第3話:氷の城、逃げ場なき絶望
屋敷からエルゼが去って三時間が経過した。
かつて貴族の社交場としても機能していたレンブラント邸は、今や巨大な冷凍庫と化している。
「ヴィクトール様、もう無理です……死んでしまいます……!」
クラリスが震える声で泣き叫ぶ。彼女が纏う高級なドレスは、防寒には何の役にも立たない。ヴィクトールは執死に命じて屋敷中のカーテンを引きちぎり、彼女の体に巻き付けたが、石壁から染み出す冷気は無慈悲に体温を奪っていく。
「なぜだ……なぜ火がつかない! 魔法騎士を呼べ! 火魔法の使い手を連れてこい!」
ヴィクトールの怒号に、顔を青白くした執事が首を振った。
「旦那様、無理です……。先ほど魔法騎士が試みましたが、この屋敷そのものがエルゼ様の『熱の記憶』を失った反動で、あらゆる熱を拒絶しています。魔法の火を灯そうとしても、一瞬で凍りついて……」
それが、エルゼが最後に残した「拒絶」の魔法だった。
五年間、彼女が自分の指を黒ずませてまで注ぎ続けた愛。その愛を「冷たい」と踏みにじった者たちに、彼女は二度と温もりを与えないと決めたのだ。
ヴィクトールは、冷え切った自室の書斎に逃げ込んだ。
ふと机の上に目をやると、いつもそこにあったはずの「温かい茶」が入ったポットがない。エルゼは、彼がいつ仕事に戻ってもいいように、一日に何度も茶を入れ替えていた。
「おい、茶はどうした! エルゼを呼べ! ……あ……」
呼びかけてから、彼は自分の愚かさに気づき、言葉を失う。
エルゼはもういない。
自分が「陰気で冷たい女だ」と罵り、吹雪の中へ放り出したのだ。
彼は震える手で、先ほど地下室から持ち出した彼女の日誌を開いた。
「二月十日。旦那様が風邪を召された。寝室の温度をあと三度上げる。私の魔力が足りない分は、指先の感覚を削って補填。……旦那様の寝顔が安らかで、よかった」
「三月五日。今日、旦那様に『不気味な女』と言われた。悲しいけれど、私の体温が彼を温めている事実は変わらない。それでいい。彼が凍えないなら、それでいい」
最後の一行は、文字が乱れていた。
おそらく、極度の凍傷でペンを握るのもままならなかったのだろう。
ヴィクトールは、自分の指先を見た。
ほんの数時間、暖房のない部屋にいただけなのに、指の感覚がなくなっている。
エルゼは、この痛みを五年間、一度も口にせず耐えていたのか。
「私は……なんてことを……」
その時、屋敷の玄関ホールで、ミシミシと巨大な音が響いた。
重さに耐えかねた大階段の装飾が、寒さで収縮し、限界を迎えて崩落した音だった。
逃げ場のない氷獄の中で、ヴィクトールは初めて、自分が捨てたものの正体が「愛」という名の生命線だったことを悟った。




