第一章 大地の裏側 1~2
第一章 大地の裏側
1、
地鳴りがどよめく闇の世界で、かすかな悲鳴が木霊していた。
暗い夜空の下で、地上の街は真っ赤な炎に包まれていた。
業火に飲み込まれた家屋は、見る見るうちに骨組みがむき出しとなり、砕け散るようにして崩れていった。
無数の火の粉が風に舞い、ぱらぱらとアスファルトの道に降り落ちてくる。
赤く彩られた暗黒の道を、彼はゆっくりと進んでいった。
黒い薄手のジャンパーを羽織り、鼻まで影に覆われてしまうほどに深々とフードをかぶっている。
湧き上がる風に、彼のジャンパーはひらひらと揺れていた。
火の街を往く彼の姿は、漆黒の影のようにも見えた。あるいは、燃えさかる炎を背として輝いているようにも見えるのだった。
まだ燃えていない建物や、止めてある車を目にするたび、わななく腕を振り上げた。
枯れ木のような細腕にどのような力があると言うのか、車はガラス窓を風船のように破裂させながらぺしゃんこにつぶれ、暗い建物の内側からは突如として新たな炎が吹き上げた。
彼の悪行にたまりかねたのか、道脇に置かれたゴミ袋の山から、警官がふっと顔を出す。
ピストルを構え、恐怖に顔を引きつらせながら、黒い姿に向かって何発も何発も執拗に打ち込んだ。
フードを被った彼に、堪えた様子は無い。
小石をぶつけられた恐竜のように、うっとうしげに振り向くだけだった。赤く輝く光が、哀れな警官に向けられたようである。
薬莢が空になったのだろう。ピストルがカチカチと虚しい音しか立てなくなったとき、警官の体が浮き上がった。何が起きているのか本人も分からぬ間に、中空へと持ち上げられていく。
不可視の力になす術もなく、せつない悲鳴を上げながら、燃えさかる店舗の炎に頭から突っ込んでいく。
その軌跡を見送りながら、彼の口唇から牙のような白い歯がちらついた。
見渡してみると、あたりの街並は無残な廃墟となっていた。
昨日までは、商店街だった場所である。
建物と言う建物は打ち崩され、道路の両脇は瓦礫の山が広がるばかりであった。
あたりは静寂に包まれて、崩れた残骸にくすぶる炎、パチパチと弾ける火の粉の音だけが響くのだった。
高揚感も次第に静まり、黒々とした沈滞が胸に戻ってくるのを覚えながら、彼はフードを被りなおす。
(昨日までここを通っていた奴らは、どんな気分になるのだろうな?)
かつて世界は妖族に支配されていた。不可視の力を扱う彼らを前にして、脆弱な人間達は惨めに額づくしかなく、妖族に支配された古代は、専制と暴虐の闇に覆いつくされた時代だったと伝えられている。
彼は、かつて世界を手中にしていた妖族の末裔だった。
古い支配者になぞらえ、彼もまた北漠の魔王、あるいは妖王ラグナスと呼ばれていた。初代と区別するために、ラグナス3世と渾名されることもあった。
目ぼしい建物に火を放ち、炎上する町並みをあとにして、姿をくらます予定だった。
だが、その夜はいつもと違っていた。
ふと、背中に視線が注がれるのを感じたのだ。
目を上げると、ひとつの建物が目に入る。
高さは10階ほどの、マンションらしき建物。このあたりでは、ひときわ高い。周囲の建物が火を噴いている中で、それだけは夜空を背に健在であった。
彼が目を見張ったのは、屋上に人の姿が見えたからである。
柵に手を着き、大胆にも妖王を見下ろしているようだった。
(女…?)
