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魔王と幼馴染 ~夕と夜が出会う場所~  作者: 寿歌
第四章 永い冬の日
10/11

第四章 永い冬の日 6~10 

6、

暗い作戦室に、オーレルは一人でモニターに見入っていた。

壁には緑や赤のランプが明滅し、ブラウン管に浮かぶ薄暗い映像が、室内に光を与えていた。

背後から、コツコツと足音が近づいてくる。

「導師、お呼びですか?」

弟子のファルン少年が背後から入ってくる。導師は振り返りもせず、

「君は、規定に違反したそうだね?」

「申し訳、ありません…」

彼は素直に頭を下げる。弁解は一切しようとしない。

「大方の事情は聞いておる。

君は、暴徒に対する取締り方が、納得いかなかった。そういうことだろう」

術師の少年はうなだれて、口を濁した。

実際、導師の言うとおりだった。警察も協会も競い合うように功績を挙げようとし、連携がうまくいっていない。両組織が、点数を稼ぎたいばかりに無実の北方人までも拘束してしまう場面を、彼は幾度も目撃していた。

住居に押し入られ、家財道具をめちゃくちゃにされて、呆然と座り込む女の表情は目に焼きついていた。父親を連れて行かれた子どもの号泣は今でも耳に残り、ファルンは寝ることさえ出来ない心地になるのである。

(あんな遣り方では、一般住民までも妖王の側に押しやってしまうのではないだろうか…)

危惧に駆られる余り、彼は上司の命令に逆らってしまった。

「申し訳ありません。私の誤りでした」

このとき、始めてオーレルは振り返った。

「何を言うのだ。

心から正しいことをしたと思うのならば、謝ることこそ誤りだ。それとも、自分のしたことが間違いだったと思っているのかね?」

「いえ…。けれど、導師にも御迷惑を…」

「いやいや、かまわんよ。知っているだろうが、私も昔、君と同じような気持ちにかられたことがある。

私は協会の法に反して兵を動かし、挙句の果てに裁判にかけられた。全く、どれほどの人々に迷惑を掛けたのかと思うと、今でもひざまずいて詫びたいほどだ。

それでも、止むに止まれぬことだったのだよ…」

オーレルの溜息には、長年の悲しみがこめられているようにも聞こえ、うつむいていたファルンは思わず顔を上げる。導師はモニターに顔を向けていたが、その瞳は遥か遠い場所を見ているようでもあった。

会話が少しの間だけ途絶え、ファルンはモニターに目をやった。

画面の中では、暗い空が広がり、篝火がいくつもたかれ、大勢の群衆が集まっている。その中心に、フードを被った男の姿があった。

彼が何かをしゃべるたび、群衆はこぶしをふりあげ、どよめきが大地を揺るがす。

「君の知ってのとおり、これが妖王だ。

彼が、大勢の人間を煽っている光景が、ここに映されている。

東町大暴動は彼の教唆によって引き起こされた…」

「卑劣な、男ですね…」

ファルンは唇をかんだ。

「そうだな。君は指導者が人を従わせる方法について考えたことがあるかね?」

「え…? あ、以前に導師がおっしゃっていました。

一つ目は人を恐怖で従わせる。二つ目は利益を餌につる。三つ目は感情をうまくあやつる。最後のひとつは、人格の輝きで人を信服させる…」

「そうだな。このモニターにでている不快な男は、一つ目から三つ目までの手段を使いこなしておる。

逆らうものは容赦なく殺し、一方で窮地に陥っている北方人には援助の手をさしのべる。

そして、人々の恐怖や嫉妬につけこんで巧みに操る。いやはや、たいしたものだ」

「導師…?」

何を褒めているのだろう、と少年は訝しげに首をかしげていた。

「だが、彼には足りぬものがある。人々を魅了するだけの、魂の輝きが欠けておるのだよ」

「魂の輝きとは、何なのですか?」

導師は考え込むように目を細めた。

「言葉で表わすのは難しいことだ。一種の『信念』と言っても良かろう。

世の中を変えたいという強い想い、理想のために命さえ投げ出しても構わぬという情熱…

多くの人間は信念など持ち合わせていない。だからこそ、強い信念の持ち主に魅かれていく。

人々から英雄としてあがめられるためには、指導者の信念が、心底からのものでなくてはならぬ。嘘偽りの想いであるか、誠の想いであるか、人々はなんとなくだが察してしまうからな。

だが、この妖王ときたら、自分ですら何も信じてなどいないのだ」

オーレルはブラウン管に視線をもどした。

「彼に出来ることは、黒々としたフードを被り、威厳を偽装し、信念のあるフリをするだけ。そのようなやり方でも、ある程度はうまくいく…だが、いずれ虚飾の皮がはがれぬとも限らぬ。まあ、その前に私が息の根を止めるつもりではあるがね」

導師は、魂の奥底までも見極めるような鋭い視線を弟子に向けた。

「強烈な意志を持てる人間など、僅かしかいないのだよ。

だが、ファルン君はその少数の一人ではないかと、私は思っているのだ」

暗闇の中でブラウン管が白く輝き、精密器具の無数のランプが明滅する部屋の中で、導師のささやくような声がいやに響いた。

ファルンは驚き、そして声を落とした。

「まさか。私は、そんなたいしたものではありません」

「だが、人の役に立ちたいと願ってはいるのだろう?」

「それは…。導師のほうが当てはまると思います」

「私が、信念の持ち主? そう言ってくれるのはうれしいことだ。

だがまあ、強烈過ぎる信念は、時には狂気にも通ずるかもしれんからなあ。

さっきと矛盾しているようだが、信念があるというのも手放しで褒められたものでもない。そこが、難しいところだ。

…まあ良い。それより、君には他にもいいたいことがあった。今度の私の計画に、君も参加してもらうことにしたのだよ」

導師は唐突に話を変える。私の計画、といわれてファルンが理解するまでに少しの時間が必要だった。

「でも、私は謹慎処分を受けていて…」

「理事長に話はつけておこう。君は私の指示に従ってくれればよい。

今回の作戦では、私の個人的な部下たちを使うつもりだ」

オーレルは湖東の地で、義勇軍を組織したことがあった。30年前も昔のことである。

その咎により、彼は裁判にまでかけられてしまったのだが、義勇軍の組織は湖東の自治州で形を変えて残り続けた。今でもメンバーたちは、オーレル導師を「総帥」とよんで崇めているらしい。

(個人的な部下とは、その義勇軍の人々なのか?)

彼らの戦果は耳に聞いたことはある。

非能率的な協会組織よりも、いっそ彼らのほうが、掃討作戦は期待できることだろう。

(けれど、そんなことをしてオーレル導師がふたたび罰されることは無いのだろうか?)

ファルンは思わず口をあきかける。

「何かね?」

導師の顔には一欠けらの不安もうかがえなくて、彼は言葉を再び飲み込んだ。

師匠の自信はどこからくるのか、ファルンにも分からない。だが、彼の自信が裏切られたためしなど聞いたこともないのだった。




オーレル導師の率いる部隊は、エナスの地下深く『大地の裏側』を襲撃した。

大地の裏側の構造を熟知していた彼は、まずは地下内に備えられていた4つの発電所を襲撃した。

鼻の先まで闇に包まれ、目は張り付くような暗黒にふさがれた。一筋の光も許されない完全な闇に、地下通路は覆いつくされていた。

北方人たちの恐怖の叫び声があちこちから木霊したのと、鼓膜を破るような銃声が闇を引き裂き始めたのは同時であった。

一寸先も見えない男たちは、あてどもなく逃げ惑うしかない。

倒れたものは、気付かれることもなく、他の逃げ惑う仲間に踏みにじられた。

彼らの叫びはうめきに変わり、それもやがては消えていった。

暗視の術でも使っていたのか、侵入者たちにとって闇は妨げにならない。

しばらくたって、侵入者たちの放つ照明弾が、黒く染められた地下通路につかの間の閃光をもたらした。

照らしだされた北方人は、久方ぶりの明るさを喜ぶ暇とてない。たちまち目がくらみ、降り注ぐ銃弾で身体を引き裂かれ、彼らの意識は永久とわの闇へと閉ざされるのだった。


召使たちが殺されていく只中にあって、族長たちは逃げることに余念がない。

助けを求め泣き叫ぶ平民たちを尻目に、暗視の術を駆使して、闇の中を早足で駆け抜けていった。

通路の中で幾度もこだまする凄まじい悲鳴やわめき声に、うるさそうに顔をしかめながら、ビクトル族長も走りに走る。いくつもの暗い角を曲がり、ようやく遠くまで逃れることができた。

そこは地表に程近い配管の中。ここを潜り抜け、梯子を昇れば地上の世界に出られるはずである。

振り返ると、どこまでも暗い通路が聞こえている。今も続いているだろう騒ぎも、遥か彼方から闇を通し、おぼろげに伝わってくる微かな響きとしてしか、ここでは聞こえなかった。

