5.なれのはての町
小屋に住み始めて、2ヶ月半が経った。
いつものように朝食を作っていたところ、急に声をかけられた。振り向くと同時に、「今日は街へ行く」と告げられた。無意識に顔がこわばってしまう。慌ててすぐに微笑みを浮かべたが、アレクは見逃さなかった。
「何か問題があるか?」
「……いえ」
咄嗟に誤魔化したが、背中には一筋の汗が流れていた。
もし私を知る者がいたら──
私がサンゼレシア王国の王太子妃として即位したのは12歳。その時に一度だけ民の前に出たことがあったが、それ以来、ほとんど城の中で過ごしてきた。民から気づかれる可能性は低い。
しかし、視察などで別の国を訪問した時や、王都近辺に出没した魔物を退治した時に、顔を見られているかもしれない。さらに、ここから王都までは離れてはいるが、城に出入りしていた貴族や王族が、街にいる可能性も捨てきれなかった。
デイビットの刺客に殺されそうになった夜を思い出す。
(次こそは本当に、殺されるかもしれない)
無意識に鳥肌が立ち、私は腕を押さえた
そんな私の様子を、アレクはじっと見つめる。自身の生い立ちについてアレクに話したことはなかったため、私は沈黙を貫くことしかできない。
「誰かに見つかったら困る、とかか?」
「……いえ」
「お前さんは嘘が下手だな」
瞬時に嘘がバレてしまう。
表情は出さないようにしていたのにと内心動揺する。
アレクは考えるように空を見つめ、「少し待ってろ」と声をかけ、別室に行ってしまった。数分後、手にはフード付きのマントを持っていた。
「着てみろ」と手渡され、マントを羽織り、フードをかぶる。すると彼は、私の顔の前で手のひらを広げ、精霊魔法を唱え始めた。
無言で目の前の手のひらを見つめる。ところどころタコが潰れ、皮膚が硬くなっている。
周りの空気がわずかに暖かくなったような気がするが、精霊が見えない私には何が起きたか分からない。
「マントに認識阻害の魔法をかけた。すれ違うくらいでは、ほとんど認識されないだろう」
「光の精霊魔法ですね」
「知ってたか」
私は頷く。光の屈折を利用し、周囲にいる人の視覚情報を曖昧にする精霊魔法だ。
貴族の男女がお忍びで街へ行くとき、この精霊魔法が重宝されていると聞いたことがあった。外出許可もおりず、共に出かける友もいない自分は、「私には無関係のものね」と自嘲の笑みを浮かべた過去が蘇る。
暗く沈んだ思考を振り払うようにして、「何という街へ行くのですか」と問う。アレクは手を下ろし、答えた。
「ロトゥスという街だ」
「ロトゥス……」
街の名をなぞる声がわずかに震えた。
ロトゥスは国内でも治安が極端に悪く、王国に納める税金も著しく低い街だった。国としては街を存続させる理由がないが、1つだけ大きなメリットがあった。
ロトゥスは魔の森と隣接していた。この街の住民が犠牲になることで、魔物を食い止め、他の街の被害が抑えられていた。
街を管理している貴族が形式上はいるが、ほぼ放置状態だと聞いていた。税金は安いが、死と隣り合わせの街。訳ありだったり、他の街では生きられないほど貧しい者が流れつく。
そのため、王都ではこう呼ばれていた。
「……なれのはて」
「なれのはて、ねぇ」
アレクは意味ありげに呟く。
「昼前に出発する」とつけ加え、部屋から去っていく。私は鍋から湯気があがるスープをしばらく見つめていた。
*
森の中を歩いていく。
網目のように張り巡らされた木々の隙間から太陽が差し込む。アレクの大きな背中で遊ぶように木漏れ日が揺れた。唄うような鳥の鳴き声のあと、羽ばたく音がする。びくりと体を震わせれば、彼は一瞬だけ振り向き、また歩きはじめた。
太陽が頭上に昇りきる頃、人のざわめきが聞こえてきた。
