9.温かい食卓
「ベロニカさんに魔術を教えることになりました」
晩ご飯を食べている時だった。唐突に切り出すと、アレクのスープを飲む手が止まった。
スプーンをテーブルに置き、少し驚いたような顔をしている。
「あの首飾りを外したのか」
あの首飾りとは、ベロニカが着けていたペンダントのことだろう。
頷くと、「そうか」とだけ答えが返ってくる。浮かんだ疑問を口にする。
「あのペンダントは、どちらで手に入れたのですか」
「俺が作った」
返答に驚く。
魔術と精霊魔法を操り、魔道具まで作れてしまうのか。ますますこんなボロ小屋に住んでいる意味がわからなくなる。私の表情を見て、頭を掻きながら言う。
「魔力を全て抑えるだけでいいからな。一部の魔術だけを使えるようにしたり、精霊魔法の回数を制限したり、そういった器用な機能はつけられない」
「……」
アレクの説明で頭に浮かんだのは、ルビーのペンダントだった。
自身の魔力を感じることはできるが、魔術を使うことができない。材料はあるが、調理ができない状態みたいなものだ。そんな特殊な機能をつけられる魔道具師はそう多くないだろう。もしかすると特注で作ったものかもしれない。
(私を、殺すために……)
深海のような暗い思考に沈んでいると、「お前さんが教えるのか」とアレクは言う。
切り替えるように私は答える。
「はい。駄目でしょうか」
「いや、いいんじゃないか」
何事もなかったようにスプーンを手に取り、再びスープを食べはじめる。
(なんだか、機嫌が良いような……)
目の前のアレクを見て、私は思う。
普段と変わらない仏頂面だが、なんだか纏う雰囲気が柔らかい気がする。しかし理由が分からない。気のせいかもしれないと結論づけて、スープを飲んだ。
*
後日、前に来た広場でベロニカと対峙していた。
彼女の顔はやる気に満ちあふれており、子供のような好奇心を覗かせていた。
「さっそく魔術の練習をしましょう」
「よろしくお願いします!!!」
「では、まず体内で魔力を練ります」
「?」
「それから全身に魔力が巡らせ、指先に集中」
「あ、あの」
「その魔力を使って魔法陣を描きます、こんな風に」
さらさらと地面に魔方陣を描いていく。
六角形と重なりあるように複数の円が描かれ、細部には文字を記していく。
「この古代文字はなくてもいいのですが、威力が増したり、細かい出力ができるので、私は描くようにしています」と手のスピードを緩めることなく、説明を加えていく。1分ほどで幾何学的な模様を何重にも使った魔法陣が完成した。
「説明は以上です。では、やってみましょうか」
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってください!!!!」
慌てたようなベロニカ。
見ると頭から湯気がのぼっている。分かりづらい部分があっただろうかと首をひねる私に、彼女は叫ぶように言う。
「そんな最初から高度なことは無理です! そもそも魔力を練るところが分からないです!!」
「そこから……」
思わず声に出てしまい、ベロニカはじとりと私を見た。頰を軽く膨らませており、怒っているらしいと察したので口をつぐんだ。
私が魔力を使えるようになったのは3歳の頃だった。5歳の頃には簡単な魔法陣を描けるようになっていた。
生まれた時から魔術の存在がそばにあった。物心がつく頃には、呼吸をするのと同じくらい自然に魔力を練ることができた。そのため改めて方法を教えて欲しいと言われると困ってしまう。
眉間にしわを寄せた私を見かねて、ベロニカは問う。
「体のどのあたりで魔力を練るんですか?」
「へそ……ですかね」
私の言葉にお腹あたりを抑えるベロニカ。
「んんんーっ!」と力むが、魔力が集まる様子はない。
「体に力が入ってしまうと逆効果です。イメージが重要です」
「イメージ……」
眉毛を八の字にしながらも、何度か魔力を練ろうとする。しかし一向に上手くいく気配がない。「なんかこう……例えとか、ありませんか?」と尋ねられ、私は口を結んだ。
何かを例に出して教えてもらう機会など、ほとんどなかった。「やれ」と言われたことをできなければ、できるまで永遠とやらされるだけだった。
ちらりとベロニカを見れば、茶色の瞳が「何でもいいので!」と訴えている。私は目線を上に向けて考えた。
「魔力を練る」その状態を例えるなら、どんな状態に近いだろう。
体に巡っていた熱が、腹の中央に集まっていき、ぼんやりと温かくなる。その状態と、自分自身の経験を繋ぎ合わせようと記憶を辿る。頭の中に浮かんだのは、今朝、アレクと向かい合って座ったときの記憶だった。「あっ」と声をあげ、彼女の目を見つめる。
「温かいスープを飲んだ時のような」
「スープ?」
「はい」
頷くと、ベロニカは「分かりました……!」と目を閉じた。
深く息を吸い、ゆっくりと息を吐く。それを何度か繰り返すと、わずかだが腹に魔力が集まってきた。目を見開いて、「今のどうでした?!」と近づく彼女に、私は穏やかな声で言う。
「できてましたよ」
「やったー!
