第一章 大地の裏側 3~5
3、
ここは、地下なのだろうか、それとも地上なのだろうか。
少女には見当もつかない。
落石の降りしきる中で、北漠の魔王に抱きかかえられるように連れ去られ、気がついたらここにいた。
薄暗い、窓一つ無い部屋。見上げると暗い天井が遥か高くにあった。
壁に隙間無く積み重ねられた石ブロックは、触るとひんやりと湿っている。煤けて黒ずんだ外見は、この部屋の晒されてきた長い年月を思わせる。
薄暗い監獄のような部屋だったが、毛布つきの寝台と最低限の家具、そして衣服は置いてあって、住むに苦労はしない場所だった。
日に3度与えられる食事は、お世辞にも美味いとは言い難かったが、腹を満たすには十分だった。
それよりも不愉快だったのは、部屋に漂う陰鬱な空気だった。
室温が高いわけではなく、むしろ時折は肌寒いほどだったのに、体を少し動かしただけで汗がにじむのは、余ほど湿気を含んでいるのだろう。
こんなところに長くいたら、そのうち体が壊れてしまう。そんな危惧を抱いたものだった。
それでも、いざと言うときに足が萎えて体が動かないと言うことにならないよう、食事の後しばらくは軽い運動をして、退屈を紛らしていたのである。
少女をここまで連れてきた、憎らしい魔王は姿を見せなかった。
変わりに食事などを運んできたのは、彼の従者と思しき者たちであった。
岩の戸口の隙間が開いて、そこから無貌の怪物が顔を覗かせたのかと思って、心臓の止まりそうな思いをしたものである。
ありようは、のっぺらぼうのお面をかぶった(よく見るとお面には目に当たる部分に二つの桐であけたような穴があった)人間に過ぎなかった。
彼らは何も言わずに食事を持ってきた。少女は彼らが身振りで求めるまま、食事を受け取り、使い終わった食器を差し出し、時には(忌わしいとは思いながらも)汗で汚れた洗濯物を手渡し、代わりの衣服をうけとるのだった。全ては無言で行われ、仮面をつけたものたちは戸口より中に入ってこようとはしない。
表情のない仮面の下で、彼らは何故か怯えていた。
いったん慣れてしまえば、彼らのおっかなびっくりの動作は滑稽にも見えてくる。
(まるで、素人が高圧電流の配線をおっかなびっくり触っているみたい。私に電気が流れているはずもないのに…)
慣れれば、どんなことでも耐えられるんだと言い聞かせながらどうにか過ごしていた。
それでも、ふとした弾みに、扉を押してみたことがあった。
すると、どういうことだろう、扉はたいした抵抗もなく開いてしまったのである。
はじめは自分の気がおかしくなったのかとも思った。しかし、開いた戸口、その向こうに沈滞する暗黒は、確かな現実だった。
部屋の外に出ると、石造りのトンネルが、果てしないほどに続いていた。
幅は2メートルほど。さして広くも無く、天井もそれほど高くはない通路だったが、行く先は闇に飲み込まれ、見通すことは出来ない。
外からの光など何処にもなく、壁の所々に備え付けられた松明の光だけが、床をおぼろに浮かび上がらせる。回廊はどこまでも静かに続いていき、漠とした闇へと消えていく。
わずかなためらいの後、少女は歩き始める。
重苦しい暗闇の中に、自分の足音だけが規則正しく響いていた。
肩に落ちる雫の冷たさに身を震わし、天井の上から時折は聞こえる地鳴りのような響きに身構えてしまう。
やはり、ここは地底の空間だと、レーナは確信するのだった。
(昔、こんな暗い所をあいつと一緒に歩いたっけ)
闇の中を進みながら、少女はそんなことを思い出していた。
あの幼馴染は、彼女とは違って暗い場所が大の苦手だった。
少女が町の地下道などを好んで探検するときも、彼はいつも震え上がり、それでも一人取り残されるのが嫌で、結局はべそを掻きながら着いてきたものである。
(全く、あれで男の子かしらね)
幼子のように怯えきった少年の表情が今でもありありと思い出されて、唇からは自然と笑みが漏れてしまう。
(だけど、あいつは…)
