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魔王と幼馴染 ~夕と夜が出会う場所~  作者: 寿歌
第二章 笑う夜空
5/11

第二章 笑う夜空 1~5

1、

潮風の匂う小さな港町だったエナス市が、連邦の首都と定められたのは5世紀も昔のことである。

以来、この街は莫大な人口と富が流入し、絶え間ない発展を遂げてきた。

今やこの土地は、中央官庁が立ち並ぶ連邦首府であり、世界的大企業の本社がひしめく経済の中枢となっていた。人口規模も随一で、世界最大の都市といって過言ではない。

都心を訪れた人々が目にするものは、例えば雲よりも高くそびえる高層ビル、夜も美しいネオンで彩られたショッピングセンター、空中を縦横に行きかうハイウェイ…荘厳な大都会の光景に、目を奪われないものはいないだろう。


だが、ひとたび郊外に出れば、街の様相は大きく変わってしまう。

例えば市の中枢部から東に10キロほど、古くから東町と呼ばれてきた区域があった。

川沿いに広がるその土地は、鉄道駅の周囲こそ小奇麗な建物が立ち並び、道路も良く整備されていた。

そこから僅か数分でも道を進めば、トタン屋根の家々が隙間無くひしめく、雑然としたスラムとなってしまうのである。

海面よりも土地の低い東町界隈は、以前は洪水の頻発地域であった。ひとたび水があふれれば、汚物が町中に流れ込み、流行り病に人がバタバタと倒れるのである。

資産のある住民はこの場所を避け、他に住む当てもない貧しい人々ばかりが流れ込む歴史が続いてきた。

治水工事がなされ、鉄道や道路が整えられた今となっても、住民構成は容易におきかわるものではない。

東町出身と分かればそれだけで蛆虫でも見るような目つきを向けられるほど、薄汚れたイメージが定着していた。実際、治安も環境も劣悪な東町に、今更になって金のある人が移り住むなど、あるはずもない。

それどころか、昨今は北方からの貧しい出稼ぎが群れをなして入り込み、状況は悪化の一途を辿っていた。



窓一つ無い穴蔵のような部屋だったが、壁はケバケバしい彩色に覆われていた。

充満した煙草の紫煙は、ぶらぶらと揺れる天井の電球に照らしだされ、部屋の空気を混濁させていた。

野卑な歓声が、壁を揺らすほどに鳴り響く。狭い室内のあちこちで、咆哮に近い合唱が天井を震わせていた。

カウンター前には木椅子が並べられ、男達が酒をあおっている。

奥側では、胸元も肌蹴た色気満点の服を身にまとった、しかし歳は四十近くの中年女が、給仕をしていた。彼女が歩くたび、古びた木の床は、抜けてしまいそうな軋み音をたてるのだった。

ここは東町裏通りの一酒場である。

北方出身の労働者達が、夜な夜な安酒を求めて来る憩いの場。

安酒とは言え、彼らの給金から見れば馬鹿にできる額でもないのだが、稼ぎのほとんどを飲み干してしまうものも少なくない。

全く、ここで費やす金を貯金に回しでもすれば、日雇いの彼らとて少しは生活が楽になりそうなものではある。

だが、昼間の辟易するような労働に疲れ果て、その後の快楽まで奪われてしまったら、人生に他の楽しみなど残りはしない。


騒がしい一団が去っていった後は、酒場はどことなく肌寒い静寂が漂っていた。ラジオの音楽も何時の間にか鳴り止み、古びた冷蔵庫の唸り声が、いやにはっきりと耳につく。

閉店時刻も近かったが、客はまだ二人ほど残っている。

出て行った男達よりは、もう少しは歳上の工員が二人、カウンターの隅で酒を酌み交わす。

「全く、内の雇い主といったら…」「俺のところなんてよう…」

傾きかけた木椅子に座り、ひたすら愚痴をこぼしあっていた。

古びた扉のきしむ音。

誰かと振り返れば、顎じゅうに無精ひげを生やした一人の男が入ってきた。

他の男達と同様、工員風の服を着ていたが、右腕に牛の頭部らしきものを抱えている。

もちろん作り物だったが、それを見て男達は思わず顔をしかめた。

「ヴァランか…」

顔をしかめ、見ない振りをしようとしたが、無精ひげの男…ヴァランは構わず隣に座ってしまう。

「ヤニ臭えなあ、この店は」

牛の頭は足元に置いて、給仕の女に振り返り、

「おい、おばちゃん。ワインはこの店においてあるかい? 3本ほど欲しいんだが」

「全く、世辞でも姉ちゃんとはよべんものかね。

…都心並みの品質なんて贅沢を言わなきゃ、あることはあるよ。けど、あんたに払えるのかい?」

「当店は、つけ一切お断りだからな…」

カウンターの向こう側に居るバーデンが、グラスを回すような動作で拭きながら、ぼそりと呟く。

ヴァランは、懐から札束を取り出し、「心配するな」とわざとらしい豪気な笑い声を立てた。そして、隣の男の肩に腕を回し、

「こいつらにも、おごりだ。この間まで一緒に働いた仲だからな!」

と大きく叫ぶのである。

(この前って、二年も前の話じゃねえか…)と、二人は露骨に迷惑そうな表情をしたが、目の前に注がれた赤い液体のもの珍しさには抗しかねている様子である。

「いったい、どこでそんな金が」

「まさか、あの妖王の…」

待っていました、とばかりにヴァランは勢い込んで

「そうよ。これもおやかた様の恩恵よ。あの方は他の方々と違って実に気前が良い。俺たち並みの者にさえ、ご褒美を下さる」

「何のご褒美なんだ? まさか、どっかを襲撃して…」

工員二人のうち、痩せた体格の男が冬の夜風にでも当てられたように身をすくませる。

「まあ、それはお前さんの想像に任せるさ。

今の貴様らみたいに、家畜みたいに働かされているよりはずっと楽でやりがいがあるぞ。

どうだ、お前らもおやかた様の下で働いてみないか?」

不躾に誘いを入れてくるのである。

「でもよお、それは犯罪じゃねえか…」

「何が罪だ?

俺たちが必死こいて働いている、その稼ぎの上前をはねる連邦のやつらのほうが、余程犯罪者じゃないか。おやかた様は、それを取り返してくださるんだ!

おい、そっちのベン!」

がっちりした体格の、ベンと呼ばれた男は、唐突に名指しされてうろたえた。

「先月、おやかた様が銀行を焼討ちなさったな。そのニュースが街角のテレビで放映されたとき、この界隈じゃ随分と大勢が跳ね回って喜んでいた。

お前も、そのうちの一人だったなあ!」

「あ、あれは…」

ベンは左右に視線をおろおろと揺らし、

「周りのやつらが喜んでいたから、つい…」

「またまたぁ。そんなに焼討ちを見るのがうれしいなら、自分でやればいいじゃない。

それとも何か? 人がやれば歓声をあげるくせに、自分でするのは怖くて出来ない、腰抜けちゃんなのかい、ベン君は!」

「そ、そんなことはねえよ」

「だったら! 俺たちの仲間に加われよ。

考えても見ろ、俺たちは、連邦のやつらにどれほど痛めつけられてきたと思っているんだ。家畜みたいにこき使われ、野蛮人とさげずまれ。おやかた様は、そんな俺たちを救ってくださるんだぞ」

彼は飽きることもなく、連邦への呪詛と妖王への賛美を繰り返すのだった。


このヴァランと言う男は、北方からエナスへ出稼ぎにやってきた北方出身者(つまり北方人)の一人である。

幸薄い北の大地にとどまるよりは、ずっと豊かな生活を送れるだろう。そんな儚い望みはとうに裏切られ、二年前までは日雇い稼ぎで貧しい日々を食いつないできた。

泥沼を這いずり回るような今の暮らし、そして待ち受けるのは想像するのもいやになる惨めで寂しい老後。彼にあるのはそれだけであった。

何も彼だけが不幸だったのではない、そのことだけがヴァランにとって救いだった。東町は、希望に見捨てられた人間で満ち満ちている所であった。

そんな頃、不遇の貧民達の間に妖王の名が囁かれ始めていた。

何世紀も前に、世界の半分を支配した偉大なる妖王の末裔。

彼の手による数々の悪逆も、貧困に喘ぐ彼らにとっては、悪しき支配に抗する義挙と受け止められることがしばしばであった。

内心で妖王に喝采をあびせる北方人…北方出身者の中には、とうとう自分で妖王の配下に加わる者もいた。

そのようにして道を踏み外した者の一人がヴァランであり、彼は今では同類を増やそうとしているのである。

「どうだ、お前達も…」

そこまで言ったとき、再び扉の軋みが響く。

「兄貴、こんなところにいたのかよ」

くたびれた工員の制服を身に着けた男が、また一人入ってきた。

前髪は短く額が広いことを覗けば、概して平凡な顔立ちだった。髭をきれいに剃っていたので、ヴァランに比べれば見苦しくもない風貌である。

「ケレン?」

ヴァランは突然の弟の出現に、驚いたように顔を上げた。

「やめなよ。これ以上、仲間を増やそうとするのは。兄貴もいつまで、こんなものをかぶっているつもりなんだ」

そう言って、椅子の後ろに置かれていた牛頭を拾い上げた。

「おい、返せよ!」ヴァランは引っつかむように取り返した。

「やめにしてくれよ。こんなダサいお面をかぶって歩き回るなんて」

「何だと」と唸り返す兄ヴァランの横にしゃがみこみ、挨拶もそこのけに説教を始めるのである。

山深い故郷では、同じ家に暮らした次男坊と三男坊だった。

連邦へと共に出稼ぎに出てから既に7年、余りに違う境遇にある今の二人である。

「ラグナス3世を崇拝だなんて、馬鹿げているよ。噂によれば、まだホンの子どもなんだろ?」

「何の寝言を。あの御方は童子の姿をとっているだけだ。それをいったい…」

「それにしたってよ。気に入らないことがあったら、あちこちを破壊して回るなんて、やることが余りにもガキじみているよ。連邦に無闇に逆らって、結局は風当たりが強くなるだけじゃないか」