顔立ちまでは見えなかったが、髪の長い女性に見えた。何故か、胸を棒のようなものでつかれた心地がした。
彼が非常階段を駆け上がるにつれ、風に乗ってくるサイレンの音は遠くなっていた。
空を見上げれば満月が輝いている。地上の騒ぎなど知らぬ顔で、清らかな銀の光を放っていた。
最後の段を踏み、屋上に顔を出したとき、鉄柵に頬杖をつく女性の後姿が見えた。
夜風が吹き抜け、肩まで伸びた髪がそよぐ。
白いブラウスに包まれた身体は、夜闇の中でか細く、力を加えれば容易く折れてしまいそうに見えた。
背後からでは見えない女の顔が気になって、彼はそっと歩み寄って。
横の柵に手を突いて、そっと覗き見る。
顔立ちはまだ若い。
むしろ稚いと言ってよかった。十代半ばを、過ぎているのだろうか。
白い肌は透き通るようで、針でつけば忽ち紅の血が吹き出ると思えるほどである。背後の月光に照らされて、整った目鼻立ちがくっきりと見えた。
大きな瞳の顔立ちには愛らしさが漂っていたが、どことなく色気が感じられないわけでもない。
それよりも、奇妙なのは表情だった。今の少女には悲しみも怒りも、その他あらゆる感情を認めることは出来なかったのである。
繊細に造りこまれた、蝋人形を思わせる無表情。
彼は言葉を掛けようとして、かえって声に詰まってしまう。
少女がゆっくりと振り向いたときには、こちらのほうが気圧される心地さえするのだった。
「あなたって、あのラグナス3世よね」
風にそよぐ髪を右手でまとめながら、少女はようやく口を利いた。冷たい夜風の中で、良く透き通る声だった。
しばらく沈黙が続いて、ただ風だけが流れて言ったあと、少女は顔を向け
「前から尋ねてみたいことがあったんだけど、訊いても良いかしら?」
彼は何も言わず、ただ顎だけで促した。
「何のために、人を殺したり、建物を壊したりするの?」
恐れることも無く、大きな双眸をまっすぐに向けて少女は問う。
「そんなことして、世の中が変わるとでも、思ってるの?」
「まさか…」
フードを深々と被った妖王と、白い肌の少女は、二人ならんで下界を見下ろしていた。
眼下には、壊されつくされた建物や道路の無残な光景が広がっている。
停電のためか、周囲の町並みからは明かりが消えていた。
だが、それは都市全体のほんの一部に過ぎなかったのである。
少し目を遠くに転じれば、無数のネオンが銀河のように輝く広大な町並みが、どこまでも続いているのだ。
「みなさいよ。この街は、ずっと向こうまで広がっている。
あなたが一晩で破壊したところなんて、ほんの一角だけ…」
「分かっているよ」
彼は柵に頬杖を着きながら、うなずくのだった。
大昔には、一晩で島ひとつを覆す術者や妖族もいたと伝えられていた。
だが、今では噂にも聞かない。彼にも、そこまでの力は無かった。
「世界を変えるなんて大それたこと、考えてもいないさ」
少し擦れがちな声が、冷ややかに言い放つのだった。
「だったら、なんで?」
「さあ…? 少なくとも、街に刻み込んでやった傷跡は、俺が存在したという証にはなる」
少女は唇に小さな手を押しあて、軽やかに笑い出す。
「こんな傷跡、すぐに消えるよ。誰の記憶にも残らない。あなたもいつか、忘れ去られる」
「君は、わざわざそんなことを言うために、俺を屋上から見物していたのか」
己はどうして、こんな訳の分からない女とかかずりあいになっているのだろう。我ながら愚かしい。
天には銀色の満月が淡く輝く夜空があり、地には紅蓮に燃える町並みがあった。
その狭間に一人たたずむ少女の姿は、この世で最も孤独にみえた。
銀の光に包まれた姿は妖精のようで。月に向けられた顔は人形のようで。
この世界に属するものとも思えなかった。
不浄の大地を今にも離れようと望んでいるのではないか
肉体は炎に包まれ、魂だけが浄化された光の世界に旅立つことを…。
(いや、馬鹿馬鹿しいな)
妖王は首を振った。
実際のところ、この少女が気になる理由は他にあった。
いつかの時代に何処かの場所で、彼女と出会った記憶が残っていた。
「わざわざ? それはこっちのセリフよ。あなたは、そんなことのために、セーン君を殺したの?」
少女の声が、突然に昂ぶる。
「セーン? 誰だそれは」
「私の幼馴染よ! あなたが殺した、セーニス=ディンケルよ!