あの優しかった男の子は、もういない。あの憎き北漠の魔王が、彼を殺した。
そろそろ引き返そうと思った時、空気の震えが耳をつく。
「…助……よ……レー…。た……僕を…助け…よ…」
どこかで、確かに聞いたことのある声だった。
前の道から。今にも消え入りそうな声で、助けを求めている。それは確かに彼女の幼馴染の声で、咽び泣きの混じった呼び声なのだった。
幼い日に、このような彼の声を何度聞いたことだろう。そして、彼の声を最後に聞いて、何年たったことだろう。
胸の締め付けられるような切なさに、思わず足を踏み出す。気付いたときには廊下を駆け出していた。
「助けて…お願い…レーナ…助けてよ…」
哀願はなおも続き、少女は吸い寄せられるように闇を進んでいくのだった。
いつのまにか廊下をぬけ、広い空間へと出たらしい。らしい、と言うのは彼女の周囲は鼻の先も見えない闇に覆われていて、床も壁も輪郭さえ分からない。ただ気流を肌で感じて、そんな気がしただけである。
ただ、遠くには薄い光があって、人の姿が垣間見えるようでもあった。
哀願はそこから響いている。
少女は無我夢中に進んでいき、たどり着いた果てにある光景に、思わず息を呑みこんだ。
壁に、男が縛り付けられていた。
粗末なシャツを着て、齢は十代半ばの、未だあどけなさの残る少年。
何かの生贄にでもさしだされると言うのだろうか、鎖で四肢を縛り付けられたまま、彼は眠っている人のように瞼を閉じている。
思い出の中にいる少女の幼馴染より、幾分か大人びていた。
記憶は美化されるはずなのに、むしろ目前の少年の方が、幼いころの彼よりも整った容貌にも見える。
だが、紛れもなく彼なのだと、少女は直感で思う。
思えば奇妙なことであった。この廊下には光などまったくなく、半メートル先さえ見えない闇に覆われているのだ。
それなのに、縛り付けられた少年の姿だけは、はっきりと見ることができたのである。
漆黒の空間に、少年と少女の色白い姿だけは、不思議と闇から浮かび上がっていたのだった。
「セーン! 今行くから…」
とうとう幼馴染の名前を叫んでしまい、鎖に手を掛ける。
「…!」
鎖はあっさりと外れる。
ぽろぽろと音を立てて床に落ち、間近で笑い声が響いた。
楽しげな、嘲るような笑い声。
ぎょっとして辺りを見回し、再び正面に目をやったとき、鎖でつながれていたはずの少年が低い声で笑っていることに気がつく。
いまや双眸を見開き、黒い瞳の奥底に嘲りの色を浮かべながら、冷ややかに見下ろしているのだ。
「あ…そんな…」
少女はペタンと座り込む。
彼は床に立ちあがり、口の端をゆっくりとゆがめる。
「やあ、7日ぶりだね。俺が誰だか、分かったかい?」
「なんて奴なの…ラグナス3世…」
「やっぱり君は、変わっていないようだね。
レーナはレーナのままだ。昔も今も、騙された」
鼻に引っ掛けるようにせせら笑う。
懐かしいはずの幼馴染の顔が、悪魔のように歪んでいる。セーンの顔をしたあいつが、目の前に立っていた。
たまらないほどに不快な光景を、少女は鋭く睨みつけた。
「死んだよ。君のセーンはもういない」
少年の口元が邪な笑みに歪み、響く声は刃のように冷たかった。
「どうして…なんで、あなたがセーンの顔を…」
しゃがんだままのレーナは押し殺すような声だった。俯き加減で、眼差しは前髪に隠されてしまう。
何を分かりきったことを、とでも言いたげに、少年は呆れ顔を作った。
「俺は妖族だよ。殺した人間の、顔や記憶を奪い取ることが出来る。
セーンの顔も、俺が奪い取った。
おかげで俺は奴に成りすまし、コレスの町に入り込めた。
今からもう、3年前のことだな。
町の連中、誰一人として疑いやしなかった。おかげで、易々とあの町を滅ぼせたんだよ。君だって知っているだろ?」
「知ってるわよ。それが、ラグナス3世の恐怖の始まりだった。
でも、なんで? なんで今もセーンの顔を貼り付けて居るの。やめてよ、そんなこと」
「はは、それじゃあ俺はどうすれば良い?