そう言って、ケレンは連邦に歯向かうことの愚かさを順々に説いていくのである。

雄弁なわけでもなかったが、言うことは中々に理に適っていて、ヴァランも容易には言い返せなかった。

しまいには酒場の女もうなずいて、

「全く、世間じゃ妖王々々ってもてはやす奴等も多いけど、そんなに偉いのかいね。

あれが何か仕出かすたび、連邦の奴らがあたし達を色眼鏡で見る気がするよ。商売にも障るんじゃないかと思うと、オチオチ寝てもいられやしない」

「そうだよ、おばちゃん、良い事を言うじゃないか」

ケレンは力を得たように大きくうなずいた。

「結局さあ、あいつは俺たち北方出身者にとっても疫病神じゃないか」

止めを刺すように言い放つのである。

「何だと。言うことに事欠いて、何てことを…」と、低く唸り声を挙げる兄を尻目に、ケレンは振り返って、

「な、あんたらもそう思うだろう?」

と声をかけるのである。残りの二人、ベンとラッドは何とも気弱な視線を交わしあい、曖昧にうなずきあったまま酒を啜るだけだった。

「兄貴もいい加減、こんな馬鹿なことから顔を洗って。真っ当に働かねえか。

良かったら俺も口を利いても」


「真っ当だとぉ」

今まで俯いていたヴァランが、突如けたたましく笑い出す。ひるんだ弟に顔をぐいと近づけ、

「じゃあ、聞くがな。お前は今まで真っ当にやって、それでどれほど報われたんだ?

毎日毎日働き尽くめで、休日も返上してよ。7年間も働き蜂して、どれほど報われた?」

そして、弟の黄ばんだ工員服を掴み取り、

「このヨレヨレの服じゃ、大して給料も上がってないようだな。吹けば倒れそうなあの安アパートからは脱出できたか? 嫁さんはいつ貰えそうだ? え?」

兄の髭面が意地悪く歪んで、今度はケレンの方が視線をそらす。

ふと視界に入った酒場の壁には、酔客の刻み込んだ落書きが、天井の裸電球に照らされて見苦しいほどに広がっていた。

日ごろ溜め込んでいた情欲を発散したとしか思えない、卑猥の限りを尽くした絵柄もあった。ケレンは思わず顔をしかめる。

「結局、真面目に働いたところで、何の見返りもありゃしない。あるはず無いさ、奴等に上前をはねられるんだからな!」

「…いつかは、それなりの暮らしを送れるさ…」

我ながら確信を持てなかったのか、語尾は今にも力が抜けていきそうだった。

「いつかって、いつごろだ? 百年後かぁ?」

ヴァランはまたもや笑い出し、さらに弟をやり込めるのだった。

今まで黙っていたベンもおもむろに口を開いた。

「俺なあ…時々思っていたことがあるんだ」

「なんだ?」

「このままで俺はどうなるんだろうって。

朝から夜まで働いて、今はそれでも食っていける。けど、よぼよぼの爺さんになったらどうなるんだ? どっかの廃屋で干からびて、あとは蛆にでも食われていくしかないじゃないか」

絶望の未来に耐えられぬ苦悶の表情で、また酒を煽るのである。

もう一人の男も、小さくうなずく。

「連邦が俺たちのことを考えてくれるわけない。大地の裏側にいるとか言う、神族(妖族と同じ。北方出身者はこう呼ぶ)の族長たちだって何もしてはくれない。

けど、妖王はそのどちらとも違うような気がするんだ」

「そうとも、おやかたさまは、今までの連中とは全く違う。

あのお方は施しだってしてくださる! 俺たちを救ってくださるんだ」

ケレンはあきれ果てたように首をふり、

「ちょっと待てよ…」と言葉を挟もうとした。


開き戸の軋む音がする。

肌をさすような隙間風が入り込んでくる。天井の電球があおられて、室内の影という影が不安そうに揺れるのだった。

ヴァランが振り返ると、戸が僅かに開いていた。

扉の隙間の向こう側、広がる夜の闇を背後に、フードを被った一人の男が覗き込んでいるではないか。

男の黒いジャケットは、夜風に揺れていた。口元は微笑みをうかべ、黒いフードの奥には赤い星のような双眸が輝いていた。枯れ枝のように細い右腕を、店の中まで差し出して、おいでおいでと手招きをしている。

ヴァランは背筋に冷たいものを覚えながら、カウンターの方を振り向いた。

奇怪なことに他の者達は、誰も開いた扉に気づかないのである。

二人の男は、相変わらず酒を啜っているし、バーの女は頬杖をついてヴァランとケレンの兄弟をうかがっている。

ケレンはといえば、何か兄に反論しようと首をひねっている。

「あ…その…」

「どうしたんだ、兄貴?」

ケレンは不振げに、兄の視線が向かっている先、開かれた扉に目をやったが、何も気がつかない。

他の者達も同じことだった。

天井の電球は揺れていて、床に落ちる彼らの影も震え続けていると言うのに、本人達は全く暢気なものである。

「悪い、ちょっと急用を思い出した。おい、勘定!」

言うや否や、バーに紙幣を叩きつけた。まだ何か言いたげなケレンを尻目に、釣り銭も受け取らずにあたふたと店を飛び出した。


店の外に出たとき、誰の姿も見当たらなかった。

幻を見たのは自分のほうだったのか、そう思いながら路地裏の道を行こうとした時、骸骨のように冷たい手が肩をなでるのである。

「ぎゃっ…お、お、おやかた様」

フードの男が腕組みをしていた。夜闇の中で、彼の姿だけは妖しい輝きを帯びているようにも見える。

ヴァランは数歩後ずさり、倒れこむようにひざまずいた。

「ささげよ、全てを、ラグナスに!」

敬礼をして、呪文のように唱えるのである。

「苦労しているようだな」

ゆっくりとした声が、空気を震わす。

「申し訳ありません…」

舗装もされていない地面に、ヴァランは額づくのだった。彼の目の前に立つ男こそ、世界の首都を騒がす妖王ラグナス3世だった。

「あのケレンって男…、君の弟なんだよね?」

それだけを聞くのである。

「え、ええ。全くごらんの通り、恥ずかしい男でして」

「北方人にも、ああいう男がいるんだね」

夜鳥の鳴き声を思わせる、不気味な忍び笑いだった。その笑みが何を意味するのか、ヴァランには分かりかねることだった。

夜の裏通りには、いつのまにか薄い霧が立ち込めている。

どこからか風が流れ、霧は緩やかな渦を巻いているようにも見えた。

その只中にいる、主の後姿を仰いだとき、ヴァランの鼓動は、自分でも息苦しくなるほどに高まっていく。

東町の人々に口移しで伝わり続ける伝説を思い出していたのだ。

灰色のフードをまとった妖王が、いつか影の中よりたち現れ、大勢の人々の前に姿を立ちあらわす。そのとき世界は覆り、いままで底辺で押さえつけられてきた者たちが頂点に立つ時代が来るだろう…。

いつ誰がそのようなことを言い出したのか分からない。

ヴァランは妖王の使徒として、その噂を流布させる使命を持っていた。

彼自身、心のどこかで、自分で広めている噂が正しい予言であると信じたかったのかもしれない。




街灯は、壊れてしまい全く光を放っていないものもある。

辛うじて光っているものも、不安定な明滅を繰り返し、その光に照らされた妖王の姿は奇怪にぶれているように見えるのである。

「最近の街の様子は、どうなんだ」

前を行く妖王は、振り返りもしない。低い声だけが、後ろを歩くヴァランのほうに流れてくるのである。

「どうって…」

「君の住む町での、住民たちの雰囲気だよ。日々の生活への不満、連邦への憎悪…」

「それはもう。缶詰工場での話ですけど、連邦人の雇い主が、北方出身(北方人のこと)の従業員を教育とか言って殴り殺したことがありましてね。しかし、警察は何もしてやくれません。

頭の悪い同僚が、交番所に掛けこんで訴え出たのに、叩き返されただけ。その男はあとで職場をクビにされたそうです」

「なるほどねぇ」

妖王は皮肉っぽくつぶやいていた。

「あと、他にもあります。川北地区には我々北方出身者が多く住んでいるのですが、川の南には連邦人の奴らが住んでいます。奴らだって我々と同じくらい貧乏なのですけど、我々をことあるごとに見下し、喧嘩をしかけてきます。あるとき喧嘩の最中にサツがやってきたんですけど…捕まったのは我々のほうだけで、連邦人のやつらはお咎めなしでした」

「…連邦がどれほど我々を踏みにじっているか、良く分かる話だね。このまま奴らの圧迫が続けば、我々のおかれる状況もどこまでも悪くなり続けることだろう」

と、地鳴りのするような声で言い放った。

「全くです。北方出身者のなかで、連邦をすばらしいなどと思っている奴らなんて、いやしませんよ」

トタンの板がガタガタとなる廃屋に、インクで荒っぽく落書きがなされていた。

『連邦死ね! 協会クタバレ!』

野蛮な言葉が、ほとばしるような勢いで噴射されているのである。

「それで、この私に対する世間の評価はどのようなのだ?」

「は…はあ」

男は、口ごもってしまう。

「どうした。私は正直者が好きなんだよ。たとえ私にとって不利なことを言うものでも、それが真実ならば褒美を与えよう。だが、嘘偽りで私の機嫌をとるバカは、容赦なく殺す」

最後の言葉に、白刃で触れられたような冷ややかさを感じたのか、ヴァランはひぃっと悲鳴を上げた。

「いえ…。おやかたさまは、とても有名です。東町の川北地区(北方出身者・北方人の多く住む居住区)の住民は、だれでも恩名を知っております。中には、おやかたさまを救世主として仰ぐものもおります」

「だが、それは一部にすぎない、と」

「は、はい。申し訳ありません…。なかには、俺の弟のように、おやかたさまをののしるものもおるのです。い、いえ。それも一部にしか過ぎないのですよ」

「じゃあ、あとの大部分は?」

いまや妖王は振り返り、真紅の瞳をじっとむけているのである。

「それが、なんとも…。場の雰囲気で、妖王をあがめて見たり、あるいは罵ってみたりと頼りにならない奴らで…」

「日和見が多数というわけか。まったくの予想通りだね」

「へえ」

妖王が怒りださないことにヴァランは安堵して、卑屈な笑いを浮かべるのである。ヴァランの背は主よりもだいぶ高かったのだが、腰を痛みそうなほど屈めて歩いているため、見上げるような姿勢となるのだった。

彼らはちょうど、空き地の前を通っていた。街灯に照らされて、背の高い雑草が隙間無く生えている。夜風が吹くたび、雑草はいっせいになびくのである。

「一番賢い人間と、一番愚かな人間は、どうやっても変わらない。だけど、多くの人間は草と同じだ。風が吹く度そちらへ靡く。分かるかい?」

「は…はい。そうですね。ケレンのような愚かものはどうやっても変わりっこないです、ハイ」

(果たして、賢いのはどちらで、愚かなのはどちらかな?)