…ええ、覚えているはずも無いよね。
どうせ、あなたにとっては千ある人殺しのうちの一つなんですものね」
「いやぁ、千はちと少ないなあ」
妖王はクスクスと笑い出した。
「セーニス=ディンケルのことなら覚えているさ。
なにせ、俺が殺した中でも、一番つまらない奴だったからな。臆病なくせにズルくて、何一つとりえの無いガキだった。それがどうかしたのか?」
「そんな言い方やめて! 私にとっては…」
妖王は少し首をかしげ、考えるそぶりを見せた。ようやく、この少女が何者であるかを明確に思い出す。
「君は、レーナ=ラスカーだったね。
セーンの小さい頃からの友人、だったか。幼馴染の仇でも討ちにきたのか」
「…出来れば、そうしてやりたい」
少女の表情に、はっきりとした表情が生まれた。
いまや歯軋りをして彼を睨みつけているのだ。
(そんな風にされたって、少しも怖くない)
妖王は内心でせせら笑う。むしろ、始めの無表情のほうが不気味なほどである。
ちょうどその時、地上からどよめきが上がった。大勢の人間たちが、群れとなって道路の炎上する合間を駆け抜けている。崩れかけた建物から、なにか金目のものでも見つけたのだろう。猿よりも下品な歓声を上げながら、袋を抱えて走っている。
「俺の、子分たちだ」
妖王は地上を指し示す。
「やれやれ、もう撤退の時間だというのに、強欲な奴らだ。
君はせいぜい、俺に出会った幸運に感謝するんだな。
野卑な男どもの手で、取り扱われなかっただけでもさ」
ちょうどその時、空を暗い影が覆った。見上げれば、巨大な三角形が月を隠していたのだ。
「さあ、おいでなすったぞ」
これから始まる楽しい見世物に、妖王の声は弾んでいた。
上空の巨大な物体は轟音とともに空を渡っていく。その中央が輝いたかと思うと、真紅の光線が闇を貫き、地上を直撃した。
今まで略奪にいそしんでいた男達は、いまや一転して、悲鳴を上げながら逃げ惑う。
光線は雨あられのように次々と発せられ、地面を眩い爆発の光に彩る。光に飲み込まれた男達は、影すら残さず地上から消えてしまうのである。
「連邦の空中戦艦は、いつみても強いねえ」
下僕達が虫の群れのように始末されていく光景に、妖王は他人事のように腕組みをしていた。むしろ、彼の声には爽快な響きすらあった。
「よくも楽しそうに…」
レーナは手を口で押さえながら、軽蔑を隠そうともしない。
「自業自得さ。あいつらは俺の言いつけを守らなかった。そもそも、あいつらは族長の部下だしね。
ところで、君はどうする気だ?
もうすぐこの建物だって火が回るかもしれない。そしたら君も、死ぬんだよ?」
少女は「ふう」とため息をつく。怒りは顔から醒めていき、またあの無表情に戻るのである。大きな瞳で、地平線のさらに向こう側を望んでいるようだった。
「いいよ。生きていたって、楽しいことばかりじゃ無し」
彼女の冷ややかなつぶやきは、ぽっかりとした穴のあいているような響きであった。
「死ねば楽しくなるとでも、思っているのか?」
「少なくとも、悲しくは無いよ…」
少女は鼻を鳴らすだけである。
だが、空の巨大三角形は、ゆっくりと向きを変え、こちらに近づいていく。
夜風とは異質な風圧に、妖王の衣は舞い上がる。少女の髪も激しい気流に弄ばれていた。
「来たな?」
地上から数百メートルは離れた場所にあるのに、戦艦の銃砲はこちらに向けられていることが見えるほど巨大であった。
視界が真っ赤な閃光に染められ、レーナは悲鳴を上げる。
が、どういう訳か光線はそらされ、建物の中央を直撃したようだった。床の下から叩き上げられる衝撃。
「や、やだ…」
少女の声は、ほとんど泣き声に近い。光線で打ち抜かれた建物が、小刻みに揺れ始めたのだ。地震などよりもはるかにテンポの速い、たてに揺さぶるような振動。
「死ぬの、怖くないんじゃなかったの?」
こんな事態にも、妖王はいたぶるような口調をやめようとしない。
「うるさい! 揺れるのが怖いだけ…きゃあ!」
少女のしがみついていた柵が、根元折れてしまったのだ。