いっそ、無貌の怪物にでもなるか。でも、のっぺら坊なんて現実にいたら、絵的には随分と汚いだろうなあ…」
「他の顔なんて、いくらでもあるじゃない? どうして、わざわざセーンの顔を選ぶ必要があるの…」
他には何の音もしない石室の中で、少女の声が震えを帯びる。北漠の魔王、妖王が覗き込むと、果たして彼女の大きな瞳からは涙が溢れそうになっていた。
魔王は不思議そうに首をかしげていた。
「泣いてるのか? どうして、そこまでセーンにこだわるの。あの意気地なし、怠け者、役立たず。何の価値も無い、つまらない男だったのに」
「やめて! あいつは、私にとって友達だった…」
途端に、彼は弾けるように高笑いした。ネジの外れたような哄笑に、レーナは思わずぎょっと後ずさる。
「友達、…友達だって? クッハハハ…。俺を、笑い死にさせる気か?
…以前、君は彼を罵ったことがあるじゃないか。『あんたよりも猿の方が役に立つ』って。それが友達に言う台詞か?」
口を嘲笑にゆがめながら、視線だけは突き抜けるかと思えるほど、鋭かった。
彼の双眸は、昔のセーンと変わらず深い闇色だった。時折、瞳の奥底に赤い閃光が明滅するのである。
「私、猿なんていってない…」
「いや、言った! 覚えているんだ、俺は!」
魔王の冷ややかな声色が、突如として叩きつけるような憤怒の叫びに変わる。闇を震わすほどの怒声に、少女の顔も引きつった。
彼は息をつく。すぐに冷めた口ぶりに戻り、
「あいつの魂は滅びたけれど、記憶は俺が奪いとった。
セーンの記憶の中で、君との思い出は憎しみの色に染められていた。
多くの人間にさげずまれ、なぶられてきたけど、あの女だけは誰よりも許せない。
分かる?
セーンは最期まで、君を恨んでいたんだよ」
「そんな…」
真っ青になって震えている少女に、彼はぐいとその顔を近寄せる。
かつて彼女の見知った幼馴染と同じ顔が、墓に横たわる死人のように青ざめて、暗がりの向こう側から迫ってくるのである。
レーナも思わず涙目になって「いや…」と呟いてしまう。
その様に嗜虐心でもそそられたのか、少年はますますうれしげに笑っていた。
「結局、全ては君の身勝手な思いこみ。ただの妄想なんだよ」
真っ暗な部屋のなかで、彼の低い哄笑は響き渡るのだった。
4、
「大地の裏側は、どうして放置されているのでしょうか」
尋ねられたオーレル導師は、優しい老教師のような、穏やかな微笑を浮かべていた。
背はひときわ高い。眦は細く、顔つきはいかめしく、場合によっては人に畏怖の念を起こしかねない外見ではあった。
しかし、彼の物腰の穏やかさ、言動から滲み出るような品の良さによって、会う人は彼に親しみを抱かずにはいられなかった。
「君は、どうしてと思うかね。ファルン君?」
今、オーレルは中央区の自宅にいた。
広い窓の向こうでは、小春日和の青空が広がっている。リビングルームは白く淡い日光で満ち満ちていた。
そんな中で、彼はソファーにゆったりと腰掛けているのである。
「エナス市の地下にある広大な空間…すなわち『大地の裏側』は、今でも妖族たちの根城とされておる。
彼らは地下に身を潜めながら、麻薬の密売やら武器の密輸やらの元締めを行っておる。首都の犯罪者たちのボス的な存在なのだよ、地下の妖族たちは。
それでも、彼らを敢えて滅ぼさないのは、単なる怠慢以外の理由がある」
「それは、わかっています…」
オーレル導師の前に立つ彼の弟子…ファルン=アレートは不服そうに、うつむきがちに言うのだった。
「彼らを滅して、『大地の裏側』を埋め立てたところで、エナスの裏社会がなくなるわけではありません。
海岸の砂粒に限りがあるとしても、罪人には限りがないですから。
仮に元締めがいなくなれば、彼らはそれぞれが勝手に破壊行為を行いだすでしょう…。
そうなったら、今よりもひどい混沌が巻き起こってしまいます」
「そのとおりだ。元締めがいるほうが、まだ対処しやすい場合もあるのだよ。
確かに、君が不服な理由はわかる。術者と妖族が馴れ合うなどというのは、本来はあってはならぬことだ」
「だけど、首都の治安は、その馴れ合いで危うい均衡を維持しているのですよね」
苦い言葉を、無理に吐き出すように、弟子の少年はつらそうな表情だった。
