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魔王と幼馴染 ~夕と夜が出会う場所~  作者: 寿歌
第一章 大地の裏側
4/11

第一章 大地の裏側 6~10

6、


幅は3メートル、深さは4メートルあろうかという溝。

天上からぶら下がるランプの列が、底の底まで照らし出す。

初老の男が尻餅をついていた。上の通路から転落して、骨でもおったらしく、苦悶に顔をしかめ、泣き出しそうな目つきで見上げている。

妖王の兵士達は、鈴なりになって溝の底を覗き込み、しかし何も出来ないでいた。

「はやく御偉方をつれてこないと、おい」

「いま、誰か探しに行ってるはずだ」

「誰なんだ、はっきりしろ!」

口々にののしるだけの男達に、壁に寄りかかっていたレーナは冷たく笑った。

「騒いでるくらいなら、誰かが助けに行ったらどうなの?」

「何ぃ? …お前かよ。すっこんでろ」

「でも、あのままじゃあの人、可哀相じゃない」

溝の奥底で、白髪交じりの男が醜い顔を涙にゆがめて、泣き叫んでいる。

助けを求めているのは明白だった。

「そんなこと、言われてもな…。あそこには化け物が出てくるって言うし…」

髭だらけの男が、幼児のように怯えた瞳をしているのである。

「だから、化け物が出てくる前に助けなきゃいけないんじゃない。じゃ、私が行くわ」

無造作に言ったかと思うと、非常用の梯子から溝の底へと降りていくのである。

正直、化け物が這い回っているところなど見たこともない。数週間も暮らして、ここの住民達の迷信深さは知っていた。怪物などというのも、大方は彼らの臆病が生み出した噂にすぎないと思っていた。

「おい、やめろ、お前も死ぬぞ!」

そんな言葉も無視して、少女は足早に階段を下りていく。

このレーナという少女は、顔はむしろ幼げで、人形にでもしたいほど色白で繊細な肌作りをしていたが、昔は手の付けられぬ悪童として鳴らしていたこともあるほどだった。

古びた梯子をつたい、薄暗い溝に降りていくなど、たじろぐ程のことでもない。

底に下って、有無を言わさず男の手を引いた。

「が、あ、足が」

「歩ける? 肩、貸すから」

男の右腕を肩に掛け、レーナは奮然と歩き出す。幸いにも相手は小柄で、レーナが支えるにもそれほどの苦労はなかった。

「…ありがとうな、お嬢ちゃん」

男は頬に涙を流しながら礼を言うのである。

(考えてみれば、こいつも人殺しの一味なのよね…。でも、こうやって泣いている所は普通の人と変わらない)

などと奇妙な考えが浮かびもしたが、とりあえずは励ますように

「この先に階段があるはずだから、そこまで行けば」

と声を掛けてやるのだった。

溝の上からは「はやく、いそげ!」との声がひっきりなしに降りかかる。

うっとうしいだけの掛け声に、睨み返してやろうとした時、ふと頭上から影が落ちた。足のすぐ先に、ぺちゃんと雫がしたたる。

顔をあげても、自分が見ているものが何なのか、すぐには分からなかった。

眼前にある物体が、あまりに大きかったからだろう。

…径は3メートルあっただろうか。巨大な蛇のようなものが、溝の行く手をいっぱいにふさいでいた。

濁ったゼリーのような胴体が、忌まわしく脈打ち、粘着質のものがからみつくような不快な音が響く。

体はどこまでも長く、その先は溝の向こうの方まで続いているようである。

頭部は溝の縁まで届く高さに持ちあがり、暗い天井を背景に、レーナ達を見下ろしていた。無数の眼球らしき赤い物体が、キョロキョロと蠢いている。縄のような触手が垂れ下がり、ブラブラと嫌らしくゆれていて、したたる雫が彼女の頬にも落ちた。

鼻の奥を突き刺すような悪臭に、息のつまる思いをしながら、目の前にいる巨大ミミズこそ噂の怪物であると承知せざるを得ない。

(ど、どうしてこうなるのぉぉ!)

流石のレーナも悲鳴を上げそうになった。

だが、隣の男が先に「ぎゃあああ!」と絶叫してくれたおかげで、却って落ち着くことが出来た。

怪物の首が、こちらにゆっくりと迫ってくる。真ん丸い穴がぽっかりと開き、無数の触手が中から這い出してくる。

レーナは、しがみついてくる男を跳ね除け、右ポケットから筒を取り出した。以前に、妖王が護身用にと渡してくれたものだった。

まさか、こんなことに役立とうとはと思いながらスイッチを押し、目前に迫った怪物の、口の中に放り込む。

少し狙いが外れたかとも思ったが、なにを思ったのか怪物は触手を器用につかって筒を取り込んでしまった。

電撃を発する物体を飲み込んだために、怪物の体はビクンと震えたようだった。一度震え、しばらく動きが静止する。どうなるのだろうと固唾を呑んでいると、たちまちに小刻みな痙攣をはじめた。

「どうやら効いたみたいね…、さ、今のうち!」

腰を抜かしてしまった初老の男を、レーナはほとんど引き摺るようにしていった。怪物の脇を通り抜けるので、間近から直撃してくるような悪臭に、倒れてしまいそうでもあったが、何とか階段までたどり着いた。傾斜の高い、手を使わなければ這い登れない石の階段である。

そこには幾分か勇気のある男達が集まっていて、先に階段を押し上げられた初老男を引き上げてくれた。

レーナも続いてよじ登ろうとしたとき、足が動かなくなった。いくら引っ張っても、何か別の力で引き戻されてしまい、足は少しも動いてくれない。

「い、いや…」

呻きながら、見たくなくても見なくてはならない絶望的な心境で、足元を振り返る。

伸びる触手が、少女の右足に幾重にも絡みついていた。

怪物の首が直下まで迫っている。

上段に掛けた手に力をこめ、なんとか這い上がろうとするのだが、触手の力は信じがたいほどに強い。指は圧力で真っ白になり、痛みで力が抜けていく。

上にいる男達は手を差し伸べようとしたらしかったが、それも届かなかった。

とうとう指が石をすべり、虚しく宙をつかみながら、少女の白く華奢な手は暗闇を落ちてゆく。

無我夢中であげた悲鳴とともに、レーナの体は引きずり込まれていってしまった。


何かがはじける音が聞こえた。足に絡みつく力も忽ちに消えうせ、彼女は溝に足から落ちた。

振り向いてみると、怪物はもはや襲い掛かって来るどころではなくなっていた。

フードをすっぽりかぶった北漠の魔王が胴体にまたがり、右手を汚らしい体に突き入れている。

右腕全体から白い蒸気が立ち上り、怪物の体に吸い込まれていく。

そんなものを注入されているのだから、巨大ミミズにはたまったものではなかっただろう。

激しく痙攣し、身を捩じらして、振り落とすことができない。無数の目のついた顔は、今は何だか必死の形相をしているようにも見えて、レーナも思わず噴き出してしまうのである。悪あがきも徐々に弱まり、おぞましい蠕動が止むまでに時間もあまり掛からなかった。

