20.城からの呼び出し
厚い雲が空を覆っていた。頭の片隅がズキズキと痛む。雨が降る前の前兆だった。
もしかすると小屋へ戻る途中で、雨に降られるかもしれない。
「リディア様……?」
駆け足で買い物を終え、街を出た時だった。
後ろを振り向けば、薄茶色のシャツとこげ茶の長ズボンを履いた男がいた。服装は平民だが、かすかに魔力を感じる。なんだか嫌な予感がして、警戒しながら答える。
「どなた、でしょうか」
「し、失礼しました。私、城で護衛騎士をしています、ジャック・ブノワルドと申します」
「護衛騎士……」
なぜこんなところに。嫌な予感が膨れ上がる。
「やはりロトゥスにいらっしゃったのですね」
「……私は死んだことになっていたはずです」
「えぇ。ただ先日の魔力暴走、あれほどの力を持っている魔術師はほとんどおりません。リディア様だとすぐに分かりました」
魔力暴走とはサイクロプス退治の時だろう。
ただ魔力を検知できたということは、近辺にいたことになる。
「貴方はその時、ロトゥスにいたのですか」
「はい。別件ですが」
「別件……」
何かが引っかかる。
城に勤める騎士がこの土地に何の用事があるのだろう。
嫌な予感は膨れ上がる一方だ。するとジャックはとんでもないことを言い出した。
「リディア様、城へ戻りましょう」
目を見開いた。首をゆっくりと横に振る。
「……私は国ではもう死んだ身。戻っても混乱させるだけです」
「いいえ、デイビット王は貴方の帰りを待ち望んでいます」
何を言われたか分からなかった。頭の中が真っ白になる。
ルビーのペンダントが頭に浮かび上がる。魔力が発動できない焦り。黒ずくめの刺客たち。崖から落ちた時の痛み。記憶が次々と浮かび上がる。
自分を殺そうとした犯人が、自分の帰りを待ち望んでいる。理解の範疇を超えて、体のすべての機能が一瞬停止した。
ジャックは私を見て哀れむような口調で言う。
「素晴らしい力を持つリディア様が、そんなみすぼらしい服を着て、世話する者もいなく、貧民街に出入りすることがおかしいのです」
今まで念入りに手入れされていた髪や肌はツヤを失い、荒れている。
華やかな刺繍や宝石が施された最高級のドレスではなく、使い古されたシャツとスカートを身に纏っている。
王族や貴族しか入れない豪華絢爛な城ではなく、移民やならず者が訪れる汚い街に出入りしている。
一年前と比べ、私の生活は一変した。
何も知らないジャックから見れば、地獄へ突き落とされたような変化だと思うだろう。
私は拳を握る。胸の内に湧き上がったのは激しい怒りだった。勝手に判断され、勝手に哀れまれた。何も知らないくせにと悪態をつきそうになって、気づく。自分が初めてロトゥスへ来た時のことを。
「なれのはて」と哀れむようにロトゥスの名を呼び、
人々の熱気に揉みくちゃにされながら坂道を登った先で、
どこまでも広がる町並みに驚いた──あの日。
私だって同じだと自嘲の笑みを浮かべ、力を込めた拳を緩める。
「なぜ私を呼び戻したいと?」
「ここだけの話ですが、ある作戦に入ってもらいたいと考えているようです」
「ある作戦?」
「はい──ロトゥス浄化作戦、です」
目の前の景色がぐらりと揺れた気がした。
「浄化」とはつまり、あらゆる手段を使い、ロトゥスの存在を消すことだ。美しい鳥の腹から血だらけの臓物を取り出すようなグロテスクさを感じて吐き気を抑える。
ジャックは穏やかな笑顔を浮かべたままだ。「国のためにならないロトゥスを消しても、何も問題はない」と信じて疑わない顔だった。
取り乱した表情を見せないよう努めながら、静かに言った。
「──少し考える時間をください」
「……かしこまりました。3日後の早朝、ここでお待ちしております」
「城に戻れ」という命に、二つ返事で頷かないことに少し訝しみながらも、ジャックは深々と頭を下げた。彼の背が見えなくなるのを待ち、私は小屋に向かって歩き出す。
空の雲は先ほどよりも厚くなり、あたりは薄暗くなっていた。ひやりと鳥肌が立つような冷たい風が吹く。雨が近い。
予想通り、途中で雨が降ってきた。地面を叩きつけるような雨の中、私は淡々と歩く。髪から雨がしたたり、服をあっという間に濡らしていった。雨の精霊魔法を使えば、雨を防げることは知っていた。しかし私は何も唱えず、ただ小屋まで歩き続けた。
小屋が見えた。
滝のように降る雨。一寸先も見通せない視界の中、ぼんやりと窓の中から光が見えた。
安堵が生まれる。そして自身の指先を見た。
開いた手のひらをしばらく見つめ、握りしめた。欠けた爪に、雨が容赦無く降り注ぐ。
キイっと古ぼけた扉を開く。
アレクが振り向き、ずぶ濡れの私を見て一瞬驚いたあと、眉根をしかめた。椅子にかかっていたタオルを持ちながら近づく。
「そのまま入るな……ったく、なんでそんなに濡れてんだ」
ぶつぶつと言いながら、乱雑にタオルで髪を拭く。何の優しさもなく、ガシガシと拭かれていく。おそらく彼が使ったタオルを、そのまま使われているのだろう。うっすらと汗の匂いがした。
『自分が使ったタオルを女の子に使うなんてサイッテー!』と脳内のベロニカが怒って、ふっと頰が緩んだ。
そしてすぐに現実に引き戻される。
髪や服からこぼれ落ちる雫。床に水たまりができていく。
「アレクさん」
タオルを拭く手が止まる。
私は見上げた。灰色の瞳がこちらを見つめている。
その瞳を見て、唇をうっすらと開いた。
お腹にいたかもしれない赤子の話をしたあとも、アレクの態度は何も変わらなかった。ぶっきらぼうに、ただ一緒に生活をしてくれていた。封印していた記憶を告白したときのように、ジャックから聞いた話も言ってしまいたかった。
──彼なら何とかしてくれるかもしれない。
藁にもすがる思いで掴もうとした。握ろうとした。そのとき、
(それだと、皆が助からない)
考えを振り切った。唇を固く結ぶ。
ロトゥスで待ち構えても、王国屈指の魔術師や精霊使いに勝てる見込みはない。
アレクを巻き込むことは、できない。
登城できるのは自分1人だけだ。この計画を止められるのは、自分だけだ。
「城へ、行こうと思います」
彼の口が少し開き、雨音に負けそうなくらい静かな声で言う。
「……また、殺されるかもしれないんだぞ」
体が震えた。
雨で濡れたせいではなかった。自分を待ち受ける未来を思うと、震えが止まらなかった。
「それでも、」と声を絞り出して、私は言う。
「私は、行かなければ」




