第2話:凍てつく寝室と、消えた「春」
エルゼが重い鉄の扉を閉めた瞬間、レンブラント伯爵邸から「生命」が消えた。
彼女の魔力によって無理やり春を繋ぎ止めていた石造りの城は、物理法則に従い、一気に死の沈黙へと引き戻される。
ヴィクトールは、愛するクラリスをエスコートして二階の主寝室へ入ったところだった。
「さあ、クラリス。ここが君の部屋になる。少し古いが、この屋敷は不思議と温かいんだ。外の吹雪が嘘のように……」
言葉の途中で、ヴィクトールは喉の奥を凍らせた。
言葉が白い。いや、白いどころではない。吐き出した吐息が、空中で細かな氷の粒となって、きらきらと床に落ちたのだ。
「え……? 痛い、ヴィクトール様、顔が痛い!」
クラリスが悲鳴を上げた。
ほんの数秒前まで春の陽だまりのようだった寝室の壁から、みるみるうちに真っ白な霜が噴き出していく。花瓶に生けられた薔薇は、命の色を失う間もなく、カチカチの氷像へと成り果てた。
「なんだ……何が起きている!? 執事! 火を焚け! 今すぐ暖炉に火を入れろ!」
ヴィクトールが廊下へ飛び出し、叫ぶ。
だが、執事も、使用人たちも、それどころではなかった。
屋敷の全域で、魔導具のヒーターが火花を散らして沈黙し、水道管は膨張して破裂し、壁の隙間からは外の猛吹雪が容赦なく吹き込んできた。
「旦那様、火が……火がつきません! 薪をくべても、火種が瞬時に凍りつくのです!」
執事がガタガタと歯の根も合わない音を立てながら、床に這いつくばっていた。
エルゼの温もりを前提に設計されたこの屋敷において、彼女の魔力が消えるということは、ただの「寒い家」になることではない。五年間蓄積された冷気が、一気に爆発するということだった。
ヴィクトールは、自慢の毛皮のコートをクラリスに着せようとしたが、その毛皮すら、エルゼが毎日手入れをしていた「温熱魔法」が解け、鉄のように冷たく重い。
「嘘だ……さっきまで、あんなに暖かかったのに……」
彼はふと、エルゼのいた地下室を思い出した。
彼女がいつも座っていたあの場所。自分が「不気味な呪術」と嘲笑った、あの空間。
「あいつ……エルゼだ! あの女が何か仕掛けたんだ!」
ヴィクトールは階段を駆け下り、地下室へと向かった。
扉を蹴破った彼が目にしたのは、絶望的な光景だった。
そこには、エルゼが座っていた椅子を囲むように、真っ白に燃え尽き、砕け散った膨大な数の魔石の残骸があった。
その一つを手に取ると、芯まで冷え切っている。
壁には、彼女が五年間、毎日欠かさず記録していた「温度管理日誌」が掛かっていた。
どの部屋に、どれだけの体温を割り振ったか。ヴィクトールの書斎が冷えないよう、自分の休息時間をどれだけ削ったか。
その膨大な、狂気とも言える献身の記録を、ヴィクトールは初めて目にした。
「体温……譲渡……? まさか、この屋敷の暖かさは、すべてあいつの……?」
その時、地下室の窓が激しい風に打ち付けられ、粉々に砕けた。
入り込んだ雪が、ヴィクトールの頬を鋭く切り裂く。
もはや、叫ぶ気力さえ奪われるほどの、本当の「北辺の寒さ」が彼を襲った。