打ち伏せる怪物の胴を北漠の魔王、妖王はつたい歩きし、左手に持った松明を頭部にたたきつける。炎が燃え上がり、頭から死骸の全てを焼き尽くしていく。

溝の上からはどっと歓声が上がり、妖王への讃歌が狭い地下空間の中、聞き苦しいほどに木霊していた。

男たちの中には、神の降臨を目前にしたかのように、ひたすら額づいているものすら少なくなかった。

妖王は歓呼の嵐の中を平然と歩み、たたずんでいたレーナの傍にきて、身振りだけで自分についてくるように促すのだった。


「バカなことをしたね」

彼があざけるように言ったのは、二人が王の私室に戻ったあとのことである。

レーナはシャワーを既に浴びていて、髪を櫛でといていた。

「ああいう時に、手をこまねいているのが嫌いなの」

彼はかぶれてしまった右手を忌々しげに掻きむしりながら

「そうだったな、君は。変に正義心が強いというか…。

それで怪物の餌になってれば、世話ないね」

「…さっきの化け物、一体何なの?」

「はるか昔、何かの妖術で作り上げられた人工生物の子孫なんじゃないか。推測でしかないけど」

彼はそのまま部屋を出て行こうとすると、櫛を置いたレーナから、

「ちょっと!」

と呼び止められた。

「何? まだ用があるの?」

「その…いや、なんでもない」

レーナはそのまま顔を背けてしまう。

「おかしな奴」

少年は息をつき、部屋の扉を閉めた。


歩いていると妙に体の浮き上がる心地がした。大事とは思わず、少女は椅子に座ってため息をつく。

迷宮の奥底で暮らすようになってから、既に一月はたっていた。

あの妖王も、時折は部屋を訪れることがあった。

彼と話をしたいはずもなかった。それなのに、狭い部屋の中、誰とも話すことのできない物寂しさは募っていて、つい少女のほうから言葉を掛けてしまうことも少なくなかった。

今日はあの男に命を救われる羽目になった。

もしかしたら、その内にはあの男とも普通に打ち解けた話をしてしまうようになってしまうのだろうか。

今だって、もう少しでお礼を言ってしまうそうになってしまった。相手は忌まわしい殺人鬼であるというのに…。

レーナは物思いを振り払いたくて、勢いよく立ち上がった。

「え…?」

突然、世界が揺れた。

すでに見慣れていたはずの石室の光景が蜃気楼のように歪んでいく。

「どうして…」

全身が、石床に打ち据えられた。うつ伏せに倒れてしまった。

体が酷く重い。頭が棍棒で押しつぶされるようだった。胸がむかついて、全てを吐き出したい衝動に襲われる。

それなのに胃酸すら吐けないことが、どうしようもなく苦しい。

「はあ、はあ…な、なんで?」

声を出そうとしても、喉が痛くて声にならない。床の埃を吸い込みそうになってしまい、何とか立ち上がろうとしても、今度は仰向けに倒れてしまう。

石室の天井が視界に広がる。いつも暗い天井は、ますます暗さを増していく。

(死ぬの…?)

そんな考えが、他人事のように脳裡をめぐり、それもやがては遠くなっていく。


「仕方ないねえ。こんなところで寝ちゃって…」

大きな手が、小さなレーナの頭をなでていた。

「え、私…」

幼い少女は、おつかい帰りのはずだった。

けれど、春のお日様があまりに心地良かったから。

だから、ほんのちょっとと思って、日溜りの芝生の上で仰向けになってしまったのだ。

レーナはあわてて起き上がり、辺りを見回した。

「日が暮れちゃってる…」

今はすっかり夜。ただ西の空だけ、わずかに夕日の名残が残っている。

「もう、しょうがない子だね」

少女の頭を膝枕していたのは、大柄な女だった。西日の残光に照らされた彼女の顔は、言葉とは裏腹に穏やかな微笑を浮かべていた。

「ご、ごめんなさい。リンダ小母さん」

頭を下げて謝る少女。

「謝ることじゃないさ。けど、帰りが遅いからちょっと心配でね。

なかなか、かわいい寝顔だったよ」

「お、小母さん…」

少女は顔を真っ赤にしてしまう。

「…さ、お昼寝はこれくらいにして帰らないかい?」

「う、うん」

立ち上がるレーナの頭を、もう一度リンダはその手でなでてくれた。彼女の手は女性にしてはごつごつとしたものだったが、とても暖かかった。

今日の夕飯のこと、明日の学校のことを話しながら、二人は薄暗い道を引き返す。街灯が、二人の影を長く伸ばしていた。

もうすぐ家に着く手前で、レーナはぽつりとつぶやいた。

「あ、あの…」

「なんだい?」

リンダが怪訝そうに振り返る。

「小母さんの事…お母さんと呼んでも良いかな…」

われながら唐突ではあったけど、ずっと前から願っていたことだった。

「前に、そう呼んで欲しいといわなかったけねえ」

果たしてリンダは、何を今更と苦笑を浮かべるのである。

「う、うん。じゃあ、リンダおかあさ…」

黄昏の闇にほとんど消えそうな声で、レーナは初めてその言葉を口にしたのだった…。


「しょうがない奴だ…」

嘆息混じりに呟いたのは誰だったのだろう。

レーナは夢うつつに、自分の体が浮き上がった心地がした。誰かが抱きかかえたのか。

あるいは、熱にうなされた幻覚なのかもしれなかった。



7、


世界の本質は暗黒で、光は束の間の現象に過ぎないのだろうか。

薄ら寒い絶望感が忍び寄ってくるほど、圧倒的に深い闇だった。

どこかで空気がうずまいている。地面が微かに震えている。

ファルン=アレート術師はあえて光をつけず、感覚だけに頼って進んでいった。

術者として様々な訓練をつんでいると、わずかな音の反響を感知することで、前にある壁や障害物の存在が「聞こえる」ようになるのである。

彼は足元に気をつけながら、闇の中をゆっくり、ゆっくりと歩いていく。

やがて、前方から気流の渦巻く音が聞こえてきた。

ファルン少年は立ち止まり、そこに声が聞こえてきた。

「そろそろ、灯りをつけたまえ」

深い声は、濃い闇の中でも良く響く。

ファルンは意識を額に集め、そしてにじみ出るような光がうまれる。

少年の周囲から闇は徐々に退いてゆき、そして、オーレル導師がたたずんでいた。

「あなたの気配が、まったく分からなかった…」

「隠遁術をまとっていたからな。私もまだ、それほどは老いてはいないということだ」

ファルンが呼び出した術の灯りは、今は煌々と輝いていた。

洞窟の光景が、はっきりと見渡せた。地下の空虚はずっと先まで続いている。気流が、泣き声のような響きをたてながら、坑道を通り抜けていく。導師の髪も、ファルンの髪も、闇にそよいでいた。

「エナスの下水道の先に、こんな場所があるのですね」

「まだほんの入り口だ。そしてこの場所は、『大地の裏側』へと通じる、数多の入り口の、ただのひとつに過ぎぬ」

導師はおもむろに歩き出す。ファルンの放つ術光で、導師の黒々とした影は遥か先にまで伸びていた。

やがて、ふたりはたどり着く。断崖絶壁の真上にいた。

直ぐ先の足元には何も無く、垂直に切り立ったこの崖は、どこまで深いのだろう。

術光をいくら強めても、底を見極めることは出来ない。茫漠たる空虚が広がるばかりである。

崖の底では、いくつもの気流が入り混じり、暴れ狂っているのだけが分かるのである。

「ここは『巨神の息吹』とよばれる大穴だ。むろん、これだけが大地の裏側への入り口ではない。もっと安全に行き来できる場所はある。しかし、今回は敢えてここにつれてきた」

「分かります。ここからは強い力が上ってくるのを感じます。地下に存在する諸力を感ずるには、最もふさわしい場所でしょう」

ファルンはそういって、ゆっくりと意識を集中し始めた。

「気をつけろ。深くまで行き過ぎるな」

感覚が、体を突き破るのを感じる。

彼の心は体を離れ、そのまま暗黒の奥底まで潜っていった。


暗黒の中をどこまでも沈んでいく。

精神は厚い岩盤をすりぬける。やがて、蟻の巣のように張り巡らされ錯綜する地下道が、おぼろげながら見えてくる。この果てしなく広がる地下迷宮こそ、「大地の裏側」の正体なのだろう。

だが、はっきりとはしない。

精神だけの状態で現実の世界を知覚しようとしても、水中から水面上を見るのと同じである。歪んだ視界の向こう側で、おぼろげにしか知覚できないのである。

それでも近づくにつれて、生命の気配をも感じるようになった。

闇に輝く光とも見えるし、あるいは極寒の中に息づく熱源のようにも覚えられた。

小さな粒子が群がっているようなのは、蝙蝠かねずみの類だろう。

ざわめきと熱気が激しくなる。それぞれの光からは押さえがたい悪意や怒りが滲み出ていて、地下で鬱屈する無頼漢たちに違いなかった。

そのなかでも、いくつかの光は強烈で、妖族の邪悪なオーラを漂わせていた。

奴らに見つからぬよう、ファルンの魂は気配を静める。地下の奥底から、鼓動のように放射されてくる波動を意識しながら、今の心象を記憶に刻み付けていくのだった。

地下の一室で、ふと奇妙な気配を見出す。

部屋の中に二人いるようだった。

ファルンは思い切って心を現実に近づけた。

水中のように歪む視界の向こう側で、少女が横たわっているのが知覚できた。そして生命力の弱っている彼女を、一人の少年が不安げに覗き込んでいるのである。

彼らは何者なのだろう、どこかでみたことがあるのだが…。

ファルンは少女の顔に近づいた。

(彼女は…?)