彼は笑みを漏らして、前を向き、そして前にいる人影に気がついて身をこわばらせた。

「…なんだ、バルゴス殿か…」

地面の下まで届きそうな鬚で分かった。バルゴスは、振り返りもせず

「ビクトル族長か。全く、何がどうなっているのだ! 連邦の取締りがあるとは聞いていたが、これでは襲撃ではないか!」

「今は、何も分かりません。どうやら侵入者は協会の兵士たちではないようです。戦い方が全く違います。それより、今は逃れなくては」

バルゴスは髭を掻き分けながら、再び壁の方に向き直ってしまった。

不審な思いで近づくと、しなびた指で壁を幾度もなぞりながら、しゃがれた言葉を口元で反芻していた。

「開かぬ、何故だ…」

ようやくにしてビクトルのほうに振り向き、

「ビクトル殿、この扉を開けられるか?」

と尋ねるのだった。

「いったい、どうなさったというのです」

苦笑しながら石壁を指でなぞったが、ピクリとも動かない。この壁は、隠し扉であった。族長たちの誰かが指でなぞれば、たちまちのうちに脱出路へとつながるはずなのに、今日に限って頑として動こうともしない。

勝手の違いに彼らが顔を見合わせたとき、背後より鋭い気配が生じた。

振り向くと、目もくらむような青白い光が通路の奥からあふれ出していた。輝きの中から抜け出すように、黒い人影が進んでくる。

近づいてきたのは、術師の制服に身をまとった若者だった。近づいてきて、ようやくその顔が分かる。

「お前は…」

そんな言葉が、彼らの喉から漏れ出した。

アレート少年は、とかく耳目を集めがちな存在だった。彼が手柄をたてるたび、本人が恥ずかしいと思うほどに世間では持て囃された。実力の程もさることながら、彼が輝かしいまでの若さをもち、凛々しい容貌の持ち主でもあることが、尚更に人々を酔わせていたのだろう。

妖族であるバルゴスとビクトルさえ、彼の名前と顔くらいは知っていた。

「年貢の納め時だな」

少年は言い捨てる。

「おのれ、青二才め…並のものたちを倒してきたからといって、いい気になるなよ!」

バルゴスは叫び、腕を振り上げる。通路の天井が揺れ、亀裂が入り、石の塊が落ちてくる。

少年が指をはじけば。いくつかの石が、弾かれでもしたかのように、あらぬ方角へと飛んでいく。

ビクトルは後ろに倒れこみ、あやうく直撃を逃れる。

轟音が響き、ふりむけば背後の壁に、大きな穴が開いていた。

「おのれ!」

バルゴスは叫び、さらに両手を荒々しく振り上げる。亀裂が生き物のようにのたうち、広がって言ったかと思うと、天井の底が一気に抜ける。山のような土砂が降り注ぎ、そこにいたはずの少年の姿を飲み込んでいた。

「ふふふ…、こんなものよ」

荒々しく息をつき、それでも余裕とでも言いたいのか、バルゴスは自慢のヒゲをしゃくりあげ、「フォフォフォ」とうち笑う。

そして、悠然とした足取りで、今できたばかりの瓦礫に向かった。

「何が、正義の象徴よ。何が、百年に一度の神童よ…」

さんざんに悪態をついたところで、まだ廊下の奥からの光が弱まっていないことに、ようやく気付く。

眉をひそめ、ビクトルに何かを言おうとしたちょうどそのとき、瓦礫から伸びる腕が、老人の左足をしかと握り締めた。バルゴスが反応したときは既に遅く、強烈な光が彼を一気に貫き、爆発のような音が通路に響き渡った。

「がああああ!!」

激しく身を捩じらせ、幾度も痙攣し、それでも逃れられない。電撃は彼のしなびた身体を幾度も幾度も突き抜けた。

「バ、バルゴス殿!」

ビクトルは叫んだが何もできない。瓦礫の下にいるだろう敵に術を放てば、それはバルゴスへのとどめの一撃となるかも知れなかった。

ようやく電撃が終わり、バルゴスは派手な音を立てながら倒れ付す。瓦礫をつきやぶり、ファルン術師が立ち上がるのは同時だった。頬にいくつかのすり傷をおい、埃まみれのシャツの所々が裂けていた他は、目ぼしい外傷は見当たらない。

足元のバルゴスは、惨めな姿だった。くすぶる煙は、黒焦げになった衣服より立ち上るものなのか、それとも彼自身からだったのか。

少年がさらに手を振り上げたとき、立ちすくんでいたビクトルは、ようやくわれに返り腕をつきだす。

指の先から無数の黒糸が飛び、少年に絡み付かんとした。すばやく身をかわすが、そのうちの一本は絡みつく。少年がよろけたすきに、彼は空いていた右手の方に意識を集中した。

周囲の気を凝集し、赤々と輝く玉が生み出される。

妖術で作り出された爆弾だった。

それを見たバルゴスは、よろよろと這うようにして逃げ出す。

術師の少年は、何とか糸を取り外そうと、手を足にやる。

「ふふふ、遅いわ…炎に包まれ、死ぬが良い!」

ビクトルが、火の玉を投げつけようとした刹那、彼の右手は押さえられた。

凍りつくような恐怖が背筋を走り、振り返ってみた背後には、黒衣をまとった男が現れていた。

オーレル導師である。

彼はビクトルの右手をそっと押さえながら、

「君は、手を動かしてはいけない」

囁き声で、しかし、はっきりと言う。

その瞬間、彼の手の動きは止まってしまう。

「あ、あれ…」

手を動かせなかった。手を振りかざし投げつけるという、意識せずとも行えるはずのことが、今はできない。

腕がしびれたわけではない。腕の動かし方が、分からない。

いつもは当たり前のように手を動かしていたのに、今になって突然に手の動かしかたを忘れてしまったのだ。

「そ、そんな馬鹿な話が…」

「動かしては、いけない」

オーレルの囁きに、ビクトルはますます訳が分からなくなった。

火の玉は見る見る膨らんでいく。ぴしぴしと音を立て、今にもはじけそうになる。

「い、いやだあああああ!!」

刹那の絶叫と、爆発の轟音と、どちらが先立ったのだろう。紅蓮の閃光に彼の姿は影となり、そのまま炎に包み込まれた。

黒焦げになった体が、崩れ落ちる。オーレルも巻き込まれたはずなのに、身にも服にも傷ひとつもなく、悠然とたたずんでいた。

「あ、ビ、ビクトル君…」

バルゴスは呻く。

そして、彼は立ち上がったかと思うと、胸元の笛をつかみ、息を吹き込む。

狭い通路の中につむじ風が舞い上がり、彼はそれにつつまれて、たちまちに通路の向こうへ逃げ出した。

「待て!」

アレートが叫び、指から閃光を放つ。それはつむじ風の真ん中を直撃したが、逃げ去るのをとどめる役には立たなかった。

舌打ちしながら、少年は師匠の方へ歩いていった。オーレルのほうは足元にしゃがみこみ、虫の息のようになっていたビクトルを抱き上げる。

「師匠、彼を捕らえますか?」

オーレルは首を振る。

「無理だろう。妖族を生きたまま捕らえ、しかも護送するなど、虎を素手で持ち帰るよりも難しい…。

もし途中で逃げられたら、悲しむべき事態を招こう」

ビクトル族長は、導師の意図を察したのか、のどからヒッと悲鳴を上げた。

恐怖で顔の筋肉がピクピクと痙攣するさまは、まな板の上の魚を連想させて、ファルンは顔をしかめてしまう。

「や、やめろ。お前は、本当に連邦の術者なのか?

我々を殺すなんて、どういうことなんだ。今まで散々協力してきたじゃないか!」

導師は弟子の少年と顔を見合わせた。

「そ、そうか。今までの献金分ではたりなかったのか。ならやるぞ、いくらでもやるぞ。

あ、それともあれか? 麻薬の密売が度を越していたか? なら、抑えるとも。なんなら密売人たちは捕まえてもらってもかまわない。おう、かまわないとも」

上ずった声で、見苦しくわめきたてる。

導師は呆れ果てた風に首を振りながら、深々と溜息をつく。

「妖族と連邦が、対立を演出しつつも癒着している現状が、いつまでも続くと思っているのかね?