忌まわしき妖族を打倒する。そんな理想に燃えて、彼は術者を志した。
だが、オーレルの元で修行を積み、今はゼスタ副理事長のもとで働いている彼は、理想とは遠い実態を肌に染みて感じていた。
一ヶ月に一回は、術者協会と地下の妖族たちは接触をしている。
妖族たちの配下のならず者たちが、あまり酷い犯罪は起こさぬよう、しかし不正な商売がある程度は見逃されるよう、秘密裏の交渉が行われているとか。
無論、まだ若いファルンに伺い知れることではなかった。それでも、協会の中にいれば、そうした現実はおぼろげな噂となって耳に入ってきてしまうのだった。
「そうだ…。現実とは、ままならぬものだ」
導師はため息をつき、コーヒーをすするのだった。
「本当に、それで良いのでしょうか」
弟子の少年は、長いまつげを曲げ、憂いを帯びた表情をしていた。
その顔立ちは、大理石の彫像にでもしたいほど整っていた。
といっても、オーレルは容貌目当てで美少年を弟子にしたわけでは無い。
ファルンはまだ成人(連邦では18歳)にも達していないというのに、並みの術者ではかなわないほどの術力を持っていた。それでいて、自分の早熟に奢ることもなく、絶え間ない修練を続けていた。
努力家で、礼儀正しいというだけではない。正しいことは何なのか、いつも誠実に追い求め続ける美質がこの少年にはあった。
彼のそんな純粋さを、オーレルは好ましく思っていたのだった。
「確かに、彼らと妥協することで防げる災いもあるでしょう。
でも、一方では無実の人が殺され、家族を奪われ、そのような酷い事件がうやむやにされてしまうこともあると聞いております。妖族と結託して私腹を肥やしている術者もいるとのことです。
それどころか、近年ではあの忌まわしい妖王が大地の裏側に住みつき、妖族たちも彼の所業に加担しているとか…。そのような者たちを、見過ごしてよいのでしょうか」
若輩者が生意気なことを、と自分でもわかっているのだろう。少年は顔を赤らめながら、それでも最後まで言いたいことを言ってしまう。
「そうだな…」
導師は天井を見上げ、息をついた。
「導師は、協会の顧問となられるわけですよね。何とか、この状況を変えることは」
「顧問官には、それほどの力は無いのだよ。
いや、総理事長や最高導師ですら、自分ひとりの意志だけで多くのことができるわけではない。協会は伝統として、個人が突出することを嫌う。
それでも、出来ることはする積りではあるがね」
そこで彼はコーヒーを置き、もう一度微笑んだ。
「誰か他の人に期待するだけではよくないことだ。君も、君が自分で出来ることを探すのだな」
退出する弟子の後姿を見送っていた。
(良い少年ではあるのだが…)とオーレルは思う。
ただ、彼には甘さがあることは、師匠の贔屓目でも否定し得ない。人のよさとも言い換えられる少年の弱点が、いつしか彼自身にとっての災いとなるのではないか。一抹の暗い予感に胸が騒いだ。
先ほどまで降り注いでいた日は、今は少し翳っていて、部屋は薄暗くなっている。
「ご主人…」
部屋の隅から声をかけた初老の男は、使用人だった。30年来、オーレルのために働いていた。
この広い屋敷には、子飼いの部下たちが何人も仕えているのだった。
「例の方から、テープが届けられました。これは導師にだけ見てほしい、あとは捨ててほしいとのことです」
「ふむ、視聴覚室まで持ってきてくれ」
オーレルはうなずき、長い廊下を歩いて階段に向かう。視聴覚室は地下2階にあった。
薄暗い部屋に入り、後ろで扉が閉まると、すぐに正面のスクリーンから映像が映り始める。
「それで、いかがなされるお積りですか?」
映像の中で、次期総理事長のゼスタ上級導師は頬に手を突いていた。どこかからか隠し撮りをしているのか、角度が悪く、彼の口元しか見ることが出来ない。
「難しいことだ。我々がレーマン総理事長を失脚に追い込むために行ってきたことが知られれば、さすがに世論が黙ってはおるまい。
妖族と結託し、彼らに行動を起こさせることでレーマン総理事長の立場を悪くしたなどということが知られれば…」
「そうしたことは、例え誰も聞いていないところであったとしても、あからさまに口に出さないほうがよろしいですよ」
たしなめたのは、背の高い女性。
