表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
天使と黒曜石の魔術師  作者: 水底 眠
第1章 天使は屋根の上
6/24

天使は屋根の上_6

 翌日も王都は素晴らしい快晴だった、まさに観光日和である。ルチアはまず、ノイアに中央大聖堂を案内することにした。

 中央大聖堂は太陽信仰の総本山であると同時に、王宮と双璧をなす王都で最も優れた建築の一つだった。太陽に向かって高くそびえる荘厳な大聖堂は、その名に恥じぬ重厚さを湛えている。

 色大理石をふんだんに用いた建物正面部には太陽を模した円形の窓が中心に位置し、その周辺には聖人たちの姿や聖なる草花、動物などが彫り込まれ、見る者を圧倒する風格を有していた。

 二人は朝の祈りを終えた人々が出てくるのを待ち、中へ入った。

「君は祈りに参加していないんだね」

「ああ、大司教様曰く、神の意志そのものたる天使に祈りは不要なんだって」

 側廊の高い窓にはめ込まれた色硝子から光が差し込み、色鮮やかな影を床に落としていた。

「見所は全てだが、強いて言うなら二つだな。一つは蒼穹世界を主題とした天井画だ」

 ルチアは内陣の穹窿天井を指差した。そこには、ここが建物の中という事実を忘れさせるほどの澄み切った空の色が広がっていた。それから、太陽の神、そして主だった諸神が、圧倒的な画力と色彩で描かれている。

「それからもう一つは窓の色硝子、聖典の様々な場面を表しているんだ」

 色硝子に描かれた聖典の物語は、太陽神の降臨の場面から始まっている。太陽神が権能を切り分けて数多の神々を創りだす神々の降誕、太陽神が生まれてすぐに亡くなった人間の子どもを哀れんで蘇らせる天使の誕生、闇の神である魔神と太陽神率いる神々の軍団との大戦、太陽の神が世界を去り再び世界へ降り立つことを約束する最後の落陽、そして内陣の中央に太陽神の再降臨の場面が描かれている。

 再降臨は太陽神が姿を隠す前に人々に約束したことであり、聖典にその場面は書かれていない。それがいつになるかは今なおわかっておらず、神学者たちの間でも解釈が分かれている。太陽の眷属であるルチアも全く知らないことだった。

「あれが天使?」

 ノイアが天使の誕生の図像の色硝子を指さした。

 太陽の神が生まれてすぐに亡くなった子供を哀れんで蘇らせ、蘇った子供たちがその奇跡に喜ぶ場面だ。太陽の神と、翼の生えた幼子が一緒に描かれている。彼らはその後太陽の神の眷属となり、太陽の神に告げられた命により、人間の幸福と安寧のために働くこととなった。

「その通り。実際の天使に翼はないが、絵の中では天使には翼が生えているものとして描かれる。翼のある神と混同されたことがきっかけと言われているが、天と地を繋ぐものだから翼があると考えられていたと主張する人もいる。私も詳しいことは知らない」

 天使の紋章も薔薇と翼を主たるモチーフにしている。しかし、天使の翼は人々の共通認識と、絵の中にだけ存在するものだった。

「君も私に会って驚いたか?」

「いいや、初めから君に翼がないのを知っていた。何度も生まれ変わることも」

「君みたいに正しい知識を持っている方が珍しいよ、私の姿を見てがっかりされることもある」

「それはひどい、君と出会えた幸運に感謝すべきなのに」

 ノイアは真剣な口調で言った。その視線の先にあったのは聖剣を持って魔神を打ち倒す太陽神の図を描いた色硝子だった。それに気づいたルチアは慌てて言った。

「さあ、次の場所へ行くとしよう。見てもらいたい場所が多いんだ」

 大聖堂を出て、敷地内にある図書館や美術館などを軽く見せて回った。その気になれば丸一日を費やしても全てを見るのは難しいが、王都には他にも見るべき場所が多いため簡単な紹介だけに済ませた。

 続いては、王都の南側にある劇場へと向かった。

 半円形の舞台を擁する野外劇場で、客席はなだらかな斜面にそって扇状に広がる。客席の上には日差しを遮るための天幕が張られていた。

 この劇場ではルチアもほとんど注目を集めなかった。演劇を見に来た客たちの視線は、舞台や袖で待機している役者たちに向けられている。劇場にはすでに多くの客が集まっていた。付近には屋台も出ており、美味しそうな匂いが漂っていた。

「甘いものでも食べながら見よう。……なあ、ノイア。さっきからどうした?」

 ルチアは菓子の量り売り屋台の前で尋ねた。ノイアは先ほどからずっと上の空で、周囲を警戒しているようだった。

「何でもないよ」

 ノイアはさっと代金を払ってルチアの手に菓子の入った箱を置いた。あまりにも自然で流れるような動きだったので、ルチアは反応が遅れた。

「あ、ありがとう。でもなぜ君が払ったんだ?」

「君以外のものに気を取られたことへのお詫びだ。さあ、席を探そう」

 前方はほとんど埋まっていたので、後ろから三列目の席に座った。周囲にいるのは演劇を見に来た人々と屋台を出している商売人ばかりで、妙な人は見当たらないというのに、ノイアはまだ何かを警戒しているようだった。

