだった。

「いや、いいよ」

「さては、怖い?」

「うん、怖いね。一人きりで乗るのも良いけど、ひょっとしたら誰かが乗り物に細工をしているかもしれない。なにせ、俺の部屋の上に爆弾を仕掛ける奴らもいるからな」

少女は露骨にうんざりとした様子で、

「ここまで来て、そんな話をしますか…。だいたい、あいつらセーンがここにいるって知っているの?」

「さあね。ああいう生命の危険を感じさせるものは嫌いなんだ」

「結局、乗りたくないだけじゃない…」

激流の上を綱渡りするような恐怖を味わった後では、さらなるスリルを求めたくも無かったのだろう。少女もあっさりと引き下がった。

あちらこちらと歩き回っているうちに、ふとした弾みでゲームセンターに入った。

電子音、コインの流れる音、爆発音などが入り混じり、耳を覆いたくなるほどの騒音で充満している。

「あ、これ面白そう」

彼女が手を出したのは射撃のゲームだった。こちらは玩具の銃器で、画面上の敵を撃つというものである。

華奢な体つきで、顔つきもあどけない少女が、颯爽とした姿勢で構えていた。

白磁の西洋人形に鋼鉄の銃器を持たせたような、不思議なアンバランス。

少女の姿は愛らしくて、そのくせ格好良くて、見ていると何故だか胸の中が蕩けそうになってしまう。

「何してるの? 早く撃たないと」

レーナが不思議そうに振りかえり、彼は初めて彼女に見入っていた自分に気が付いた。

頭をわずかに振って、セーンも銃を構えた。

画面の奥から現れてきた怪物たちを、少年と少女は肩を並べて迎え撃つ。どういう訳か、二人は他の客達の視線を浴びていた。


お化け屋敷は、あまりたいした物ではなかった。

暗い道を行くにしたがって、両脇に配置されたグロテスクな人形が闇の中から浮かび上がる。

もともと小さな子ども向けなのだろう、地下の世界でさまざまな怪奇を味わってきた二人とっては少しも怖くない。心臓病の客にも配慮しているのか、お化けの現れるタイミングも効果的とは言いがたかった。

少年と少女はあくびをかみ殺しながら道を進んでいく。

しかも先を歩いている女子高生3人組がキイキイ声で悲鳴をあげることを楽しんでいて、五月蝿くて堪らない。

「きゃー!」「怖いい!」「出たああ!」…あそこまで甲高い声で叫ばれたら、お化けのほうが驚くだろう。

順路の最後のほうでは、神像が浮かび上がる。見ていると、光の角度が変わり像は骸骨に化けてしまった。

「鏡のトリック…かな?」

レーンは真顔で尋ねる。

「だろうね」

というなり、セーンは柵を乗り越えてしまう。

「え、ちょっと…」と戸惑うレーナの声に、「そこで待っていろ」と言い捨て少年はずんずんと道を進んでいく。そして、骸骨が映った鏡のところまで進んでいき、

「おい」

と声をかけた。

鏡の後ろ側の、薄暗い空間から「お客様、こんな暗い場所を覗かれては困ります」

と囁き声が聞こえてきた。

「俺は暗いところが好きなんだよ。そこからやってきたんだからな」

と答えると、しばしの沈黙の後、

「ささげよ、全てを、ラグナスに…。おやかたさまですね」と答えが返ってきた。

「160名ほどが、東町に入りました。今のところ、族長たちの動きに先んじているようです。

それと、オズル族長がおやかたさまと合流を申し出ております」

セーンは答えない。

「われわれは、影の濃い場所でおやかたさまをお待ちしております。いつ、いらっしゃるおつもりですか?」

「時節がめぐってきたときにな。

とりあえず、地上に出た者たちには各拠点に分散するようにと伝えておけ。

以前に教えておいた手はずのとおりに。そして、お前もここから去れ」

鏡の裏側で人の動く気配がした。かすかな足音が去っていく。

彼は再び通路に戻り、レーナと一緒に施設の外に出た。

「誰かと話してたの?」

「いや」

レーナは何か言いたげに口を動かしていたが、彼は視線を合わさない。

少女は結局くちをつむり、肩をすくめるのだった。


昼が近づくにつれ、道の混雑も増していく。セーンはベンチに腰掛けて、浮かれた足取りで行き来する人々の流れを、ぼんやりと眺めていた。雑踏の向こうには、遊園地内の映画館があり、その出口からも人々が大勢でてくるのだった。

記憶の底を探って見れば、自分もこうした人々の一人だったことがある。

あのころはまだ、自分が他の人々と異なるなどと思ってもいなかった。ごく普通に、みんなといっしょに見世物や遊戯を楽しんでいたはずだった。

だが今となっては、その楽しみはひどく遠い。

通り過ぎていく人間の群れを見ていても、どこか別の星の光景を蜃気楼として眺めている心地もするのである。

少し遊んで見たところで、以前のような高揚感など無い。例え群衆の中に混じっていたところで、自分の心は彼らからは隔絶されてしまっていると改めて気付く。

「食べる?」

顔を上げれば、レーナが見下ろしていた。アイスクリームを両手に、にっこりと笑っている。

なぜ彼女はこんな風に笑っていられるのだろう。

すでに人間ではなくなってしまった自分に、普通に接していられるのだろう。

「なんで?」

彼は問いかけた。「え?」と少女は戸惑う。

「どうして、俺なんかと一緒にいられるんだ?

