竜医見習いの少女は、人間ぎらいの老竜を診ることになりました
アステリア王国には、竜を診る医者がいる。
人を診る医者とは少しちがう。
大きな体。
固いうろこ。
人とはちがう骨や内ぞう。
そして何より、竜は自分の気持ちをはっきり持っている。
だから竜医には、薬の知しきだけではなく、竜と話す力も必要だった。
ミナ・レイルは、その竜医を目指していた。
十九歳。
王都セレスティアの竜診療所で働き始めて二年。
まだ正式な竜医ではない。
薬を作り、道具を運び、先生の手伝いをする見習いだった。
そんなミナに、初めて一人で仕事が任されたのは、ある春の朝だった。
「ミナ。今日は一人で行ってもらう」
先生のロアンが言った。
「……一人で?」
「ああ」
ミナは持っていた薬びんを落としかけた。
「先生は?」
「別の急な仕事が入った。北門の近くで飛竜がけがをしたらしい」
「それなら私もそっちへ――」
「お前はこっちだ」
ロアンは一枚の紙を差し出した。
そこには依頼の内容が書かれていた。
王都から少し離れた丘。
古い石の塔。
そこに住む一頭の老竜。
ここ数日、食事をほとんど取っていない。
「食よく不しんですね」
「ああ」
「それなら、たぶん口の中か、お腹の調子か……」
「見ればわかる」
ロアンは簡単に言った。
「ただし、一つ問題がある」
「何ですか?」
「その竜は、人間がきらいだ」
ミナは黙った。
「……帰ってきてもいいですか」
「まだ行ってもいないだろ」
老竜の名前はベルガ。
年はおよそ六百歳。
大竜の中でもかなり年を取った個体だった。
昔は王国の北で暮らしていたが、今は王都の外れにある古い見張り塔を住みかにしている。
人をおそうことはない。
けれど、人に近づかれるのは大きらい。
特に医者がきらい。
「どうして医者がきらいなんですか?」
出発前、ミナが聞くと、ロアンは少し考えた。
「昔、薬を飲ませようとした竜医を池に投げた」
「……」
「その前は、診察道具を全部かみくだいた」
「先生」
「何だ」
「本当に私が行くんですか」
「大丈夫だ」
「その大丈夫は、何をもって大丈夫なんですか」
「お前は軽いから、投げられても遠くまでは飛ばない」
「安心できません!」
けれど結局、ミナは行くことになった。
薬箱を背負い、王都の西門を出る。
街道を一時間ほど歩いた先に、古い石の塔が見えた。
「……大きい」
塔の横に、さらに大きな影があった。
灰色の竜。
ベルガだ。
横になって目を閉じている。
ミナは少し離れたところで立ち止まった。
「ベルガさん」
返事はない。
「竜診療所から来ました」
大きな金色の目が開いた。
『帰れ』
低い声だった。
「でも」
『帰れ』
「食事を取っていないと聞きました」
『腹が減っていないだけだ』
「三日も?」
『竜は三日くらい食べなくても死なぬ』
「それはそうですけど」
ミナは少しずつ近づいた。
ベルガが頭を持ち上げる。
『それ以上来るな』
ミナは止まった。
「診るだけです」
『嫌だ』
「口を開けてもらうだけでも」
『嫌だ』
「お腹をさわるだけでも」
『嫌だ』
「……全部嫌なんですね」
『そう言っている』
ミナはため息をついた。
無理に近づけば、本当に投げられるかもしれない。
だから少し離れた草の上に座った。
『何をしている』
「待ちます」
『何を』
「診せてもらえるまで」
『帰れ』
「先生に、ちゃんと診てこいと言われました」
『お前たち人間は、言われたことしかできぬのか』
「そんなことはありません」
『なら帰れ』
「それはできません」
ベルガは大きく息をはいた。
一時間たった。
ミナはまだ座っていた。
ベルガもまだ横になっていた。
何も起きない。
「……暇ですね」
『帰ればよい』
「それはできません」
『なら黙っていろ』
しばらくして、ミナは持ってきた昼食を出した。
黒パンとチーズ。
それを見たベルガが少しだけ顔を動かした。
「食べますか?」
『いらぬ』
「そうですか」
ミナは一人で食べた。
食べ終わっても、ベルガは何も食べようとしない。
塔の近くには、村人が置いていったらしい肉や果物がある。
どれも手つかずだった。
「本当にお腹が減っていないんですか」
『しつこい』
「仕事ですから」
『人間は面倒だ』
「竜もけっこう面倒ですよ」
ベルガが目を細めた。
『よく言うな』
「二年も竜の診療所にいますから」
『まだ子どもだろう』
「十九歳です」
『子どもだ』
「六百歳と比べないでください」
ミナは少しむっとした。
すると、ベルガが鼻を鳴らした。
笑ったようにも見えた。
午後になった。
ミナは少し気になることに気づいた。
ベルガは時々、口の右側を動かしている。
何かが気になるように、舌を動かしている。
「ベルガさん」
『何だ』
「歯が痛いんじゃないですか」
ベルガの目が止まった。
ミナはすぐわかった。
「やっぱり」
『違う』
「今、顔に出ました」
『竜の顔を読むな』
「仕事です」
『違うと言っている』