ようやく名前を思い出しそうになったとき、焼きつくような視線が浴びせられた。

ふりかえると、傍らにいた少年がゆらりと立ち上がった。今まで少女を不安げに見ていた彼が、ファルンの魂に気がついてしまったのだ。

少年は瞋恚に燃え盛る瞳でファルンを凝視していたかと思うと、見る見ると姿を変貌させていく。

現実での彼の姿は変わっていない、彼の黒々とした魂が、肉体からあふれ出したのだ。

蠢く影は、多頭の蛇にも似ていた。あるいは数多の触手をくねらせる大王イカのようでもあって、余りのおぞましさにファルンは悲鳴を上げそうになった。

これこそが、大地の裏側に巣食う最凶の魂と気がついたとき、すでに遅かった。逃れようとしたファルンに、姿を変え続ける黒い魂が襲いかかる。

ファルンの心は縛り付けられ、締め付けられ、たちまち、真っ暗闇にのみこまれていく。

耐えること無い呪詛が響く。ひっかくような嘲笑が聞こえてくる。憎しみの表情が、漠然と浮かび上がってくる。

(もうだめか…)

彼が観念しかけたとき、

「ファルン!」

オーレル導師の叫びが響いた。

蛇のような形態をした魂は、鋭い閃光の直撃を受け、一瞬だけひるんだ。

ファルンはそのすきをつき、悪意の締め上げを振りほどき、魂は一気に地上を目指して上昇していった。


ようやく自分の体に戻ってきたファルンは、だらだらとこぼれてくる汗をぬぐう。

「申し訳ありません。ありがとうございます」

言葉を出すのも辛いほどに息苦しかったが、まずは師匠への謝罪を口にした。

「危険なことをしているのだ。互いに助けあわなくてはならん。…やはり、妖王がいたか」

「地下には1000人ほどの人影がありました。妖族は10名ほどと見受けられました。…あいつは、最下層に潜んでいたようです」

「最下層、か。なるほど」

ファルンはうなずき、立ち上がった。体の節々に奇怪な脱力感があり、痛みもあった。それでも強いて、平然と歩いていた。

導師は弟子の姿を後ろから見ながら、

「大丈夫かね?」と声を掛ける。

本当はあまり大丈夫ではなかったのだが、ファルンは力強くうなずいて見せた。

「魂抜けの術のあとは誰でも憔悴するものだ。君の、自分の苦しみを人に見せない誇り高さは、実に見上げたものだ」

オーレルは賛辞を送りつつ、ゆっくりと息をついた。

「い、いえ…」

少年は流石に面映くて、顔を逸らしてしまう。

導師は大きな手で、弟子の頭をなでてやった。どんな不思議な力が働いたのか、なでられるたび、さわやかな力が体に注ぎ込まれるようで、ファルンは実際に気分がよくなっていくのである。

やがて、二人は洞窟の中を引き返す。

今は、導師が掲げる光が、暗い洞窟をあまねく照らし出していた。




「大丈夫?」

伏せているレーナのほうが、つい尋ねてしまうほど、少年の顔は青ざめて、荒い息を吐き出していた。

「はぁ…はぁ…はあ…。大丈夫、大丈夫だ。今のは、本当に奴らが来たわけじゃない…」

額に浮かび上がった汗は暑さによるものともみえず、いっそう気味悪かった。

妖王は汗をぬぐい、近くにおいてあった水を一気に飲み干す。

「いや、大丈夫だよ」

少し落ち着いた彼は、今度ははっきりと宣言するのだった。

「別に、心配したわけじゃない…」

レーナはつっけんどんに行って、ごろりと寝返りを打った。


レーナが倒れてから、彼は良くこの部屋を訪れるようになっていた。

氷枕を持ってきて、手ずから重湯を与えるのである。

こんな男に看病されるなど、レーナにとってはありがた迷惑なことであるはずだった。

だが、気だるい気分で横たわり、闇濃い部屋の中に一人ぼっちでいるのは辛かった。

闇の中で、ただ一人だけ忘れ去られてしまった心細さに、ともすれば胸が押し潰されそうになってしまう。そんなときは、あの男に早く部屋に戻ってきてほしいとさえ、願ってしまうのだった。

彼はフードも被らずに、薄暗い空気の中で少年の顔を露にしていた。

「そういえば、薬は飲んだ?」

いつしか汗も引いた少年は、例のごとく冷笑的な表情で、少女の枕元に薬瓶らしきものを置く。

何これ? と尋ねる彼女に、

「この大地の裏側に巣食う、薬師のばあさんにもらってきた」

「誰それ?」

瓶に入った液体は毒々しい色をしていて、すぐに飲み下す気にもなれない。

レーナは布団に身を沈めて、

「ひょっとして、あの大ミミズの毒にあたっちゃったのかな…」

「だろうね」

「私、死ぬの…?」

いつもは強気の少女が、こんなにも心細い様子を見せていた。少年の表情に微かな驚きが表れたようだったが、その感情もすぐにいつもの無表情に飲み込まれる。

「やっぱり、死ぬのは怖いんだね」

「そうかも…」

レーナはいつに無く素直に答えるのである。

「君が助けた男も、ミミズの毒に当てられたには違いないが、しかし命に別状はない」

冷えた口調で、事実だけを伝えてくれた。

「そう…」

レーナは安堵のため息をつく。

「俺も毒見をした。少なくとも副作用で死ぬことはないよ」

どんな毒薬を飲んでもあんたは死なないでしょうよ。いつもだったら悪態をつきたいところである。

目の前すら霞んでしまいそうな今のレーナに、そんな気力はない。

それでも苦い薬を飲みこんで、やがて意識はまどろみに落ちていく。

再び目を覚ましたときも、まだ椅子に座って本を読んでいる少年の姿があった。

少し気分も良くなって、レーナはようやく思い出す。

昔のセーンも、こうやって風邪を引いた自分を看病してくれたことがあった。ずっと徹夜で付きっ切りで、薬も毒見をするなどと言いだしたことがあって。

毛布に包まりながら彼の顔を見ていると、昔に時計が戻ってしまったような、不思議な違和感がこみあげてくる。どことなく甘酸っぱく、心を優しく締め付けられるような切ない心地。

目の前にいる男は、例え顔は同じとしても、セーンでは無いはずなのに。どうしてこんな気持ちになるのだろう。

「どうして」

思わず、疑問詞が声になってしまった。

「なんだ?」

「どうして、あなたは私を助けてくれたの?」

彼はしばらく答えあぐねていたようだった。しかし、やがて口を上げ

「そんなこと、聞いてどうするんだ?」

とだけ問い返すのである。

それ以上、何もいえなかった。

少女の心中で、漠然とした疑いが、明確な形をとろうとしていた。だが、それを確認してしまうのは怖かった。彼女の密やかな疑いが、もし万一にも真実となってしまえば、レーナの天地が崩壊してしまうかもしれなかった。

(でも、そんなこと、あるはず無いよね。尋ねるだけでも馬鹿馬鹿しいよね)

弁解にもならない弁解を、少女は胸のうちだけで繰り返し、浮き上がってくる疑いを意識の闇へと沈めてしまうのだった。

あとは、部屋の中に静かな沈黙が訪れる。

仰向けに横たわる少女は、ぼんやりと暗い天井を眺め、一方の少年は腰掛けたまま黙って本を読んでいた。時折、部屋の外から響く何かが這うような奇怪な音も、二人はもはや気にしなくなっていた。