ゼスタの部下で、今は諜報部の副部長を務めるマーベル導師である。彼女も、体の上側は映像に写されていない。
「いやいや、ここなら大丈夫だよ。それより、この秘密はぜひ、外部に漏れないようにしてほしい。これは、情報部の役目だよ」
「全力を尽くしましょう。しかし、万一という場合もあります」
マーベルは、いつものように、感情のゆれを感じさせない口調であった。
「わかっておる。オーレル導師をつれてきたのはそのためなのだ…」
「どういうことでしょうか?」
「あの男は、協会では一匹狼だ。責任をなすりつけるには、もってこいの…」
「妖族との癒着のスケープゴートに、オーレル導師を利用すると。古い友人を裏切ってまで」
「いやいや、万一の場合にはそうしたこともあるということだ。決して、必ずそうすると決めたわけではない。
ただ、いざという時に、協会の権威を傷つけるわけにはいかん。
そのためには、常に反主流派にいた彼に押し付けるのが最上ということも、確かなのだ…」
テープはここで終わりだった。
協会の権威などと考えるなら、そもそも妖族と結託しなければ良いのに。
映像を見ていたオーレルの唇から、苦笑いがもれるのである。
ゼスタ導師が術者協会の権威を愛していることは確かだ。しかし、自分の保身はさらに優先のようだと、彼は内心で結論付けた。
協会は、権謀の渦巻くるつぼのようなもの。その中にあっては、いささかでも気を緩めれば、たちどころに墜落してしまうだろう。
ゼスタも、マーベルも、この自分も、その泥沼の中で生きてきたのだ。
先ほど出て行った弟子のことに思いをはせる。
協会の現実と、彼の澄んだ瞳との落差に、オーレルの喉奥からは苦い笑みがこみ上げてしまうのだった。
5、
暗い廊下を抜けて、自分の私室に戻ろうとしたレーナは、通路の向こうから歓声がさざめくのを耳にする。
(なんだろう…?)
例の好奇心を発揮してしまい、足を忍ばせて廊下を渡る。その先にあるのは、王の間の近くにある宴会用大広間だった。
広間の入り口はひときわ大きなアーチになっていて、黄昏色にも似た光が薄暗い廊下にまで溢れだしている。
少女はアーチに寄り添い、そっと様子をうかがった。
中の光景が視界に入ったとき、危うく叫びそうになってしまう。
異形の姿が、広間を埋め尽くしていたのだ。
肩から下は人としての四肢を持ちながら、首から上は巨大な牛や馬の頭が息づいている。
知性の欠片もなさそうな眼球が、時折はギョロギョロと動いていた。
真っ黒いガラス玉のようで、篝火の赤を小さく映している。
赤々と照らされていた彼らの姿は、地獄の悪鬼に相違ない。
思わずレーナが身を翻そうとしたとき、背中を触られた。
あ、と心臓が飛び跳ねるような感触。振り向くと、フードを被った北漠の魔王が立っていた。
「何、逃げようとしてるんだ? 入りなよ」
言うや否や、彼は少女の肩をひっつかみ、広間へと押しやるのである。
おぞましい顔で宴会に興じていた牛頭たちは、入ってきた主に気がつき、あわてて額づいた。
皿に頭を突っ込んだ間抜けもいた。
恐怖に立ちすくんでいたレーナも、やがて落ち着きが戻ってきた。
彼らの茶色い頭皮は、近くで見ると使い古した皮袋のように傷だらけである
ガラスのように虚ろな、と思った眼球は本当のガラス玉にしか見えない。
それどころか、彼らが皿に置かれた肉片を放り込もうと口を顎まで開けたとき、奥にもうひとつの口が動くのが垣間見られるのである。
「ぬいぐるみ…?」
「良く分かったね」
すでに上座に腰掛けていた魔王は、愉快そうに手を叩き、
「牛馬の仮面は蒸し暑かろう。お前達、頭をとってしまえ」
すると牛頭馬頭たちは安堵したようにため息をつき、頭に両手をやってすっぽりと取り外してしまった。
下から出てきたのは、人間の男たちのむさ苦しい顔だった。
邪魔な物体は脇に押しやって、心行くまで食事をむさぼり、酒を浴びるように呑み始める。
レーナはその光景を呆れたように眺めていたが、ようやく気を取り直して
「こいつら、何?」
と訊く。
「北方人どもだよ、北漠人、山岳人とも呼ばれている連中だ。知っているだろう? 北の大地では人口の大部分を占める連中だ、にもかかわらず、妖族に奴隷同然にこき使われている。最近じゃ、エナスにも随分と集まってきた…」