妖王が一瞬、皮肉な思いでヴァランを見るのだが、彼が気付くはずもない。

「君の正直さに、褒美を与えよう…」

と手ずからくだされた砂金の粒に、狂喜乱舞するヴァランだった。


廃された工場のひとつに、妖王は到着する。

薄暗い部屋の中に、大勢の人影がひしめいていた。

皆がぼろをまとい、床にひざまずいていた。

数多の目が瞬くこともなく、そろいそろって上の方向を凝視している。

一心不乱に唱えていた。

「ささげよ、全てを、ラグナスに! ささげよ、全てを、ラグナスに!」

単調なリズムの合唱が、何度も何度も部屋全体を揺るがすのである。

部屋の後ろのほうには、無貌の仮面や、獣の仮面を被った男達が、信徒の群れを腕組みして見守っていた。

その光景を見て妖王はにっこりと笑い、そして階段を上がって廃屋の外に出た。

「なんだ、まだいたのか」

「へ、へえ」

ヴァランがひざまずいていた。

「おやかたさまは、ずっと地上にいてくだされないんですか?

ここには、おやかたさまに忠誠を誓うものが大勢おります。しかし、地下の世界、大地の裏側には不忠なやからも多いと聞きます。

こっちにきてくださったほうが…」

妖王はわずかに笑ったようだった。

「まだまだだね。ここにいるのは、東町の住民から見ればわずかに過ぎないんだよ。

もし、彼らの全てが私を信奉するようになれば、その時は私も姿を現そう」


2、


レーナが暗い地下の世界に戻ってきてから、すでに数ヶ月がたっていた。

陰気な石室も見慣れた住処となり、地下通路の暗闇も日常の風景となってしまった。

時折は、地下通路にひしめく男達と話をすることもあった。

妖王といかなる関係にあるかも定かでない彼女は、気味悪がられたり避けられたりすることも少なくない。しかし、レーナが溝の底で大ミミズと戦った度胸を見て、彼女に一目おく者も無いわけではなかった。

「しかし、嬢ちゃんはおやかたさま(妖王のことを彼らはこう呼んでいた)とどのようなご関係で?」

下卑た好奇心を丸出しに尋ねてくる男達に、

「昔からの知り合いよ。おやかたさまが大地の裏側にやってくる以前に、いろいろあってね…」

と、訳ありげに答えてやるのである。

「そいつはすげえな」「ひょっとして、お嬢ちゃんも神族(妖族のこと。北方人は妖族をこのように呼んで崇めている)の一人なのかい?」「将来は妃様…お、恐れ多い…」

などと勝手なことを口走り、地下道に幾度もこだまするほどの大騒ぎを繰り広げるのだった。

太陽から見捨てられた場所に長く暮らしていた彼らは、レーナと比べても遜色ないほど青白い肌をしている者が多い。多少は浅黒い肌の持ち主も居たが、そうした者たちの大概は最近になって地下へと流れてきたのだという。

彼らは時として地上への襲撃に駆り出され、あるいは首都の裏社会での怪しげな稼業に携わることもあるらしかった。

時折は、あちこちの大部屋に寄り集まっては、安物の酒をグイグイと飲みほし、犯罪の自慢話やら猥談やらに興じるのである。

レーナも、すさまじい臭いを発している悪酒を飲み干してみたり、彼らの食べる生臭い肉(少なくとも人肉ではねえな、と男達は冗談交じりに言っていた)をおいしそうに飲み込んだりもして見せた。

不思議なもので、平然を装うよう勤めているうちに、内心の恐怖心も和らいでしまう。自分には意外な度胸があるのかもしれないと、レーナは初めて実感したのだった。

華奢で幼げな姿の少女が、堂々と振舞う態度に男達はますます感服したようである。

いつのまにやらマスコット扱いされるようになり、彼女にいろいろな話を聞かせてくれるようにもなった。

ある時は、彼らの中でも年長の男が、神話じみた物語を語ってくれた。


…大地の裏側は世界の根の国に通じていて、最深部には古の戦いで封じ込まれた巨神の王が今でも眠りをむさぼっている。

彼が夢を見るとき、まどろみの思念は世に放たれて、世界に災厄がもたらされる。

いつか彼は常夜の墓所より立ち上がり、昼の世界を手中に収めるだろう…。


ありがちな話だった。しかし、暗い部屋の中で、顔の下半分だけが灯火に浮かび上がっている男が話せば、何やら恐ろしげな響きが伴うのである。

「へえ…」

少女は相槌を打ちながら、病に臥せっていたときに微かに感じた、地下の奥底よりの波動を思い出していた。

そういえば、あの振動はあたかも巨大な怪物が身動きしているような…。

「こええ話だな、おい。いったいその巨神はどれくらい昔からいたんだ?」

「そもそも、どんな姿をしてる?」

若い者たちの中には、初耳の者も居たらしい。

「数え切れないほど、遠い昔からさ。姿も、名前すら伝えられていない…だから余計におっかないんだ」

「そいつが目覚めちまえば、俺たち真っ先に餌食だな…」

「でも、あれだ。俺たちが死んじまった後の話だろ?」

「たとえ、そんな奴が生きかえちまっても、おやかたさまが退治してくれるって」

「そうとも。いや、むしろ地面の奥底に封じ込められているのは俺たちじゃないか。おやかたさまこそ、俺たちのために昼の世界を取り返してくださるお方だ!」

話はあらぬ方向へそれていく。レーナは話をしてくれた男に、

「ね、今の話。誰にしてもらったの?」

「ずっと昔、おふくろにな。おふくろはいろんな話をしてくれたよ…。もうとっくに死んじまったがな」

少し懐かしそうにつぶやく。彼の瞳は、少しだけ優しげに見えた。

(へえ、こんな奴らでも母親を懐かしく思う気持ちはあるんだ…)

レーナは内心、意外の念に打たれてしまった。


彼らはレーナに危害を加えるようなそぶりはなかった。だが、ほろ酔い加減の男が冗談のような口調で

「どうだ、お嬢さん俺と、つきあわないか」などと卑猥な誘いをかけてくることもあった。

そういう時、レーナは薄笑いを浮かべ

「別に良いよ。そのあとで、おやかたさまの白い霧で窒息させられるオマケつきだけど」

やはり、冗談のように返してやるのだった。

戯れごとであっても妖王は恐ろしいのか、「い、いや冗談だよ」とあわててごまかす。

「しかし、お嬢ちゃん…」

不安げに忠告してきたのは例の初老の男、レーナが溝で助けてあげた男だった。

「あまり、上の階層をうろつきまわらないほうが良いぜ。この辺りに居るやつらはおやかたさまに忠実だから、お嬢ちゃんにだって無礼なことはしない。しかし、上に住むやつらはどうしようもない奴らでな」

「どういうこと? 族長たちにばかり従ってるってこと?」

「ああ、分かっているじゃないか。あいつらは代々族長に従っている連中でな。それを鼻にかけて俺たちを見下しやがる。おやかたさまの有難い教えにも従おうとしない不忠なやつらだ」

「まったく、俺たちを流れ者呼ばわりして…」

憎憎しげに吐き捨てる男達。

(以前は、こんな連中なんて似たりよったりと思っていたんだけど…)

彼らの話を聞いていると、レーナは何だか可笑しかった。

群れなす獣たちは、傍から見れば皆が同じに見えるけど、彼ら自身にとっては一つ一つが違うのだろう。

ここにいる男達も、同じことだと思うのだった。



薄暗い洞窟の通路に、黒い影たちがひしめている。

フードを肩にかけた彼らは、大地の裏側を支配する、妖族の族長たちだった。

松明一つの光に照らされている彼らは、わざとらしいまでに無言で、うなずきだけを交わしている。

皆が足元に向けている視線の先には、地面に置かれた鉄製の箱があった。

「我が甥よ。これは、本当に効果を保証できるものであろうな」

白いあごひげを胸元までたらしたバルゴスが、腕組みをしながら聞くのである。

「叔父上、間違えはありません。

こちらのリモコンに指を圧せば、通路はたちまちに崩れ、下にいる者は瓦礫にうずまることになりましょう」

横にいた男は、大柄な体をわしわしと揺すらせて、

「おやかた様も、一巻の終わりですな」

と、笑うのである。

「しぃ! 無闇に口にするな。聞いておられるかも知れぬ」

「ですが、このところのおやかた様の振る舞いは、目に余りますからなあ」

例のごとく女じみた声で高笑いするのは、族長の一人のアベクであった。

「東町では、何処の馬の骨とも分からぬ輩を部下に募り、最近では一人前のつもりか上納金の取立てまで始める始末です。

このままでは、この装置で封じ込めなくてはならぬ日が遠からず、来るでしょうな」

ホホホ、といやらしく笑う。何人かは不快げに目を細めるのだが、悦にいっているアベクは気が付かない。

「あのお方は本気で連邦と戦争するおつもりなのですかね? 私はそんなことに興味などありません、むしろ連邦の役人とつるんで金儲けしている方が、よほど儲かりますからな」