そのような愚か者には、御退場していただかねばならん」

最後の言葉は残忍なまでに冷ややかで、だが耳元でささやかれたビクトルにしか聞こえないほど小さかった。

「…君はもう、息をしてはならん。生きていては、いけないのだよ」

首筋と胸をなでながら、導師はささやきかける。ビクトルは「うっ」と呻き、それきり喉をつまらせる。

今度は呼吸の仕方を忘れてしまった。

目を血走らせ、両手を喉に当て、あえぎ声をもらす肥満漢に、導師はなおも語りかける。

「これ以上、苦しむことはない。心安らかに、永久とわの眠りにつきたまえ」

今度は、額を指でなぞる。すると、彼の表情は嘘のように安らぎ、目をゆっくりと閉じた。眠った様子だったが、寝息はない。息を止めたまま彼は俯き、その顔は見る見る青さが増していき、どす黒いほどにまでなってしまった。

全ての筋肉が抜け去ったかのように、彼はだらしなく四肢を広げていた。この世のものでない虚ろな微笑が、彼の顔に浮かんでいた。

オーレルは目を瞑り、僅かの間だけ黙祷するかのように目をつぶる。

ちょうどそのとき、廊下の向こうから足音が聞こえる。

迷彩服に身を包んだ一団が、こちらに向かって手を振っていた。

「総帥! ご無事ですか!」(オーレル導師は東の国々では「総帥」と呼ばれている)

「ああ、支障ない。妖族を一人処分した。族長の一人だろう」

「当部隊も一人を倒しました。第二部隊も一人倒したと報告が入っております。

全体の戦果についてですが、千名ほどの北方人を殺害した模様です。拘束したのは300人です。

なお1分ほど前に、当部隊は旋風をまとった者と遭遇、銃撃をくわえましたが、残念ながら当部隊の背後に逃走を許しました」

淡々と報告をしながら、頭を下げる。

「ふむ、こちら側の損害は」

「死者は30人。重傷者は50人ほどです」

「そうか…。重傷者を速やかに地上に運び出せ。拘束した敵も護送しろ。

続いて全部隊を撤退させよ。我々も帰還しよう」

「まってください」

今まで黙って後ろで聞いていたファルンが叫ぶ。

「まだ、討ちもらした妖族がいます。それに肝心の、あいつが…」

「妖王は不在だろう。あのような者は、そう容易く倒せはしない。

今回は奇襲をかけた我らが、地下の闇を味方につけることができた。だが、長居すれば敵は体勢を立て直す。今度は我々が闇から襲う敵と戦う羽目になるのだ。

むしろ、彼らの王が帰還せぬうちに、われらは戻らねばなるまい」

不満そうに俯く少年の肩を、導師はやさしく叩く。

「簡単に、全てを解決することなどできないのだよ。今回は、3人の族長を殺したことで満足しよう」

「…師匠、本当に来るのでしょうか。あの忌まわしい男の心臓を止める日が」

「いつかは必ず来るだろう、きっとな」

導師はあくまでも平然と、開けられた壁の向こうへ歩き出すのだった。



7、

(ここは、どこなんだろう…)

レーナの体は中空をさまよっているようだった。上も下も、右も左も分からない。

(私、体が麻痺したまま川に投げ捨てられたんだよね…)

その割には、もう苦しくも無く、冷たくも無い。

とすれば、自分は死んでしまったのだろうか。


ふわり、ふわりと少女は漂っていく。

曖昧模糊とした光の向こうに、何かの光景が浮かび上がってくる。

ピンボケして良く見えない。

人の交わす声が聞こえはじめ、焦点が次第に明確になっていく。

どこかの研究室。窓の無い部屋、天井からの光で室内は明るい。床には多くの機具がおかれ、寝台には一人の人間が横にされていた。

(セーン?)

レーナは驚いたが、声は出ない。彼女自身は、どことも分からない場所から、この光景を見ているようである。

寝台に横たわるセーンは、今の彼よりも少し若い。

毛布もない布団も無い寝台の上に、彼の体は拘束されていた。腕や足には、点滴の管や様々な測定器が突き刺さっている。

少年はうつろな顔を、天井に向けていた。

心拍モニターの無機質な音が、規則正しく時を刻んでいた。

やがて、部屋の扉が音も無く開く。何人かの人間が入ってきて、扉は閉じた。

「検体の体調に異常ありません」

研究者らしい風貌の男が、背後に居る者たちに囁きかける。

後ろで腕組みをする数名の男女も、みな研究者の白衣をまとっていた。

ゼスタ導師やマーベル導師ら、見覚えある顔もある。彼らはみな、協会の術者たちなのだろう。

「よし、始めろ」

ゼスタは合図をした。研究者は無表情に正面の機械に向き合い、大きなボタンを人差し指で軽く押した。

「イイイイイイイイイイイイイイイイ!」

刹那、サイレンの音が響いた。セーンの細い体が、壊れそうなほど痙攣する。

サイレン? そうではない、この音は断末魔の絶叫なのだ。

白目をむき、ガタガタと振動する彼の口から、人間の声とも思えない凄まじい音がほとばしっている。やがて、口の端から白い泡がブクブクとこぼれ始めた。

恐ろしい光景に、中空に漂うレーナは目を逸らしそうになった。

どれくらいの時間がたったのか、ようやく痙攣はとまり、叫びもおさまっていった。

「どうかね?」

ゼスタは冷静に尋ねる。

「もう少し、のようですね」

研究者は事務的に答えた。

「あ…あ…」

セーンは目を開く。眦から、涙が溢れ出し、頬を伝った。

「もう、目覚めたのか。流石だな。気分はどうか?」

「もうやめて…殺さないで」

少年は、信じられないほど弱々しい声で哀願する。

「それは君しだいだ。君が我々協会に協力するのなら、命をあやめることは無い…」

ゼスタは肥えた顔を近づけて、震える少年に囁きかけるのである…。


レーナの周囲は再び灰色の混沌に閉ざされた。

「昔の、妖王じゃよ。まだ中途半端にしか力に目覚めていなかった彼は、協会のゼスタ一派によって、完全に覚醒させられた」

みると、霧の中に老婆がたたづんでいた。ジェダ婆さんだった。

「どうして、そんなことをしたの?」

「ゼスタは、自分が協会の理事長になりたかった。そのために、前の理事長を廃したかった。

穏健路線の前理事長を廃するには、妖王を暴れさせ、治安を乱れさせ、その責任を問うのが近道だった」

目の前にいるのは、もはやジェダであってジェダではない。

姿かたちこそ、皺だらけの見慣れた老婆であった。だが、いまや見開かれた双眸からは、明晰な精神が眩いばかりに輝いているのだ。

「そんなことのために、セーンに人殺しをさせたの?」

既に知っていることなのに、レーナは改めて聞いてしまう。

「それが、術者協会という組織だよ。お嬢さんも知ってのとおりだ」

ジェダは言い放ち、そして新しい光が生み出される。

「私…」

ブラウスを着た少女が、壁際身追い詰められていた。

正面に立つのは冷酷なマーベル導師。背後には、黒いスーツを着た数人の男達。

「やめてください! 人を呼びますよ!」

「あなたが、妖族であることは既にわかっています。あなたを逮捕することも、あなたの母上を逮捕することも可能です」

「そんな…。じゃあ、どうすれば良いって言うの? 私が何かすれば、許してくれるの?」

少女の幼い顔立ちに、歳には似合わぬ狡猾さと必死さが入り混じる。

「察しが良いですね。あなたには、我々のスパイとなってもらいます。

あなたは妖王の幼馴染だった。その事実が、我々にとって都合がよいのです」

「ちょっと待って! 私があいつのそばに行くってこと? 今更、どうやってそんなことが…」

「それは、こちらで考えます。今のあなたには、YesかNoかを選ぶことしか出来ません。…どうします?」

レーナは悔しさに歯軋りをして、マーベルを睨みつける。追い詰められた獣のような形相だったが、対する女は動じなかった。

「どうしますか?」

それが最後とばかりの厳しい問いかけに、レーナはうつむいてしまう。絞り出すような声で、

「そうすれば、お母さんは助かるんですか…?」

と尋ねるのだった。


目の前に居るのは、かつての自分だった。協会の理不尽に屈服させられた。

あの時の屈辱が思い出され、今のレーナも涙で視界が霞みそうになり、目と鼻を幾度もこすってしまう。

「すでに、一年前のことだ。協会に脅迫され、そのあどけない歳でお嬢さんはスパイにされてしまった。

むごいことだな…実にむごい」

背後でのつぶやき。老婆のしわがれ声ではなかった。

レーナが振り向けば、ジェダの姿はいつのまにか消えうせ、長身の男が悠然とたたずんでいる。

「驚いたか」

呆れて声も出ない少女に、男はにっこりと微笑んだ。

「あ、あなたは?」

我ながら、間抜けな質問だった。

「私は、協会の横暴を憎む者だよ」

「…協会の、顧問官をしているのに?」

彼の姿は、新聞やテレビで見覚えがあることを、レーナはようやく思い出す。

気を取り直したレーナは、オーレル導師を睨みつける。ほとんど見上げるような格好である。

「知っておるではないか」

「ええ、ええ、知ってますよ。私だってテレビくらい見ますから。

それにしても、どういうつもりですか?

