6.見知らぬ感情
朝、私はベッドの上で上半身を起こし、窓から差し込む光に目を細めた。ベッドの脇にあるテーブルに置かれた紐を手に取り、髪を一本に結ぶ。隣に置かれた水が張った桶で顔を洗い、タオルで顔を拭いた。
音を立てぬよう扉を開き、小屋を出て、まず畑へ向かった。
耕した土の上にしゃがみこみ、昨日より芽が伸びているか、葉の状態は悪くなっていないか、つぶさに確認する。「自然を観察しないと、精霊魔法など使えない」というアレクからの教えだった。
初めてミミズを見たときは体が固まったが、今では慣れてしまった。
観察を終えて立ち上がり、大きく深呼吸をして、精霊魔法の呪文を呟いた。
「雨の精霊よーー」
何も反応はない。棒立ちになる私を笑うかのように、小鳥が小さく鳴いた。
いまだに成功していないが、私の心が暗く沈むことはなかった。
城では失敗するたびに、何度も罵られた。自己否定を繰り返し、消えてしまいたいくらい深い絶望が襲ってきた。しかし今は違う。失敗して怒鳴る者も、嘲笑う者もここにはいない。
気を取り直すように、魔術の呪文を詠唱する。空に小さな魔法陣が描かれ、弱い雨が降った。みずみずしい葉たちが、雨を浴び、雫が太陽の光できらめく。
収穫できる野菜があるならカゴに載せていく。足りなければ、畑の横にある食料庫から食べ物を見繕う。
食料庫の扉を開けると、湿った匂いが鼻腔を突いた。
薄暗い食料庫の中には、街で購入した根菜が床に転がっている。魔の森は一年を通して涼しいため、腐る心配はあまりないそうだ。
すると視界の端に、素早く動く影がちらついた。反射的に詠唱すると、小さな火柱が上がった。ちちっと小さな悲鳴が上がる。10秒ほど魔法陣を発現させ、食料庫に入り込んだ盗人を焼き殺した。倉庫に出たネズミは、魔物の死骸を食べ、人体に悪影響を及ぼす菌を持っている可能性が高い。そのため骨まで炭になるよう焼き尽くしている。
(手慣れたものね)
自分でも感心してしまう。
はじめてネズミを見たときは、咄嗟のことで魔力の調整ができなかった。石造りの食料庫は無事だったものの、食料すべてを焼き尽くしてしまい、アレクから大目玉を食らった。
ネズミの灰を掃除し、根菜をいくつかカゴに入れる。
そのあとはニワトリ小屋へ向かった。5羽のニワトリは今日も元気に跳ねており、私が入った瞬間、挨拶するかのように一斉に鳴いた。ニワトリが逃げぬよう後ろで扉を閉め、手早く卵を2個ほど拾う。産みたての卵は、つるりとして、ほのかに温かい。
そして小屋のキッチンに戻り、朝食に取り掛かる。
鍋に水を張り、火の魔法陣で温める。具材を包丁で細かくし、鍋に入れて煮込む。包丁で指を切ることも、熱湯で火傷することも、今ではほとんどない。具材が柔らかくなるのを待つ間、鉄製のフライパンに卵を入れて焼く。スープと目玉焼き。毎朝同じメニューだった。
テーブルに朝食を置いたと同時に、アレクがキッチンにやってくる。
「おはようございます」
「あぁ」
不機嫌そうに椅子に座る。寝癖がそこら中に跳ね、こくりこくりと首を揺らしている。朝はどうやら弱いらしい。
朝食を食べ終わったあとは、洗濯をする。大きな桶の中に水を張り、服やシーツを入れ、魔術で水を回転させる。衣類を絞ったら、皺を伸ばすようにして干す。
午前中の仕事がひと段落し、額の汗をぬぐった。空を見れば快晴で、洗濯物がよく乾きそうだった。
そのあとは街に行くこともあれば、彼の気まぐれで精霊魔法を教えてもらうこともある。
昼食を作ることはほとんどなく、街で購入した果物だけで済ます。
そのあとはしばしの休憩だ。アレクから借りた本を読んだり、部屋の掃除をして過ごす。日が暮れたら、洗濯物を取り込み、夕食の準備をする。
朝残ったスープを温め直す。街で購入した腸詰めやトマトをフライパンで焼く。
ロトゥスの衛生環境が良くないため、野菜やキノコ類も含め、食材は加熱調理するのが基本となっていた。
テーブルに料理を並べ、アレクと食事を共にする。最初の頃はほとんど会話がなかったが、最近はぽつりぽつりと話すことが増えた。彼は焼いた腸詰めを食べたあと、ぼそりと言う。
「こっちの店の方がうまいな」
「次からはこちらで買いますね」
「あぁ」
お互い食事を終えたら、皿を洗い、片付け、部屋に戻る。
用意したぬるま湯でタオルをしぼり、体を拭く。髪の毛は週に1度、アレクがいない時間を見計らって、畑で洗っていた。最初は戸惑った清め方も、今ではすっかり慣れてしまった。部屋のランタンを消し、寝床につく。
薄いシーツにくるまりながら、城にいた頃の記憶をぼんやりと思い出す。
「立派な王妃になりなさい」
体の芯まで疲れているのに、眠れない日々が続いていた、あの頃。