彼はふと、少女の様子を無表情に眺めていた。やがて思いついたように布団をめくりあげ、少女にかぶせなおした。

「ちょっと、なにを…」

「肌蹴ているのが、見苦しいんだよ」

「ふん、いいじゃない。どうせ人外のあなたには興味のないことでしょ?」

少し拗ねているようにも聞こえる少女の言葉に、妖王はかすかに苦笑したようだった。



8、

ようやく体調も回復し、地下の暗い廊下を通りかかったレーナは、後ろの扉の隙間から妖王と族長たちが集っているところを目にしてしまったことがあった。

扉の隙間から見える光景が、始めは何であるのか分からなかった。

会議場の広い部屋は、隅は黒々とした闇に覆われている。真ん中の大きなテーブルだけが、天井の遥か高い場所からつるされた燭台の光で、淡くオレンジに照らされていたのだ。

テーブルの周りに座る人々の姿は、黒々とした影になっていて、表情まではうかがえない。

薄ぼんやりとした暗さに覆われた部屋だった。低く響いてくる話の内容をもれ聞いているうちに、主席についているのは妖王で、脇の席についているのは『族長』と呼ばれる妖族であるらしい、と見当がつく。

族長たちは臣下であるはずなのに、それだけの敬意も無い。

それどころか、主人である妖王を問責してさえいるように聞こえるのだ。

「全く、冗談でありませんな。今日も卑しい者たちと宴会などを催されていたそうですね。あのような真似はおやめください」

と口を開いたのは、族長の中でも筆頭らしい男だった。名前はバルゴスと言うらしく、話しながら腰まで届くほどに蓄えた髭を、左手で梳いている。

「しかも、地上では流民どもを寄せ集め、妖王教団なる怪しげな組織を作っているようですな」

でっぷりと太った男が、椅子に肥満体をうずめながら、あえぐように言うのである。

「あなたは、自分の好みのものばかりを取り立てて、なにをするつもりなのですかな? 権限強化の積もりですかな?

あなたのように若年の方がそのようなことをなさっても、ただのわがままにしかなりません」

と、嘲りさえこめていうには、ジェノアという男だった。

族長の中では若く、どうやらバルゴスの甥であるらしかったが、それを恃んで傲慢な振る舞いが多いようである。

そのようにして、族長達は口々に詰問する。妖の王は顎の下で手を組んだまま、終始押し黙ったままであった。

(どうして、彼はあんなに言われて黙っているの?)

いままで、族長たちは妖王の下僕だとばかり思っていた彼女には、奇怪極まりない光景だった。

妖王は、世界の首都を夜な夜な脅かす悪の権化のような存在のはずだった。その彼が、部下たちに脅迫されているのだ。

もっと聞きたいと欲を出してしまい、扉に掛けた手に力が入ってしまう。

すると、扉の軋みがわずかに響く。

暗い部屋の中で、レーナの心臓が跳ね上がってしまうほどにも聞こえるのである。

とたんに、大部屋の中の蝋燭が消えてしまった。目鼻の先までが闇に包まれ、男達のあわただしく立ち上がる音が響き渡る。足音がこちらに近づいてくる。

レーナは震え上がりながら、逃れるように立ち去った。

少女はいつしか、岩むき出しの洞窟へと迷い込んでいた。どうやら、『大地の裏側』と呼ばれる地下迷宮は、洞窟の中は上層に比べて湿度が高く、ともすれば霧が漂うこともある。

暗い闇の道を彷徨っていたレーナは、ようやく見えた明かりにほっと息をついたものである。

そろそろと近づき、そして目を見張った。

明かりと思ったのは洞窟の中でくすぶる焚き火である。

壁も天井も真っ赤に染めていた。

長い影が伸びている。その影を目でおうと、焚き火の正面に人の姿がある。黒々とした後姿から、影がどこまでも伸びていた。

古びたローブを羽織って、灰色の頭巾を被った後姿は、お伽話の邪悪な魔法使いとしか見えない。

暗い洞窟の奥底に迷って出くわすには、あまりに不気味な人影であった。

レーナは岩の陰に身を潜め、身も細るような思いで暗闇をうかがう。だが、人影はゆっくりと振り返り、レーナの入る方角に向かって、

「お嬢ちゃん、隠れん坊などやめにして、焚き火にでも暖まっていったらどうかね?」

古びた笛から漏れ出ずる音色のような、しわがれた声だった。

レーナはなおも身じろぎしなかったが、なおも声がかかる。とうとうこらえられなくなって、少女はそっと焚き火に近寄るのだった。

「だいぶ、濡れているようだねぇ。どうじゃ、焚き火で乾かしていったらどうだい」

「ありがとうございます」

レーナは頭を下げて、焚き火に近寄る。中から化け物でも出てくるのかと思ったが、普通の焚き火だったらしい。

釜からは湯気が立ち上り、中の緑色の液体からは、存外に香ばしい匂いが漂っている。

「お夕飯ですか?」

「大切な商品じゃよ。

暖まるのは勝手じゃが、これはタダというわけには行かないねえ…」

レーナは何度か言葉を聴いて、自分の横にいる老人が、老婆であるらしいことにようやく気がつく。それほどに彼女の風貌は年老い、歳月が深いしわを縦横に刻み込んでいた。

「ひょっとして、お薬を作っているんですか?」

老婆はちょうど鍋を撹き混ぜていて、すぐには答えない。「あの」ともう一度問いかけて、ようやく振り向く。

「良く分かったねえ。誰から聞いたのかい?」

「北方ではこういう形の釜を使って薬を作るって、前に聞いたことがあります。

作るのはたいてい薬師と占い師を兼ねているおばあさんで…」

「なかなか勉強家じゃの」

萎びた手でレーナの長い髪をなでる。萎びた肌はごわごわとしていたが、意外に暖かい。不思議なことではあったが、撫でられてもレーナにとって嫌な心地ではなかったのである。

燃え盛る焚き火は、天井までも照らしていた。大きな羽虫のような物体が、ゆらりと光の中に浮かび上がり、そして音も無く去っていった。

「あれは…、こうもり?」

「この洞窟の奥は、地下の川に通じておる。そこは天然の鍾乳洞。人間の芸術家が巨匠などともてはやされておるのが、滑稽と思えるほどに見事なものじゃ…」

老婆はクンと鼻をならす。

「あの、お婆さん。あなたは、ずっとここにいるんですか?」

「ずっと? ああ、今朝からここにいるよ。もう半時はここでこうして、なべをかき混ぜておる」

そう言って、懐から瓶をとりだし、液体を鍋に撒く。一気に泡が噴き出し、緑から茶へと変色していった。

「そうじゃなくて、普段はどこで暮らしているんですか?」

「どこ、なんていうほどのところは無いねえ。お嬢ちゃんはどこで暮らしているんだい?」

「ここの上です…」

「ほう、そうかい!」

老婆は笑う。ひきつけでも起こしたかのような笑いである。

「あなたのお名前は?」

老婆はまた、鍋をかき回しだし、彼女の質問は流されてしまった。ひょっとして耳が遠いのかと思いながら、耳元に口を近づけようとすると、突然に振り向く。

「まずは、そっちから名乗ろうとは思わないのかい?」

聞こえていたのだと内心でたじろぎながら、それでも落ち着いた口調で

「レーナです。レーナ=ラスカー」

「ジェダじゃ。平民じゃから、苗字は言うほどのことでもないじゃろう」

そうして、彼女はまた鍋を混ぜ始める。大きな棍棒ほどもあるだろう木の棒で、その気になれば凶器にでもなりそうだった。だが、ジェダと名乗った老女には、特に害心も感じられない。と言って、親しみやすそうな雰囲気も無く、レーナは座ったままなんとなく気まずい沈黙を続けなければならなかった。

「私、そろそろ帰ります」

沈黙を押し破るように、レーナは立ち上がる。皮膚が熱で痛みそうなほど、炎の勢いは強かった。おかげで、彼女の服も大部乾いている。

「これ以上、休まなくてええんか?

