2.容疑者の足取り
地下鉄の駅を出ると道の狭さはまだ改善されていなかった、相変わらずガソリン自動車も走っている。自転車専用道路の設置も、今の所全く始まっていなかった。路上で煙草を吸っている人がいるのも驚かされた。キミコの時代にはシガーバーでしか味わえなくなっていた。煙草税は2000倍に跳ね上がり20本入りの煙草は4000円が普通だ。高級嗜好が好まれ紙巻きの廉価品は店頭から消えた。
犯行に至る前夜、このマンションを訪れて家で飼っていた猫を預かって貰っている。
円筒状の螺旋階段があるエントランスを入り、住居用の塔に抜けるエレベータ乗り場に向かった。
「一つ聞いていいかしら」キミコは約束通り、龍彦のメモリーを勝手に覗くことなく言葉で尋ねた。
「なに?」と龍彦の不機嫌な言葉が聞こえた。同じ声帯から発せられるので、聞き取るのが難しかった。
「仙道庄司は藍本映見の恋人というわけではないのね?」
「ああ、今は恋愛関係にはなかったと言っている、元彼という事かな。ただそんなに気安くあっているわけではなく、その日がお互いの友達の結婚式以来で五カ月ぶりだったと言っている」
「だが実際は、それは真実ではなく、一か月に一回は会っていたようだ」
「どうしてそんな嘘を?」
「お互いに恋人がいたからな、彼女には同性の、男には婚約者が」
「それは初耳ね、彼女は同性愛者なの」
「バイセクシャルって言った方が良いんだ、男との恋愛もあったようだから」
「本当なの?」
「日本の大手TV局、新聞社の記者クラブ14団体組は決して報道しないだろうけどな、週刊誌では有名な話さ、この国の大手マスコミは真実を国民に伝えるために存在しているわけじゃないからな。
この時点では、情報統省は設立されておらず、報道改革は始まっていなかった。新しい政権は公約にしていたはずにもかかわらず、記者会見は記者クラブ主導という旧政権と同じやり方を踏襲していた。これを認めてしまった官房長官は三ヶ月後にネットで放送局幹部との抱き合わせ接待を暴露されて辞任に追い込まれた。
「この部屋の男と少し話をしてみたいんだけど良いかしら?」
「別に俺は困らないで」
「貴方のメモリーを一瞬スキャンさせてくれない、そうすれば私が話を出来るんだけど」
「ダメだね、約束は約束だ。勝手に頭の中を見られてたまるもんか」
捜査手順から外れるが、龍彦にやらせるしかなさそうだ。彼自身をイレースしてしまえば早いが、知識情報までクリアしてしまえば、もっと面倒なな事になる。
「じゃあ、これだけ聞いてもらえないかな……」
「何、俺の調査が甘かったっていうのか?」
「あっ、私のメモリーを読んだわね!」
「あのなぁ、僕は頼んで一緒にいるわけじゃないの。貴方が勝手に体に入ってきているわけ」
「私は約束しているんだから、貴方も私のメモリーを読まないは礼儀でしょ。それに未来の事を知られるのはペナルティになるのよ、それが約束出来ないんだったら、悪いけどどメモリーをイレースさせてもらうしかないわ」
「結局、僕には選択権がないんだろ。それであんたの聞きたい事は?」
「被害者が当日に彼の携帯に電話をしているの、その内容を確認出来ないかしら」
「それってどうやって聞くわけ。僕にとっても始めての話じゃないか、あんたは未来から来て知っているだろうけど」
「タイムラグか、まだこの時点では分かって無いのよね」
「あんたは電話の内容を知っているんだろ?」
「情報提供者は彼だけなのよね、クレジットレベルは1、最近、ウィルスの氾濫が酷くて、偽造されたメモリーかもしれないのよ」
キミコはボディのコントロールを龍彦に戻した。彼はすぐに呼び鈴を押した。落ち着きのないせっかちな性格とプロフィールに書かれていたので、その点は注意しなければ行けない。