この間、すっごい寒い日があって! 体をガチガチ言わせながら、スープを飲んだんです。そしたら私も主人も子供たちも『は〜〜〜〜』って言って、それが面白くて……」
思い出を語り出すベロニカは、我に返ったように私と向き合った。
「すみません、つい思い出しちゃって」
「いえ」
「スープを飲む」という同じ状況でも、自分とベロニカが想像する記憶は全く異なっている。
私は家族と食卓を囲んだ経験がほとんどなかった。マナーを完璧にこなしているか、フレイユに監視されながら常に食事をしていた。高級食材が使われた手が込んだ料理を食べていたが、私にとって食事はあくまで生命維持のための行為に過ぎなかった。
しかし彼女は食事を、幸福な行為のように語っている。
彼女を見ていると、心臓がゆっくりと握り締められているような、そんな心地がした。この感情はなんだろうかと思いあぐねて、そして1つの感情にたどり着いた。
「うらやましい……」
口に出すつもりではなかったのに、気づいたらそう言葉に出していた。
次期王妃として、王宮では恵まれた生活を過ごしていた。しかし、監視されながらの食事を楽しいなどと思ったことは一度もない。幸福な記憶のように語るベロニカの姿が、とても眩しい。
目をぱちくりとしている彼女に、バツの悪さを感じながら答える。
「その、大人数で食べたことがないので」
「じゃあ、今日一緒に食べましょう!」
「え?」
両手で握手するように握られ、たじろんでしまう。距離の詰め方が急すぎて、頭がついていかない。初めての経験に戸惑っていると、彼女は言葉を続けた。
「主人が狩ってきたイノシシの肉があるんです! ぜひ食べましょう! 今日のお礼です!」
一点の曇りもない眼で言われ、勢いのまま私は頷くことしかできなかった。
*
「俺の皿、肉すくないっ!!」
「ねーちゃんが僕のおかずとったーっ!」
「とってないわよ!」
「ほら、座って食べるの!!」
5人の子供たちと、ベロニカ、主人のトニー。そして私。
8人の食事は賑やかすぎた。
食べ盛りの子供たちにとって、食事の時間は戦場らしい。机の真ん中に山盛りになった一口大のイノシシ揚げが、みるみるうちに無くなっていく。皿を空にしないとおかわりができないため、イノシシ肉のシチューを食べる手も止まらない。かき込むようにシチューを食べては、「おかわり!」と大鍋に走っていく。
私は城での食事を思い出していた。
何十人も入れるような広い部屋と、何十人も座れるようなテーブルと椅子。
そこに座るのは私だけ。後ろにはフレイユが立っている。何十種類もの料理がテーブルに並べられ、私は静かに、音を立てずに食べ続ける。響くのはカトラリーと皿が擦れる音のみ。
目の前の光景を見つめる。
肘と肘がぶつかりそうなほど狭い部屋に、大声や笑い声の熱気が包む。
畑で採れた野菜を自慢したり、店で見つけた不思議な石について話したり、皆がそれぞれ話したいことを口に出す。相手が聞いていようと、いまいと構わないようだ。子供たちの声が部屋に飽和する。内容を正確に聞き取れないはずなのに、みんなが大声をあげて笑っている。そんな風景を見ていると、体の内側が熱くなるような心地がした。
いつの間にかイノシシ揚げの山はなくなり、大鍋のシチューも空っぽになっていた。
子供たちは食べ終わるや否や、部屋に戻り、布団に潜ってしまった。机に置かれたランタンだけが光源のため、部屋は薄暗い。テーブルをふきんで拭きながら、ベロニカはすまなそうに言う。
「すみません、騒がしくて。お腹いっぱい食べれましたか?」
「はい」
他の子どもたちのようにおかわりは一度もしなかったが、不思議と腹は膨れていた。頷けば、ベロニカは満足そうに「よかった」と微笑んだ。
そこでトニーが酒瓶を持ってやってくる。
「リディアさん、お酒飲める?」
「いえ、そろそろ帰ります」
「え?! でも外は真っ暗だし危険だよ? 泊まっていきなよ!」
トニーは慌てるように言う。
晩御飯までご馳走になり、宿泊までお世話になることはできない。
帰ろうとする自分と、宿泊を提案するトニーとベロニカでしばらく押し問答した。3人の攻防を終わらせたのは、不意に響いたノックの音だった。
「こんな時間に?」と訝しむベロニカと、「誰だい?」と警戒しながら問うトニー。
「……俺だ」
「アレクさん?!」