すんでのところで転落しそうになった少女の腕を、妖王の骸骨のような腕がつかむ。
彼女は痛みに顔をしかめたが、彼はお構いなく階段までひきずって行った。
「さあ、どうする? 君の足で階段を降りても、出口に着く前にここは崩れるよ。
だけど俺といっしょなら、無事に逃れることが出来るだろう。
このまま建物に残るか? それとも、俺についていくか?」
もはや月の光も届かない踊り場で、妖王は少女に冷たく囁きかけるのである。
「私を連れて行って、どうする気なのよ…」
レーナは目を逸らし、うめき声を上げた。
彼女も、妖王の噂は知っていたに違いない。
大勢の人間を連れ去って、奴隷として北方に売り払う。
妖王の下僕たちの見境ない食嗜好も、おぞましい恐怖に彩られた噂として語り継がれているのだ。
だが、揺れは次第に酷くなる。建物の全体が、崩壊の予感に震えていた。
「それに、君の幼馴染にも、会えるかもしれないよ」
妖王は、本当に聞き取れないほど小さい声で、囁きかけるのである。
「え?」
遠くからは空間を切り裂くような鋭い音が聞こえてくる。空中に漂う戦艦は、今もあちこちを砲撃していた。
「分かったよ…」
少女は一つため息をついた。
「賢明だね」
「それで、どこに連れて行くつもりなの?」
体の震えはおさまっていなかったが、少女の瞳には力強い光が戻ってきているようにもみえた。
2、
車の音が絶え間ない、大都市の昼間だった。
雑踏の人々は、行き交う他人に何の関心も持たず、今日も無表情に歩いている。
が、俄かに響いた怒鳴り声が、道行く人々の視線を集めた。
小さな男の子が、路の真ん中を我が物顔で歩く術者とぶつかって、しりもちをついていた。子どもの鞄からは、中身が散らばってしまう。
へたり込んだ子どもに、赤ら顔の術者(魔法使いのようなもの。かつて妖族を支配者の座から追い落とし、今ではこの世界での特権階級)は
「何ボヤボヤ歩いているんだ!」
容赦ない罵声を浴びせかけた。
自分の黒いマントが汚されていないか舌打ちしながら確かめた後、無闇に旨をそびやかして歩み去っていった。
子どもは啜り泣きながらノートや教科書を集め、時々は他の通行人に蹴飛ばされそうになってしまう。
雑踏の群衆は、彼に一瞥を向けるものもいたが、彼らの表情はそのまま無関心に還ってしまう。
男の子には誰の手助けも無く散らばった荷物を鞄にしまい、だけど大切なものが足りなかった。
「あ、あれは…どこなの」
しゃがみこみながら、またベソを掻きそうになる男の子。
「これか?」
穏やかで、力強い声。
見上げると、一人の男が見下ろしていた。背の高い男の姿は、日の光を背後にそびえ立つ影のように見えて、子どもは思わず後ずさりする。
そんな子どもの怯えに気付いたのか、男はしゃがみこみ、目線を同じ高さにあわせた。
「これではないのかね? 君が探しているものは」
と穏やかな調で言うのである。
男の大きな手には、お守りらしき袋がぶら下がっていた。
「そ、それです。ありがとうございます」
舌足らずの口でお礼を言いながら、男の子は両手で包み込むように、色褪せた紫のお守りを受け取るのだった。
男は細い目に微笑みを浮かべ、黙って歩みさる。
先ほどぶつかった男と同じように、術者の制服をまとっていたが、マントは深みのある紺色だった。
大勢の人が行きかう、都会の町並み。左手の車道からは、絶え間ない車の音。
男はビルの狭間の小道に入り、少し行った先には木々の生い茂る公園があった。
広場では幼児達が親に見守られながら遊び戯れていた。
今は昼休みなのだろう、若いサラリーマンたちがベンチに腰掛け、飲み物などを片手に談笑していた。
「聞いたか? また協会の理事長が交代するんだってな」
(協会とは術者協会のこと。術者たちを統括する組織であり、その歴史は長い。連邦の政治・経済の根幹を握っている)
「朝のニュースで見た。ま、誰がなったところで、何も変わりっこねえけどナ」
「でも、今度のゼスタ導師は、開明的だと聞いたこともあるんだがな」