男たちは酒や食事に興じながら、膝を折り曲げて座っているレーナの姿が気になっているようだった。
傍らに座している主を憚ってか、あからさまな好奇の目を向けはしない。
だが、時折は盗み見るように向けられる彼らの視線は、ねとつくような厭らしさがあって、流石のレーナも背筋に冷たいものを感じた。
それでも表情は平然として、広場を見回していた。そんな少女を、妖王は興味深げに眺めている。
「嫌だったら、部屋に帰るか?」
彼がそっと囁く声にも、
「あら、どうして?」
と素で返してやった。彼は呆れたように、そして少し感心したように肩をすくめるだけだった。
広間にいる彼らは口々にわめき罵り、何十枚もの皿に山盛りされていた食事も底が見えてくる。
頃合と見て北漠の魔王が手を叩くと、派手な衣装に着飾った女達が入ってきた。
(こんな人たちも、地下の迷宮に住んでいたんだ…)
薄い服の隙からは桃色の肌が露になっていて、煽りたてるような色気が漂っている。
化粧の濃い彼女達の顔立ちには、確かに男の欲望をひきつけるような可愛らしさがある。
けばけばしい、不潔な可憐さだと、レーナは内心で思うのだった。
だが、男達はそんなことに構わない。
美姫達の出現に彼らはどっと沸き立ち、口笛がうるさいほどに吹き鳴らされる。
女達は早速に彼らの酌を始めるのだった。多くは体全体で媚を売っていたが、中には全く顔に表情もなく、機械のように動いている女もいた。そうした者に酌をつがせたがる男も居るのだった。
レーナは不潔なものを見るような気持ちで、目を細めてその光景を眺めていた。
だが、ふと気付いてしまうのである。魔王のそばに座っている自分だって、所詮はあの女たちと五十歩百歩の存在にしか見えないだろう。
少女は傍らで胡坐をかいている男を見上げ、次には嬌態を繰り広げる女たち、そしてだらしなく鼻を伸ばしている男たちを一瞥した。
やはり部屋に帰りたくなってきた。
彼女の気持ちを察したのかどうか、
「さて、行くか」
狂態を尻目に彼は立ち上がり、レーナに付いてくるよう促す。
広場から回廊に出て、少し歩いてから
「あいつら、何?」
とレーナは尋ねた。
「俺の下僕達だよ。親兵団と俺は名づけている。
元々は北方に住んでいた奴らだ。
何世代も前からエナスの地下に住み着いているものが多いけど、最近になって流れてきたものもいる。東のスラム街に住んでいた奴らも居るな…」
「あの女の人たちは?」
「俺が金で雇った遊女どもだよ。大抵はエナスに流れてきた北方人の女で、身を売るより他に食う当てのなかった連中だ」
「最低…あなたも、あいつらも」
悪臭まみれの豚でもみるような眼差しに、妖の王は堪えた様子も無い。広間の方角からは、男達の野卑な歓声が響いていた。
「それが男と言う生物さ。あいつらは、ただ正直なだけだ。
真面目そうにしている奴等だって、内心では絶えず欲情し、心は醜い妄想に耽っているんだからな。
…君の大好きなセーン君が良い例じゃないか」
「何で、そこでセーンの名前が出てくるの。あいつは、そんな…」
「異性に欲情することがなかった、と? だとしたら、君はやはり奴のことを何一つとして分かってなかったんだな!
教えてやるよ。あいつは女を誘う度胸もないくせに、劣情だけは人一倍ある、実に浅ましい少年だった。
そんな彼が欲情していた女が誰だったか、君に見当つくかな?」
あと少しで笑い出してしまうのを辛うじて抑えているようだった。彼は口をしばらく手で押さえた後、
「ただ一人、彼に優しくしてくれる女の子がいたんだよ。
ところが、あいつはある時、その少女の入浴中の姿を垣間見てしまった。
その時の光景を、あいつはどうしても忘れられなかった。
暇さえあれば、思い出して一人興奮していたのさ。
再び出歯亀の機会があれば、と願ってさえいたんだよ。…あの臆病者には、覗きを実行に移すだけの度胸も無かったけどな」
「嘘ばっかり!」
「嘘じゃないさ。俺は、あいつの記憶を全て奪っているんだ。あいつの感じたこと、考えたこと全て…」
フードの下から漏れ出す赤い視線に、レーナは思わずぞっと身を震わした。
少女の感情を察したかのように、
「俺は、あいつとは違う。うぬぼれちゃあ、いけないな…」
それだけ言って、背を向ける。
忍び笑いを漏らしながら、彼は歩き去るのだった。