エピローグ
エピローグ
少女が開け放した窓から、白い光があふれ出した。
薄暗い病室は、たちまち春の光に満ち足りた空間に変わった。
病床で半身をおこした中年の女は、まぶしそうに目を細める。
「あ、お母さん、ごめん。まぶしかった?」
レーナはあわてて、カーテンを閉めようとする。
「いや、いいよ。そのままにしてくれ」
女は手振り交じりに制し、そのままの体勢で外の光を眺めていた。
「良い天気だね…」
(お母さん、随分とやせちゃったな…)
リンダのこけた頬を見て、レーナの胸の奥に痛みが走る。窓に向けられた瞳は、以前よりも大きく見えた。
だが、当の母親の方は、案外に気丈で、
「そろそろ、あたしも外を散歩して見たいね」
などと言い出す。
「お母さん、大丈夫? 歩くのだって大変なのに」
レーナは言葉では止めて見たものの、リンダが気力を取り戻したことはうれしくて、直ぐに外出の支度を始めるのだった。
見上げれば、吸い込まれていきそうな青空が広がっている。
休日であったためか、野原の広がる公園には、多くの人影がいた。
老若男女が思い思いに歩いていたが、とりわけ若者や子連れの姿が目立つ。
娘に支えられながらのリンダは、心地良さそうに春の空気を吸い込んだ。
「学校は、うまくやってるかい」
「ええ、友達も出来たし。授業にもちゃんと追いついているわよ。
この前なんか、国語のテストで一番だったっし」
レーナは少しばかり胸を張っていうのだった。母親の前でよいところを見せたい幼さは、余り変わってないと自分でも思う。
「いじめられなど、してないだろうね?」
リンダは顔つきこそ余り変えなかったが、声の調子は不安を隠しきれていない。
以前のことを、思い出しているのだろう。レーナの心にも暗い翳が走ったが、表情はあくまでも快活に、
「まさか。言ったでしょ、友達も出来たって。
…ここは、連邦とは違うんだから。どんな血筋をひいているのかなんて、あまり気にもしないんだよ」
彼女たちは今、連邦から遥か離れた地にいた。
大湖の東側、東海自治州の中心都市。
丘の上から背を伸ばせば、建築中の高層ビルが銀色の竹の子のように伸びていく光景を一望できた。
初夏の陽射しを浴びて輝く町並みは、あのエナスに比べればまだまだ発展し尽くしていない。
けれども、地平線まで広がる真新しい建物の群れや、公園でざわめく人々を見ていると、爽快な風が胸のうちにまで吹き込んで、体中が楽しい活気でみなぎってくるのである。
「ここで店を開いても、良いかも知れないね」
「気が早いよ。ちゃんと病気治してからにして」
「分かってるよ、分かってるよ」
とリンダはうなずきながら、あまりわかってもいない様子だった。
レーナは何かを言いかけて、ふと一つの影に気がつく。
それは丘の下の彫像が、地面に影を投げかけている
像のそばには一人の少年が身じろぎもせず、母娘にじっと視線を向けているようだった。
「どうしたんだい?」
「ううん、なんでもない。散歩、続けよ?」
レーナはまた、明るく微笑むのだった。
「待たせて、くれたね」
不機嫌を隠そうともしない少年に、
「ごめんね、忙しかったのよ」
軽く謝るだけの少女。
既に日は落ちていた。人気の無くなった周囲には夜の帳が落ち、空には気の早い星々が瞬きを始めている。
「聞いたよ。エナスの暴動、鎮圧されちゃったんだってね」
「そうみたいだね。連邦も、思ったより手こずったもんだ。」
少年は嘲りの微笑を浮べている。
「せっかくセーンが頑張って煽動したのも、これで水の泡だね」
レーナはからかうように笑うのだったが、彼にへこたれた様子もない。
「だけど、俺が一躍有名になれたのも事実だからなあ。何せ、連邦もマスコミも、今回の暴動の背後には妖王がいるって、散々に宣伝してくれたからね。
ありがたいことだ。知名度という最高の宝物を、彼らがわざわざ贈ってくれたよ。
妖王3世が、反連邦の象徴となる日も、遠くはない」
「セーンが象徴ねえ…?」
レーナは呆れたようにいう。彼女の脳裡に、幼かったセーンの情けない姿がありありと浮かんでいるようである。
彼は流石に顔をしかめたが、何も言わなかった。
「で、何の用?」
今のセーンはフードを被っていない。青いTシャツに紺のジーパンという、ごくごく普通の少年らしい出で立ちである。
「君のお母さん、元気そうだね」
「おかげさまで。これだけは礼を言っておくわ」
そっけない言葉だった。
「いや、これも俺自身のためさ」
結局、自分と彼女の関係は利用し利用されるだけのものだった。今までだってそうだったし、これからだって変わらないだろう…セーンは自分に言い聞かせながら、心のどこかに痛みが走るのが忌々しい。
ふたりは、丈5メートルはある銅像の足元にいた。
オーレルの像であった。軍服に身をまとい、動くこと無い視線を西の空に向けている。
腰の曲がった老人が通りすがり、震える動作で、それでも恭しく像に一礼をして、去っていった。
「ここじゃあ、彼は神様だな。オーレル導師にはもう会ったか? ここじゃあオーレル総裁と呼ばれているのか」
