『鍋ひとつで、王国を美味しく救ってしまった件』
この物語は、
強さを誇る話でも、賢さを競う話でもありません。
お腹が空いている人に、
温かいものを出す。
それだけの話です。
匂いが、先に届く物語になればいいなと思って書きました。
どうぞ、鍋のそばへ。
最初に気づいたのは、空気だった。
冷たくて、乾いていて、
胸いっぱいに吸い込んでも、どこか足りない空気。
――ああ、これ。
私は、知らない天井を見上げながら、そう思った。
「……ちゃんと食べてない匂いだ」
焦げでもない。
腐りでもない。
ただ、お腹が空いたまま生きている人が集まった場所の匂い。
ゆっくり体を起こすと、石造りの広間の床に、鎧を着た男たちが座り込んでいた。
兵士だと分かる前に、もっと分かりやすいことがあった。
顔色が、みんな同じだった。
血の気が薄くて、唇が乾いて、
目の奥に、疲れが溜まっている。
お腹を押さえている人。
壁にもたれて、目を閉じている人。
動けないわけじゃない。
動く理由が、もう残っていない顔だった。
「……ご飯、食べてる?」
口から出た言葉に、自分で少し驚いた。
でも、料理人だったころの癖は、こんなときに先に出る。
「食ってるさ。朝も昼も」
返事をした兵士は、胸を張ろうとして、途中でやめた。
鍋が目に入る。
中身を覗いた瞬間、胃の奥がきゅっと縮んだ。
煮え切らない肉。
灰色に変わった野菜。
塩の匂いだけが、重く沈んでいる。
――これは、弱っている人のご飯じゃない。
「……ちょっと、鍋、借りてもいい?」
誰も止めなかった。
止めるほどの力が、もう残っていなかったのだと思う。
私は鍋を抱えて、外の水場へ行き、中身を静かに捨てた。
もう一度、水を張る。
骨を入れる。
使えそうな野菜を、形を残したまま入れる。
火を弱める。
ゆーっくり、ゆっくり。
ぐらぐら煮立たせない。
ただ、温める。
最初は、水の匂いだった。
少しして、空気が、ほんのり甘くなる。
それは、匂いというより、
**「あ、今、空気がやわらいだ」**という感覚に近かった。
鍋の底で、野菜と骨が、静かに手をつなぎ始める。
ゆっくり、ゆっくり、かき混ぜる。
木べらが鍋底をなぞる音が、
この広間で、いちばん優しい音になった。
「……なんだ、その匂い」
誰かが、ぽつりと呟いた。
兵士の一人が、顔を上げる。
鼻を、ひくりと動かす。
もう一度、深く息を吸う。
ふぅわっと、
野菜を煮込んだ、美味しい匂いが広がっていた。
「スープ。お腹に優しいやつ」
説明は、それで十分だった。
塩を、ひとつまみ。
ほんの少し。
刻んだ野菜を入れると、
湯気が、やわらかく立ち上った。
その瞬間、空気が変わった。
乾いていた匂いが、後ろに下がる。
代わりに、胸の奥を、そっと撫でるような匂いが満ちる。
誰も喋らない。
ただ、鼻を鳴らす音が、あちこちから聞こえた。
兵士は、匙を受け取ると、
一口、口に運ぶ前に、目を閉じた。
ふう、と息を吐く。
それから、何も言わずに、もう一口。
その夜、兵士たちは、久しぶりに眠った。
寝息の匂いが、少しだけ、軽くなった。
⸻
次の日、子どもが来た。
兵士の家族だという。
小さな体で、固いパンを見つめている。
「……噛める?」
聞くと、首が、小さく横に振られた。
「じゃあ、こっち」
私は鍋を火にかける。
昨日のスープを温め直す。
穀物を入れて、
ゆーっくり、ゆっくり。
煮える音は、ほとんどしない。
ただ、湯気が、ふわりと立つ。
甘くて、やさしい匂い。
子どもは、恐る恐る匙を口に運び、
次の瞬間、目を丸くした。
「……あったかい」
それだけ言って、
黙々と食べる。
匙が止まらない。
その隣で、親が、顔を覆った。
「……こんなご飯、初めてです」
私は首をかしげる。
「子どもなんだから、
柔らかいほうがいいでしょ」
胸の奥で、何かが、すとんと落ちた。
――お腹が空いてる人に、食べさせる。
それだけなのに。
「ア◯パ◯マンのみが、この世で正義だよね」
ぽろっと出た言葉に、周りが静まる。
意味は分からなくても、
匂いと一緒に、気持ちは伝わったらしい。
⸻
数日後、空気が変わった。
鎧ではない、
布と香油の匂いをまとった男が来た。
貴族だ。
鍋を覗き、眉をひそめる。
「これで、兵が元気になったと?」
「なりましたけど」
私は、保存していた煮込みを出す。
塩と酢で、静かに守った料理。
蓋を開けた瞬間、
貴族は、言葉を失った。
匂いを吸い、
目を伏せる。
戦争の話。
飢饉の話。
国の危機。
私は、半分も聞いていなかった。
「台所と、食材があればいいです」
それだけ答えた。
⸻
鍋は、今日も火にかかっている。
特別な料理じゃない。
いつものご飯。
温かくて、
匂いが立って、
お腹にたまるだけのもの。
それでも、人は立ち上がる。
笑って、耐えて、明日を迎える。
「……聖女だ」
誰かが言った。
私は、鍋を
ゆーっくり、ゆっくりかき混ぜながら、首を振る。
「違うよ。今の私は、ア◯パ◯マン。」
湯気の向こうで、人が笑う。
お腹が鳴る音が、重なる。
「今日の夕飯、何にしようかな」
鍋ひとつで、王国を救ってしまったらしい。
でも、まだ、そんな実感はない。
だって――
お腹が空いてる人に、
温かいものを出すのは。
ただ、それだけのことだから。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
料理は、魔法じゃありません。
でも、空腹を満たすと、人は少しだけ強くなります。
眠れて、笑えて、また明日を迎えられる。
この話の主人公が信じている正義は、たぶんとても単純です。
――ア◯パ◯マンのみが、この世で正義。
もし、読後に
「なんだか温かいものが食べたくなった」
と思っていただけたなら、嬉しいです。
連載用のネタですので、その内連載に使いたいです。