若い者は元気がよくてうらやましい…。気をつけるがよいさ。お嬢ちゃんには男難の相がでておる」

「ダンナンって…なんですか?」

「あたしが勝手に作った言葉さ。つまり、男の身勝手さに苦しめられるのが、お嬢ちゃんの運命ということじゃ」

「あの、私は不案内なので、上に戻る道を教えていただければありがたいのですが?」

黄ばんだ目をレーナに向けて、

「ああ、もちろん。あたしもよく使っている道だからねえ。ここから上がり、そして…」

老婆は懐から黄ばんだ紙を取り出し、レーナからはボールペンを借りて地図を描いてくれた。

意外にしっかりとした筆遣いである。

「ありがとうございます、でもなんですか、『死者の回廊』って」

「言葉どおりじゃよ」

「え? それって、怖い道なんじゃ」

「確かに怖いさ。だけど、危険は無い。怖さに負けて発狂しない限りはな」

不吉なことを言ってまた笑う老婆に、少女は呆れながらも頭を下げ、その道を行くことにした。

ふと後ろを振り向いてみると、ジェダ婆さんは鍋を混ぜている。

数百年の昔から、はるか未来に至るまで、老婆はここで鍋を混ぜ続けているのだろうか。

あいも変わらぬ様子を見ていると、そんな錯覚すら抱いてしまうのだった。


岩むき出しの洞窟は終わり、壁石のはまれた地下通路に入る。

中はひどく暗い。

暗闇の中を、懐中電灯をてらしながら進んだが、その光が風に煽られでもしたろうそくのように、一瞬まぶしく輝いたかと思うと消えてしまう。

「こんなときに…くそっ!」

誰も聞いていないのをいいことに、我ながらはしたない悪態をつく。地図の記憶だけを頼りに進んでいった。

真っ暗な闇だった。

だが、しばらく進んでいるうちに白い光があちこちに現れる。弱々しく、ともすれば目を強くつぶったときに現れる奇妙な残像とも見誤りかねなかった。

闇を破るような明るさはない。むしろ、淡い光が瞬くために、周囲の闇の濃さがいっそう意識されかねなかった。

やがて形を伴った青白い影へと変じていく。

彷徨い歩くおぼろな影、闇に浮かび上がる人の顔など妖しげな影が浮かんでは消えた。ふわふわと揺らめく鬼火にも、時折は人の表情らしきものが浮かぶのだから、気味悪いことこの上ない。

少女の周囲は今やすっかり闇に覆われて、白い影たちが巡っている。

彼らは近づくでもなく、遠ざかるでもない。その感情を伺うことは難しかったが、こちらをじっとみつめているように、思えてならないのだった。

それでも、少女は歯を食いしばり、闇の中を突き進んでいった。

目の前に女の顔が浮かび上がり、にらめっこになったときには、悲鳴をあげそうにもなったが、何とか耐えた。

こんなところで負けるわけにはいかない、屈したくなんかない。ひたすらに念じ続けて、歩き続けた。


ようやく目の前の闇が薄くなり、長く続く回廊の形が微かに見え始めたとき、後ろから肩をなでられる。

心臓が止まるかという思いで息をつまらせ、振り向くと、黒いフードを被った男が立っていた。

とうとう悲鳴を上げてしまい、腰も抜かしてしまった。

よくよく見ればそこにいたのは、例の憎い男である。頭上にある緑の術光が、フードを被った彼の姿を照らし出していた。

「何、何なの?」

レーナは息を整え、相手を下からねめつけるようにして立ち上がった。

「肝試しは、怖かったかい? 君もよく、嫌がる子分のセーン君に暗いところを歩かせていたね。

そんな君だから、闇など怖いとも思わなかったろう」

「ええ、ぜんぜん怖くなかった」

レーナはそっけなく言ってやる。

「どうせみんな、あなたのつまらない幻術なんでしょ?

そんなこけおどしより、あなたの不細工な面のほうが、余程びっくりよ」

「下顎しか出してないんだけどな。しかも、君の幼馴染と同じ顔なんだが」

「つくりは同じでも、心が醜ければいくらでも不細工になるよ」

ああ言えばこう言い返す少女の口達者には呆れ果てたのか、妖王は軽く首を振った。

そして、腕を後ろに組み、暗闇の中を進み始めた。見知ったところを散歩しているような、落ち着いた歩調だった。

仕方なくあとをついていく少女に、わざわざ振り返ることも無く、問わず語りに話しはじめた。

「さっきの影、俺の術じゃないんだよ。あれは全部が本物。本当の死霊さ」

「…嘘でしょ?」

まるで信じてない風に言ったつもりだったが、なぜか言葉に力がこもらない。

今も廊下のあちこちに、忌まわしい影が現れては消えているのだ。

「別に、怖がる必要はないさ。彼らは所詮、何も出来はしない。ほら」

目の前を通り過ぎるきりのような人影(それは老人の姿のようだった)に妖の王は手を突き通す。

その身体を手はあっけなく貫通したが、人影は恨めしそうにこちらを見ただけで、それ以上は何をしようともしなかった。

フードの少年はゆっくりと歩き出しながら、言葉を口ずさむ。

「生者は死者を畏れ、敬う。死者の尊厳とか調子の良いこと言っているけれど、本当は祟りが怖いからだ。

無礼な振る舞いでもしたら、見えないところからどんな仕返しをされるか分からないからね」

彼はクツクツと笑って見せたあと、

「だけどその心配も、所詮は杞憂さ。

一度死んだ者は、生きた人間の世界に指一本触れやしない。

暗いところで蠢きながら、二度と明るい日を浴びることもない。何もすることも出来ず、己の宿命を嘆くのが関の山だ」

狭い通路を歩いていた。先にはわずかな光源が存在するのか、壁と床の境、天井にかかる蜘蛛の巣までもが見えてくる。

ちょうど曲がり角に、うずくまる人影があった。白くぼんやりとしていて、背後の壁の染みが透けて消える。

少年はしゃがみこみ、レーナを手振りで招く。彼女も座り込んで見てみると、落ち込んだ眼窩や痩せた頬骨も見て取れて、どうやら老人であるらしかった。

「ずっと昔、男はここで家族を失い、彼自身も息絶えた。

遠い昔から今に至るまで、彼はなくしたものを嘆き、己の無力を呪い続けて。

でも、何も出来ない」

妖王は歩き出す。こんなところに取り残されたくなくて、少女もあわてて後をおいかけた。

「君は、会議場での光景を見たんだね」

彼は振り返りもせず、低い声だけが聞こえてくる。

「ただ近道しようとしたら、会議が始まっていたから…わざとじゃないよ」

「良かったね。俺がつるし上げられていて、溜飲が降りただろう」

レーナは返事をするのも大儀で、黙って首を振るだけだった。

「俺も、所詮は擁立されているに過ぎないのさ。

あいつらは地下の主、妖族の族長と呼ばれている連中だよ。

妖族でありながら、何世代もエナスの地下や裏社会に巣食い、根を張ってきた。

子飼いの子分たちを大勢抱えていて、それぞれが独立した勢力を持っている。

俺など、所詮は彼らの上に立たされているだけだ」

少年は楽しそうな笑い声をあげた。彼にとっては、自分自身のことですら冷笑の対象でしかないのだろうか。

「そ、そうだったの…?」

意外な事実に、少女は目を丸くするのだった。

「でも、地下にいる男たちは妖王を怖がっているみたいだった…」

「彼らにとっては、神のような存在だからな。

だが、いざというとき言うことを聞くのは、やはり代々に渡って仕えてきた族長に対してだろう。

まあ、最近になって地下に流れ込んできた輩は必ずしもそうじゃないけど。

…残念だね、期待にこたえられなくて」

彼はその話はもう仕舞いという風に首を振って、闇の中でぼんやりと震える幽霊たちに手を差し伸べた。

「一度死んだら、もうダメだね。

誰も耳を貸さず、誰に訴えることも適わない。自分を殺したものに復讐することも出来ず、大切なものを取り戻すことも不可能だ。

ただ、失われた人生を懐かしみ、もっと生きたかった、もっと楽しみたかったと嘆くしかない…」

死んでしまえばそれまでだ、と繰り返しつぶやきながら、彼は初めて少女に振り返る。

「君は死ぬのなんか怖くないって言っていたよね。今の幽霊みたいになることが、本当に怖くないの? 