これだけの極悪人と、デート紛いのようなことをして楽しいか?」

「…へぇ、悪人の自覚あったんだ」

レーナは茶化して質問を誤魔化そうとしていた。彼は答えを渇望する眼差しを、少女から離さなかった。レーナは少しうろたえた末に、

「…ほっとけないからかなぁ」

首をかしげながら、ようやく答えを思いついた。

「本当は、あなたみたいな人は憎まなくっちゃいけないはずなんだけど。どうしてなんだろ、そういう感情が沸いてこないんだ。やっぱり、セーンだからかな?」

「そんなに、セーンが好きだったの?」

彼は訊いてしまってから、自分の声が震えていることに気付く。何をバカな質問を、と我ながら思うのだが、尋ねずにいられなかった。

「そうだったのかも、知れない」

レーナはあっさりと答える。

「何一つとりえもないガキだったのに?」

信じられなかった。

「自分でそこまで言う? 確かに情けないところはあったけど…頑張るところでは頑張っていたよ。セーンは違うって言うけど、優しい所だって本当にあったと思う」

少女は懐かしさに顔を和らげながら、目はどこか遠い場所を彷徨っている。

「それなのにな…」

大切なものを失くしてしまった悲哀が、少女の小さな唇から漏れ出した。

「さっき、お化け屋敷に言ったとき、誰かと話しをしていたよね。まだ悪企みする気なの?」

「やめてどうする。生きることもやめるのかい?」

皮肉な冷笑を浮かべ、からかうようにうそぶいた。

暖かいものが、肩に触れる。レーナの体が、彼の右脇に腰掛けている。

「どこか、逃げちゃうってのはどうかな。たとえば南の島なんかにでも」

誘いかけるような、ささやくような言葉。雑踏の音はどこか遠く、間近にいる彼女の声だけが不思議にはっきりと聞こえる。

少女の大きな瞳が、彼をじっと見つめていた。

「南の島、ね…」

目の前にある映画館には、ちょうど南国の青い海と白い海岸線の写真がでかでかと掲げられていた。

穏やかな気候に恵まれて、人の姿も少なくて、夜になれば静寂に覆われる。

夕暮れ時には空も海も群青色に染まっていて。

波の音が穏やかに響き、心地よい微風が頬をなでるのだろう。

黄昏の空の下で、さらさらの砂をサンダルで踏みしめながら、白い肩を露にしたワンピースの少女と並んで歩く、そんな光景が脳裡に浮かんだ。

「馬鹿馬鹿しい」

鼻を鳴らして、彼は少女の傍から立ち上がった。



10、


映画館の出入り口から大勢の客たちが吐き出される。恋愛ドラマでもやっていたのか、なかにはハンカチで涙を抑えている人もいた。

(やはり、音つきの映像というのは、もっとも人の心を動かすんだろうな。想像力の無い奴らにはっきりとした印象を与えるためには、ただの言葉や文章よりも、映像があったほう良いに決まっている…)

レーナは手洗いに行っていた。セーンはそちらの方角を眺めながら、心の中では様々な思案をめぐらせていた。

あのオズルという男は、族長でありながら、うだつの上がらない中年サラリーマンのような風貌だった。意外なほど部下たちからの信望は厚い。

だが、他の族長たちからは忌み嫌われていた。彼の金回りの良さが、嫉妬を招き寄せているのかもしれない。彼に期待を持てるところがあるとしたら、他の族長たちとの関係の悪さに他ならない。

(しかし、あいつの金脈はいったいどこから…)

そこまで考えたとき、背後から熱線をあびせられる感覚がした。強烈な悪意が自分に向けられている、と気付いてはっと身構える。

刹那、目の前の柱が真っ赤に爆発する。

(爆弾か…)

とセーンが思ったときには、彼の体は衝撃に飲み込まれていた。




レーナが手洗い所から出たとき、耳を劈くような音が大地を揺さぶった。

あれは確かセーンが待っていた場所と思うまもなく、群衆は悲鳴を上げ、入り口のほうへと殺到した。

否応も無く人の激流に飲み込まれ、彼女の体は自然と流されてしまった。

爆発は何度も続き、そのたびに悲鳴と絶叫が響く。

逃げ惑う人々に押しつぶされないよう必死で走り、ようやく落ち着いたときには、すでに入場門は遠くなっていた。

(セーンは、どうなったんだろう…)

今更ながら思ったが、どうしようもない。

早くもサイレンの音が響き、警官たちが駆けつけていた。すでに門の周囲にはロープが張り巡らされ、戻れそうにもない。

担架で担ぎ出される人もいて、足に震えが走った。だが、セーンの姿は見当たらない。

(死んじゃったの?)