お婆さんの格好をして、女の子に近づいてくるなんて。すごい女好きって噂は聞いたことありましたけど、まさかそこまでの変態だったなんて知りませんでした!」

かつてジェダ(の姿をしたオーレル)に寄り添われたことが思い出され、顔に血がのぼるような怒りと羞恥がこみあげる。

同時に、背の高い導師の姿は、少女にとっては迫り来る影のように恐ろしく見えた。

まくしたてる以外に身を守るすべなど無いように思われて、はしたない言葉が口から流れ出してしまう。

「随分と、かわいらしいお嬢さんだな」

導師は余裕の笑みで、長い手を伸ばし、少女の頭を撫でる。

「や…」

「怖がることは無い。何も、取って喰おうと言うわけではないのだから」

レーナはおずおずと上目遣い。

「そのような目つきをしてくれるな。私は、女の子を泣かせるのが嫌いなのだよ」

導師のまなざしも、その口元も優しくて、害意など微塵もない。少女は胸の温まるような安堵をふと覚えてしまい、そんな自分が我ながらうとましかった。

「お嬢さんは、16歳だったか。そういえば、私の娘の一人とちょうど同じ年頃だ」

「え?」

「娘と言っても、向こうは私のことなど知らぬ。二、三度だけ、養父の友人と言うことで遊び相手をしたこともあった。彼女は私のことを『おじさん』としか呼んでくれぬのだよ」

導師は、一瞬だけ寂しそうな、遠くを見るような目つきをする。

「若い頃、悪いことばかりしたツケじゃないですか」

少し余裕のできたレーナは、茶目っ気交じりの嫌味を言ってみた。導師もおどけた口調で相槌を打つ。

「おお、全くその通りだ。この年齢になって、私もようやく悔い改める気になってきた」

「今からなんて、無理じゃないですか?」

「どうだろうな。ともかく、君もようやく笑顔になったな」

導師はもう一度少女の頭をなでて、そして手を離した。

「それで…私に何の用なんです」

ようやく解放されたレーナは、首をかしげた。

「私が老婆の姿で君たちに近づいたのは、初めはディンケルセーンのことのことが知りたかっただけだった。だが、お嬢さんにも次第に興味がわいてきてな。

その歳で、健気なことだ。母親のために、自ら協会の手先に身を落とすとは」

導師がどこまで本気で言っているのか分からなかったが、レーナは面映くなって視線を下に落とす。

といっても地面が見えるわけではなく、曖昧とした空間が広がっているばかりである。

「そんなんじゃありません。私は…ただ、自分が助かりたかったから…」

「むろん、それもあるだろう。我が身がどうでも良い人間など、僅かしかおらん。

例えエゴであったとしても、必死に生き残ろうとする姿は、また健気なものだ。

私は、運命に従う人間より、抗う人間のほうが好みなのでな。

だが、協会は君を見捨ててしまった。リンダ=ラスカーも、協会によって捕らえられた」

レーナの目に、リンダが協会に拷問されている光景がありありと浮かんでくるのである。

獄卒たちの太い拳を腹に打ち込まれ、床に崩れ落ちるやせ細った女。目からは涙が、口からは血の筋が流れ落ちる。

「お母さん…」

レーナの瞳から涙の雫がこぼれ落ち、頬を伝った。

心の底から、悲しみの声を上げたかった。

けれど、胸の裡にかすかな期待が無かったといえば、それはきっと嘘になるのだろう。

この涙で、もしかすれば導師の心を動かせるかもしれない…。

「お母さんを助けてくれませんか…。こんなことお願いするのはおかしいと思いますけど、でも…」

少女の震える嘆願に、オーレルは沈黙した。今まで優しそうだった瞳が細められ、何の感情も読み取れなくなる。

「導師…?」

少女はすがるような目つきで男を見上げる。

「もし、君がそれを望むのなら…」

彼が言いかけたところで、灰色の世界が突然に歪む。

「え?」

「ふむ、どうやら彼に見つかってしまったようだな」

「彼って…」

返事は無かった。導師の姿は、混沌の海の中に沈み込むように消えていった。

「待って!」

レーナの声は幾度も反響し、届かなかった。

水底から浮力に吸い上げられていくように、レーナの意識は半ば強制的に上昇していくのだった。




どこからか、川の音が聞こえてくる。

近くから、遠くから。

包み込む空気は生暖かく、体はひどく重かった。

「覚めたか?」

瞼をあければ、人の顔がぼんやりと見える。焦点が合うまで、少しの時間が掛かる。

青白い少年の顔が、彼女をのぞきこんでいた。結ばれた唇は、かすかな不安に震えていた。

「セーン?」

レーナは手足を動かし、仰向けに横たわっている自分を確認した。

(え…)

どうやら、自分の体には毛布しか掛かっていない。はっとして息をのみそうになったが、セーンは素っ気の無い口ぶりで

「濡れたままだと風邪を引くだろうからな。脱がせといたよ」

首だけを動かし、辺りを見回した。

みすぼらしい小屋の中にいるようだった。トタン屋根の隙間から、かすかな光が漏れてくる。

部屋の真ん中ではガスストーブが熱気を放ち、彼女の服は小屋の隅で干されていた。

「何も、してはいないさ」

彼は立ち上がって、少女の方など見向きもせず(意図的に視線を避けているようだった)服を手にとった。ほとんど投げつけるように、彼女に放り投げる。

嫌悪とも羞恥ともつかない感覚に、レーナは布団を強く握った。次の瞬間にはふっと力を抜き、何気ない態度で、服を手早く身に着けた。

「セーンが助けてくれたの?」

彼は壊れかけた椅子に座り込み、ストーブの赤い炎を見つめていた。

「そうだけど。もう少しで、君は永久に川底だった。それでも良かったんだけど…」

レーナは先ほどの、オーレル導師と出会った夢を思い出す。あれはただの夢だったんだろうか。

そういえば、あの夢の中で母親が拷問にあわされていた…。

「協会の連中を当てにするなんて、愚かなことをしたね」

少年は冷たい視線を向けるのだが、レーナは既に立ち上がっていた。

「どこに行くのかい?」

「私の家…」

軋む扉をこじあけると、外には闇夜が広がっている。夜空を見れば白いものがちらついていて、今は雪が降っているのだと分かった。

ためらったのは、僅かの間である。

少女はコートを深々と羽織り直し、そのまま小屋から飛び出した。

「待てよ!」

背後から呼びかける声。

少年は舌打ち混じりに、後を追いかけてくるようだった。



8、

灯り一つない、暗黒の家だった。

暗い床に散乱したガラスの破片が、微かな光を反射しているのか、無数の小さな光を放っている。

砕かれた窓の裂け目からは、冷気が無遠慮に侵入し、薄暗い室内は外と変わらぬ寒さである。

外で降り続く雪が、世界中の音を飲み込んでいたのか。

レーナがかつて住んでいた家の中は、完全な静寂に覆われていた。

「もう、2週間も前ね…」

少女の声が、ようやく沈黙を破った。日付の変わらなくなったカレンダーを前にして、レーナは虚ろに笑っていた。

結局ここまで付いてきたセーンも、呆れたように見回した。

「派手に壊されたな」

扉の壊されたタンス、ひっくり返された戸棚、床に散乱する食器類、…夜の僅かな光だけでも、惨状はありありと見て取れる。粗暴な兵士達が土足で殴りこみ、野蛮の限りを尽くした情景までが、眼に浮かんでくるようだった。

頬に風があたり、振り向いて見れば、無残に割られた窓が目に入る。

窓ガラスは秩序の象徴と、誰が言ったのだろう。

(その窓ガラスを、秩序の護り手である連邦が割ってしまった…)

皮肉な思いが、彼の心を捉えていた。

「連邦では、妖族なんて生きていちゃいけないのよ。どんな手段を尽くしても、この世界から、撲滅されなきゃいけない。

妖族を娘として育てるなんて、許されないこと…」

レーナは窓の方に向かっていた。今はコートを脱ぎ捨て、白い長袖のブラウスをまとっていた。

降りしきる雪のためか、外の空は奇妙に明るく、窓際に立つ少女の姿は淡く白い光彩に浮かび上がる。

外気から身を護ろうとするかのように、細い両手でわが身を抱きかかえていた。

「お母さんは、強制収容所に連れてかれちゃった。あそこに連れられていった人が、どんな目にあうか、セーンは知ってるよね」

彼は暗闇の中で頬杖をついたまま、何も言わない。

秩序の網は、邪悪な大魚を見逃しながら、小さな魚は容赦なく捕らえて殺す。

俺などは、大魚に含まれるのだろうか。セーンはそんなことを考えていた。

「いつから、気付いていたの? 私が協会の手先にされていたこと」

「確信したのは数週間前のことだ。もっと前から、おかしいとは思っていた。

だって、出来すぎじゃないか。あんな場所で、ああいう風に再会するなんて」

俺はもっと早くに気付いても良かったのだ、とセーンは自分の愚鈍さに憎悪の念すら抱くのである。

この歳月、精神のすべてを冷酷な刃のように研ぎ澄ませてきたつもりだった。それなのに、甘ったれの心が、理性を曇らせていたのだ。

「愚かなことだ」

セーンは吐き捨てた。

「そうね。結局これだけやっても、お母さんは連れて行かれちゃった。

ねえ、ひとつ、お願いがあるんだけど」

「嫌だね」

少年はにべもなく拒絶した。

「まだ、何も言ってないじゃない…」

「虫が良すぎるとは思わないか?