ああいう思いを、未来永劫していかなきゃいけない。それが、いやじゃないって言うのかい?」

少年の詰問に、少女は答えることが出来ず、息もつまりそうなため息を漏らすだけだった。

「俺は…」

妖王はそこで言葉をとめてしまう。何も言わず、闇の中をひたすらに歩き続ける。

暗い地下道の中で、彼の双眸は赤く輝いていた。夜の海に怪しく揺れる不知火にも似て、何とも言えず気味悪いものだった。



9、

「大地の裏側とは言うけれど、実際、それほど地底の深くにあるわけでもない」

死者の通路を抜け、果てしなく続くかと思うほど長い階段を上がっていった。

「抜け道がつながっているのは、術者協会本部の敷地内だ」

一時間ほどの階段を上り終えて、しばらく歩いてから打ち明けられた事実に、レーナは聞き違えかと思った。

足音の響く地下道は、もはや洞窟ではない。壁も床もコンクリートで平らに固められた人通路が、蛍光灯に照らされて直線に続いていた。

行き止まりには昇降機の鉄扉。人の手が頻繁に入っていることは明白で、先程までの洞窟とは落差が大きかった。

「驚くことか?」

エレベーターのスイッチを押しながら、彼は言うのである。

「大地の裏側と呼ばれる、あの地下迷宮を作り上げたのは、古の術者たちなんだよ。

彼らは世界の支配者となってから、かつての隠れ家の真上に都を創りあげた。

昔の隠れ家と、新しい根拠地の間に通路が作られていたとしても、怪しむには足らないこと」

「そうだけど…」

扉が閉まり、狭い部屋の中で沈黙の時間が続く。

エレベーターの室内で、古びた蛍光灯は明るくなったり暗くなったりを繰り返す。

機械の軋む音だけを響かせて、その実は動いていないのではないかと危惧が生まれたとき、体が一瞬軽くなった。

「付いたみたいだな…」

外につながる鉄の扉が、静かに開く。

少女は左右をうかがいながら一歩踏み出すと、湿り気のない外気が心地よかった。

上り階段が続いていたが、その向こうには黒い闇が広がっている。

久方ぶりに見る夜空だと気付くのに、少しの時間が必要だった。




一斉のどよめきが、広がる空へと沸きあがった。

道を少し外れ、建物の間を抜けた先。

アスファルトの坂道を下った先に、二階分の高さはあろうかという金網にかこまれて、まっ平らな土地がはるか遠くまで広がっている。

この場所こそが、名高い協会の大鍛錬場であるとレーナは知っていた。

大勢の術者たちが、掛け声を上げていた。

いつもの術服は身にまとわず、軍服を思わせるいでたちである。

十人ほどが横一列に並び、腕を前に突き出す。すると置いてあった巨大な岩石が、轟音とともに砕け散る。レーナのつかむ金網までが震えた。

別のところでは二十人ほどの術者たちが輪をなしていた。彼らはじっと目を閉じ、瞑想しているようだった。掛け声とともに目を見開いたとき、輪の中央から巨大な炎が吹きだして、夜空を飲み込むかというほど天高く火柱が上がるのである。