「ふむ…。だが、協会の意向も確かめなくてはなるまい。あの方を我々のもとに差し向けたのは、協会であるからな」

「今のまま、おやかた様が勝手ばかりしていれば、彼らも愛想を尽かすでしょうよ」

ジェノアは侮蔑をはき捨てた。口元に浮かぶ薄笑いも、妖王への軽蔑に満ち満ちたものである。

「同じような爆弾が、十箇所以上にしかけてあります。いざとなれば、我々の勝ちです」

「おやかた様と立ててはおりますが、要は単なるガキですな。いずれ用済みにしてしまいましょう…オホホホホ」

族長の一人であるアベクの気色の悪い笑い声が、暗い坑内に反響するのである。


音が俄かに歪んだ。甲高い笑い声がたちまち低音になり、すぐに聞こえなくなる。

男達のたむろする光景も、みるみると薄れていく。

陰気な地下通路だけが、誰の姿も無く、夢から覚めた後のように暗闇へと続いているのである。

隅から覗いていた妖王は、幻影の消え去ったあとゆっくりと通路の真ん中に歩みだした。幻影の向こうからは、族長の一人であるオズルが歩いてくる。

「今のは、どれくらい過去のことだ?」

「3週間ほど前にこの場所で展開された光景を、我が術でよみがえらせたのです。

あの時に彼らが埋めた爆弾は、今もこの通路に仕掛けられたまま。

掘り出しますか?」

「無益なことだ」

妖王はフードの下で、素っ気無くため息をつくのだった。この通路のちょうど下に、彼の私室があるのだ。

爆弾がひとたび作動すれば、彼は瓦礫の下に埋められることになるだろう。

自分のようなものには、そのような最後がふさわしいのかもしれない、などと皮肉なことを考えて、少年の唇に笑いがこみ上げるのだった。

「あの、おやかた様?」

オズルが怪訝そうに尋ねる。

「これで、彼らに謀叛の意志があきらかになったのですぞ。彼らはいざとなれば、おやかた様をしい奉るつもりです。それなのに、どうして」

平然としていられるのか。

流石のオズルも少々薄気味悪く感じている様子を見て取って、妖の王はますます笑い出したい喜びに心が沸いた。

底の浅い人間と侮られるより、訳の分からない性格を不気味がられている方が遥かに心地よかった。

「生きるか死ぬか…それが大した問題なのか?」

本当に関心もない口ぶりで言うのだった。

「はあ…」

オズルは取り付く島もなく、おもわず肩を落としている。

「逆にお前に訊きたい。どうして、お前はいろいろと俺に尽くしてくれる?

あいつらはお前と同じ族長だ。仲間を裏切ってまで、情報をもたらせてくれた。…なにを期待している?」

わずかに躊躇し、ゆっくりと顔を上げる。

「私は、おやかた様に期待をしているのです」

彼はセーンの正面に立っていた。

逆光で、彼の顔は良く見えない。

「…本気で、言っているのか?」

彼は眼を落とし、陰鬱に言うのだった。

「確かに、彼らの専横は、眼に余るものです。おやかた様のご苦労は良く分かります。

ですが、おやかた様には王としての権威があります…」

よくまあ、聞いているこちらの歯の根が浮くようなお世辞を言えるものよ、と内心で呆れはてながら、妖王は首を振った。

「君だって、族長の一人だろう?」

オズルはここで初めて笑みを浮かべる。

「彼らからも、私は嫌われているのですよ…」

少年は、彼からゆっくりと顔を背け、ほとんど独り言のように、

「だが、俺たちの背後にいる術者協会が、それを許すまい」

「彼らは、我々を利用しているつもりなのでしょう。ですが、我々も彼らを利用することができるのです」

「もし、お前が本気だというのなら、是非その本気を見せてもらいたいものだ…」

「機会さえあれば、いつであっても…」

彼はもう一度、頭を下げる。

そんな彼の頭をこづき、セーンはふっと笑った。

「冗談だよ、冗談」

「はい?」

眼鏡の奥にある茶褐色の瞳が、間抜けな程に虚ろになる。

「俺は、彼らには感謝しているんだよ。

今まで俺を支えてくれて、いくら感謝しても足りない。彼らの助言には出来うる限り応えていくつもりなんだ。

君が余計な気を使うことなどない…。教えてくれたのはありがたかったけどね」

哄笑をたてながら妖王は闇の奥へと去っていく。だが、去り際の一瞬、強い視線をオズルに送ったのだった。

眼鏡の男は呆然とたたずんでいた。

しばらくしてから、彼はようやく苦笑いを浮かべ、小さな息を吐きだすのである。



3、


住宅街の只中。緑生い茂る公園にも夕暮れが押し迫っていた。

徐々に明るさを失っていく空の下で、子ども達の甲高いざわめきはまだ消えていない。木陰のした、茂みの向こうに小さな姿が現れては消えた。

あちこちを駆け回っている彼らは、流行の遊びに興じていたのだ。

平凡な遊びを、彼らは「妖王遊び」と物騒な名称で呼んでいた。

ラグナス3世も、無邪気な子どもたちの手にかかれば、遊びのネタとなってしまう。

親しい人を失う苦しみを、肌身には想像できない子ども達にとっては、かような不謹慎は特権であるのだろう。

とはいえ、妖の王が悪役であることには代わりはない。

鬼の役目をする人が、「妖の王」と呼ばれていた。

「よし、解放したぞ!」

「しまった! 逃げ…」

「待てえ!」

鬼の役目をしていた女の子があわてて逃げ出す。捕虜となっていた子どもたちは、今度は逆に彼女を追いかけて、あっという間に取り囲むのである。

「よーし、捕まえたぞ!」

「ああん、堪忍して」

こういうことが幾度も繰り返された。

何度目かの鬼が捕まったあと、

「しかし、悪いラグナスを捕まえただけで終わりなんて、つまらないな」

と子ども達の誰かがそんなことを言いだした。

「そうだな。悪い奴は捕まえたら、とっちめなくっちゃ」

「ええ、堪忍してよお」

直前に妖王役をしていた背の低い男の子が、たちまちベソをかく。

「そうよ、イジメはだめよ」

眼鏡をかけた少女が、学校で習ったことをそらんじる風に言うのである。

「じゃあ、これなんてどうだろ」

背の高い子が、茂みをいじくり、奇妙な物体を取り出した。子ども達はすぐに集まった。

それはぬいぐるみの人形だった。長さは50cmほど、人の形はしていたのだが、手足はいびつに長い。

目と口がやたらに大きく、お世辞にも可愛いとは言い難い。

誰がどんな目的で作ったのか問いただしたくなるほど、奇怪な表情をしていた。

「その人形、一週間前から公園に捨ててあったよねえ」

「まだ、ゴミ箱にいれてなかったの?」

「こいつが妖王ということにしてさ。とっちめゲームをはじめるっていうのはどうだ?」

「わぁ、面白そう」「どうやってとっちめるの?」

子ども達が口々に発する歓声は明るく楽しげで、野卑にも聞こえるのである。

「ほら、こういうふうに」

サーカーのボールのように、空中に蹴り上げた。他の子ども達も真似をして、空中に蹴り上げる。

「よし、どれくらい地面に落ちないようにするか数えようぜ」

「15、16,17…20ヒット! あ、落としちゃった」

何度も何度も空中に蹴り上げられて、ようやく地面に到着できた人形に、容赦ない追い討ちが待っていた。

「よーし、妖の王をやっつけてやるぅ」

そう言って、先ほど賢しげなことを言った女の子が、まず人形を踏みつけるのである。

「死ねや! ラグナス!」「やっつけろ! 踏み潰せ!」

叫びとともに、人形は滅茶苦茶にされていく。口は裂け、目をかたどった毛玉は飛び出てしまい、さらに嫌悪をもよおす姿となっていく。

子ども達はますます激昂し、むかつくような怒りを人形にぶつけるのだった。

彼らは妖王を本気で憎んでいたわけでもなかっただろう。

大人たちの罵る存在をやっつけることで、良い子になったような興奮があったのか。それとも単に、子どもならではの嗜虐心に猛り狂っていただけなのか。飽きもせず、暴行を続けていた。


彼らの遊びに、意外なことで終わりがくる。

人影が、木の下にたたずんでいることに、一人が気付いてしまったのだ。

ケヤキの木から伸びる長い影に溶け込んでしまうそうな、暗い色のジャンパーをまとっていた。

顔はフードに覆われていたが、隠された視線を動かすことなく注いでいる。

子ども達は押し黙った。

フードの男と目を合わしはしなかったが、ちらちらとそちらを伺うのである。

特に悪いことをしたという意識も無いのに、視線だけで咎められているようで、なんとなく気のつまる思いがしたのだろう。

男がどれほど前からここにいて、自分達を見ていたのかも分からない。気味の悪さが、背筋を冷たく走ったのかもしれなかった。

「そろそろ帰ろうよ」「あ、待って待って」

口々に勝手なことを言い合いながら、彼らは公園から散らばってしまう。人形は、剥がれかけた四肢を大の字に広げたまま、砂まみれの地面に置き去りにされた。


子ども達のさざめきが遠くに消えて行ったあとも、フードの男は、腕組みをしたままであった。

空の光が減じていくにつれ、あちらこちらの電灯が、銀色の輝きを増していく。

あたりが夜の光景に変わったとき、闇に溶け込みそうな黒い姿が始めて動き出した。

しゃがみこみ、無残に壊された人形を抱えあげ、つぶさに眺めているようだった。

どういうつもりなのか、裂け目からはみ出た灰色の綿を、丁寧に押し込んだ。

彼の唇から、歌声が漏れる。小さな声で、空気を低く震わせた。

「…変わり者のワンちゃんは 皆に噛まれて 追い出され♪」

彼は微かに潤んだ目で人形を見つめ…

次の刹那、布の裂ける音が響いた。

人形の頭と胴を、彼は両手で引きちぎってしまっていた。

二つに割れた人形を、口の端をゆがめて見つめていた。そして、小さく笑いながら、無造作に投げ捨てるのだった。




眠り無い都市の夜空に、星の見えることはない。

その夜は月も出ていなかったので、空に雲が立ち込めていても、何が変わるというわけでも無かったのだ。

頬に冷たいしずくがかかり、始めて頭上に重くかかる雨雲の存在に気がつく。

(雨か…)

