第1話:氷の女、ぬくもりを畳む
石造りの古城は、本来なら吐く息も白く凍てつくはずの場所だ。しかし、この屋敷の中だけは、常に陽だまりのような春の空気が満ちていた。
エルゼ・レンブラントは、地下の冷たい石床に跪き、真っ赤に腫れ上がった指先を、熱を帯びた魔石へと押し当てる。
自身の体温を、魔力という回路を通じて屋敷の「骨組み」に流し込む。五年間、一日も欠かさず続けてきた、彼女だけの秘密の魔法。
「……っ、ふ……」
指先の感覚が、熱さと鋭い痛みで麻痺していく。
五年前、政略結婚でこの地に嫁いだ日、冷徹な夫ヴィクトールが漏らした「この地は寒すぎる」という独り言。それを聞いたエルゼは、彼が少しでも安らげるようにと、自分の身を削って屋敷を温める道を選んだ。
けれど、その努力が報われることはなかった。
「エルゼ。そこにいたのか。陰気な地下室で、また不気味な呪術か?」
階段から降りてきたヴィクトールの声には、隠そうともしない嫌悪が混じっていた。
彼の隣には、華やかなドレスを纏った、見知らぬ美しい女性。
「……旦那様。そちらの方は?」
「私の最愛の人、クラリスだ。彼女はこの凍てつく領地に耐えられるほど体が強くない。だから、お前とは離縁する。お前のような感情の欠片もない『冷たい女』は、この温かな屋敷には相応しくないんだ」
冷たい。
その言葉が、エルゼの胸に深く突き刺さる。
貴方が「温かい」と感じているこの空気は、私の血を、肉を、体温を削り取って作ったものなのに。
「……私の代わりは、彼女が務めるのですか?」
「ああ。クラリスは、お前と違って微笑み一つで周囲を明るくしてくれる。お前のように無言で屋敷を徘徊するだけの女とは違う」
ヴィクトールの後ろで、クラリスが勝ち誇ったように微笑む。
エルゼは、自身の黒ずんだ指先を隠すように、そっと手を握りしめた。
悲しかった。
五年間、この人のために命を削ってきた日々が、ただの「不気味な徘徊」だと思われていたことが。
そして、何よりも。
「……承知いたしました。離縁状に署名を。今すぐ、この屋敷を去ります」
エルゼは、震える手で羽根ペンを握った。
泣き叫ぶ気力さえ、もう残っていなかった。
「話が早くて助かるよ。さあ、クラリス、部屋へ行こう。ここは少し湿っぽい」
二人が去っていく足音を聞きながら、エルゼは最後の魔法を発動させた。
それは維持ではない。
「回収」だ。
屋敷の隅々にまで張り巡らせた、自身の温もりの糸。
それを一気に、自身の内へと引き戻す。
――ガタガタ、と。
石壁が鳴動し、窓ガラスが急激な温度変化に悲鳴を上げる。
エルゼがトランク一つを手に、重い玄関の扉を開けた瞬間。
「あ……」
背後で、パリンと、リビングに飾られた花瓶の水が凍り割れる音が響いた。
春のようだった廊下に、外気よりも鋭い、マイナス三十度の死の冷気が一気に雪崩れ込む。
エルゼは一度も振り返ることなく、吹雪の向こうへと歩み出した。
――さようなら、ヴィクトール様。
貴方が愛した「温かな屋敷」は、もうどこにもありません。