ベロニカが驚いたように扉を開ける。
そこには少し焦りを滲ませたような表情のアレクがいた。予想外の来客に、その場が一瞬沈黙に包まれる。「なぜここに?」と私が口を開くと、アレクはぶっきらぼうに言った。
「帰るぞ」
「……は、はい」
自分の問いには答えず、アレクはくるりと踵を返す。
外に出て、慌てて振り返り、後ろの2人に軽い会釈をした。目を丸くしていたベロニカは我に返ったように、「気をつけてー!」と声をかけてくれた。
春がやってきたばかりの森は、まだ肌寒い。時折吹く風に身を震わせながら歩いていく。
アレクはいつもより歩幅が広く、ついていくのがやっとだった。何か怒らせてしまったのか。逡巡するが、思いつかない。
土を踏む、2人の足音だけが森に響いた。高くそびえる木々が空を覆い、密集した葉が音を遮断しているようだ。
誰かと一緒にいる時の沈黙は慣れていたはずだった。「余計なことは言わないように」「些細な一言で、曲解する貴族も多いのだから」とフレイユから何度も言われていた。話しかけられても微笑んで、最低限の返答しかしない。それを長年続けていたので、いつしか好んで私に話しかける物好きはいなくなっていた。
ただ今の沈黙は、ひどく居心地が悪い。
アレクを怒らせてしまったのか、もし怒っているなら、何故なのか。そんな疑問が浮かんでは消えていく。
「何か……怒っていますか?」
振り向いたアレクの顔をみて、「しまった」と思った。
心の中で浮かんだ疑問が、言葉に出てしまった。何でもないと言うより先に、アレクが口を開いた。
「いつも帰る時間に帰ってこなかった」
「それは……ベロニカさんに急に誘われたので」
ある高度魔術をいくら練習しても発動できない自分を見て、「私の時間を無駄にしないでください」と吐き捨てたフレイユの姿を思い出す。
もしかするとアレクは、自分を迎えにいくことが手間だったのかもしれない。時間を使わせるなと怒っているのかもしれない。そう確信して、提案した。
「あの、今度からは、私1人で帰れます」
「……女1人ではこの森は危険だ」
「魔術が使えるので、大丈夫です」
「襲われて、小屋の近くで倒れていたやつが何を言っている」
「……あれは、ペンダントのせいです」
睨むように言えば、アレクは髪を乱雑に掻く。
「いいから、」「でも」そんなやり取りを何度かして、鋭い視線が交錯する。
自分が1人で帰れば、アレクの怒りはおさまるはずだ。なのに、彼は迎えにいくと言う。
どうすればいいのか途方に暮れて、思わず本音が出てしまう。
「わかりません……言葉にしてもらわないと」
そう言った時の、彼の顔を、自分は一生忘れないだろう。
目を見開き、眉根を苦しそうに寄せた。何かに耐えるような表情。
「何故、そんな、顔を」
疑問をぽつりと零せば、沈黙が2人を包んだ。
目の前の男は、何も言わずに佇んでいた。私より頭一つ分、背が高いはずなのに、今は迷子になった子供のようだった。しばしの沈黙のあと、アレクは言う。
「昔、同じことを言われた」
「誰に」とは聞けなかった。
聞いてしまえば、彼の癒えていない傷跡に触れてしまいそうな、そんな予感がした。いつの間にかアレクはいつもの仏頂面に戻り淡々と言った。
「いつもの時間に帰ってこなくて、心配になった」
「心配」
「今度から暗くなるときは迎えにいく。目的地だけは知らせてくれ」
そのまま踵を返してしまう。先ほどよりも早足で小屋へ向かっていくので、私は駆け足で追いかけた。荒い呼吸を繰り返しながら、アレクの言葉をなぞる。
(心配になった)
罰として食事を抜かれても、寒空の下で放り出されても、両親やメイドたちは何も言わなかった。「次期王妃として当たり前だ」と目線を送るだけだった。
最初は泣いていた。「寒い」「お腹が空いた」と何度も何度も訴えた。それでも助けは来なかったし、彼らの目線が変わることはなかった。
そんなことを繰り返して、いつの間にか、じっと耐えることを覚えた。
(心配された……私が?)
痛い思いも、寒い思いもしていない。ただ暗くなると危ないから心配だと言う。
自分の身を気にかけてもらえる。
その事実がわかると、心臓が握られたように締め付けられた。苦しい、でも嫌じゃない。
不思議な感情に、拳を握りしめ、胸を抑えながら、アレクの広い背中を追いかけた。