毎日のように聞かされた言葉が、耳の奥で何度も繰り返され、夢の中へ旅立つことを許さなかった。言葉から連想するように、両親やフレイユからの重圧、王族たちの腹を探るような視線、貴族たちの媚びへつらうような笑みが浮かび上がる。両手で耳を塞ぎ、固く目を瞑り、気づけば朝になっていたことも少なくない。
キッチンの方で何か物音がして我に返る。
夜遅くまでアレクは作業をしているので、その音だろう。時折聞こえる物音に耳をすませていると、瞼が徐々に重くなっていく。
太陽と共に起き、太陽が沈むと同時に眠る生活。
城にいる頃に比べ、食事の豪華さは消え、部屋の広さは10分の1以下になった。メイドがいないため、肌は荒れ、髪の毛はパサついていた。太陽の光に負けてしまったのか、腕や首筋の皮はめくれ、ひりひりとした痛みに悩まされた。
不便で、不衛生で、危険な生活。だけど城にいる頃より、エネルギーに満ちあふれ、安らかな気持ちで過ごせているのは何故だろう。私は小さな笑みを浮かべながら、夢の世界へ旅立った。
小屋で暮らしはじめて3ヶ月が経つ頃には、この生活を気に入りはじめていた。私はいつものように起き、ベッドからおりて、庭へ向かった。毎日の習慣で精霊魔法を唱える唇がぴたりと止まる。
(何かが、違う)
言語化できない違和がそこにはあった。周りを観察するようにゆっくりと見渡す。普段よりも葉や空が鮮やかに見えていた。自然物の周りにぼうっと光がまとっている気がする。
野菜の葉をそっと触れる。葉脈をなぞり、土の香りを楽しんだ。
目を閉じれば、鳥の歌声が遠くから聞こえた。葉が楽しそうに揺れる音が聞こえた。
突き刺すような冷たい風が、いつの間にか心地よい涼しい風へと変化している。春の訪れを感じさせた。
しばらくそうしていると、心の内側が静まり返るようだった。自身が大地と一体になるような心地がする。
何の雑念もわかず、宙に漂っているような感覚に身を委ねていた。
どのくらい経ったのか、瞼をゆっくりと開く。
すると指先にかすかな光が灯っている。「あっ」と思わず出そうになった声を、慌てて飲み込んだ。
(精霊……)
精霊がいない方の手で肩に触れる。人の匂いを消すマントは、ない。
幼少期、姿を見せてくれと何度願っても現れなかった精霊が、今、目の前にいる。
興奮で体が熱くなるようだった。今なら、出来るかもしれない。
「雨の精霊よ──」
毎朝、何度も唱えた精霊魔法。
すると指先で光っていた精霊がくるくると舞い上がり、空に消えていった。失敗?と思ったと同時に、小雨が畑に降り注いだ。
「……できた」
畑で私は呆然と立ち尽くしていた。
見上げれば、霧のような雨が顔に降り注ぐ。太陽の光が差し込み、目を細めた。
髪も服も濡れるのも構わず、そこに立ち尽くしていた。小雨の中に、小さな虹が見えて、熱いものが胸を突き上げた。
「精霊たちはあなたが気に入らないのでしょう」
「あなたの前には決して現れませんよ」
フレイユの言葉が蘇る。
そして、思い出した。幼い頃、自分は精霊と友達になりたかったことを。
いくら呼んでも現れない精霊たち。そしてフレイユの冷たい言葉。
自分が惨めになるのが嫌で、いつしか呼ぶこともやめてしまった。
「自分は嫌われた存在」
そう思わせた精霊たちを、憎んだこともあった。
だけど違った。手を伸ばさなかったのは、私の方だった。
精霊たちに会いたい。
精霊たちと友達になりたい。
精霊たちの力を借りたい。
どれも自分の望みばかりで、精霊たちが愛する自然を、愛すことがなかった。
一度でも、城の外にある花や木や風を、愛していたなら。
「……おい」
小雨が止んでも、私はしばらく立ち尽くしていた。
ようやく動き出したのは、後ろから声をかけられた時だった。
「す、すみません、朝食を用意します」
「……もう昼時だぞ」
「え」
口をぽかんと開けてしまった。
そういえば太陽の位置が高い。どうやら精霊魔法に夢中で、時間を忘れてしまったらしい。
いたたまれなくて肩を落とすと、笑い声が聞こえた。驚いて顔をあげると、あのアレクが笑っている。
口元を隠すように手をあて、細めた目でこちらを見る。
「夢中に、なりすぎだろう」
「その、精霊魔法が使えたのが、嬉しくて」
初めて見た笑顔に、どうしたらいいのか分からなくなる。
目線を彷徨わせながら答えれば、頭に優しく手を乗せられた。
上目遣いで見れば、逆光で見えづらいが、やわらかな微笑みが見えた。
「よかったな」
「……はい」
昔から何か新しいことができても、「当然だ」と言われるだけだった。魔術を使えば口々に褒めてくる貴族はいたが、なんの感情も湧かなかった。
しかし今は、じわりじわりと喜びが湧き上がり、頰が緩んでしまう。同時に胸の奥が苦しくなって、この感情が何かと眉根を寄せた。