簡易的な鉄の門に、「ロトゥス」と書かれた看板がかけられている。木でできた柵がぐるりと街を囲み、街の中央には一本のなだらかな坂道があった。
坂道の両脇にはひしめき合うように家が建てられており、その密集具合に目を見張る。美しく整った王都の建物とはまるで違っていた。壁や屋根はしっかりと固定されておらず、不恰好な家が隙間なく建てられている。
驚いたのは家だけではない、街を埋め尽くす人々の熱気もすさまじかった。
家の前で果物や獣の皮や角を売る人たち。呼び込みの声や、まけてくれと白熱する声もする。坂道は人がすれ違うくらいの広さはあるが、人自体が多いため、通り抜けるには苦労しそうだった。
「行くぞ」
そう言って、ひしめく人々の間を縫うように、アレクは進んでいく。私も慌てて後に続いた。
何度か人とぶつかりながら、彼の背中を見失わないよう必死についていく。様々な言語が波のように寄せては引いていく。何かの食べ物の香りや、鼻腔を突くような体臭が混じり、独特な匂いが街に満ちていた。
坂道を登りきった先、情報量の多さや人混みの凄まじさから解放され、私は肩で息をする。呼吸が安定し、顔をあげれば、そこには見張り台が建つ小さな広場があった。台の周りを子供たちが追いかけっこしている。
街で揉みくちゃになっている時には一度も振り向かなかった彼は、そこではじめて私の方を見た。しかし視線は私ではなく、もっと遠くを眺めていた。私も倣うように振り向く。
──その時、一陣の風が起こった。
フードが脱げ、私の金髪が空になびく。街へ来る前、私は自分の姿を見られることに怯えていた。しかし今、そんな不安が吹き飛んでしまうくらいの景色が目の前に広がっていた。脱げてしまったフードを直すことなく、ただ眼下に広がる景色を見つめる。
太陽が昇った空には鳥たちが思い思いに飛び回り、その下には慎ましく貧しい家並みがずらりと全方向に広がっていた。
わずかな隙間さえ埋めるように建てられた家、隅々まで広がる人々の喧騒。嗅いだことがないスパイスの香りが鼻をくすぐる。人々は忙しなく動き、怒鳴り声や笑い声が響き合っていた。圧倒されるようなエネルギーに息を飲む。
「ここが、ロトゥス……」
私の頭の中は混乱していた。
「なれのはて」と蔑みと共に呼ばれていた街。書物や伝聞でしか知らないその街は、魔の森と隣接した貧困街という情報しか知らなかった。そのため人生に絶望した者が住みつき、暗く澱んだ空気が満ちていると思い込んでいた。
「想像と違っていたか?」
「……はい」
「自分の尺度で世界を見ない方がいい」
笛のような鳴き声が聞こえた。見れば一羽の鳥が、気持ちよさそうに飛んでいた。
(自分の、尺度)
アレクの言葉を繰り返す。私の世界は城の中で完結していた。
フレイユの言葉、貴族の噂話、城に用意された書物……そこが世界の全てだと、そう教えられてきた。
大空に羽ばたく鳥を見つめる。私はカゴに閉じ込められた鳥だったのかもしれない、ふと思う。カゴの外には、こんな大きな青空が広がっていることさえ知らなかった。
しばらく街並みを眺めていると、大きく手を振り、近づいてくる女性がいた。
「アレクさーん!!」
大声で名を呼び、走ってくる。
歳は私より少し上くらいだろうか。赤茶色の三つ編みを揺らし、グリーンのワンピースに、ベージュのサロンエプロンを身につけている。自分たちの前で止まると、にこりと微笑んだ。あの坂道を走ってきたのに息一つ切れていない。
「さっき姿が見えて……ってこの方は、もしかして、彼女さんですか?!」
「違う」
アレクは即座に否定して、少しだけ考え「居候だ」とだけ答えた。
女性は茶色の瞳をまばたきして、目を細める。人懐っこい笑顔だった。
「私、ベロニカと言います!」
「リディア……です」
貴族だけが持っている姓は名乗らない方が良いかと判断し、名前だけ答える。
