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トスを上げる人、その思い出 スポーツの秋に寄せて(前編)

作者: 池畑瑠七

 秋も終盤に差し掛かり、眼前の日本一の山は日々白い衣を厚く長くしていってる。その姿を眺めるにつけ思い出す忘れ得ぬ姿と教え。書き残しておきたく、それがまた誰かへ何処かへと繋がってくれたら嬉しいなぁ…などと細やかに思いながら、思い浮かぶままを徒然に綴ってみました。

 スポーツ好きな父だった。

 その思い出と言えば、一番はスケート。群馬の父の実家近くには、真冬になると広い河原が完全結氷する川があった。父の幼かった頃は、農閑期の田んぼや校庭・その川などは長く厳しい冬に貴重な子供達の運動場兼遊び場だったらしい。当時は長靴かなんかに割竹を括りつけた自作の竹スケートだったと、一度だけかなあ、聴いた覚えがある。

 ウィンタースポーツが非常に盛んな地域性は時代が変わっても変わらずあり、誰も彼もがスケートもスキーも当たり前みたいに上手。一家で正月に帰省すると、私より少し年長の従兄弟たちは皆、学校のクラブでスケートやスキーに熱心に取り組んでいた。


 そんな父の故郷並みに冬が厳しい当地であるから、私達兄妹は物心ついたころから、冬がくると毎週末の夜、近所に出来た遊園地のナイター営業スケートリンクに連れていかれた (ナイターは料金が安かった 笑)。 


 父はスピードスケーターで、背中で両手を組み、アメンボのようにすーいすーいと軽やかな滑らかな脚運びで夜風を切って滑っていた。

 兄はスピードスケート靴を私はフィギュアの靴を履き、耳が千切れるような寒さの中、疾風のように進んでいく父の背中を必死で、全力で、追いかけた。

 当時専門的に教えてくれるクラブなんてものはなく、父に教えてもらう基本技術だけが全てだった。

 リンクのマナー。立ち方。姿勢。足の動かし方。倒れ方。前に進む、バックで進む、ハの字ストップ、前クロス、後ろクロス。ターン。くらいだろうか。

 けど、毎冬の素人特訓で嫌も応もなく、いつしか転倒せず他の人の邪魔もすることなく、すいすいっと滑る…程度のことは、出来るようになっていった。


 夜の屋外スケートリンクは、少しでも止まればすぐに汗が冷え身体の芯まで凍ってしまうような酷い寒さだった。

 父はスパルタで、ひたすら滑り続ける事しか許されない。遊園地だからといって、スケート以外の魅惑的な数々のアトラクションに乗らせて貰える事も一切ない。スケート自体は好きだったけど、ナイターじゃ友達と遊ぶ事もないし飽きる、疲れる、そして…寒いんじゃ!!o(≧口≦)o


 幼いとて情けも容赦もない父の後を、私達兄妹はひたすら黙々と滑る。が、体力も脚力もない私はやがて足が痛み出し、疲れはマックスに。はーはー肩で息しながらリンクから上がり休憩する。その間にも、父は涼しい顔で何周でもすいすいとリンクを周回し続けるのだった。

 ほーんの時たま母が付き添ってくれる時には「喉が渇いた!」と甘える。優しい母は、たまにはいいよ、と自販機のリンゴジュース(TVで宣伝してる、一番人気のやつ!)を買ってくれる。それがスケートに行く時の唯一の楽しみ、みたいなものだった 笑。



 父はとても小柄だったけれど、若いころから体を動かすことが好きで他にも色んなスポーツを手あたり次第、くらいに嗜んでいたようだ。


 高校時代はバスケ部だったとかで、実家にはその想い出の品らしいバスケットボールが、スポーツバッグに入れられて押し入れの奥にずっと仕舞われていた。

 小さい頃それを引っ張り出してボール遊びをしようとしたことがある。けれども、超年代物の革張りみたいな材質でとにかく重く、床に落としてもちっとも弾まない。

 遊びようがなくて、またバッグに仕舞ってしまった事を覚えている。


 ソフトテニスのラケットもそういえば、実家の洋服ダンスの上に2-3本、ずっと置いてあった。いつ入手したかは聞いた事が無いし、それを父が持ち出してたような記憶もない。部隊の娯楽でやるようになってからラケットを購入したのだろうと思う。


