天使は屋根の上_9
明くる日、ルチアは朝日が昇るとともに家を出た。
明け方の王都はいつもと変わらず清浄な空気に満ち、静かだった。すでに活動を始めている人もいるが、昼中の騒がしさはまだ遠い。
ルチアはフードで顔が見えないのをいいことに、隣を歩くノイアの顔を時々盗み見ていた。ノイアは門まで見送ると言ってついてきていた。
「こっそりついてこないよな?」
「もちろん」
「それはどっち?」
「どっちがいい?」
ルチアは笑い声をあげた。フードを被っているので人目を気にする必要はなかった。
王都を歩いていれば常に人目がこちらに向いていたが、今は誰もルチアを気にも留めない。まるでただの人間になったかのようだった。
「ごめん、別に疑ってない。ただ君の冗談が聞きたかった。もう会えないかもと思うと……」
ルチアはノイアと一緒にいることに慣れてしまって、門をくぐれば彼とお別れだと思うと不思議な心地がした。
「案外すぐに会えるかもしれないよ。王都の魔術師は、王宮お抱えか、月の神に仕えているか、魔術師協会本部で忙殺されているかの三択だから、働き口が見つからなければ別の街へ行くよ」
「君が王都に居座る気がさらさらないのはわかったよ」
もう一度笑いあうと、ちょうど門が見えてきた。
門はすでに開門されていて、人や馬車の往来が始まっていた。この人の流れに乗れば王都を出ていくことができる。城壁の上から街道を眺めるだけだった日々を思うと胸が熱くなった。
門の手前で立ち止まり、王都の方を眺めた。追手と思しき人はいない。ひょっとしたらイレネウスの手の者に捕まるかもしれないと考えていたため、肩透かしを食らった気分でもあった。あれだけ必死だった日々を思えば、なんともあっけなかった。
「こんなに静かに王都を発つことができるのは、きっと君の偽装のおかけだろう。誰も私に気づかないし、誰も私を止めに来ない」
ノイアは意味深な微笑を浮かべるだけだった。彼はルチアを監視している目についても、それを妨害する方法についても、詳しく教えてくれることはなかった。
「日陰でひっそりとする権利は君にもある。最後にこれを」
ノイアが一粒の黒い石のネックレスを取り出し、ルチアの手にしっかりと握らせた。
「お守りだ。この石を握って俺の名前を呼んで。そうすれば召喚魔術が発動して、俺を呼び寄せることができる」
「ありがとう。これは何の石だ?」
「黒曜石。俺と最も相性の良い鉱物だ、君には似つかわしくない路傍の石だけど」
「そんなことはない、綺麗だ」
朝日に透かしてみると、真っ黒に見えた石の中には幾重にも重なる灰色の層が透けてきらめいていた。ノイアの美しい瞳とよく似ていた。
「魔術に詳しくない私だって、人ひとりを呼び寄せる召喚魔術が尋常の魔術でないことくらいわかる。なあ、ノイア。君は一体何者なんだ?」
「俺は黒曜石の魔術師だった。多くの名で呼ばれてきたけど、自分で名乗ったのはそれだけだ」
ノイアは笑みを作った。だが、その微笑みは寂しいものだった。
「さようなら、ルチア。どうか元気で」
ルチアは思わずノイアの手を握っていた。黒い革手袋に包まれた大きな手だった。手を握られたノイアは目を見開いて微動だにしなかった。
一緒に行こうと言いたかった、ほとんど喉元まで出かかっていた。しかし、言えなかった。そんなことをすれば彼を含めた護衛候補を侮辱することになる。彼とは勝負さえしていないのだ。
このまま手を引けばノイアは応えてくれるという確信があったが、行動には移せなかった。ただ相応しい別れの言葉を探した。
「君が私と仲良くなろうとしてくれたこと、本当に嬉しかった。今度はもっと違う形で出会おう。その時はきっと、君の優しさに応えるから」
名残惜しさとともにノイアの手を離した。ノイアはなぜかまだ衝撃を受けているように動かなかった。その様子がおかしくて、くすりと笑った。
「さようなら、ノイア。君も元気で」
ルチアは人の流れに乗って歩き出した。足取りは軽く、背中に羽が生えているようだった。
門の下まで歩き、もう一度振り返ってノイアに手を振った。穏やかな昼下がりの光のような笑みを浮かべたノイアが手を振り返す。
フードの日陰の中でこの先もノイアが健やかであることを願いつつ、歩き出した。門をくぐり、王都の外へ。
煉瓦が敷き詰められた街道を歩き出した瞬間、心がふっと軽くなるのを感じた。止まっていた全てがようやく動き出したのだと知った。心臓が強く打つ。誰にも止められない胸の高鳴りは、ルチアを前へ前へと進ませてくれる。
ルチアの人生はこうして静かに始まった。それを知っているのは、二人の侍従と、黒曜石の魔術師だけだった。