「じゃあ口を見せてください」
『嫌だ』
「見せられない理由があるんですか」
『……』
「痛いんですね」
『痛くない』
「じゃあ開けられますよね」
『お前は本当にしつこいな』
「先生にもよく言われます」
ベルガは長い間、ミナを見ていた。
やがて、あきらめたように大きな口を開けた。
「ありがとうございます」
ミナはゆっくり近づいた。
竜の口の中を見るのは慣れている。
でも、六百歳の大竜となると迫力がちがう。
一本の歯だけでも、ミナの腕ほどあった。
「右側ですね」
灯りの魔法石を使い、奥を見る。
「あ」
『何だ』
「動かないでください」
『何がある』
「たぶん、これです」
奥の歯の間に、黒い物がはさまっていた。
細く、固い。
「骨ですね」
『骨?』
「何か食べた時に、細い骨が歯ぐきに刺さったみたいです」
『……』
「これ、かなり痛かったでしょう」
『別に』
「強がらなくていいですよ」
『強がってなどいない』
ミナは薬箱から長い道具を取り出した。
「取ります」
『待て』
「何ですか」
『痛いか』
その声が、少しだけ小さかった。
ミナは笑いそうになった。
でも笑わなかった。
「少しだけ」
『やめる』
「だめです」
『では帰れ』
「もっと痛くなりますよ」
『……』
「すぐ終わります」
ベルガはしばらく迷ったあと、もう一度口を開けた。
「動かないでくださいね」
ミナは道具で骨をつかんだ。
深く刺さっている。
「いきますよ」
『早くしろ』
「はい」
一気に引いた。
ベルガのしっぽが地面をたたいた。
大きな音がした。
「取れました!」
ミナの手には、指一本分ほどの細い骨があった。
『……終わったか』
「終わりました」
傷に薬をぬる。
「今日は固い物を食べないでください」
『竜に何を食べろというのだ』
「やわらかい肉とか」
『そんな物では腹がふくれぬ』
「だからって大きな骨ごとかじらないでください」
『あれはうまかった』
「また刺さりますよ」
『次は気をつける』
「もう次の話をしてる……」
少しして。
ベルガは、村人が置いていった肉を食べ始めた。
最初は少しだけ。
それから、もう一口。
さらにもう一口。
「食べられるじゃないですか」
『うるさい』
「三日食べてなかったんですよね」
『うるさい』
「お腹すいてたんじゃないですか」
『うるさいと言っている』
ミナは笑った。
これで仕事は終わりだ。
道具を片づけ、薬箱を背負う。
「では帰ります」
『そうか』
「二日くらいしたら、もう一度だれかが見に来ます」
『来なくてよい』
「決まりです」
『面倒だな』
「人間は面倒なんでしょう?」
『そうだ』
ミナは歩き出した。
すると後ろから声がした。
『待て』
振り返る。
「何ですか?」
『次も、お前が来るのか』
ミナは少し驚いた。
「たぶん先生が来ると思います」
『あの男は嫌だ』
「先生、何かしたんですか?」
『薬が苦い』
「薬はだいたい苦いです」
『では、お前が来い』
ミナは目を丸くした。
「私でいいんですか?」
『他よりはましだ』
「それ、ほめてます?」
『さあな』
ベルガはまた肉を食べ始めた。
ミナは少し笑った。
「じゃあ、また来ます」
『勝手にしろ』
診療所へ戻るころには、日が少し傾いていた。
ロアンは先に帰っていた。
「どうだった」
「歯ぐきに骨が刺さっていました」
「取れたか」
「はい」
「そうか」
先生はそれだけ言った。
「……先生」
「何だ」
「ベルガさん、思ったより普通でした」
「普通?」
「ちょっと意地っ張りですけど」
ロアンは笑った。
「池に投げられなかったか」
「投げられませんでした」
「なら上出来だ」
「あと、次も私に来てほしいって」
ロアンの手が止まった。
「ベルガが?」
「はい」
「本当に?」
「『他よりはまし』だそうです」
ロアンはしばらく黙ったあと、大きく笑った。
「それはずいぶん気に入られたな」
「ほめられた感じはしませんけど」
「竜は人間とちがう。『また来い』と言われたなら十分だ」
ミナは少しだけうれしくなった。
まだ見習い。
知らないことも多い。
失敗することもある。
それでも今日、初めて一人で一頭の竜を診た。
そして、その竜はまた来てもいいと言ってくれた。
「先生」
「何だ」
「次の往診も、私が行っていいですか」
「もちろんだ」
ミナは笑った。
アステリア王国では、人と竜が共に暮らしている。
けれど、一緒に暮らすためには、互いを知ろうとする人が必要だ。
病気になった竜を診る者。
傷ついた竜を助ける者。
言葉にならない痛みに気づく者。
そんな仕事も、この国にはある。
二日後。
ミナが古い塔へ向かうと、ベルガは入口の前で待っていた。
「こんにちは」
『遅い』
「時間通りです」
『竜を待たせるな』
「患者さんはわがままですね」
『何か言ったか』
「何でもありません」
ミナは笑いながら薬箱を開いた。
今日もまた、竜と人が暮らす王国のどこかで、小さな診察が始まる。