「どなたですか?」と男の声がした。拒むような返事だったが何とかドアを開いて貰う事が出来た。仙道は頭を丸刈りにしてメガネを掛けていた、部屋の中で黒レザーのジャケットに白いパンツを合わせていた。黒ぶちのフレームの奥に異様に大きな二重の目がせわしなく揺れている。この時代のファッションが思い出せなかったが、かなり気味の悪いタイプだ。カメラマンという人種を、そんなに多く知っているわけではないがアクの強さが売りにする仕事なのかも知れない。それを考えるなら探偵の龍彦の公務員のような姿は何だろう、目立たない事が探偵として優秀だと、どこかの探偵学校で教えられたのだろうか。身長百七十五センチだが猫背なのでもう少し小さく見える。ベージュのトレンチコートに地味なレジメンネクタイ。顔は小さく頭は癖毛で脇には白髪が混ざっている。どう見ても腕っ節は強そうには見えない。実際、プロフェールでは格闘技に関する事項はなかった。あるとすればアーチェリーを学生時代にやっていた事ぐらいか、街中で弓を引くわけにはいかないので、何の役にも立たないが。監察していると、龍彦は何度か頭をかく仕草をして本題に入った。
「映見さんから、お宅に事件当日に電話をかけているようなんですが、どんな内容だったか教えて貰えますか?」
「それは、プライベートなことなので、特にお宅に話す義務なんて無いでしょ」
「そうですか、それは困った事です。貴方がそういう態度で来られるなら、携帯電話を警察にお預けするしか無いようですね」
「また、警察かよ、知らないって言っているだろ」」仙道の眉間に青く血管が浮き出ていた。怒りは罪悪感がある場合に人が良く使う手だ。
「それだけ教えて頂ければ帰ります」
「だから電話なんか、無かったって言ってるだろ、自爆するのは勝手だけど、こっちも迷惑なんだよね」
「お願い事があったんじゃないですか、彼女はスタジオを出て三時間、迷った末に貴方に会いに来た、多分、家に行く前に何度か電話しているでしょう」
「推理をするのは勝手だけど、話してないものは仕方ない」
「貴方は婚約者と一緒にいらっしゃったんですよね、ベルが鳴っているのに出ないのは不自然じゃないですか?」
「じゃあ電源が切れていたんじゃないか」
「そうですか」
キミコは話しかけられないので、それで諦めるしかなかった。
ドアを閉めると、キミコは呆れた声をあげた。
「子供の使いですか、こんな事なら私がやるんだったわ」
「もしかしてあんた気がつかなかったか? あいつは電話のあった事を認めたじゃないか」
「なによそれ」
「プライベートな事なのでって言ったろ」
仙道は後に、猫を預けに行って良いかと聞かれたので、夜の十時以降なら良いと答えたと話している、但し彼女が来た時間には帰れず、会う事も無かったと言うのが調書の結果だ。
事務所に戻り、調査報告書を取り立たせた。萬坂探偵事務所への依頼者が、容疑者であった藍本映見の祖父であった為に、内情調査という名目になっている。親族にとっても彼女の行動は寝耳に水で納得が行かなかったのだろう。五枚のプライベートペーパーに印刷され一ヶ月間の調査結果を呼んだが特に目新しい情報はなかった。現時点で黙認されてしまった情報がないかどうか、調べたかったが、龍彦のメモリーをスキャンをすると非協力的になる恐れがあるので、今のところは止めておいた。
「他に交友関係は調査していないの?」
「もちろんしたさ。でも事件に繋がるような交友関係はなかった。もちろん亡くなった議員ともだ」「彼女は、環境運動に熱心な推進派だったという事だったとおもったけど、その辺りはどうなの環境NPOとか、何かグループに接していなかったの」
「彼女はニュースキャスターなんだで、その手の交友関係は腐る程いるさ、だけど、あの議員を殺す事まで考えなゃいけない話はなにもない」
「今は何か見落としがあるかわかないから、もう一度行った場所に連れてってよ」
「わかったよ」
龍彦は、オーバーコートを羽織ると外に出た。風は冷たく、初冬の空気が体を冷やした。龍彦が向かった先は、彼女が会員になっていたスポーツジムだ。都心の駅から少し離れたタワービルの二階にあった。
「このジムのトレーナーで、橋爪という男がいる、彼女が属していた環境NPOの代表だ、最近は外来魚により既存主の生活環境が脅かされると、かなり執拗に釣具メーカーを追いつめたらしい、ただ、過疎化の進んでいく村にとっては、湖は唯一の観光産業で、それを抜きにしては語れない街も出来ている。農業で食えないのと一緒で、川の漁業ではくっていけないからな」