黒衣をまとった妖王の喉から、ため息にも似た音が漏れた。

これから成そうとすることに、この雨は邪魔になるだろうかと思案に暮れながら、長椅子からは立ち上がる。雨宿りの場所を求め、公園の中をさまよった。

辿り着いた木陰のベンチには、見知らぬ人が腰掛けていた。

つい先ほどまで、この公園に誰の気配も無いはずだった。それなのに、先客はずっと以前から座っているようだった。

うろたえたくなる気持ちを飲み込んで、彼はその男の姿を上から下まで眺め回す。

長躯に紺衣のマントを身につけていた。顔立ちは常夜灯の逆光となっていた。

(あいつだ…)

冷たい感触が背筋をぞわぞわと這い上がる。怯えを知られたくなくて、妖王は声もかけられない。相手の男も何もいわず、霧雨の降りそそぐなか、沈黙が長く続いた。

座ってはいても、男は背が高い。正面にたっていると、彼の姿がますます大きく見えて、迫ってこられる思いすらする。

後ずさりしたい欲求を、押さえ込むのも難しい。

「誰です?」

重苦しさに、先に耐えられなくなったのは、少年のほうだった。

「あなたは誰なんです?」

「これから何を、君はするつもりなのだ」

切り返すように返る低い声が、ひそやかな雨音に混じって響く。たいしたことを言っているわけでもないのに、胸にまで響くのはなぜだろう。

「君はまた人を危めるか。なにゆえに?」

「それは…」

思わず言葉を発しようとして、すんでのところで唇を閉ざした、

すでに、眼前の男の思う壺にはまりつつあることに、気がついたのである。

(忌々しい…)

見えない網が全身にかけられようとしていた。罠から逃れるためには、知恵をふりしぼらねばならない。

「どんな答えを、期待しているのですか?」

妖王は少し迷った末、上目遣いで逆に問い返す。

「ああ、良い受け答えだ」

さながら、生徒から答えを受けた教師の態度である。

「己の所業を正当化すれば、いかにも軽薄に響こう。命じられたと答えれば、責任逃れに聞こえよう。

いずれにせよ、己の浅ましさを露呈するだけだ。

問い返せば、会話の流れを奪えると思ったか。考えたものだ」

少年の考えを逐一読み通し、男は高く笑った。心を吹きさらしにされたようで、妖王は唾を飲み込む。

「どちらにしろ甲斐のないこと。

君はどうやら、頭は悪くない。だが、小心者であるようだ」

侮辱に屈辱を感じる間も無く、男はおもむろに立ち上がった。

黒々とうずくまる姿が、一挙に巨人と変じたようで、少年は本当に後ずさりしてしまった。

「逃げる気か」

間髪おかず突き刺す声に、足がすくんでしまうのだ。

「私を、見るが良い」

空が瞬時の閃光に輝く。

逆光に隠されていた男の顔が、今こそ浮かび上がる。

紛れもなく、並ぶ者なきオーレル導師であった。妖王をさいなむ毎夜の悪夢が、現実の眼前に姿を現していた。

刃より鋭いまなじりで少年を睨みつけ、その瞳をカッと見開く。

天から放たれると言う雷の鏃が、眼球を突き刺したのだと彼は思った。もはや瞼を閉じることも適わず、馬鹿のように口を半開きにして、オーレルの瞳に見入っていた。

逆らうものは何人たりとも許さぬ強靭な意志が、彼の者の瞳からは放たれていて、目を逸らすなど出来はしない。

金縛りにされた視界の中で、導師の瞳は地獄の歯車のようにぐるぐると回り始め、その果てしない渦の中に少年は吸い込まれていく。 

暗さを増していく視野の向こう側より、声が響いた。

「もはや、動くこと適わぬ」

導師の声だったか。

耳元で囁やかれるように聞こえた。あるいは、頭蓋の中で響くようでもあった。

人の声などではなく、他ならぬ自身の意思とさえ思えてしまうのである。

(俺はもはや、動けない…のか?)

足の力が自然と抜け、ぬかるみに手を付いてしまう。

導師はゆっくりと進んでくる。足音も無く、ただ姿だけが近づいてくる。

妖王は逆らう意思も失い、ぼんやりと仰いでいた。

だが、地面に付く手が、砂利の突き刺さるような触感を覚えたとき、突如として記憶がよみがえる。

(そうだ、あの時と同じだ…。俺はひざまずかされ、教師の折檻を待っていた)

理由は覚えていない。

ただ、何を言おうと耳も傾けない年配教師の、岩より酷い頑なさは、心の澱みにまだ残っていた。

白銀に輝く無数の雨粒が、夜空の暗黒の彼方から降り注いでいた。

それらを背にした導師の姿は、聳える山のように見えた。

山が迫ってきている。こちらを押し潰そうとしているのだ。

鞭を持って近づく教師の姿が、蜃気楼の影のように折り重なった。

(憎い)

マグマのような思いがわきあがり、頭に血が上る。

(こいつが、憎い)

手足に、今にも暴れだしたいような力が戻ってきた。

オーレルの右足が視野をさえぎったとき、少年は突如として身を起こした。

憎い、こいつが憎いと叫びだしたい衝動に駆られるまま、両手でオーレルの左手にしがみつく。

「なっ!」

導師が反応する間も無く、彼の指先からおぞましい霧が噴き出し、導師の手を瞬時に蝕む。

「がっ」

導師は叫び、手を抜き去ろうとした。が、少年は放さない。

満身の憎悪を振り絞り、爪も肉を切り裂けとばかりに力が入り、どす黒い念のこもった魔性の蒸気をあらん限りに注ぎ込んでやるのだった。

導師は苦痛に顔をしかめながら、右手を振ってラグナスに衝撃を与えた。断末魔の鼈が命の全てを掛けて食らいつているかのように、なかなか彼を振りほどくことは出来ない。

体を打たれるたび、獣さえもおののくような叫びが妖王の喉奥よりほとばしる。

濡れそぼった彼の顔は、大きな瞳をさらに見開き、笑う口からは歯をむき出しにし、まさに悪鬼の相をしていたことだろう。

空に雷鳴が輝き、ラグナスの形相が青白く照らされたとき、さしものオーレルも瞳に恐怖の色を浮かべ、うめきにも似た悲鳴をあげる。

(もっと怖がれ、もっと苦しめ!!)

ラグナスは髪の毛の一本一本が逆立つような、獰猛な喜びに身を震わした。


だが、少年の反撃もここまでだった。

オーレルは唇をかみ締め、

「図に乗るでない!」

一喝した。振り上げた右手には、光り輝く棒状のものが握られていた。

あたりを真昼に変えてしまいそうな、凝集された青い光を放つ。

稲妻の光だとラグナスが察したとき、腹に光と轟音が炸裂した。

全身をめぐる血液が、瞬時に沸騰したと思われた。

骨の全てが、肉からはがれるような衝撃だった。

目の前が真っ暗になり、気のついたとき、少年は泥水の中に倒れこんでいた。

全ての感覚が麻痺したのも束の間、待ち受けていたように激痛が襲い掛かる。

たまらず悲鳴を上げ、のた打ち回った。雨の向こうへと導師が足早に立ち去るのが、ちらりと見えた。




起き上がろうと足掻くたび、嘘のように力が抜けていく。

二度と立ち上がれまいと我ながら思ったが、それでも必死に力をふり絞り、ついに立ち上がった。

立つということは、こんなにもつらいことだったのだろうか。四肢はあまりにも重く、痛みはなおさらひどい。

傷が痛いだけではない、鉛を積めこんだような筋肉の疲弊にも、押し潰されそうだった。

倒れ付してしまいたい、そして二度と立ち上がりたくない、それだけを身体は切望していた。

ふりしきる雨は、徐々に勢いを増している。

被っていたフードは既に脱げていた。苦痛で歪んだ己の顔、情けない少年の泣き顔が露になっているのだと、自分でも分かっていた。

杖代わりに木の枝を拾いあげ、うめきながら公園を抜け、今は遊歩道をよろめきながら歩いていた。

服も体もびっしょりと濡れている。腹の激痛は変わることなく、脊髄までが歪められた心地で、幾度ともなく吐いてしまいそうになった。

荒い息を吐きながら前をみれば、遠くに立ち並ぶアパートの明りが、霧雨の向こうにぼうっと浮かび上がっている。

見上げると、空より無数の水滴が降り注いでいた。常夜灯の光の中で、雨粒の一つ一つが白く輝き、彼の身を打ち据える。

季節外れの夜の雨。傷ついた身に、染み入るほどに冷たい。

森羅万象、ありとあらゆるものが、俺を打ちのめし、滅ぼそうとしている。そんな恨みが心にうかび、離れなくなっていった。

どうしてここまで、世界は敵意に満ちているのだろう。

いったい何のために、自分につらく当たるのだ、何のために…。

血のようにどろりとした怒りが、喉の奥からこみ上げてくる。

暗い雨雲の向こうで、誰かが笑っている気がしてならない。

身を凍らすような風の、その吹き鳴らす音が、嘲りの口笛にも聞こえた。

重臣達の冷笑、街で見かけた子ども達の囃し声が、耳底によみがえる。それより、さらに以前、彼が別の名で呼ばれていた時代にこうむった、数々の屈辱までもが思い出されてしまい、悪意に満ちた風雨と折り重なるように聞こえてくる。

(おやかた様と立ててはおりますが、要は単なるガキです。いずれ用済みにしてしまいましょう…オホホホホ)

(死ねや! ラグナス! やっつけろ! 踏み潰せ!)

