22.赤ん坊と涙
城へ出発する前日、ベロニカの家へ行った。彼女と会うのは1ヶ月ぶりだった。
サイクロプスの討伐後、彼女の努力は実を結び、攻撃性の低い魔物や獣を退治できるほどになった。様々な魔術を展開したり、威力を高めたりする訓練への移行は出産後に行うことにした。
最後に会った日のことを思い出す。広場にある大木の下で、「あと1週間くらいかしら」と大きくなった腹を撫でた。そんなベロニカを見て、私は動悸が激しくなるのを感じた。自分の平らな腹を撫でる。
「生まれてこなくてよかった」という自分の言葉も、「生まれてこない方がいい子供なんていない」というアレクの言葉も、ただ横たわっていた。肯定も否定もせず、眺める日々が続いた。
何の感情も湧かない自分に、あの過去とは決別できたのかもしれないと思う時もあった。しかし膨らんだお腹を愛おしそうに撫でる彼女の姿を見て、気づく。
あの過去が心の奥に、深く根を張っていたことに。
自分は見ないフリをしていただけだったことに。
「しばらく街に来れない」と気づいたら嘘が口から零れ出ていた。ベロニカは残念そうに眉を垂らしたあと、微笑んで頷いた。
それから街へ行く頻度を減らし、来たとしても隠れるように用事を済ませ、すぐに街を後にした。
ベロニカに会うのが怖かった。生まれたての赤ん坊を見て、顔を強ばらせてしまうかもしれない。傷つける言葉を言ってしまうかもしれない。
過去に向き合うこともできず、自分の弱さと折り合いをつけることもできず、ただ日々だけが過ぎていった。
(登城まで、あと1日)
しかしこのまま城に行けば、ロトゥスに帰れない可能性もある。ベロニカの家族と、イノシシ肉のシチューを食べた日を思い出す。笑い声が飽和するあの時間は、私の心を何度もぬくませた。
自分の過去とどう向き合えばいいかは、いくら考えても分からなかった。
しかし彼女たちと二度と会えないのは嫌だった。その気持ちは、はっきりと分かった。
震える手で扉をノックすると、トニーが出迎えてくれた。少しやつれ、髪の毛がボサボサだ。視線に気づいたのか、「俺も寝不足でね」と頰をぽりぽりと掻いた。
家に入った瞬間、まだ働き手に出ていない幼い子供たちが駆け寄ってきた。「リディアさんだー」「りであー」と口々に言う姿が愛らしい。微笑みを返し、お土産の袋に入ったお菓子を渡す。喜んだあと、「おかーさん、あっちだよー!」と服の裾を引っ張り、奥の部屋へと連れていってくれた。
「あ、リディアさん!」
部屋の中央では、布団に潜り、上半身だけ起こしたベロニカがいた。
「起こしてしまいましたか」
「ううん、今起きたとこー! 夜眠れないから、昼寝してたんだ」
からからと笑うベロニカ。思ったよりも元気そうな姿にほっと息をつく。
お土産のお菓子を彼女にも渡すと、「甘いもの食べたくなるから、嬉しい」と顔を緩ませた。するとベロニカの奥で寝てた赤ん坊が、ふぎゃあと寝ぼけたような声をあげた。
「こっちもお目覚めね」
ベロニカが抱っこして、あやす。
そこには両腕ですっぽり収まってしまうくらい小さい赤子がいた。髪の毛はうっすらと生え、顔は丸くつるりとしている。頰だけがふっくらと膨らんでいた。
「ベリーって名付けたの。ベリー色の瞳をしていたから」
木の上に手を伸ばし、ベリーを摘んでいたベロニカの姿を思い出す。
もうずっと昔のことのように思えた。
「抱っこしますか?」
「いえ、」
思わず首を横に振ってしまう。
ベロニカの腕の中で眠る赤ん坊は、何もかも小さく、壊れてしまいそうだ。とても怖くて抱っこなどできない。
私の気持ちを悟ったのか、ベロニカは笑いながら言う。
「大丈夫ですよ。赤ん坊は意外と強いんですから」
そのまま赤ん坊を差し出される。
おずおずと抱えこむと、ズシリとした重さが腕に伝わった。すると赤ん坊が顔をしかめて、泣きそうな表情になったため慌ててしまう。困り顔でベロニカを見れば、楽しそうに抱っこの仕方を教えてくれた。
右の二の腕に頭を乗せ、左手で赤ん坊の体を軽く叩く。とんとんとん、優しくあやせば、ベロニカは「上手上手」と褒めてくれた。手のひらも、足も、何もかもが小さい。ほう、と寝ぼけたように唇から息を吐く。ほのかにミルクの香りがした。
赤ん坊の泣き声はやみ、ゆっくりと瞼が開いた。褐色がかった赤みのある瞳が私をじっと見つめる。何の汚れもない、無垢な瞳。見つめられて、思わず息を止めてしまう。
すると赤ん坊は、にっこりと微笑みを象った。
「……あ」
声が漏れた。
ぽたりぽたりと赤ん坊の服に、涙が落ちていく。
「ご、ごめんなさい、」
赤ん坊が濡れてしまう。でも涙が止まらなかった。
「生まれてこない方がいい子供なんていない」
アレクの言葉が浮かんだ。その言葉がするりと心の内側に入り、あたたかな光を放っている。その光は共鳴するように心を震わせ、涙となって瞳からこぼれ落ちた。
「いいんですよ」と言うように、ベロニカは私の肩を撫でた。
急に涙を流した私に反応するかのように、赤ん坊も息を吐き、うああと泣き出した。赤ん坊と私の泣き声が、部屋にしばらく響いていた。