「すごい…!」

思わず歓声を上げた少女の顔が、紅蓮の色に照らしだされていた。

「全くだ」

意外なほど素直に、妖の王も認めるのである。

「代を経るごとに、術者の力は衰えているとか言われている。でも、実際はどうなのかな。

たしかに、伝説見たく一撃で山を砕くような超人はいなくなった。だけど、平均はむしろ上がっているのかもね」

「あなたは、一撃で山を砕けないの?」

レーナは少し悪戯っぽい表情で聞いてみる。

「さあ?」

彼は軽くいなしてしまい、鍛錬場をあとにした。


正門が近づき、立ち並ぶ建物は次第に大きなものになっていく。

夜の空を背景に、そびえるビルディングが、無数の窓から光を放っていた。

だが、人通りはむしろ少ない。

時刻も遅くなっているためだろう。

あちこちに植えられたイチョウの木はすっかりと葉を落とし、地面に落ちた枯葉の成れの果てが、風に吹かれて地面をカラカラと流れている。

「君の幼馴染も、術者になりたかったんだよ」

レーナは顔を上げる。

彼らが居るのは正門手前の広場。

人工の泉が円形に作られていて、噴水が上がっている。背後には、空にそびえる3つの尖塔の黒々とした姿があった。

広場を銀色に照らす常夜灯は数多く、その明るさが人気ない広場の寂しさを却って際立たせていた。

今は南門のほうがよく使われているために、正門前広場は返って人通りの少ない、閑散とした場所なのである。

「この門を通ることが、セーンの夢だった」

静かに話す少年と、耳を傾ける少女の影だけが、静かな広場に長く伸びている。


妖王は立ち止まり、高くそびえる門を振り仰いだ。正門の扉は300年来ここにあったものであり、例の星空をかたどった協会の紋章が掘り込まれている。

今は夜だったので、半開きの状態であり、左右には表情を浮かべない守衛たちが立っていた。

「彼が術者試験に合格すること。彼の養い親はそれが可能と確信し、あいつもそう信じていた」

妖王の顔、セーンと寸分たがわぬ少年の顔に、皮肉な笑みが浮かび上がる。

「でも、無理だったんだよ。

幼い頃は術の才能を見せていた彼だったのに、10を過ぎた頃からその才能は逆に失われていった。

何故なのかは分からない。石を持ち上げようと念を込めても、頭に血が上るだけで、石は持ち上がらなかった。

少し前までは、出来たはずのことだったのに。

かつて出来たはずのことが、どんどん出来なくなっていく。自分という人間が、どこまでも崩れていくようにさえ、セーンには思えたことだろうね。

普通だったら、老いた人が始めて直面する老衰の悲しみを、わずか10歳の分際で味わった。

彼の気持ち、想像できるかい?」

レーナは首をかすかに振るしかない。

「結局、彼は養父母に見捨てられ、見知らぬ叔母に預けられた。

もはや、誰からも必要とされない。用なしの存在」

青白い常夜灯が照らす中で、冷やりとする響きを帯びた、妖王の声だった。

だが、一度ひきつけのような笑い声を上げ、彼の言葉はわずかに緩む。

「自業自得なんだけどね。

結局、ダメな奴は何をやってもダメさ。どんなことをしても、無能から抜け出すことは出来ない。セーンもそんな人間の、一人に過ぎなかったんだよ」

だけどさ、と彼は再び真顔に戻り、

「いくらダメに生まれ着いてしまったからといって、それで人生を止めにするわけにもいかないじゃないか。

ダメな自分を儚んで人生をやめるなど、あまりに惨めなことじゃないか…」

レーナは思わず横を向いた。なぜか、彼が泣いている気がしたように思えたからである。

だが現実には、彼はいつもの冷笑を浮かべているだけだった。

「…そのように、セーンは考えていたんだよ。そうやって自分を勇気付けていた。

下劣だな。自分を悲劇の主人公か何かに見立てて、愚かしい陶酔感で惨めさをごまかしていた。

救いようもない。生きている価値さえも無い奴だ…」

痛烈さの割には、力の抜け切った言葉だった。彼は懐から財布のようなものを取り出した。

「そろそろ帰れよ。交通費はここにあるからさ」

ずっしりと重い袋を、レーナに手渡すのである。

「帰るって…?」

レーナは困惑し、問い返す。噴水が勢いを増し、水滴が霧雨のように降り注いでいた。

雨靄のような飛沫の中で、少年は当たり前のように言うのである。

「レーナは、このエナス市で生活していたんだろう? 帰るところがあるんじゃないか。そこに帰れと、言っているんだよ」

「で、でも」

「何だ? まさか俺と一緒に、また地下に戻りたかったのか? 面白い趣味の人だね」

「そんなことないけど…でも…」

戸惑うレーナに、彼は怪訝そうに首をかしげ、

「どうしたの? 帰れない理由でもあるのかい。リンダさんだって、君の無事を知って喜ぶだろうに」

ちょうどその時、暗い空に時報が響く。噴水前の時計を見上げれば、既に夜の8時をさしていた。

「分かったわよ…」

レーナの返事がいかにも不承不承に聞こえて、少年は不審げに眉をひそめた。

「でも、ひとつだけ聞きたいんだけど。

あなたは私に何をしたかったの? 私をわざわざ連れ去っておきながら、奴隷にもせず、売り払いもせず。

口封じのために連れ去るといいながら、それなのにまた解放しようとして。はっきりいって、意味が分からないんだけど」

「…消えてしまいそうに見えたんだよ」

彼は少しのためらいの後、空を見上げながら答えた。

銀色の満月が、雲の隙間からにじんだ光を放っている。あの夜は、もっと煌々と輝いていた。屋上の際にたたずむ少女の姿はとても細くて、今にも月光に溶けて消えてしまいそうに見えた。

「虚ろな表情だった。生への執着すら感じられなかった。

あのままほっとけば、君が炎に飛び込んで死ぬんじゃないか、そんな気までさせるほどにな。

それをほうっておくというのは、さすがに後味が悪くてね…」

「いくらなんでも、うそ臭すぎよ。私がそんなことするわけないでしょ?」

レーナはくすくすと笑っていた。

「それにしても、親切なことね。

殺人鬼のあなたが、私のためにそんな心配するなんて。どういう風の吹き回し?」

「…さあ。俺が虚言を好むのは知っているだろ?」

「はあ?」

「かつて俺は言ったな。俺はセーンとは違うって。

けれど、それが嘘だとしたら?」

「ええ?」

レーナは思わず笑い飛ばそうとして、出来なかった。

少年の表情が、とても真剣だったから。彼の暗い瞳は、少女の姿をひたすらにみつめていた。

渇望しているようにも、それでいて優しいまなざしにも見えた。

こんな彼の表情は見たことがない。それなのに、はるか昔に見覚えがあるようにも思えるのである。

「あなた、やっぱり…」

レーナが言葉を吐きかけたとき、彼は声を上げて笑い出す。

「なーんてね。今、いったことだって、やっぱり嘘かもしれない」

「どっちなの…」

「虚言だらけの生活をおくってきたからな。人を欺き、自分さえも偽って。

慣れてくると、どこからどこまでが嘘なんだか、自分にさえも分からなくなってくるよ。

偽りを、自分でも正しいと信じ込むことが出来る。そうなれば、嘘は真実となる。自分にとって真実であれば、他人を信じさせるのも容易い。だって、もう騙しているわけじゃないんだから」

ここまでくれば、もはや病気だな。嘲るようにつぶやき、

「だけど真実って、いったいなに? 偽りと真実の境界線は、人が勝手に決めるものじゃないか?

そんなものが、実際にあると思うこと自体が、すでにして虚妄じゃないか」

少女の答えも待たずに、彼は歩き出していた。

レーナも、呼び止められない。ただ呆然と、少年の行く先を眺めていた。彼の姿はあちこちの街灯に照らされて、幾筋もの影を伸ばしている。

どれが本当の影なのか、見極めることは出来ない。そんな少女の足元からも、やはりいくつもの影が伸びているのだった。


10、

冬を乗せてきたと思えるほど、芯まで冷え切った夜風が吹きつける。

所々に輝く街灯の光は、幽鬼のように青白くて、ぬくもりの一切を拒絶していた。

人通りの少ない道を歩きながら、彼は世界の冷たさに思いをはせるのである。

族長たちの悪意に満ちた嘲笑や、かつての同級生たちが放った悪罵。そうしたものが、忘却の陰から不意に姿を現し、ゆっくりと消えていく。

『人は、己のささやかな快楽のために、平気で人を傷つける』

どこかで聞いた言葉は、彼の身にしみてきた真実だった。

人の世はどれほどの冷たい悪意で満ち満ちているのだろう。

氷の世界に生き残る方途を、彼はずっと考え続けていた。

仕舞いには、自分自身の心を、極北の氷のように冷たくしたいと願うに至った。

奴らでさえも、凍え死んでしまうほどの冷酷。

近づく人を、窒息させずにはいられないほどに重厚な敵意。

それらを身に備えれば、どんな冷たい世界でも彼は生きぬくことができるだろう。


妖王が協会総本部に戻ってきたのは、既に日付も変わった時分である。

路地裏の通用門をくぐり、敷地の中に入っても、人通りはほとんどない。

あちこちの建物も、窓から光を漏らすこともなく、ひっそりと寝静まっているようである。

月の影さえ見えない夜だったが、何分にもここは都会の真ん中で、常夜灯の光もあり、足元までくっきりと見えた。

静閑の支配する中で、敷石を踏む彼の足音だけが、高く響く。

吹き抜ける夜風にふと空を見上げる。

都市の光で乳白色に染められた夜空を背景に、黒々とそびえたつ巨大な尖塔を望むことが出来た。

頂上近くには警告灯がいくつもの赤い輝きを放ち、規則正しく明滅を繰り返している。

大地にうずくまる巨大な怪物が、真紅の眼球を瞬きさせながら空を油断なく見張っているようでもあった。

(新総本部だな…)

完成してから日も浅い建物だが、今はあれが術者協会の中枢である。

この本部塔は、協会発祥以降のどの時代の建築物にも似るものがない。

敢えて言うなら、術者も妖族も未だこの世にいなかった、太古の建築物に似ているのだろう。

(古の機械文明を、誇り高く拒絶してきた術者協会。それが今では機械で造られた高層ビルに本部を置いているわけか)

意地の悪い微苦笑がこみ上げてくるのである。


敷地北側の術者墓苑は、妖族との戦いで力尽きた術者たちが祀られていた。

灯篭にともされた青白い光を浴びながら、沈黙を守り続ける墓石を抜けていく。

(レーナの奴は、もう家に帰ったのか?)

そんなことを、ふと思う。

思えば、彼女には散々罵倒されたものであった。

あんな奴を厄介払いできてよかったと思いながら、彼女の姿をふと捜してしまう自分の眼球が忌々しい。

墓地の中央には始賢者の銅像があって、その向こうに人の気配があった。

だが、向こうにいたのは、太った中年男である。

紺色に金字の入ったマントを羽織るその男は、ただの術者ではない。

先週、総理事長に就任したゼスタ導師だった。術者にとっては大敵たる存在を、眼前にしているというのに、その男は驚いた様子もない。と言っても、相手が誰だか分からないという訳でもなさそうだった。