(セーン、何をむきになっているんだ…へへへ)

口元から、我知らず唸り声が漏れてくる。

ひたすらに憎かった。

自分に向けられた悪意が憎い。

悪意を抱く全ての者が憎い。

悪意に満ちた世界が憎い。

このまま死んでしまったら、俺の敵どもはさぞかし喜ぶことだろう。俺の屍が無様に横たわるのを目の前にして、憎々しい凱歌をあげることだろう。全ては憎むべきものたちの思い通りとなる。彼らは死んだ俺のことを、どこまでも馬鹿にするに違いない!

激しい叫びが、闇を引き裂く。

他ならぬ、妖王の叫びだった。

「ここでは死ねない、死んでやるものか…」

自分に言い聞かせるように、ここにはいない敵達に言い返すように、低い声を震わし、むせび泣きながら呻き続けた。聞く人がいたら、地底より響く呪詛のように聞こえたかもしれない。

重い足を振り上げ、前に出し、振り下ろす。それで、どれだけ前に進めるというのだろう。足を踏みおろすたび、激痛が体を貫くのである。

しかし、その一歩一歩が、悪意に満ちた世界への抵抗であり、敵たちへの復讐なのだと、彼は思っていた。

そう思えば、傷の痛みも、引き裂くような筋肉の苦痛も、逆に励ましとなる気がした。

「俺は倒れん、倒れてなどやるものか…」

彼は独り言を抑えようとも思わず、虚空から彼を嘲る無数の幻聴に向かって、つぶやき続けるのである。

「お前達の期待は裏切られるためにあるんだ。貴様の目論見は外れるんだ、能無しどもが…」

先ほどのむせび泣きは、いつのまにか低く響く哄笑に変わっていた。

体中から血を流し、髪も血糊と汗でべったりと額に張り付いた凄まじい表情。彼はありとあらゆるものを嘲り罵り、乾いた笑い声を放ち続け、苦難の行進を続けていく。

静かに灯る街灯の光が、闇の中を這うようにして進んでいく少年の姿を、スポットライトのように照らし出していた。

観客は誰一人いない。彼本人だけが、世界の苦難に立ち向かう自分の姿に酔いしれていたのだった。



4、


エナス市の北西区は、閑静な住宅地が広がっていた。


今は昼間、この住宅街を歩く人間はほとんどなく、平和な静けさが町並みを覆っている。時折さえずる鳥の声、どこかの庭で遊ぶ子どもの歓声が、時々は響いてくるだけだった。

路地の端では、散歩の老人が、孫らしき若者に車椅子を押されていた。

快晴の空から降り注ぐ日光が、そんな二人をやさしく照らしている。

うららかな小春日和の一風景、それは明日も明後日も、未来永劫まで続く穏やかな光景に見えることだろう。


不意に現れた黒塗りの影が、静かな町並みを通り抜けた。

老人と孫の二人連れが、怪訝そうな視線を送る。黒の高級車がたどり着いた先は、一際高い家屋がそびえ、敷地も広い屋敷だった。

車の扉を開けて現れたのはゼスタ理事長だった。

彼は内心の焦りを隠しきれない様子で、せわしなく門扉のベルを鳴らす。

インターホン越しに誰何してくる女性の声に

「ゼスタが来た、と伝えて欲しい」

そう言っただけで、門の扉が開く。流石にここまでくれば、彼も努めて落ち着いた歩調で庭を横切った。

噴水は絶えることなく、それを横目に玄関へと向かうのだった。


玄関から家政婦に案内され、長々とした廊下を抜ける。通路の両壁にはたくさんの扉が並び、その一つ一つには緻密な模様が掘り込まれていた。薄暗い廊下を抜けた先、ゼスタがたどり着いたリビングルームは、窓から注ぎ込む日光がまぶしいほどに満ちあふれていた。

窓際のソファーに座す屋敷の主は、窓の方を向いたまま、じっと瞑目しているようだった。彼の姿は白光に包まれて、輝きを放っているようにさえ見えてしまい、ゼスタは息を呑む。

それも束の間のこと、彼はゆっくりと向きをかえ、未だ扉の前に立ち尽くすゼスタのほうに向き直った。

「おお、これは理事長。よくいらっしゃった」

言葉遣いは丁寧に、しかし彼は立ち上がらず、目の前の席を指し示した。家政婦に促されるまま、ゼスタは主の顔をうかがいながら、ゆっくりと席に着く。

家政婦は無言のまま頭を下げ、部屋から出て行った。

「おはよう。オーレル導師」

「いかがなさいましたか?」

オーレルと呼ばれた男は、ゆったりとした微笑を浮かべるのだった。

(この男は、俺よりも年上なのだよな)

ゼスタはそんなことを思い出す。だが、目の前にいる彼は、ずっと若々しく見えた。

それでいながら、年弱の人間にありがちな軽々しさなど微塵もない。精悍で品もある顔立ちは、こちらが気後れしてしまいそうな人柄の重みを漂わせているのだから、不思議な話ではある。

「このように散らかった部屋にお通しして申し訳ありません。なにぶん、ずぼらなものでして」

実際のところ、彼らの今いるこの部屋は、一分の瑕疵も見つけられないほどに整えられていた。突然の訪問を屋敷の主は予見していた、そんな錯覚を抱かせるほど。

「こちらこそ、唐突に訪ねてしまって悪かったな。すこし、君に確認したいことがあってな」

「何ですかな?」

オーレルはあいかわらずくつろいだ表情で問い返す。

だが、瞳はまっすぐに理事長の顔を見据えていた。

視線の強さに、例のごとく気後れを感じてゼスタは目をそらせてしまう。そして、左手に包帯が巻かれていることに始めて気がつくのだった。

「これは…」

客人の視線に気がついたのか、オーレルは苦笑しながらその手に視線を遣り

「見苦しいものをお目に掛けてしまいましたな。年甲斐もなく粗相をしてしまった」

「…相手は、妖王かね?」

単刀直入に訪ねられ、彼は一瞬沈黙する。

「私の情報筋に連絡があったのだよ。昨夜…」

と畳み込むように話し出そうとした理事長を、屋敷の主人は右手で制した。そのまま庭の方を指差す。

はっとして耳を澄ますと、誰かの掛け声が庭より響いていることに、ゼスタは始めて気がついた。

彼はそっとガラス戸を開き、庭に身を滑り出す。芝生の上、なだらかに続く小道の両脇に大理石の台座が散在し、その上に動物や人を象る白亜の彫像が日を浴びていた。

その只中で、一人の少年が武術の稽古に励んでいる。

今日はこの季節には珍しいほどに気温が高く、身体を動かして火照っているのもあったのか、彼は上半身を露にし、額に汗を浮かべて、拳を振るっていた。

肌のつくりはきめ細やかで、すらりと背の高い少年だった。

それでいて、良く見れば筋骨のたくましさをそなえている若者の姿は、先史時代につくられたという神々の彫像すら思い浮かべさせる。

実際、周囲に鎮座する精緻な彫像よりも、この若者の姿の方が整っているようにさえ思われた。彫像と違って精気に満ちている分、ひときわ輝いて見えたのかもしれない。

「ファルン君か」

ゼスタは目を細める。

少年は視線を感じたのか、こちらを振り向き、客人の存在にはじめて気付いた様子だった。彼はあわてて頭を下げ、そして庭の奥へと向かう。身なりを整えてから改めて挨拶をするつもりなのだろう。

