表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

1/6

第1話:氷の女、ぬくもりを畳む

 石造りの古城は、本来なら吐く息も白く凍てつくはずの場所だ。しかし、この屋敷の中だけは、常に陽だまりのような春の空気が満ちていた。


 エルゼ・レンブラントは、地下の冷たい石床に跪き、真っ赤に腫れ上がった指先を、熱を帯びた魔石へと押し当てる。

 自身の体温を、魔力という回路を通じて屋敷の「骨組み」に流し込む。五年間、一日も欠かさず続けてきた、彼女だけの秘密の魔法。


「……っ、ふ……」


 指先の感覚が、熱さと鋭い痛みで麻痺していく。

 五年前、政略結婚でこの地に嫁いだ日、冷徹な夫ヴィクトールが漏らした「この地は寒すぎる」という独り言。それを聞いたエルゼは、彼が少しでも安らげるようにと、自分の身を削って屋敷を温める道を選んだ。


 けれど、その努力が報われることはなかった。


「エルゼ。そこにいたのか。陰気な地下室で、また不気味な呪術か?」


 階段から降りてきたヴィクトールの声には、隠そうともしない嫌悪が混じっていた。

 彼の隣には、華やかなドレスを纏った、見知らぬ美しい女性。


「……旦那様。そちらの方は?」

「私の最愛の人、クラリスだ。彼女はこの凍てつく領地に耐えられるほど体が強くない。だから、お前とは離縁する。お前のような感情の欠片もない『冷たい女』は、この温かな屋敷には相応しくないんだ」


 冷たい。

 その言葉が、エルゼの胸に深く突き刺さる。

 貴方が「温かい」と感じているこの空気は、私の血を、肉を、体温を削り取って作ったものなのに。


「……私の代わりは、彼女が務めるのですか?」

「ああ。クラリスは、お前と違って微笑み一つで周囲を明るくしてくれる。お前のように無言で屋敷を徘徊するだけの女とは違う」


 ヴィクトールの後ろで、クラリスが勝ち誇ったように微笑む。

 エルゼは、自身の黒ずんだ指先を隠すように、そっと手を握りしめた。

 

 悲しかった。

 五年間、この人のために命を削ってきた日々が、ただの「不気味な徘徊」だと思われていたことが。

 そして、何よりも。

 

「……承知いたしました。離縁状に署名を。今すぐ、この屋敷を去ります」


 エルゼは、震える手で羽根ペンを握った。

 泣き叫ぶ気力さえ、もう残っていなかった。


「話が早くて助かるよ。さあ、クラリス、部屋へ行こう。ここは少し湿っぽい」


 二人が去っていく足音を聞きながら、エルゼは最後の魔法を発動させた。

 それは維持ではない。

 「回収」だ。


 屋敷の隅々にまで張り巡らせた、自身の温もりの糸。

 それを一気に、自身の内へと引き戻す。


 ――ガタガタ、と。

 

 石壁が鳴動し、窓ガラスが急激な温度変化に悲鳴を上げる。

 エルゼがトランク一つを手に、重い玄関の扉を開けた瞬間。


「あ……」


 背後で、パリンと、リビングに飾られた花瓶の水が凍り割れる音が響いた。

 

 春のようだった廊下に、外気よりも鋭い、マイナス三十度の死の冷気が一気に雪崩れ込む。

 エルゼは一度も振り返ることなく、吹雪の向こうへと歩み出した。


 ――さようなら、ヴィクトール様。

 貴方が愛した「温かな屋敷」は、もうどこにもありません。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