妖王のほうも、相手が誰かを知っていながら、特段に身構えはしない。それどころか、

「これは、ゼスタ総理事長」

頭を下げ、恭しげに挨拶さえするのである。

「ディンケル君か。今日もご苦労だった」

と、ゼスタは大様に頷く。目の前にいる妖王が部下であるかのような、落ち着いた態度である。

「今夜の君の活躍は、ニュースの速報で聞いたよ。これで、警察隊も大きな汚名をこうむったな。

我々協会が、首都での治安維持権を取り戻す日も近かろう」

「御意…」

ゼスタは肥満で細くなった瞳を、さらに糸のようにして笑う。

「君の活躍には、本当に感謝しているよ。

おかげで、今となっては我々の権限を拡大すべきとの世論が、実に強くなっておる」

「お褒めに預かり、恐縮でございます」

妖王が、術者に対して、奴婢のようにひざまずいているのである。

多くの像が立ち並ぶ空間で、二人の姿から長い影が伸びていた。

その時、ゼスタ導師の背後にある祠の影で、枯れ葉を踏み破る音が聞こえた。

先に気付いたのは妖王のほうだった。彼の童顔が一瞬だけ強張るのだが、すぐ何気ない風に、

「では、そろそろお帰りください。良い知らせをお待ちください」

とだけ言って、そのまま立ち去ろうとする。

だが、ゼスタはそれには答えず、既に術の詠唱を始めていた。

「な、何をなさるので…」

妖王の制止も構わずに、導師は杖を振り上げ、

「そこか!」

振り上げた柏の杖から、不可視の糸がほとばしる。

「きゃぁ!」と甲高い悲鳴とともに、祠の裏から引き摺りだされたのは、まだ幼さの抜けぬ顔立ちをした少女…レーナだった。訳も分からず、呆然と空を仰いでいた。

地面に倒れ付す彼女に、ゼスタは顔を蒼白にして詰め寄った。

「お前は誰だ、何をしていた! 何を聞いていた!」

少女のか細い肩を、情け容赦なくゆすぶるのである。

「や、やだ…私…」

「返答の如何によっては…」

ゼスタは普段のにこやかな笑顔とは打って変わった鬼のような形相で、腰のナイフを引き抜くのである。

「…や…」

白刃の鈍い輝きを前に、少女は口を半開きにわななかせ、怯えに見開かれた瞳からは今にも涙が零れ落ちそうだった。

(可愛い…)

妖王は如何にも愚かしい感想を抱き、次の瞬間には己を呪わしく思った。

「とりあえず、おやめください」

ため息をつきながら、ナイフを握った導師の右手を押さえるのである。

「ナイフを無闇に振り回すなど、理事長には相応しくないことです」

とまで言い切るのである。

「だが、この女は協会の機密を…」

ゼスタは口をわななかせる。

「彼女は私の部下なのですよ」

妖の王は至極あっさりした口調で言い放つ。少女は涙目になっているにもかかわらず、その目で少年を睨みつけるのだった。

導師は困惑のまなざしで両者を見比べた。やがて、納得したように頷き、

「そうか、そういうことか…」

肥えた顔にを一人笑いでほころばせながら、

「なるほど、これが君の趣味というわけだな。

なかなか、かわいらしい顔をしている…」

そうやって、少女のあごをグイと挙げる。導師の笑みには男特有の厭らしさが漂っていて、レーナは思わず目を逸らすのである。

「なら、この娘はきちんと君が連れ帰ってくれ。

こうして機密が知られたのだから、今更地上に返してはならんぞ」

そう言って立ち上がる。重々しく、どこかもったいぶった足取りで墓所の門へと歩いていった。


「どうして、帰らなかったのさ…」

少年は呆れ果てたようにため息をついていた。

夜霧に包まれ始めた墓地に、少年と少女は二人きりで残されている。

空を覆う雲は、地上から立ちのぼる靄のように蠢いていた。先ほどまで隠されていた月の光が滲み出し、薄雲の向こうに黄色い球体が見え隠れする。

大きな墓石の狭間で、うずくまる彼らの姿はとても小さく見えたことだろう。

「なんでなの…」

二人きりになったあと、レーナはようやく声を出すのである。

「俺が術者の命令を受けていたことが、それほど驚きだったのか」

少年はフードを外し、大理石の台座に右手をついて立ち上がった。

「だ、だって…」

「驚くこと?」

冷たい水をピシャリと打つように、少年は聞き返した。

「噂で聞いたこと無いのかい? 大地の裏側にすむ妖の族長たちと、連邦を支配する術者たちの間には、秘密裏の協定が結ばれている。族長たちが下僕たちに極度の悪事をさせぬ代わりに、協会も大地の裏側を徹底的に壊滅させることは無い。

だれも公言することは出来ない。文章にするなど論外。それでも皆が知っている、暗黙の事実だと思っていたのだけど」

「それは…聞いたことはあるけれど。

でも、まさか災いの源と言われている妖王までもが…」

「術者の指導者にひざまずくなんて、ありえない?」

少女は何も言えず、ただ幾度も首を振っていた。

「この銅像、分かるか?」

少年が見上げた先にあるのは、始賢者テュポンの銅像である。灯篭の淡い光に下から照らし出されている像の顔は、白日の下で見るときとは異なり、随分と奇怪な陰影を帯びていた。

「彼は、術者の祖とされている。だけど、彼は妖族の一人だった。

術者も妖族も、同根のものなんだよ」

「それは邪説だって、耳を傾けてはいけないって、学校で習った…」

「邪説なのはどっちだろうね。

始まりの術者テュポンが現れたとき、世界を支配していたのは妖族だった。

妖族の裏切り者だった彼と、彼の崇拝者たちは、自らを『術者』と名乗った。

テュポンは妖族を邪悪と宣言し、妖族と戦うことを術者の使命と定めた。

賢明な方策だったよ。もともとは妖族の一分派に過ぎなかった術者は、世界の秩序の護り手として、独自の地位を占めることになった」

始賢者の像は、陰気な緑色に錆び付いた表情で、黙って彼らを見下ろしている。

銅像の姿は月の光を遮って、空を覆いつくす不気味な影のようにも見えるのである。

「だが、それが仇にもなった。戦いに勝利した術者が、世界を支配するようになっても、仇敵の妖族を滅ぼすことは出来なかった。

だって、妖族がいなくなれば、術者の存在意義もなくなってしまう。

術者が正義の使徒であり続けるためには、悪役たる妖族が必要だったんだ」

「すさまじい逆説ね…」

レーナはしゃがみこんだまま、呆れたようにため息をつく。

「そうかな? 術者は妖族と同根なんだよ。戦い続ける以外に、妖族と自らを分かつことなど出来ないんだ」

折りよく風が吹きすさび、墓地の周囲に埋められた菩提樹の枝がいっせいに揺さぶられる。

この場所に葬られた亡者たちが、一斉に哄笑をあげているように聞こえたのか、レーナはびくりと身を震わせた。

「…ずっと昔から、あなたみたく協会に利用される妖族がいたってわけ?」

気を取り直したのか、レーナは落ち着いた声で尋ねてくる。

「ようやく分かってきたみたいだね。30年前に殺された妖王2世だって、途中までは協会が糸を引いていたって説もある。連邦にとって厄介者となりつつあった東部の自治州を、痛めつけるためだって言われているけど、俺もよく知らないな」

「あなたは、何の目的で利用されてるの?」

妖王は薄く笑っていた。

「俺の関知することじゃないからなぁ…。けど、想像は出来る。

軍部と協会の確執だ。

5年前に軍部に奪われた首都の治安権限を取り返したかったんだろう。こうやって俺が暴れれば、責任は軍部や警察のほうに行くから。

次に、術者協会内部での確執。軍部に妥協的すぎる前の総理事長を放逐したい、そんな意図も働いていたんだろう。

あとは、俺のことをねたにして予算でも分捕りたかったのかもね」

「そうだとしたら、術者協会って腐りきった組織よね…」

レーナは嘆息する。

「権力者など、そんなもんだろ。昔から、そして未来永劫に」

「じゃあ、あなたはなんで、そんなのに協力しているの」

「殺されるのは、嫌だからなあ。なんと言っても、殺されるよりは、殺している方がましだからね」

妖王の言葉に、レーナは首をかしげる。協会の命令に従わないと、殺されてしまうとでも言いたいのだろうか。

「殺されるって、協会に? あなた、そもそも死ぬの?」

「この世に生を受けたもので、死なない奴が居るのか?

だけど、今度はこっちが聞きたいな。なんで、レーナはあのまま家に帰らなかったの?

帰っちゃえば良かったのに」

「どっちにしろ、私に帰る場所なんて無いから」

しばらく待って、少女はそれだけを答えるだけである。

「散々質問しといて、その態度はつれないな。せっかくこっちは長々と説明したのに」

彼女は何も言わない、ただそっけなく黙りこくるばかりである。

妖王は肩をすくめ、

「じゃあ、そろそろ地下に戻ろっか」

とつぶやくのだった。


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