「彼はよくこの屋敷に招いております。術者の公営住宅では、鍛錬の場所もろくにありませんからな」

「まだ若いのに、がんばっておる。この間も、妖族を屠ってくれた」

「閣下にそのように褒められるとは、彼も光栄に思うでしょう」

そう言いながら、オーレルはゼスタを屋内にいざなう。

「ここで立ち話するというのもどうでしょう。奥の部屋に参りませんか」


廊下に並ぶ扉、そのうちのひとつに入る。その先にある部屋は、さきほどの応接間とは打って変わり、照明以外はほとんど何もない、殺風景な部屋だった。

木材の張られた床を巡りながら、ゼスタは話し始めた。

「聞いたよ。あの少年が手傷を負って、大地の裏側に逃げ込んだとな。

彼をそのように傷つけられる人間など、数えるほどしかおらん。

…君は、妖王とやりあったな?」

オーレルは、扉のそばに立ったまま、ふっと笑う。

「さすがはゼスタ導師、あいかわらず思考が鋭い…。

私はこの年になっても、好奇心は衰えないようでしてな。悪名高い妖王3世の実力の程を、確かめたかった」

「余計なことはよしてくれ。もしそれで、あいつが死んでしまったらどうするんだ…」

ちらと振り返り、背後の扉がしめられていることを確認した。

「あの少年には、もう少しだけ生きてもらわなくては困るのだ。

奪われた協会の権限を取り戻し、そして我々の毅然派が協会を治めるためには、妖の王には暴れてもらわなくてはならない。分かるだろう?」

「…そうでしょう…」

オーレルは起伏の乏しい声で相槌を打つ。照明は弱く、部屋は薄闇で覆われていた。

「あなたのお考えは良く分かっておりますよ。

ですが、タイミングが実に難しい。あまり妖王の身勝手を許せば、警察や政府のみならず、肝心の協会が権威を失墜することになりかねませぬ。

どの時点、いかなる状況で息の根を止めるか、今のうちに想い定めておきませんと」

「そのくらい分かっておる…」

ゼスタは不機嫌そうに言い放ち、部屋の中をゆっくりと歩き始めた。

「協会に首都の治安権限が委ねられ、今の総理事長が辞任し、そして協会による治安維持機構が体裁を整えるまで…早くて半年、長くて一年だな」

「術者警察の再編成が難関ですな。協会が警察に治安権限を譲ってから、すでに5年がたつ。体裁を整えるのに、1年は十分ですか?」

「なあに、こちらには長年のノウハウがあるんだ。今の警察などよりずっとうまくやれるさ。

協会の顧問官となった君があのガキを始末すれば、その功績を盾にいくらでも予算は取れる。そうだろう?」

「これはこれは…随分と率直なおっしゃりようですな」

そういわれ、ゼスタは罰の悪さに顔をしかめた。だが、オーレルはすぐに真剣な表情に戻った。右手でがっちり相手の手を握り、目で目をみすえながら

「そこまで考えておられるのなら、結構です。私も安心してご協力できます」

と約束する。その口調の強さに、ゼスタのほうが気後れしてしまうほどだった。


昼食はどうかとの主人の誘いを断り、客のゼスタは早々に屋敷を辞することにした。

「ともかく、めったなことはやめてくれ。あれが敗退したというから、あるいはさらに恐るべき妖魔が現れたのかと、色々気を回してしまったのだ…」

そういいおきながら、部屋を出る。薄暗い部屋から明るい廊下に出て、視界の白さに目がくらんだ。そこに、人の姿が近づいてくる。

「これは、ゼスタ導師…」

と挨拶してきたのは、先ほど庭で鍛錬をしていた少年である。すでに術師の制服を身にまとっていた。

金髪青眼で、辺りが輝くかと思えるほどに人目を引く容貌である。

ファルンは頬を少しだけ紅色に染めて、

「先ほどは、お見苦しい姿で失礼いたしました…」

と頭を下げた。

先ほどまで鍛錬していたためか、顔は微かに上気している。そのために、少年はいっそう健康な生気に満ちていた。

「いやいや、休日にも暇を惜しまず肉体を鍛錬するとは、見上げた心がけだ。

最近の若い術者は、体を鍛えることにかけては全く不熱心なものが多いからなあ」

そう言ってから、ゼスタは下を向き、声を低めて

「かくいう私も、人のことなどいえないな…。鍛錬したい思いはなかったわけではない。だが、書斎での勉学ばかりに時間を取られ、ついに肉体の方は虚弱のままで終わってしまったよ」

と苦笑交じりにため息をつく。

「まだ、遅くはないでしょう」

オーレルが笑いながら声をかける。この男はいかなる鍛錬をしているのか、長身な上に頑丈な体躯の持ち主だった。それに比べ、肥えてはいるが小柄な印象の否めないゼスタは、少し妬ましげな視線で相手を見上げながら、

「年寄りの健康維持法というわけか。引退してからにするよ。

その日はまだまだ遠そうだが、な」

導師二人が笑いながら廊下を渡るその背後から、ファルンは

「あの!」

と声をかけた。振り向く理事長に、

「もしも、妖族に対して協会が攻勢に出るというのなら、ぜひ私も参加させてください。

若輩者ではありますが…」

「アレート君、不躾な質問はやめなさい」

師匠に強い口調でさえぎられ、少年は押し黙る。

だが、ゼスタは機嫌を損ねもせず、

「ああ、分かっておるとも。人類の理性を脅かす妖族に対して、もうすぐ最後の闘争が始まるのだ。君の力もぜひ貸してほしい」

少年は頬を上気させ、

「はい!」

と、勢い込んで言うのだった。見ているほうがうれしくなるような、そんな光に満ちた笑顔だった。

少年を後に残し、二人は玄関を出て庭を歩きながら、

「熱意ある若者だな」

とゼスタは口を開く。

「ありすぎな程です」

オーレルは苦笑いで答える。

「だが、熱意だけではなく、素質と、それに努力も伴っていることが彼の良いところだよ。君はよい弟子に恵まれた」

先ほどの少年、アレート術師は美貌が印象的な少年である。

彼がオーレル導師に寵愛されているのは美少年なため、と品性の低い連中から陰口を叩かれることもあった。

だが、この少年の人となりを知るものは、噂が見当違いであると分かるだろう。

彼は若くして優れた術者だった。オーレル導師の指導を受けながら、妖族との戦いで数々のいさしおをあげていた。

功績に奢ることも無く、努力家であり、人に対しては誠実な性格だった。よほど根性が捻じ曲がった人間でもない限り、誰もが彼を好きにならずにはいられないだろう。

「本当によい弟子だ…。だが、彼には我々の計画を知らせていないだろうな?」

ゼスタの声は低くなる。

「もし知れば、彼はきっと怒り狂うでしょう。一時的な詐術とはいえ、あの者を利用するなどと…」

「やむを得ぬことだ。これも、結局は妖族という悪を除くためだ。悪を除くのに、悪を利用せねばならぬこともある…。あの若者も、いずれ分かるときが来るだろう」

「でしょうな…」

いつのまにか、空は雲に覆われていた。暖かかった陽光は、今はもう降り注いでいない。

オーレルは門の前で去り行く客人を見送っていた。

協会の公用高級車が、坂の向こうに見えなくなるのにそれほど時間はかからない。

やがて、オーレルの瞳は針のように細められた。

冷たく重い鉄扉を、自らの手で閉ざす。

灰色にくすんだ空を見上げながら、彼はそっと呟いた。

「悪を除くのに悪を利用せねばならぬこともある、か」

自身の耳にもほとんど届かない、小さな声である。

己に言い聞かすように繰り返し、彼は屋敷へと戻るのだった。



5、

世界のことを何も分かっていなかった頃から、幼いセーンは一人ぼっちでいることが好きだった。

誰にも相手にされたくない。一人だけでいたい。

そんなことばかりを考えていた。


雲の濃くかかったその日も、彼は誰の目もない路地裏を彷徨い、屋根の隙間からのぞく薄汚れた空を眺めていた。それもあまりに退屈で、とうとう家の表側に出てしまう。

折悪しく、彼と同じ学校に通っていた女子生徒が二人、家の前を通り過ぎようとした。部活にでも行っていたのか、未だ制服を着ていた。爽やかな夏服をまとっているくせに、顔には限りなく陰湿な笑みを浮かべているのだ。