俺を殺そうと思ったくせに、今更お願いなどと」

「別に、殺そうとなんてしていない」

レーナの声は呻くようだった。

「へえ、面白いこと言うね。じゃあなんで、俺は遊園地で爆風に巻き込まれたのかな? この前なんか、マーベル導師から魔法の刃を受け取っていたな」

「そんな、あんな爆破計画があるなんて知らなかったよ。本当に、知らなかった…。

魔法の刃だって、受け取らないわけには行かなかった。本気で使うつもりなんて、無かったよ!」

少女の声は昂ぶりかけている。だが、セーンは鼻で笑っていた。

「始めは、あなたの正体がセーン本人だってことさえ、知らされていなかった。何も、知らされていなかった! 

あなただって、お母さんには可愛がってもらったじゃない。助けてくれないの?」

「忘れたね、そんな昔のことは。

君はじっくり考え直したらどうだ? 自分が、俺に何かを頼める立場かどうか」

「誰のせいなの…。私が、こんな事をしなきゃいけなかったのは…。誰のせいだと思っているの…」

うめくように言うのである。

「俺のせいだと、言いたいのか?」

「他に誰がいるって言うのよ!」

感情の昂ぶりを抑えきれなくなったのか、少女の声はタガの外れたものになっていた。

「あなたがテロなんて起こすから、妖族が弾圧されることになったんじゃない!

私は学校にも通えなくなった。お母さんとも一緒に暮らせなくなったんじゃない!」

「俺のせいか? 

東町の暴動も、そもそも北方人と連邦人の争いは、人間の愚かで身勝手な心が招いたことじゃないか」

「そうやって、また逃げるんだ…。結局、セーンは卑怯者なんだ。みんなを利用するだけ利用して、あとの責任は全部みんなに押し付ける。自分のやったことの責任くらい、自分で引き受けなさいよ!」

「やだね。馬鹿は苦しむだけ苦しめばよいんだよ。

その苦しみも、結局はやつらのバカさ加減が招き寄せたことなんだから。自業自得さ」

相手の叫びに答えると言うよりは、ほとんど独り言だった。

思えば自分は、バカどものために虐げられてきたのだ。欲深い伯母、寄宿舎の嗜虐的な生徒達、術者協会の権力亡者達…

そいつらのために、自分の心も人生も滅茶苦茶にされてしまった。

ならば、今度は彼らが苦しめばよいではないか。

かつて自分を苦しめた、人間の愚かさ身勝手さ。それらが巡り巡って彼ら自身を苦しめるとすれば、とても溜飲の降りる光景だとセーンは思うのである。

だが、少女の方はセーンの言葉など聞いていなかった。

「あんたのようなやつは、病気ね! 私のことは半年も地下にほうっておくし。それに!」

レーナの怒りは涙交じりの絶叫となり、矛先があらゆる方向へと逸れていった。

セーンはもはや真面目に聞こうとも思わず、黙って窓の外を眺めていた。

(そのうち疲れるだろう…)

うんざりする様な気持ちで天井の木目を数えながら、耳障りな罵声を左から右へと聞き流していく。


「聞いているの…?」

叫びつかれたのか、レーナは絶望したように、一言呟いた。

「罵詈雑言など、今まで嫌になるほど聞いてきたよ。免疫が出来ちゃった」

「そう…。どうあっても、私のいうことには耳を貸さないんだ」

そう言ったきり、押し黙った。

沈黙がある種の冷気のように頬を突き刺すようで、彼は視線を移す。

みると、少女の右手には、白刃が握られていた。

割れた窓から入ってくる光を映して、鈍く銀色に輝く。

「それは、マーベル導師から貰ったもの? 変だな。君が目を覚ます前に所持品は確認しておいたはずなのに」

「私だって、妖族の端くれだよ。閉鎖空間を作り出して、そこに隠しておくことぐらい出来るよ…」

「なかなかに高度な術だな。でも、それでどうするんだ?」

セーンはゆっくりと振り返った。

今、少年と少女の間には数メートルの距離がある。間には壊れた椅子が横倒しになっていた。

「その椅子を乗り越えようとしたら、俺は君を殺すよ」

妖王の少年は、右手をゆっくりと前に差し出す。空を掴むように折り曲げられた指の全てから、うっすらとした蒸気が立ち上がり始めていた。

「なるべくなら、レーナの干からびたミイラなんて見たくは無いんだけどね」

思わず妙な言葉をつぶやいたのは、セーン自身にも少し狼狽の気持ちがあったのだろう。

彼は頭を振って、

「いや、別に構わないな。

すぐにバカなナイフは捨てるんだね。そうしないと、この蒸気を君に吹きかけるよ」

「…」

レーナの瞳にじんわりと涙が浮かんだようだった。

夜風が静かに部屋の中に吹き込み、ガラスの破片がパラリと、床の上に落ちた。

彼女は右手を凍りつかしたかと思うと、ナイフを投げつけようとした。

「バカな!」

少年は一喝し、目に見えない拳が、少女の華奢な体を打ちつけた。

レーナは弾き飛ばされ、壁に叩きつけられる。

(死んだか?)

崩れ落ちた彼女の姿に、一瞬だけセーンは驚く。果たして、レーナはうめき声を上げながら身を起こし、膝をついた体勢になる。

まだ、ナイフを手放していない。怒りの眼差しで、セーンを睨みつけてくるのだった。

「まだ、やるの?」

彼は続ける。といっても、セーンの顔からもとっくに笑みは消えていた。こんな状況を何時まで続けていなくてはならないのか、彼にも分からない。

少女は何かうめき声をあげたようだった。彼女は手に持ったナイフと、少年の顔を見比べる。

そして、そのままナイフを自分の左手首に走らせるのである。

(え…?)

真っ赤な血が、手首から流れていた。滴り落ちて、床が赤く染まる。

「あ…」

レーナはようやく自分のしていることに気がついたとでもいった風に、ナイフを力なく取り落とした。

自ら裂いた皮膚を、冷静沈着に眺めているとも、あるいは呆然自失としているとも見えるのだ。

「レーナ…」

ゆっくりと少女に近づき、ナイフを遠くに蹴り飛ばした。

左手首をのぞきこむ。命に関わるものでもないと見て取って、

「救急箱は?」

と、尋ねた。少女は振り向きもせず、

「右の机。上から2番目」

との答えだけが返ってくる。

救急箱を取るついでに、セーンは机の写真を一枚拾い上げる。

がっしりとした中年女と華奢な少女が、並んで写る光景。二人ともが幸せそうで、暖かい笑顔だった。

「それ、私の誕生日の。もう、ずっと昔の写真だね」

少女は振り向きもせずに言うのである。

セーンはゆっくりと、かつての幼馴染に歩み寄った。

「そんなに、自分が憎かったのか?」

そう言いながら、彼はレーナの手首を見た。

未だに赤い血が噴き出してはいたが、それほど大量に流れ出しているわけでもない。皮膚の表面が切られただけだった。

アルコール綿で消毒し、包帯を巻きつける。

その間、二人は無言だった。


「別に、死のうと思ったわけじゃないよ…」

レーナは座り込んだまま、血はようやく止まったようである。

「本当は、世界中のものを切り裂いて見たかったのか?」

少年は彼女の間近にしゃがみこんだまま、ふと聞いてみるのである。

「そうかも…」

唇をわずかに動かし、声はほとんど声になっていなかった。

「分かるんだよ、俺には。覚えがあることだしね」

「セーンも、こんなバカなことをしたことがあるの?」

風が強くなっているのか、木がざわざわと揺れる音がする。

「…さあ。だけど、今の俺には怒りを形にする力がある。君も、俺の仲間になるか?