「リディアさん!」とベロニカは嬉しそうに言い、持っていたカゴのバッグから白いハンカチを取り出した。ハンカチには黄色い花の刺繍が施されている。
「これ、私の子供が刺繍したものですが、よかったら!」
「子供」
「はい、刺繍は次女が一番上手で! 街の人にも評判なんですよ!」
「次女」
情報量が多くて、言葉を反復することしかできない。
目を白黒している私に、後ろからさらに驚きの事実が告げられた。
「ちなみにベロニカには5人子供がいる」
「……」
「今は6人目を妊娠中です!」
待て、今、坂を軽快に走ってこなかったか。
いつも感情を表に出さない私も、さすがに絶句に似た表情を浮かべた。私の反応に、鈴が鳴るような声でベロニカは笑う。
「いずれ私の店にもきてください! アレクさんの友達なら大歓迎です!」
「友達では……」
「それじゃー! さよーならー!!」
否定の言葉を待たずに、妊婦とは思えない軽快な足取りで坂をくだっていく。
そんな彼女の後ろ姿を見て、私は問う。
「あんなに動いて、大丈夫なのでしょうか」
「不安か?」
アレクの質問に居心地の悪さを感じ、うつむいてしまう。私は何も答えず、そっと自分の腹をさすった。
街ではいくつかの調味料と穀物を購入した。
買い終わるまでに何人もの人がアレクに話しかけてきた。街中では「森の番人」と呼ばれているらしい。どうやら魔物退治に一役買っていることから、そう呼ばれているそうだ。魔力持ちだとは知っていたが、魔物を退治できるほど強いのかと驚く。
城で働く魔力持ちでさえ、魔物を狩るには複数人で対応しなければならない。
日が暮れはじめると、いそいそと店は畳まれ、住民たちは家の中に入ってしまった。あれほどひしめき合っていた客たちも、どこかへ消えてしまう。昼間の熱気が嘘のように静寂が訪れる。街灯はほとんどなく、月明かりが一番明るい光源だった。
夜遅くまで賑わっている王都とは正反対だ。城の執務室から見える夜の王都は、街灯で飾られていて、闇に浮かぶように光が漂っていた。その景色を見るのが、一日の中で唯一安らげる時間だった。思い出して少し胸が痛む。
静まり返ったロトゥスを後にし、帰り道を歩く。
ふくろうの鳴く声と、小動物か何かが走るような音。世界が息を潜めているようだ。ぞくりと背筋が震え、恐怖をかき消すようにアレクに話しかけた。
「あの街は、店じまいが、早いのですね」
「命が惜しければ夜は出歩くなーーこれが鉄則だ」
「魔物が出るから、ですか?」
「それもあるが──」
言葉が途切れ、アレクの足がぴたりと止まった。
何事かと首をひねる私に、殺気に似た視線を感じた。私が身構えるより早く、アレクは詠唱をはじめる。目の前から複数人の男たちが飛び出してくると同時に、地面から巨大な根っこが飛び出してきた。
「なっ!」
刃物を持った男たちは驚きの声をあげる。
巨大な根っこは体を拘束し、手首を強く締め付けた。骨が軋む音がし、男たちが悲鳴をあげるのと同時に刃物が地面に落ちる。からんと虚しい音が響いた。
「こういう奴らが現れてくるからな」
平然と言うアレクは、拘束されている男たちの横を通り過ぎる。
「離せェ!」と彼らは暴れ、逃れようとするがビクともしていない。
男たちは見る限り、魔力持ちではない。アレクを倒して術を解かない限り、拘束されたままだろう。
「あのままで、いいのですか?」
「放置して、魔物のエサにする」
惨いことをあまりにも淡々と言うので、声が出なくなる。
歩幅が小さくなった私に、アレクは振り向いて説明を加えた。
「あいつらを食えば、魔物の腹が満ちる」
「……」
「そうすれば、街の住民を襲うことはない」
「分かったか」と聞かれ、おずおずと頷く。
男たちの叫びが森の中に響いていたが、やがて動物たちの鳴き声でかき消されてしまった。