死ねば良いじゃないか、レーナの心の冷静な部分がつぶやいていた。

あいつは今までも沢山の命を奪ってきたし、もし生きていたのなら更に多くの人々が殺されるだろう。

そう自分に言い聞かせながら、胸をしめつけるような痛みをどうすることも出来なかった。

幼かったセーンの笑い顔や泣き顔が浮かんでしまう。

最近になっても、あの男が大ミミズを倒してくれたときに少しだけ心強く思ってしまったことや、負傷して憔悴した彼のことを気の毒に感じてしまったことなども思い出してしまうのである。

自分の心が自分でも捉えがたく、それが腹立たしくて、涙が出てきてしまうのだった。

何よりも、これからどうすればよいのだろう。

今までは曲がりなりにも守ってくれていた妖王がいなくなった今、身の処し方には途方にくれるしかなかった。

それでもレーナは立ち上がり、当ても無く歩き始めるのだった。


気持ちの整理など到底つかぬまま、バスに揺られて数時間、少女が降りた停留所には、夕暮れの静けさが覆っていた。

藍色の空の下、細い道路が続いていく。

道の両脇には小さな家々が軒を並べる、閑静な住宅街だった。

沈み行く夕日の、わずかな余韻に照らされて、停留所に降り立った二人の影が、薄く長く延びていた。

(お母さん、元気かな…?)