 小さい頃はラケットが大きくて重くて持つことも振ることもままならなかったけど、小学校の高学年くらいになって振れるようになると、家の前の空き地で兄とよくゴムボールを打ち合って遊んだ。

 丁度「エースをねらえ!」という漫画とアニメに夢中になっていた頃で、中学に上がったら絶対テニス部に入りたい!と強く憧れていた。


 しかしそのテニスよりも思い出が深いのは、卓球だ。小学生の時、父が手ほどきしてくれたのが最初の出会いだった。テニス同様、部隊の余暇時間に体育館で同僚と打ち合っていたところから、元来のスポーツ好きと凝り性が高じて腕を上げて行ったらしかった。

 小学校高学年になったころ家の近くに市営体育館が建設された。2階の卓球室には ずらっと台が並び、市民は格安で長時間の使用ができた。これ幸いとその卓球室に有無を言わさず毎週末の夜 連れていかれ、しごかれた。


 その頃あった週一回の選択制クラブ活動にも卓球を選んでいたから(テニスはなかった!)、中学に上がったら憧れのテニスが出来る!とワクワク期待していた。しかし、大人気で希望者が殺到、悲しいかな私は抽選に漏れて夢は破れた。


 第二希望が通って卓球をもう3年間、続けることとなった。それでも、ラケットやボールを使うスポーツは好きだったから、部活卓球も引き続き、楽しくはあった。


 中学で毎日プレイするようになっても、時折父は早く帰宅すると私や兄を体育館に連れて行き特訓と称して練習相手をし続けてくれた。少しばかり上達してきた私とラリーも続くようになっていき、父も楽しそうだった。

 ペンホルダーラケットを巧みに操り、どんなへんてこなリターンにも余裕ある綺麗なフォームで私の打ちやすい所へと返してくる父。

 ラリーとなれば、絶対にミスしない。粘り強さと正確さは、未熟な私からしたら圧倒的だった。こっちがヘマをしてリズムが途切れるまで、必ずボールは返って来るのだった。

 中学二年の秋に父が事故に逢いラケットを置くまで、自主練は続いた。


 卓球漬けの毎日だったが、何となくくすぶるテニス熱も冷めず、休日に友人たちとよく市営コートへ遊びに行っては父のお古のラケットを振った。

 友人はテニス部。それなりに相手が出来ていた自負もあったのだが、テニスプレイヤーから見るとどうもラケット振るそのフォームに独特の違いがあるらしい。

「そのフォームってザ:卓球やってる人、だよね」友人によく冗談交じりにそう言われて「球が返れば、いいじゃん!」と、笑いあった。


 そんな頃。兄と良くテニスをやっていた広場が縮小されてしまい、代わりにそこでバドミントンをするようになった。卓球とテニスの良いとこ取り、みたいなスピード感やシャトル打つ時の打球感覚がとても気持ち良かった。

 真剣にやると一瞬で汗だく、翌日は必ず筋肉痛。フラッと立ち寄った本屋で教本を立ち読みして「ふんふんそうか♪」程度の知識しかないまま、基本もロクに知らずシャトルを夢中で追いかけてただけだったが、卓球で培ったフットワークとか反射神経は少なからず役だっていた…ような、気もする。

 たまのバドミントンで味わうスッキリ感が楽しくて、学生の頃も家庭を持ってからも、よく仲間や子供たちと体育館に足を運んだ。



 バレーボールにも、忘れ得ぬ思い出がある。

 当時住んでいた地区内では住民による親睦バレーボール大会が毎年開かれていた。父は毎年、その選手としてお声が掛かった。

 仰せつかるのはいつも、セッター役だった。小柄でもスタミナがあり動きが俊敏。判断が的確で良いトスを上げるので、頼りにされていた。


 上背もパワーもジャンプ力も無ければ、特段の技術があるわけでもない。よって、自分が得点源になるようなプレイはほとんどしない。その代わり、難しいボールもしっかり拾っては仲間へと上手く繋ぐし、セッターポジションではポイントゲッターが打ちやすいように、正確なトスを上げ続けるのが父だった。

 大会があると出ずっぱりだったから、よく会場まで応援かねて遊びに行ったものだ。普段は寡黙だが、試合中は仲間に大きな声を掛け笑顔を絶やさなかった。全力で誠実にプレイする姿を、よく覚えている。


(後編に続く。)

 

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