「見てみてー、あいつだよ」

「うわっ、気持ち悪い。こんなところで出会うなんて」

「全く、ついてないわぁ」

そんなことを、口々に言い合うのである。

二人とも、顔はそれなりに可愛らしい少女達だった。そんな彼女達にこうも手酷く罵られて、セーンは立つ瀬もない。

何故そのように酷いことを言うのか。できうることなら彼女達に駆け寄り、必死になって問い詰めたかった。

そんなことをしたところで、女の舌鋒の前に恥を掻くのはこちら方だと言うことは、今までの経験でなんとなく分かってもいる。

だから、彼は勤めて無視しようとしたのである。懸命に涙をこらえ、平然とした顔を装う努力をした。

それなのに、

「みてみて、あいつ泣いてるよ」

「あれで、我慢しているつもりなんじゃない? アハハ、バカみたい」

「泣き虫、毛虫♪」

彼女達はあざけりに拍車をかけるのである。

少年は何もいえない。

彼の心の中では、自分がナイフを持ち出して、あの女どもを衝動の赴くままにめった刺しにしている。

だが、いかな妄想を抱いてみたところで、現実の彼は何も出来ず、立ち尽くすだけである。

あまりにも惨めで、自分が情けなくて、両目から滴る涙が地面に落ちる。水滴は染みとなって、少し広がる。

地べたをわずかに汚すことだけが、彼のできる精一杯だったのだ。


ちょうどその時、パタパタと別の足音が響く。

思わず顔を上げると、お隣に住むレーナが、彼女の家の裏から出てきたところだった。

彼女の方は既に授業は終わっていて、私服をまとっている。何か、安物そうなつぼを抱えていた。

「あら、レーナ。何していたの?」

少女達も多少は罰の悪そうな顔で、同学年の少女の顔を見やるのである。

レーナは、彼女たちを冷たい視線で一瞥したあと、

「庭の毛虫を取っていたのよ。本当に多くて多くて。

あなたたちも手伝ってくれる?」

いつもの通り、気強い立ち振る舞いである。

今まで、あれほどセーンに過酷だった彼女達も、気おされてしまうのだろうか。

小刻みに首を振りながら、

「べ、別にいいわよ」

「レーナちゃん、がんばってねー」

と調子の良いことをいうのである。

「あら、毛虫は嫌い? それにしても、さっきまで毛虫いじりに精を出していたみたいだけど」

セーンのほうをわずかに見やり、少女達に対して歯をむき出しに笑うのである。

「そんなに、毛虫が好きなのなら、毛虫で遊んでれば?」

声を立てる間もない出来事だった。

レーナは楽しそうな笑みを浮かべたまま、今まで抱えていた壷を、女子生徒たちの頭に振りかざす。

ボタ、ボタ、ボタ、と何やら黒い物体が、彼女たちに降り注いだ。

何十匹もの本物の毛虫であることが分かったのと、世界の終わりのような叫び声があたりを揺らしたのとは、ほぼ同時ぐらいだったろうか。

髪や肩で身をくねらせる物体を振り払おうとして、彼女達は無我夢中で泣き喚めいていた。

毛虫が手についてしまい、さらに悲鳴。地面に落ちた虫を足で踏んでしまっては、絶叫するのである。

少女達の阿鼻叫喚を、レーナは楽しそうに眺めていたが。再び壷を高くかかげてつかつかと近づいていく。

「じ・つ・は、まだあるのよねー。おかわり、行ってみる?」

迫り来るレーナに、少女達は身を震わせ、泣きながら逃げていくのだった。

彼女達の後姿を見送りながら、レーナは軽蔑したように鼻を鳴らした。

そして、思い出したように振り返る。

今の今までずっと立ちすくんでいた少年に、

「何やってるの?」

と声をかけるのである。

「い、いや…別に」

男でありながら、女にまでも虐められていた恥に、今更ながら身もすくむ。

「あいつら、学校でも本当に根性わるいのよねぇ。これでちっとは懲りればいいんだけど」

レーナはしゃがみこみ、地面に落ちた毛虫たちを、金具で拾い集めはじめた。

「あ、僕も手伝うよ」

おずおずと少年は歩み寄り、別の金具を手にとって、少女と並んで毛虫を集め始めるのだった。

彼女は下を向いたまま、

「全く、あんな腰抜けどもに良いように言われてるんじゃないわよ。

男でしょ? 殴り返しでもすりゃいいのに」

物騒なことを、平然と言うのである。

摘まんだ虫を、壷の底に落としながら、少年は何も言えなかった。

回収も終わり、最後の虫が壷に落ちた。レーナは立ち上がった。

「ありがと。ねえ、今日は遊びに来ない?」

ふと思いついたように、笑顔で誘いを掛けてくれた。

「でも、良いの? 僕なんて…」

まだ地面に置かれている壷をのぞくと、薄暗い底に無数の蠢きを見てとれる。

光の届かぬ場所で、忸怩じくじたる思いに苦しみながら、のたうち回る蛆虫たち。

まるで自分のようだと、思えてならない。

「ねえ…。やっぱり僕は、毛虫なのかな」

未だ地べたにひざ間付き、顔を上げることも出来ず、弱々しい言葉が口から漏れた。

レーナはあきれ果てたように肩をすくめ、

「あのね…。

毛虫だと私が思ってたなら、いつもいつもあなたを遊びに誘ったりする?

あんな奴らの言うこと、気にするなんて、バカみたいじゃない」

「…そうだね」

彼は安堵のため息をつきながら、ようやく顔を上げることが出来た。

灰色の雲間から、白日が顔をのぞかせていたらしい。周囲は次第に明るさを増していった。

空のはるか高みから、陽光が降り注ぐ。地上に立つ少女は、天からの清浄な輝きを一身に浴びていた。

そしてそのまま、こちらに微笑んでくれるのだ。

「行こうっ、早く」

陽気に言って、レーナは歩き出す。

すらりと伸びた後姿が、眩しかった。

光に魅きつけられた人のように、薄暗い日陰から少年は立ち上がり、少女の後を追って行った。


甘酸っぱい思い出ではあった。同時に、身を切りさいなむほどの屈辱でもあったのも事実である。

年下の少女に守ってもらうほど、情けない彼だった。

今の自分は、そんな昔のセーンからは生まれ変わったと思っていた。しかし、いくら自分を偽って見たところで、心の奥底から這い上がってくるむなしさはどうしようもない。

圧倒的な力があればと、いくど夢想したことだろう。そうすれば、誰にも屈服する必要はない、卑怯者にならなくてもすむ。

その幼稚な願いは、妖王の血に覚醒することによって、あるいは叶えられたのかもしれない。

なのに、彼を上回る力の主は未だに存在し、彼はまたもや屈服させられた。

いくら妖術で身を固めたところで、何も変わりはしない。変われる筈などありはしない。

この情けない自分は…

彼は声にならない絶叫を発して、右のこぶしで壁を打ちつけた。

刹那、腹部に激痛が走り、背筋をそらした。


「大声出さないで、傷に障るよ?」

目を開くと、少女の心配そうな表情が覗き込んでいた。暗い部屋の中で、彼女の顔は半面だけがランタンの鈍く黄色な光に照らされている。

彼はようやく、寝台の上で仰向けになっている自分に気づくのだった。

「レーナか? ここは、大地の裏側か…」

よくも地下深くまで帰って来られたものだ。傷の痛みであえぎながらも、我ながら可笑しかった。

「びっくりしたわよ。血だらけで、部屋の入り口に倒れていたのよ?

とりあえず応急措置だけは済ませておいたから」

寝返りをうとうとした彼を、少女の細い手が静止する。

「だから、だめだって。怪我してるんだから」

彼は息を付き、枕元にあったグラスに手をやって、水を飲み込む。危うく咽そうになった。

少女は寝台のそばを離れ、床に置かれた洗面桶の中でタオルを洗っている。

机の上では、お湯が沸いていた。

「何があったの? あなたがそんな怪我するなんて」

「いくら強くなっても、無駄ということかな…」

少年は天井を凝視しながら、うつろに笑う。

「ヤドカリの話を聞いたことがあるか…?」

「やどかり?」

「おとぎ話だよ。昔、巨大なものに憧れたヤドカリがいた。彼は、大きくなるために必死の努力を始めた。

大きな貝殻に無理やり入りこみ、自身を合わせて、身体を巨大にしていったんだよ。

タイ、マグロ、ウツボ…自分よりでかい生物を見るたびに、彼は嫉妬に苦しめられ、より大きな貝殻に入り込んだよ。

幾たび、繰り返したことだろう。どこまで行っても、上がいた。

いかにあがいてみたところで、ヤドカリごときが最大の生物になれるはずもない。ヤドカリ君はようやく現実を悟り、それでも、現実を受け入れることはできなかった。

ままならない現実と、満たされることないコンプレックスに押しつぶされて、とうとう自分を…滅ぼしたんだ」

そこまでいって、少年は笑い出す。楽しげな笑いではない。

ゼイゼイと息を漏らすような、苦悶のうめきにも似た哄笑。

いつまでも笑う彼に、少女は不安げに顔をしかめ

「そんなにしゃべって、大丈夫なの?」

と気遣わしげにたずねるのだった。

大丈夫なはずもない。声を発するたび、振動は全身に響き渡り、腹の傷は激しく痛む。それでも、口を開くのをやめられなかった。脳の奥底まで充満した鬱憤を少しでも吐き出さなければ、どうかなってしまいそうだった。

少女は水を差し出し、少年は飲み込んだ。飲み込んでから彼は顔をしかめる。

「苦い…。毒殺する気か?」

「お薬よ。私が毒見したから」

「そっか」

なんとなく腹の痛みを引いていく気もするのだった。

少し時間がたって、彼はだいぶ落ち着いた心地になる。

「な、俺はどれくらい眠っていた? 寝ている間に、何かあったか?」

「ちょうど丸一日。たいしたことは起きてないよ。

あなたは色々なうわ言を口走っていた」

どんな…?と言葉は発せず、唇だけを動かす。

「セーン君の、昔の思い出。よく分からないけど、悔しそうだった」

「そっか…」

ランタンの炎が揺れていた。机や椅子、少女の影も、不安定に震えているように見えた。

自分のいる世界が、いつまでもゆれている、そんな錯覚にとらわれる。

「やっぱり、そうなんだね」

レーナの声が、微かに揺らぐ。

「何がだ?」

「あなたが、セーンだってこと」

「今更だね、ヒヒヒッ」

せせら笑いを、苦しい口の端から漏らす。

彼女はきっと、怒っているだろうか。悪さを見つけられてしまった子どものような不安に襲われ、彼はそっと窺う。

レーナはかすかに首をかしげていた。かつて蝋細工みたいだと思った表情には、今は優しい雰囲気が漂っているようにも思われる。

だけど、少女の瞳が揺らいでいるように見えたのは、灯火の生み出す錯覚では無かったのだろう。

彼女はほとんど囁くような声で、

「セーンは優しい子だと思ってたのにな。どうして?」

「おそらく、古の妖王の血でも引いていたんだろう。毛虫が蝶になる力を秘めているように、セーンの体内には妖王の力が眠っていたんだ」

天井を見ながら、他人事のように言う。苦い薬が効いていたのか、少し口が軽くなっていた。

「小さい頃は、誰も気がつかなかった。無理もないよ、本人さえ気がつかなかったんだ。

皮肉だな、術者になりたいと思っていたときには、妖王の血は眠ったままだった。

それなのに、夢をとっくにあきらめたときになって、力は目覚めてしまった。

誰かといさかいをしているときに、俺は無意識のうちに不可視の力を発動させ、相手に瀕死の重傷を負わせてしまった。

皆が俺を化け物として恐れ憎み、容赦なく迫害するようになった。俺は俺で、あれやこれやと仕返ししてやった。

それから後は、螺旋階段を転げ落ちるようなものさ。奴らに嫌われるほど、俺の憎しみもいや増した。俺が奴らを憎むほど、奴らはますます俺を忌み嫌うようになった。

いつしか、誰も俺を人間として扱わなくなり、俺も人間として振舞うのをやめてしまっていた」

身勝手なセーンの言い草を、レーナは黙って聞いていた。こちらをじっと見つめる大きな瞳の底には、怒りと言うよりは、むしろ哀れみの光が宿っている。

「それにね、昔からの夢だった」

彼は、視線を暗い天井にさまよわす。これ以上、少女と目を合わせるのは居心地が悪かった。

「君はさっき、優しい子と言ったな。

はじめから、優しくなんてなかったんだよ…。

良く思ってたよ。独裁者にでもなれば、気に入らない奴をどうにでも出来る。地べたを這い蹲らせて、平謝りに謝らせながら、首を斬ることだってできるんだ。

そんな空想をして、楽しんでたよ。バカらしい…遠い夢だ」

「夢、かなったの?」

少女の声には、嘲りの響きも、咎めるような調子も無い。静かな問いかけにこめられた悲しみの音が、心の傷に響くのだった。

「…嫌味か?」

たまらない気分で寝返りをうち、硬い毛布に顔を押し付ける。

結局、彼は暴れまわった末に、連邦に捕えられたのだ。本当は死刑にされるはずだったセーンは、命を救われる代わりとして、妖王の役をやらされることになった。

夢が叶うどころか、奴隷にされただけのことである。


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