そして、いっしょにこの理不尽な世界を破壊してやろうか」

「別にいいよ。そんなことやったって、意味ないし。でもね…」

レーナの言葉は殆ど聞き取れないほど、小さかった。

「ん?」

セーンは耳を寄せる。

今の彼はあまりに無防備な姿勢だった。今の少女があまりにも無力に見え、警戒心など全て消えうせていた。


おそらく、彼は甘かったのだろう。耳元で、少女の声が聞こえる。

「でもね、私だって、セーンを引き裂くことくらいなら、出来るかもしれないんだよ?」

セーンの首筋に、金属の冷ややかな感触が押し当てられた。

「え?」

見れば、少女はナイフを彼の頚動脈の間近に突きつけていたのだ。

「手を上げて」

少女のか細い声に、どのような力があるというのか、セーンは思わず両手を上げていた。

「動かないで。動いたら、分かってるよね」

レーナは乾いた声で言う。右手ではナイフをつきつけ、左手で彼の肩を抑えていた。

(バカな、蹴り飛ばしたはずなのに…)

「あのナイフ、実は二本もらっていた。こっちは今まで隠していたんだ」

「…どじったな」

もちろん、自分が、である。

「こっちのナイフも、妖王を切り裂く力を持っている。これでも、お母さんのこと、助けてくれないの? ねえ!?」

脅迫の言葉が、冷たい空気をしなる鞭のように一打ちした。

「分かった、分かったよ。俺の負けだ。君の言うとおりにするよ」

まさか、本気じゃないよな、とつぶやきたかった。冷たい金属の感触に、彼の心臓は根から震えているのだ。

「約束する? お母さんを助けるって」

「ああ」

セーンは我ながら情けないと思うほど、幾度もうなずいた。

(けど、それは無理だろ)

連邦の厳重な警備が張り巡らされた強制収容所から、囚人を救い出せる自信は正直余り無かった。

彼の気持ちの揺れを目ざとく見て取ったのか、レーナは首を振った。

「ここで約束してもらっても、信用できない。あなたのことだから、嘘をつくなんて平気だろうし」

「だが、俺が死んでしまえば、約束を守れる可能性はゼロになる…」

「導師なら、セーンに代わってお母さんを助けてくれるかもしれない」

少女の顔は、今や間近にあった。残酷な喜びで輝いているのだ。目を逸らしたくても、無理だった。

「さっき、夢の中で導師と会ったの。色々と力になってくれそうだった。あの人が助けてくれるとしたら、セーンなんて用済みだよね」

こんな残酷な声を出せる女だったろうか。少年の身の毛はよだち、恐怖が叫び声となって口から飛び出した。

「やめとけ! やめとけ! あれは、とんでもない女たらしだぞ。

もともとは正妻もいたけど、彼女はとても不幸な人生を送った。

そんな男を当てにするのか?」

「でも、セーンよりは信用できる」

レーナはそれきり黙ってしまった。

少年は目に、窓の外の光景が映っていた。庭では木の枝が揺れていた。積もった雪が、氷の切片となってぱらぱらと落ちていく。

自分は何故、外の風景をじっくり観察しているのだろう。風の音以外は何も聞こえない。視界は涙で滲んでいき、何も見えなくなってしまう。

ナイフが首筋を走り、皮膚から血が出るのが分かった。もうすぐ、熱い鮮血が迸るのだ…。


「なんて、私がそんなことする訳無いでしょ」

レーナはあっけからんと言い放ち、ナイフを首元から離すのだった。

「え…あ…」

彼女の手元からナイフは消えていた。

少女はすっと立ち上がる。

まだ呆然と座り込んでいる彼を少し得意げな、それでいて優しげな笑顔で見下ろしているのだ。

「やっぱり、セーンはセーンだったね」

「…どういう意味だ」

「いろんな意味でよ。

えらそうなこと言っていながら、最後にポカやっちゃうところとか。怖がりで、そうやって泣きべそかくところとか。そして…」

レーナは今まで見た中でも飛び切りの笑顔を浮べるのである。

「あとは、私が傷ついたのを見ると用心も忘れて、怪我の治療をしてくれたところだね」

彼女の左手に巻きつけられた包帯は、未だに血がにじんでいた。

少年はようやく立ち上がる。ふと、少女の右手が伸びた。

「怪我、大丈夫?」

ほっそりとした指が、セーンの首のきり傷をそっとなぞる。

「ごめんね…」

すまなさそうにつぶやいて、少女の首の傷に口付けをする。セーンは動くことも出来ないでいた。


夜を渡る風は、先ほどよりは穏やかになっている。

廃墟と化した家を出て、レーナと連れ立って歩く。

少女の横顔を見ながら、いったい彼女は何者なのだろうと思い悩んでいた。

わずかな間に、激怒し茫然自失となったかと思えば、恐ろしい脅迫をし、挙句の果てには優しく笑う。柔らかな感触がまだ残っている唇を押さえながら、

「おい…」

と呼びかけた。「え…なに?」と彼女は振り向く。

(こんな女、すぐに殺してしまったほうが良いのかもしれない)

幼い頃から彼女は怒ったり笑ったり、表情をくるくる変えては自分を振り回してきたのだと、今になって思い出す。

幼女であるうちは、可愛いものと笑って済ませられたかもしれない。

だが、この歳になってしまえば…。

「君の母親の事なんだけど」

「…無理なんだったら、仕方ないよ。不可能なことを頼むわけにはいかないし」

今は落ち着いた声だった。

「でもさ、もし出来るんだったら…やっぱり、助けてほしい」

寂しげな翳が、少女をよぎる。

(どこまでが演技で、どこまでが本気なんだか…)

かつて、彼女に言ったことがあった。

『偽りを、自分でも正しいと信じ込むことが出来る。そうなれば、偽りは真実となる。自分にとって真実であれば、他人を信じさせるのも容易い。だって、もう騙しているわけじゃないんだから』

自分の言ったことを、セーンは完全には理解していなかった。

彼女の方こそ、より深いところで理解していたのだ。

真実と虚偽の薄暗い狭間に、彼女の無定形の心は蠢いていた。

あの侮蔑の眼差しも、そして慈愛の表情も、全て嘘であると同時に真実なのだろう。レーナ本人にさえ、見極めがつかなくなっているのかも知れなかった。

(真実という概念そのものが、拠り所を求めずにいられない人間の弱さが生み出した、はかない幻影に過ぎない…)

そう思えば、目の前を歩くレーナが奇妙に愛おしくも、あるいは吐き気を催すほど忌まわしくも思えるのだった。

「どうしたの…?」

レーナは怪訝そうに首を傾ける。

「いや、…わかったよ。なるべく努力するよ」

間が長すぎたのか、レーナは一瞬何を言われているのかわからない風だった。

だが、直ぐに顔をほころばせ、

「本当?」

と声を弾ませる。少女の笑顔は、かつて彼が好きだった幼馴染の微笑そのままで、セーンは胸が温かくとろけてしまいそうな、おかしな心地に襲われてしまう。

(やっぱり、殺せそうにはないなあ…)

当たり前の事実を、今更ながら気がついた。



9、

オーレル邸の客室に、ゼスタ理事長は待たされ続けていた。

大地の裏側の妖族たちが壊滅させられた旨を聞き、仰天して彼の私邸に赴いたのである。

気でも狂ったのか、後先のことを考えていたのか。オーレルに会ったなら投げつけてやりたい言葉の数々が、胸中であふれ出しそうなほど煮えたぎっていた。

だが、案内された応接間に彼は一人残されたきり、何の音沙汰もない。

激怒は次第に憔悴へと変わっていき、痺れを切らして時計に目を落とすと、約束の時刻を30分も過ぎていた。

用事が立て込んでいるのだろうか、それにしても召使の影さえ見えないのはどういうことだ。

彼の重い腰が、ソファーから持ち上がりかけたとき、急に部屋の照明が暗くなり始め、すぐに真っ暗闇に覆われた。

劇の幕が開く直前のような、静寂と暗黒。

ゼスタが、誰かを呼ぼうと口を開き変えたとき、闇の一点に光がともった。

怪しく揺らぎ、形を変えながら、光は徐々に大きくなっていく。

それは、やがて、ひとつの映像を形作っていった。


「これは、何なのだ…」

ゼスタの顔がゆがむのが、自分でもわかった。

若いころのゼスタが歩いていた。一人の女が彼にすがりよってくる。かつてゼスタが情欲に任せ己がものにし、捨て去った少女。腹を醜く膨らませていた彼女は、今ほど太ってはいなかったゼスタにすがりつく。だが、彼は無情にも少女を突き飛ばし、足蹴にする。

女は泣き声をあげていた。

彼女の悶え苦しむ表情は見る見ると膨れ上がっていく。絶望に見開かれた目が、映像を埋め尽くしゼスタをにらみつける。彼は思わず悲鳴を上げた。

「な、なんで今更…」

よろめくゼスタ。

恐ろしい幻影が、現れては消えていった。

ゼスタに責任を擦り付けられた部下の、恨めしげな表情。ゼスタが売り渡した同僚の、愕然とした表情。

彼が生涯にかけて行ってきた浅ましい行為の数々だった。世間の目から無事に隠し通せたと一人合点していた、そして自分でもほとんど忘れていた、ありとあらゆる彼の悪行。脳髄に突き刺さるほどの鮮烈な光景が、暴かれ続けていく。

理事長の口から、わけのわからない叫びがほとばしる。我知らず体をねじらせ、両手で顔を覆っていた。己の過去を暴く光景から、何とか逃れたかった。身も心も、穢され尽くす心地がした。


笑い声が高々と響き、暗闇の一隅から真紅の炎が燃えあがる。業火の中から、一つの影がはいずりだしてきた。ゼスタが打ち捨てた少女が、魂の震えだしそうな呪詛をつぶやきながら、這いよってくるではないか。