「川端もエコNPOにいたらしいんだけど。何か関係あるのかしら」
「年齢が違いすぎるよ、川端がやっていたのは原子力発電所とかダム建設の大規模なものだ」
「彼らには共通点はないわけね」
キミコは諦めたように言葉を吐いた。過去のメモリーはこちらからアクションを起こさなければ、決まった未来の結果に辿り着こうとする。混乱を避けて、間違っていても簡単な結論にたどり着こうとするのは人間の脳とそっくりだった。
「まぁ、とにかく話して見れば良い」
「良いって?」
「あなたにまかすよ、俺はあいつが苦手だから、それに気をつけてくれマッチョゲイという噂だから」と龍彦はまるで顔を隠すようにフェードアウトした。メモリーを共有するのに慣れてきたのか、彼の孤独。言いかえればメンツを覗きこまない限り、怒りだす事はなかった。男という生き物が守り続けている、女性から見れば何の足しにもならない情報が、彼らにとって大ごとで、それを隠そうとするから、覗くのだが、決まって無駄骨が多かった。トキコは言われた通りフロントで橋爪を呼んでくれるように言った。男は三十代後半の小柄な男だった。肉体をプロテインで肥大化させ、髪をほぼ丸刈りにしているので顔が小さく見れる。細い眼を作り笑いのような顔で引きつらせながら握手を求めてきた。竜彦にばれないように、軽く握る。
「それでどんな事を聞きたいんですか?」橋爪はフィジカルチェックをする席に向かって座った。
「映見さんの個人インストラクターをされていらしたんですよね?」
「ええ、そうです」
「事件を起こす前はどうだったでしょうか、ストレスになる問題を抱えていたとか、何か話されませんでしたか」
「私たちが話すのは殆ど体の事ですからね、どこの筋肉に脂肪が残ってるとか、もしストレスがあればどんなサプリメントを取ったらすっきりするとか」
「外とでお会いする事は無かったのですか?」
男は、そら気たどという顔をした。
「それは既にお話ししたように。私がやっているNPOの団体に一時興味を持たれて、運動に参加頂きましたので」
「どのような事ですか」
「海岸のゴミ掃除にも行って貰いましたよ、それに最近は環境をテーマにしたマラソンとか色々あって、貴方がお聞きになりたいような過激な活動はしていません。今は縄張りをどうやって周りの人に与えて参加して貰うかというのが基本ですから」
男の良い方が、いかにも古い団体とは違い、今はクリーンでオープンな組織を印象付けたいのだろうと思った。実際インターネットなので参加を呼び掛けて一緒に何かをする事で、環境だけでなく人の輪からお金と縄張りにまみれた競争社会のストレスを忘れる事が出来ると、近年になって参加する一般市民は多くなり。団体のメンバーも二千人を越えているらしい。
「彼女と最後に会われたのはいつですか?」
「それがね、ちょうど僕がバケーションで二週間屋久島に行っていた時なんですよ」
「じゃあ彼女は一人でトレーニングを?」
「一応メニューは作って渡しておきました、ただウェイトは無理なので他のトレーナーを紹介したんですけど、一度も呼ばれなかったようです」
「じゃあ一人で黙々と機械をしてた」
「いえ、あんまり来ていなかったようですよ。調べれば分かりますが」
「じゃあお願いします」
男は入館の記録票を持ってきて話した。二週間のうち来ているのは三日、事件を起こす前の一週間は来ていない。
「一週間来られてないですね」
「あれ、おかしいな最後の週に一回来たと聞いてたんだけど」と橋爪は言ってフロントに聞きにいった。
「あぁ、休みの前日に来たんだけど何もしないで帰ったみたいです。僕が出てると思っていたんでしょうかね、休みは言ってあったんだけど」
「応対をした方に話を聞けますか?」TKの中ではメモリーとメモリーが完全な形で結びつけられていない、それは焦点化の法則を好む人間の脳と同じで、複数点で他のメモリーとリンクすると答えが導くのが難しいからだ、この情報の優先度がオートスコアリングによって処理され上位リンクのみをメモリーする事になっている。
受付をした女性は出てきて「橋爪さんと会うのでなく、ジムのメンバーと待ち合わせだったのかも知れませんよ」と言った。
「待ち合わせ?」