かつてオーレルは、義勇軍を率いて湖東諸州を救ったことがあった。彼の殊勲は、東方の地においては、伝説と言っても大げさでないほどに荘厳な響きをもって語り継がれ、称えられていた。
「ええ、あったわよ。2、3度だけ。…少しだけ、セーンに似ているような気がしたよ」
レーナはぽつりと語った。
「俺に? どこが」
少女は悪戯めいた笑いを浮かべていた。
「穏やかなふりをしながら、内心では何を考えてるのか分からないところとか。
本心では人を見下していて、どんな残酷なことでも平気で出来るところとか。
人々の心をつかむことが上手なところとか」
さきほどの朴訥な老人が聞けば激怒しそうなことを、延々と述べ立てる。
「やれやれ、随分な言い草だな」
「でも、どうなのかな? 似てるような気もするけど、やっぱり似てないかもしれない。似てる…けど似てない」
レーナは戸惑うようにつぶやくのだった。
「手首の傷も、あの男に癒してもらったんだね」
「え? ああ」
レーナは左手首に目を落とした。あれほど無残だった赤い裂け口は嘘のように消え去り、今はすべやかな白い肌があるばかりである。
オーレル導師は癒しの術にも優れていた。
あの男が、人の心をとろけさせるような微笑を浮かべ、少女の細い手首をゆっくりとなぞっている光景が、眼前にありありと浮かんでくる。愚かしいとは思いながら、不快の念が喉元まで湧き上がってくるのだった。
「惚れたか?」
彼は皮肉げに覗き込んでいた。
「ええ? なに馬鹿なこと言ってるの?」
レーナは茶化すのだが、さきほど銅像を見上げていた少女の瞳には、恍惚の光が宿っていたようにも思えるのだった。
「別にいいんじゃないのか? 力はあるし、金持ちだし。
ただ、今だって愛人は多い。君が今更その一人になったところで、牛の大群に子牛がおたおた付いていくようなものかもしれない」
「だから! 勝手に話を進めないでよ!」
レーナはさすがに怒りだした。
「相変わらず、下品なやつ…。あなたと導師の違いの話だけど、そういうところが大違いだね。あの人は、話し方はもちろん、立ち振る舞い一つとっても品があるのよ」
「品、ね」
「品だけじゃないよ。何といえばいいのか…あの人は自信家って言うのか、何があっても全く揺るぎそうもないのよね」
「やっぱり、惚れたか」
小さくつぶやきながら、セーンは銅像を、そして背後に輝く星々を望むのだった。
(あの男の自信は、どこから来ているのだろうな?)
自分を神とでも思っているのではなかろうか、そんな疑念は幾度も去来した。
星空の下で、導師がほのめかしたこと、『私は、せねばならぬことをするだけだ』という言葉が、今も耳朶に響いている。
「本気で、世の中を変えるつもりなのか、あの人は?」
セーンのつぶやきに、レーナは少し考え込むようにしていた。
「本気なんじゃない?」
少し間をおいて、答えた。
「理想や理念を弄んで人を騙すやからは、たくさんいるからなあ」
「私の目の前にも、一人いるしね。あなたは自分が詐欺師だから、人までそうだと思えるんでしょう?」
「どうだろうね」
セーンは広い空を見上げ、冷たく光る星々に目をやった。
(理想なんかに、どんな意味があるんだ?)
悠久の輝きを放つ星々から見れば、人間など小さな石ころに繁殖している微生物も同然だろう。
細菌は細菌なりに、己の生存のため必死にあがき続ける、それだけのことである。
英雄的な崇高さなど、そこにはあるはずもない。
今までの策謀や煽動の数々も、結局は生存のための闘争に過ぎないのだと、セーン自身は自覚しているつもりだった。
理想を持ち出すことがあったとしても、愚か者達を手なずける一種の方便に過ぎなかった。
だが、あの導師はどうなのだろう?
ちっぽけな人間の抱く夢や理想に、どこまで意味があるというのか、オーレルは考えたことがあるのだろうか。
彼の大望だって、星々の視野から見下ろせば、愚鈍なゼスタ理事長の妄執とさして変わらぬものかもしれないのに。
(あそこまで賢い人なのに、どうしてこの程度の理屈が分からないのかなあ?)
白けた感情が、セーンの心の中で首をもたげるのである。
(それでも…)
導師を目の当たりにしたときの、魂の震えるような畏怖感を、セーンは忘れることが出来なかった。
彼の自信、己は天命を受けているという狂気にも近い確信が、彼の一挙一動にあれほどの力を与えているのだろう。
(幻想も、力をもてば現実となる…)
やはり、オーレルは恐るべき男だった。
現に、目の前の少女も、自分に対しては侮蔑の視線を、銅像に対しては畏敬の眼差しを向けているではないか。
(俺は、自分が天命を受けているなんて馬鹿げた確信、持てそうもないな)
何の信念をも持ち得ない自分は、決して導師に勝つことは出来ないのか。
屈辱と畏敬の交じり合った奇妙な感情が、重く心臓にのしかかるようだった。
少年は深い溜息を吐き、それでも悩ましい気持ちを吐きつくすことはできそうにないのだった。