「く、来るな!」

ゼスタは自分でもよく分からない悲鳴を上げる。

影はあとからあとから無限に現れてきた。無数に群がる影のなかに、おぼろげに浮かんでいる表情は、ゼスタにとって見覚えのあるものばかり。

無数の暗い瞳が、憤りともさげずみともつかない恐ろしい眼差しで、ゼスタの心を貫くのである。

「ひい、いい」

彼は倒れ付していた。

いくら目が潰れそうなほどに瞼を強く閉じても、恐ろしい表情が脳裏に焼きついている。

両耳を強く抑えても、彼らの怨嗟とも嘲笑ともつかない囁き声が、耳朶の奥で騒々しく響き続けるのである。

何度も何度もあえいでいた。

息が苦しかった。必死に息を吸い込んでいるのに、空気が肺腑を素通りしていくようだった。

胃の中のものを全て戻してしまいそうで、頭は容赦なくぐらついてしまう。手足の先がしびれこわばり、身動きすることもままならない。

「これしきのことで、ダウンですか? 情けないなあ」

フードを被った妖王が、闇から姿を現していた。背後には、暗く燃えさかる炎を背負い、微かな笑い声を漏らしている

「僕だったら、過去の悪事を見せ付けられても、何も感じないんですけどね。

そこまで苦しいんだったら、はじめからやらなきゃよかったのに。

よくよく中途半端なお方だ」

相手が何を言っているのかもよく分からない。ゼスタはひときわ大きくあえぎ、息苦しさはひどくなった。

「随分と苦しそうですね。楽にしてさしあげましょうか」

彼はそういって、ゼスタの首に不可視の力を加え始めた。

「ひィ…やめてくれ…」

ゼスタの懇願も虚しく、少年は憎悪の限りを念にこめる。理事長の首の骨がみるみると捻じ曲げられていく。

息がつまり、頭が真っ白になった瞬間、

「やめなさい。蛆虫にだって、慈悲をかけるべき時はあるのだ」

誰かが、少年の手をとどめたようだった。首の力は緩められ、ゼスタの体はぴくぴくと痙攣した。

「大丈夫かね。ゼスタ君」

ひっと身をこわばらす。オーレルの大きな手が、ゼスタの口をふさいだのだ。だが、導師の手は暖かかった。手と口の間には空間があって、そこで呼吸をすることが出来た。導師の手で温められた息を吸っているうちに、次第に息は楽になっていき、手足のしびれも和らいでいく。

「安心したまえ、君の命は保障しよう…」

「ああ、ああ、ありがとう…」

ゼスタは目に涙を浮かべ、鼻水を流すように泣きべそをかき、導師に泣きつくのである。

「うーん、美しくない光景だ」

と冷やかすように言ったのは、背後に佇む妖王だった。今、彼はフードを脱ぎ、少年の顔をあらわにしていた。

「いいのですか、導師。こいつは裏切り者なんですよ」

妖王の骸骨にも似た細腕が指し示す先に、新たな光景が浮かんでくるのである。


他ならぬゼスタ自身が、幻影の中にいた。

「わかっておる。オーレル導師をつれてきたのはそのためなのだ…」

ゼスタ本人が、そういったのだ。

「どういうことでしょうか?」

部下のマーベル同士が聞き返していた。

「あの男は、協会では一匹狼だ。責任をなすりつけるには、もってこいの…」

「妖族との癒着のスケープゴートに、オーレル導師を利用すると。古い友人を裏切ってまで」

「いやいや、万一の場合にはそうしたこともあるということだ。決して、必ずそうすると決めたわけではない。

ただ、いざという時に、協会の権威を傷つけるわけにはいかん。

そのためには、常に反主流派にいた彼に押し付けるのが最上ということも、確かなのだ…」


「お、オーレル…」

ゼスタは怯えた子犬のように落ち着かない瞳で、静かに佇むオーレル導師を見上げるのである。

裏切りの場面を、本人に見られてしまった。

果たして、導師の顔から優しさは消えていた。あるのは静かな悲しみと、そして冷ややかな軽蔑だけ。

「君が、そういう男だとは思わなかったよ」

氷の刃で突き刺すような口調に、ゼスタは「あああ」と泣き声をあげるのだった。

「協会の術者など腐敗堕落したものばかりだが、さすが君は頂点に立つだけのことはある。君の悪徳は、もはや海よりも深いようだ」

「き、君の言ったことではないか。私に協会を改革するように、そのためにはあらゆる手を使ってかまわんと、いったではないか!」

哀訴に近い叫びをあげながら、理事長は涙を流すのである。オーレルは若いころからの友人で、ゼスタは多くの場面で彼の助言に従ってきた。

今になって思えば、自分の野心そのものが、彼によって煽り立てられたものに思えてならなかった。

マーベルを相手に、いざとなったらオーレルを裏切るようなことを言ったのも、心からの本意とは言いがたかった。

理事長にまで出世して、彼の影響力から脱した自分を誇示したい思いが、どこかにあったのかもしれない。

その自信こそが大いなる錯覚だったと、今になって思い知るのである。

「私が、君に命じたと?」

だが、オーレルは不思議そうな顔をしている。

「私がいつ、君に哀れな少女を捨て去るように薦めた? そして、妖族と手を組むように命じたことがあったか?

全ては、君が自由意志で行ったことだ。それを他人のせいにするなど…。君の品位がますます損なわれるだけだぞ」

「ぐうの音もでませんね、理事長さん?」

妖王に追い討ちをかけられ、理事長と呼ばれた男はがっくりとうなだれた。

(確かに、こいつは俺に何かを薦めるとき、明確な言葉など使わなかった。全てが仄めかしと暗示…俺は、命令もされていないのに、奴の意のままに動いてしまっていたのだ…)

「立ちたまえ!」とオーレルは一喝した。

彼は操り人形のように、よろけながら立ち上がるしかない。

服は引き裂かれ、顔は憔悴しきった無様な姿である。


ほとんど崩れ落ちるように、理事長はソファーに座り込んだ。

何時の間にか光の戻った応接間。ブラウン管では、ゼスタの生涯にわたる醜聞が繰り返し流されている。あんなものがどこで隠し撮りされたのだろうと、ゼスタはぼんやりと考えていた。

「あーあ、収賄の現場まで押さえられちゃってるよ。これが、世間にあからさまにされれば、さぞや大騒ぎでしょうね…」

セーンはニコニコと笑っていた。

「でも、安心してください。僕は公開したりしませんから。いや、本当は公開してもいいんですけど、オーレル導師に止められているもんで」

「君たちはいつ、手を組んだというのだ…」

ゼスタは呆然とつぶやいていた。

「君は、相変わらず勉強が足りんな。妖族の不文律を知らんのかね。

『戦いには負けたが命までは奪われなかった妖族は、勝者の下僕となるのが宿命』

私がディンケル君に重傷を負わせたときに、君は気付かなくてはならなかった」

妖王は微かに顔をしかめていたが、今の理事長にはそれに気のつく余裕も無い。

「私は…どうすればよいのだ」

ゼスタは呆然とつぶやく。

彼の生涯の秘密全てが、あっさりとオーレルの手中に握られてしまっていた。どうあがいてみても、この男の手から逃れることなど出来そうに無い

「今までどおりで、よいのです」

導師は以前と変わらない微笑を浮かべ、ゼスタを諭すのである。

「以前のとおり、術者協会を強めるための政策を取り続けていれば良いのです。あなたが望むなら、いっそ北方の妖族たちに対して、戦争を起こしても良いでしょう。

あなたの行為も、歴史を前に進めることになるのですから」

相手の言うことが殆ど理解できないまま、ゼスタは幾度も幾度もうなずいていた。壊れかけた湯のみ人形のような所作に、セーンはまたも厭らしい含み笑いを漏らす。

「だが、大地の裏側の一件で、私を罰そうとするのなら、それは誤りだ。

なぜというなら、今回の協会の行動に、大衆は拍手喝采を浴びせているのだからな。

むしろ、それを自分の手柄としてしまいなさい」

「しかし、あいつらを壊滅させてしまって、それでどうすればよいと云うのだ!」

思わず叫ぶ理事長に、オーレルは無智の凡夫を哀れむ聖者といった面持ちを向けて、

「地下の妖族の役割は、既に終わっていたのですよ。近年になってエナスへ流入してきた北方人たちは、地下の妖族を支持してはいない。

代わりに彼らの心を捉えたのは、ここにいるディンケル君だ。なら、我々もこれからは彼に裏社会のことは一任しようではありませんか」

妖王は薄笑いを浮かべながら、「よろしくお願いします」と、わざとらしいまでに丁寧なお辞儀をした。

(こいつが半年でエナス在住の北方出身者を支配するまでに至ったのは、オーレルが財政面でも支援したからなのだなあ…)