このあたりは、以前までリンダと暮らしていた場所だった。

彼女はこの地区で、古物屋を営んでいた。レーナは学校に行きながら、母親の手伝いをしていた。

見覚えのある並木道、路地裏を辿る。公園を通り過ぎ、古びたベンチを目にしたとき、母娘ならんで座ったことを思い出す。

リンダに出くわしたくは無かったけれど、彼女が今どうしているのか、それを知らずに入られなかった。

幾度と無く上った坂を進み、やがてかつての我が家にたどり着いた。

もう時刻が夜に近いためか、店は『閉店』と表示がされていた。

家の裏側に回りこむ。果たして、窓からは明かりが漏れていた。中からは炊事の音が聞こえてくる。

懐かしさに胸が締め付けられる思いで、身を乗り出したとき、突然、こめかみに激痛が走った。

足元に、ぶつけられた石が転がる。

焼け付くような感触を手で抑えながら振り向くと、男の子たちの集団が姿を現していた。

どこかで草野球でもしていたのか、グローブやバットを抱えている。

「久しぶりに出てきやがったな!」

「化け物女だ! 化け物女だあ!」

声変わり前の黄色い声が、響き渡る。

レーナは打たれたように立ちすくみ、表情も凍り付いていた。

子どもたちは、そんな彼女に近づこうとはしなかった。だが、悪罵をやめようとはしない。

「どうしてここに来たんだよ。帰れ、帰れ!」

「妖族は、収容所へゴーホーム!」

野蛮な叫びをあげながら、更なる石礫を投げつけてくる。

少女は小さく悲鳴を上げた。

だが、その直後、レーナを苛めていたはずの男の子たちが悲鳴を上げたのである。

振り返ると、恐ろしい人影が近づいていた。

焼け焦げたフードつきのジャケットを身にまとった男が、背後から無言でしのびよっていたのだ。

すっぽりと被ったフードの陰では、双眸が夕陽を反射していた。

彼がその口元で何かをつぶやく。男の子たちは世にも恐ろしい絶叫をあげて身をよじらせた。

どんな激痛に襲われたのか、背筋をありえないほどに反らせ、地面に悶えころがる。

フードの男は懐から杖をとりだすや、リーダー格の少年を打ち据えはじめた。

「があぁ!」

全身を震わせ、渾身を振り絞るような勢いだった。振り下ろされるたび、空気が悲鳴を上げ、何かのつぶれる嫌な音がした。

「やめて!」

レーナは叫び、フードの男に後ろから抱きつく。

子どもたちは地べたを這うようにして逃げ出すのである。

「どうして、止めるんだ」

爆風に巻き込まれたはずのセーンだった。

彼は肩を生々しく上下させながら、暑さに耐え切れなくなった風に、フードを脱ぐ。

「こんな子どもを殺したら…」

「子どもがどうした。子どもなんて、大人よりも始末に終えないんじゃないのか」

這いつくばる少年たちに、刃のような視線を浴びせかけていた。

「だって、この家は…」とレーナが言いかけたとき、家の勝手口が耐え切れなくなったかのように激しく開かれた。

「あんたたち、なにやってるんだい! あんまり騒いでいると警察…」

ようやく瞬き始めた街灯の光で、中年女の不機嫌な顔が照らし出される

それはリンダだった。以前よりも皺が深いように見えるのは、光の加減のためだろうか。

母と娘の視線が合わさり、小さく息を飲む。二人そろって呆けたように、口を半開きにしていた。

黄昏の薄光の中で、沈黙がしばし続いた。今まで気にも留めなかった自動販売機の機械音が、嫌に耳につく。風が葉を鳴らす音が、はっきりと聞こえていた。

「レーナ!」

ようやく、母親の叫びが冷たい空気を震わせた時には、既に少女は身を翻していた。口を硬く閉じたまま、セーンの手を引き、影が濃さを増していく路地裏へと姿を消した。



列車の振動が、規則正しく二人を揺さぶっていた。

少年はドアの右側に、少女は左側にうつむきがちに立っている。

額から流れた血は駅の売店で買った絆創膏と消毒で手当てをしたが、なおも血が染み出してくる。

少年はそっと手を添えて、ハンカチで血をふき取ってあげた。

「セーンは、無事だったんだね…」

「残念ながらね。オーレル導師のいかずちに比べれば、あんなものは…」

と例のごとくせせら笑いを浮かべ

「君も薄情だな。さっさと俺をおいて逃げ出すなんて」

と冗談半分、うらみ半分に睨みつけた。

レーナがギクリと肩を震わせると

「ハハ、冗談さ。あんな事件現場をいつまでもうろつける訳もない。正しい判断だね」

「どうして、私の居場所がわかったの?」

「見当ぐらい、つけられる。…それより、君の家出の原因がわかったよ」

すでに、車窓の外は闇となっていた。扉の窓に目をやれば、自分たちの顔が鏡のように映っていた。

自分も彼女も、歳よりも幼い顔立ちであることに、今更ながら気がついた。


「もう知っているかもしれないけど、私はね、リンダお母さんの本当の娘じゃないのよ」

少女はようやく言葉をつむぎだしたのは、列車を降り、人通りの少ない道にはいってからのことである。

街灯がかなりの距離を置いて並ぶ道を歩いていた。二人の影が前に伸びては消えていき、また新しい影が現れる。

「故郷の村で、私は嫌われ者だった。

忌まわしい妖族の血を引いていたから。本当の父母の顔なんて、私は知らなかったけど。

私を拾ってくれたのは、商売で村を幾度か訪れていたお母さん…リンダさんだった」

少女は空を見上げていた。家々が影のように並ぶ向こう側に、星がひとつだけ瞬いている。

「すごく良くしてくれた。血などつながっていないのに、お母さんと呼ばせてくれた。…まあ、腹の立つことも色々あったけどね」

悪戯っぽく笑って見せた後、再び真顔に戻る。

「あなたにコレスの町を破壊された後、私たち二人は首都の西町に移り住んだ。

だんだん商売も軌道に乗り始めて。ここでの生活は上手く良くと思っていたんだ」

うつむいて、普段の彼女には似合わない、細々とした声でしゃべりだす。

「どうしてか分からないけど、噂が広がりだした。

私の出自にまつわる噂。誇張されたものだったけど、真実に基づくものだった。

誰かが、私の戸籍を調べたのかもしれない。

そしたら、みんなの見る目が、一気に変わってね。

お母さんの店も、客足がばったり減った…」

「だろうな…」

淡々とした話しぶりではあったが、その裏にある生々しいむごさは、突き刺される程にはっきりと思い浮かべられた。

「だから、母親にこれ以上の迷惑を掛けぬよう、君は家を出たというわけか」

冬の初めに、彼女と再会した時に見た情景を思い出していた。

淡い月光に包まれて、今にも消えてしまいそうなほど、儚く見えた少女の姿。

その理由が、ようやくわかった思いがした。

話し終えたレーナは、今は錆びたベンチの上に座り、自販機で買ったジュースを啜っていた。

常夜灯に照らし出された少女の無表情は、今にも崩れてしまいそうにも見えるのである。

肩まで伸びた黒髪は、風にさらさらと揺れて、闇の中に溶けてしまいそうに見えた。

(この女も、世界での居場所を見失った一人か…)

自分と似ている、と思ったとき、抱きしめたいような衝動で身が疼く。

だが、現実には少女の細い肩にそっと手を置いただけだった。

(俺も彼女も、終わりが近いのだろうか…)

暗い影のような諦観が忍び寄るが、それは憎むべき世界への敗北でしかないだろう。

このまま消えると考えただけで、歯軋りするほどに口惜しい。

煮えたぎる怒りが、喉奥にまでこみ上げてしまうのであった。



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