「若い頃は上に逆らったりもしていたらしいな…。だが、今じゃ他の爺さんたちと一緒で、すっかり権力に取り込まれてしまったって話だ」
知りもしない人物について、楽しそうにあれやこれやと話をしていた。
「昨日もまた、妖王の襲撃事件があったらしいじゃないか」
「行方不明者まで出ているって話だぜ。軍も警察もバカ協会も何をやっているんだか…」
「あの連中は、庶民の事なんか何も考えちゃいないんだ」
「エライ人なんていつだってそうだけどね」
ベンチの前に立っていた一人が思い出したように
「でも、そういや、あれだ。今回はあのオーレル導師が理事会に加わるって。
俺、あの人だけは他の上級導師とは違う気がするんだ。何と言えば良いか分からないけど…正直、ちょっと期待してる」
遠慮がちに小さくいった言葉に、同僚の一人も軽く頷いて、
「前の戦争でも活躍したってことだしな。でも顧問官じゃなあ…。一人まともなのが加わったところで…」
そこまでいって、彼らはベンチの間近で耳を傾けていた、背の高い導師の存在に気がついた。
「お、おい…あれは?」
「まさか、こんなところに」
「でも、テレビで見たのと…」
若者達は身をすくめ、声を潜めてささめきあう。噂をすれば影、との言葉どおりとなったのが気味悪かったのか、彼らは足早に立ち去っていった。
後に残った導師は、微苦笑を浮かべて肩をすくめる。ちょうどその時、黒塗りの高級車が公園脇の公道に止められた。
開かれた車窓から、スーツを身につけた秘書風の男が顔を出した。どこかロボットを連想させる、無表情な顔つきの男だった。
「オーレル導師、探しましたよ。何をなさっていたのです」
オーレルと呼ばれた導師は、車に歩み寄りながら
「世論に、耳を傾けていたところだよ」
とだけ答えた。
「ゼスタ副理事長がお待ちかねです」
分かった、と頷いたオーレルは、長身をかがめて車に乗り込むのだった。
術者協会の本部は広大な敷地を持つ。
連邦首都の中央部を占め、しかも面積は首都全体の約5%にも達するのである。その広大な敷地の中に、大学や図書館、練武場、術者たちの寮など、様々な施設がおかれている。
(この広大な敷地を半分ほどでも売却すれば、苦しい連邦財政の助けともなり、経済の向上にもつながるのだがな)
建物が散在し、雑木林や草原の広がる協会本部の風景を眺めながら、オーレルはいつも残念に思うのである。
今の協会は権益やら因習やらの鎖で縛られ、そんなことすら出来はしない。
敷地内の道路を、車でゆっくりと走行しながら、途中で野外練武場の脇を通った。
そこでは、数十名ほどの術者たちが訓練をしていた。
汗にまみれた男達が、鋭い叫びで気合を入れた。そのたびに大きな岩が宙を浮き、あるいは空中を火花が飛び交い、砂埃が巻き起こる。
念の力だけでこういったことが出来るのが術者だった。かつて術者たちはこの力で邪な妖族を駆逐して、今に至るまで特別の地位を占めている。
中央塔までたどりつくのに、正門を車で抜けてから5分を費やした。
術者たちの行き交う吹き抜けの大玄関をくぐりぬけ、透明な円筒状のエレベーターを上昇し、28階の副理事長室に至る。
オーレルの到着に、ゼスタ副理事長は執務席を立ち上がって出迎えた。
「おお、よく来てくれた」と、尊大な態度の彼に、オーレルは頭を下げ恭しく挨拶をした。
(また少し、太ったようだな。顔色も精彩を欠いているし、瞳も濁っている。この歳ですでに老いが現れ始めているか…)と冷徹に観察していることなど、オーレルはおくびにも出さない。
「お元気そうで何より。このたびは総理事長就任、おめでとうございます」
副理事長は少々わざとらしいと思われるほど大様に手を振って、
「いやいやいや、まだ正式に決まった話ではないしな。さ、腰掛けてくれたまえ」
と手前の席をすすめ、自分は執務席に腰掛けた。
秘書の女性が二人に飲み物を持ってきて、会釈をして部屋を出て行った。扉が閉まるのを見届けて
「これも君のおかげだよ。財界の支持というのは、大きなものだ」
と、副理事長は礼を言う。
「ゼスタ導師のご人徳でしょう。みな、あなたの新しい政治に期待しているのですよ」