ゼスタは今になってからくりに気付くのだが、全ては後の祭りである。

「最後にひとつだけ聞かせてくれ…君は、オーレル導師は、何を目的としているのだ。なぜ、妖王と手を組んだ? 連邦を滅ぼすつもりなのか? それとも」

「私の意図を口で説明したところで、あなたには理解できないでしょうな」

導師は冷たく言い捨て、部屋を去った。

セーンは後を追う。

部屋を出がてら、一瞬だけ振り向いて、なんともいやらしい笑顔を理事長に振り向けた。

死神の笑いのようにも見えて、ゼスタの緩んだ肉体にもさざなみのような戦慄が走ったのである。



10、

庭の中央にある噴水は、いつもと変わらず穏やかな水音を奏でていた。

庭のあちこちに置かれた照明が、木々の緑や古びた館の姿を穏やかな光に照らし出している。先ほどまで館の内部で起こっていたことが、嘘であるかのようである。

「しかし、あの男、本当に導師に逆らったりはしませんかね。家に返してよかったのですか?」

セーンは導師にここまで付き従いながら、初めて懸念を口にした。

「小人の気持ちは変わり易い。だが、私は彼の意図をいかなるときにも知ることが出来るのだ」

導師は、例の揺るぎない自信を見せるのである。

「まだ、あの理事長にも利用価値があるということですか。でも、連邦が北の国々に派兵することを、望んでおられるのですか?」

連邦が領土を拡張したら、それは導師の目的…連邦の弱体化という大望に反することではないのだろうか。

「縮めたいと欲するのなら、まずは広げさせるのがよい…。無謀な拡張政策は、後々の衰退につながるものだ」

導師はそれだけ言って、あとは視線を空に上げた。

都市の穢れた大気は、昨日までの雪に洗われたのだろう。真冬の澄んだ夜空に、星々は静謐な光を放っていた。

「今日は珍しく、星が見えるな。ディンケル君、天体観察は好みかね」

「いえ、あまり。最近は、地下暮らしも長かったですし」

「そうか。

…私の友人で、星の大好きな男がいてね。

とても賢い男だった。賢すぎて、地を這う人間などのことには興味の無い男でもあった。

今でも霧に浮かぶ山頂に一人住まいし、宇宙の法則を探り出そうとしていることだろう」

オーレルは少し苦笑交じりに

「彼の話にも面白いところはあった。例えば…君はこの星の名前を知っているかね?」

「地球、じゃありませんか? フィフス・アースとも言いますね」

「語源は古代語で、意味は『5番目の地球』だ」

「へえ…。5番目…」

「君も、祖星の神話を知っているだろう。人類の起源はこの星には無い、と主張する学説も聞いているはずだ。

祖星と呼ばれる恒星の、周囲をめぐる星々の中に、真の『地球』がある。

太古の時代、人類はその地で発祥した。

営々と歴史をつむいだ彼らは、ある時代に故郷を去り、新たな大地を捜し求め、移り住んだ。

この星も、人類が見出した植民地のひとつ。

それが、『5番目の地球』と名づけられている所以だ。分かるかね?」

「二番目の地球、三番目の地球、四番目の地球、と呼ばれている殖民惑星が、この星空の何処かにあるということですね」

セーンもいつしか空を見上げ、沈黙を保つ星々に見入っていた。

「もっとたくさんあるかもしれん。そうした星々の文明は、今はどこまで発展しているのだろうな」

導師の瞳は星の光を映しだし、どこか憂わしげに揺れているようでもあった。

「思えば、この星の人類は無様なものだ。かつては星を渡る力があったのに、その術は失われて久しい。

なるほど、太古の人類がもっていなかった不可視の超能力…術力を手に入れたとは言えよう。それも術者と一般人、あるいは妖族と北方人といった階級社会をもたらし、人々を不幸にしているだけだ。

もし、他の惑星の人類が我々を見たら、さぞ滑稽な野蛮人に見えるだろう。愚かな我々を、思うように隷属させたい誘惑に駆られるやも知れぬ」

「でも、分かりませんよ。他の惑星の住民は、もっと酷い退歩をとげているかもしれません。もしかしたら、人類が生き残っているのは、我々の星だけということだって」

「そうあれかし、と心から願っているよ。だが、現実が希望通りになってくれるとは限らぬ。あるいは、恐るべき文明を築き上げた惑星があるかもしれぬ。そうした文明が、一方では資源の枯渇に悩まされ、他の星々に食指を伸ばしている可能性だってあるのだ…」

「この星が侵略されないために、もっと強い文明を築きあげたくて、導師は連邦を滅ぼそうとなされているのですか?」

奇妙な憶測が、少年の心を震わせていた。

あるいはこの男、そうした星々を旅したことがあるのだろうか。

伝承に語られる星の船に乗りこみ、茫洋たる漆黒の大海原を渡り、異星の偉大な文明を目の当たりにしたのかもしれない。

「私はただ、せねばならぬことをするだけだ」

その言葉は、胸の奥が震えてしまいそうなほど、不思議な力を持った響きであった。いずことも知れぬ深淵から、聞こえてくるようだった。

空の星々を背景にたたずむ導師の影は、いつしかこの世のものとはかけ離れた、侵すべからざる存在として迫ってくるのである。

セーンは目を見張ってしまう。いつのまにか一歩、後ずさりしてしまっていた。

(何を怯えているんだ、俺は…)

気を取り直すため、彼は少し別の話を持ち出すことにした。

「あの、オーレル様にお願いしてよろしいでしょうか?」

「何かね?」

「リンダ=ラスカーと言う名の中年女が、強制収容所に収監されているのですが、彼女を解放してやってくれませんか?」

「何?」

突拍子も無い願い出に、流石のオーレルも面食らったようだったが、やがて合点した表情となった。

「おお、そうか。ディンケル君の初恋のラスカーレーナの、その母君だったね。

なるほど、これは意外だ」

「いえ、そういうことでは」

少年は慌てて首を振った。

導師は可愛らしい動物でも見るかのような、生暖かい瞳を向けて

「どうやら、君に対する認識を少し改めなければいけないようだな。

若い者にありがちとはいえ、まさか君のような男までが」

だがオーレルは、すぐに真顔に戻り、厳しい口調で

「だが、気をつけたまえ。彼女は一度、君を裏切っているのだ。

同じことが何度でも繰り返されうることは、分かっておるだろうな」

(なるほど愚かだ)

セーンは我がことながら思う。

人の善意や愛情に期待をよせるなど、愚の骨頂だと思っていた。

人間性の過酷な真実を直視できない腰抜けどもが、そのような馬鹿げたことにすがるのだろう。

恋愛などと世間では有難がられているものも、所詮は性欲を飾るための言葉に過ぎない。

それが分かっていながら、あの少女が大ミミズに食われそうになった光景に耐えられず、彼女を助けてしまったのだ。

同様の行為を、幾度も幾度も繰り返したのである。

(俺のような男が、そんな甘ったるい心の持ち主だったとは、なんともお笑い種だ)

導師はさぞかし、彼のことを痴れ者と軽蔑したに違いなかった。自分自身を引き裂いてしまいたくなるほどの怒りさえこみ上げるのだが、

(けど、馬鹿は俺だけじゃない)

セーンは思い返し、薄笑いを浮かべた。

「導師こそ、あの娘にご執心なのでしょう?」

と問い返すのである。

「は?」

「知っていますよ。あなたが老婆に化けて彼女の部屋を訪れたこと。初めは意外でしたけど、よく考えたらお似合いかも、と思いましたよ」

「君は、何を言っているのかね?」

導師は平然と空とぼけるのだが、瞳の奥に困惑が浮かぶのを、セーンは確かに見て取るのである。

「だから、あの娘は導師に捧げましょう。

とはいえ、私が捧げると言ったところで、それで言うことをきく女じゃありません。

導師も彼女に喜ばれることをしても良いのでは?

彼女、ああ見えてマザコンですから。母親を救ってやればきっと感謝しますよ」

オーレルは、何か地面をうごめく薄気味悪い生き物でも見たような顔つきに変わっていた。

「たわごともいい加減にしたまえ。ディンケル君には恋人を大事にする発想は無いのかね」

「ありません。そもそも彼女とは恋人じゃありませんし。

例えそうだとしても、なにを迷うことがありましょう。

獣の雄たちでさえ、自分より強いものに対して素直に異性を譲るのです。私だって、それくらいの分別はありますよ」

「…その話はもうよい。

ラスカー母娘は、連邦で幸福に暮らすことは出来ぬであろうな。娘の方が、妖族の血を引くとわかってしまっているのだ。

彼女たちを、湖東の自治州に引っ越させてみてはどうだろう。

サンライズ市(湖東自治共和国の中心的な都市)には私の友人も多いから、私が彼女たちの安全を保障できる」

「ありがとうございます。彼女にとっても、あなたにとっても、都合の良い話であるはずです」

恭しく頭を下げるのだった。


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