「お世辞は止めたまえよ。気恥ずかしくなるじゃないか」
口では言いながら、ゼスタは満更でもない表情だった。
「ここに来てくれたと言う事は、顧問官への就任を受けてくれるということだね」
「古い友人の頼みとあれば、断れませんよ」
オーレルも笑顔で答える。
「ありがたい。だが、東海諸州にいる君の友人達は反対しなかったのかね。そこが不安なのだ」
「何故、彼らの意向が関係あるのです?」
オーレルは怪訝そうに眉を寄せる。
「いやいや、杞憂であってくれれば良いんだけどね。あの地域の一部因子に、連邦からの独立などとたわけたことを企む輩がいると聞いた。言いにくいことなんだが、前の戦争で活躍した君を、首班として担ぎ出そうとする計画すらあると。どうなのかね?」
次期理事長は、言葉はあくまでも穏やかに、しかし窺うような視線でオーレルを見上げていた。
導師は鼻で笑い、
「聞いておりませんな。あまり、気にすることでもないでしょう。
確かに、若い者の中には連邦からの分離独立を主張するものはおります。ですが、所詮は空想の域を出るものではありませんよ。
…若者達は、夢を見るものです。
失態ばかりを繰り返す愚かな老人どもより、自分達の方がよっぽど上手く物事が出来る。理想の世の中を作れるんだと。
しかし、やがては現実の壁に突き当たります。そのとき始めて、かつて見下していた老人達と比べても自分が決して勝るものでないと気付くのです。
我々にも、覚えのあることでしょう?」
「そうだな…」
ゼスタは身につまされたように、苦笑するのだった。
「まあ、良い。君がここに来てくれたからには、連中も愚かなことなど考えはしないだろう。それともう一つだ、妖王のことは君も聞き及んでいるね」
「一昨日も襲撃事件があったとか。警官が一名殺され、行方不明者もでていると」
「そうだ。…あの者の真実は、決して軽はずみに口にだしてはならぬぞ」
「何のことですか?」
オーレルは空とぼけた口調で、しかし彼の眼差しは厳しく副理事長を見返した。
執務室には二人のほかに誰もいない。だが日はまだ高く、ゼスタの背後にある大窓からは青空の光が振り込んできている。
ゼスタは恥じ入ったように目を伏せて口ごもり、
「…いや、良い。現在のところ、国民の批判の矛先は軍と警察省に向かっておる。
だが、奴をあまり長く生かしておいては、協会の沽券にも関わる問題にもなってこよう。
奴はなかなかに強い。今はまだ子どもだが、成人するまで待っている訳にはいかん」
「とはいえ、あたら術者の命を無駄にしてはいけません」
「分かっておる。だから、かつての大戦で妖王を打倒した君に、今度は新たなる妖王を倒して欲しいのだ。適切な時期に、な」
「適切、と言いますと?」
オーレルの鋭い視線を避けたかったのか、副理事長は立ち上がった。
そして、窓に寄り添い、下界を眺めながら
「首都の治安権限を協会の手に取り戻す法案が、下院で審議されているところだ。腹の底では反対の議員もおるが、妖王の脅威がある限り表立った行動は取れないことだろう」
どうやらゼスタは、妖王の脅威を術者協会の権限拡大に利用する腹積もりらしい。
彼が昔から、協会の誇りを自分の誇りと重ねあわせにする男だった。
若き日の彼が組織改革を唱えたのも、強い協会に憧れていたという理由が大きいと、オーレルは見なしていた。
(だから、権限を協会に取り戻せる日がくるまでは、妖王を生かしておけということか。その間に、妖王に殺される無辜の命について、この副理事長はどうお考えなのだろうな)
街角で子どもを怒鳴りつけていた、あの術者の姿が思い出された。
傲慢な赤ら顔が、次期理事長の肥えた顔に折り重なるのである。
『あの連中は、庶民の事なんか何も考えちゃいないんだ』
『エライ人なんていつだってそうだけどね』
勤め人たちが冷笑混じりに放った言葉も、脳裏によみがえる。
しかし、オーレルは薄い微笑を浮かべたままだった。そして相変わらずの穏やかな口調で
「ご期待には、おこたえいたしましょう」
と、了解するのだった。