 まもなく開演の時間だと舞台に上がった役者が告げたころ、ノイアがルチアに耳打ちした。

「少し外す、ここにいて」

「え……? おい、ノイア!」

 止める間もなくノイアが行ってしまうと、ちょうど劇の始まりを告げる演奏が始まった。追いかけるべきかしばし悩んだが、結局席を立ってノイアを追いかけた。

 立ち見の客たちの間をすり抜け、ノイアの姿を探す。しかし、すでに彼の姿は見えない。ルチアは周囲の人々や屋台の店員に黒髪の男を見なかったか尋ねたが、見たという者はいなかった。

 立ち尽くしたのは一瞬のことで、ルチアはすぐに目を閉じて嗅覚に意識を集中させた。ノイアの匂いは覚えていた。花のように甘い微かな香りを嗅ぎ分け、すぐに走り出した。

 匂いの跡をたどって道行く人々の間をすり抜け、辿り着いた先は路地だった。薄暗い道を覗き込むと、ノイアの姿が見えた。剣呑な表情を浮かべ、全身にまとう魔力が黒く爆ぜている。

「ノイア、そこで何を……」

 ルチアの言葉は途切れた。ノイアを囲む数名の男の姿を認めたからだ。彼らは突然現れたルチアに驚きながらも、手にした刃物の切っ先をノイアの方へと向けていた。

 ルチアはとっさにノイアの前に出ていた。心臓が嫌な跳ね方をしたが、ノイアが自分より先に刺されることがないと思うと少し安心した。

 ノイアがルチアの肩を強い力でつかんだ。

「ルチア!」

 ノイアが烈火の如き怒りを込めて叫んだ。戸惑いの空気を漂わせていた男たちは、その声で我に返ったように身をひるがえして走り去っていった。

「一体何だったんだ……?」

 男たちの姿が見えなくなると、ルチアはようやくノイアの方を振り返った。

「怪我はないか?」

 ノイアはルチアの肩から手を離し、困惑気味に言った。

「ない。掴んで悪かった。それより、天使が人の前に出るなんてどういうつもり?」

「どういうつもりって、君が襲われそうだったから……」

「つまり、俺を守ろうとした……? 君の護衛になろうっていう男を?」

「他に何があるっていうんだ?」

 目を点にしているノイアを、ルチアは怪訝な顔で見つめた。

 ノイアは肩を震わせ、そのまましゃがみこんでしまった。ルチアも慌ててしゃがみこんでノイアの顔を覗き込もうとするが、ノイアは大きな手で顔を覆っていた。

「今度はどうした、やはり怪我を? ……って、君、もしかして笑ってるのか?」

 今度はルチアが目を点にする番だった。何がおかしいのかさっぱりわからないが、ノイアは体を震わせて笑っていた。ひとしきり笑ってから、眦の涙をぬぐいつつ言った。

「笑ってごめん。これが守られる気持ちか。驚くほど嬉しいね、笑ってしまうくらいに」

 それからノイアはルチアをにこにこしながら見つめてきたが、見つめるばかりで何も言わない。ルチアは名状しがたい気分になってきて、アマレッティを一つ取って口に入れた。ノイアの手にも無理やり一つ置くと、ノイアは苦笑しながら食べた。

「守ってもらったお礼に一つ伝えさせて。俺は天使の誓約を知っている、君が人間を決して傷つけられないことを」

 ルチアは絶句した。同時にノイアがなぜ怒ったのかも理解した。

 剣の天使は人間よりはるかに強く、数いた天使の中で最も強く、神と互角に渡り合えるほどに強い。これは周知の事実だ。

 だが、剣の天使は人間を傷つけないという誓約を立てていた。これは秘匿されてきた事実で、イレネウスの他には数名しか知らない。

「イレネウス大司教から聞かされた、他の候補者には明かしたことがないとも言っていた。俺に本気になってほしかったのかもね」

 ノイアはアマレッティを一つ取ると、何を言おうか悩み続けているルチアの口にそうっと差し入れてきた。混乱しきりのルチアは抵抗せずそれを食べ、飲み込んでからようやく言った。

「私は刺されても平気だ、人間より頑丈だし、すぐには死なないさ」

「同じことを俺の目を見ながら言える?」

「そ、そんなことより、君には聞きたいことが多すぎるが……、まず、さっきの奴らは一体なんだ?」

「さあ、俺にもわからないけど、俺のことを殺そうとしていたのは確かだ」

 ノイアはさらりと言った。数名に刃物を向けられていたとは思えない物言いだった。

「やっぱり君は、俺に興味を持ってくれてるってことだよね?」

「ふざけるのはよせ、本当に心当たりはないのか?」

 ノイアははぐらかすように微笑んだ。まるですべてが冗談かのように。

「今のは俺が悪かった、どうか忘れてほしい。君と喧嘩したくないからね。まだ一緒に観光してくれる?」

「か、観光!? この状況で続ける気か?」

「うん、さっきの連中は君の姿を見て逃げて行ったし、君と一緒ならたぶん問題ないよ」

 肝が据わっているとか、そんな形容では物足りないほどの落ち着きだ。襲ってきた相手を追うことも、調査することにも興味がないらしい。冬の神からの殺害予告の件にしてもそうだが、ノイアには自分を殺そうとする者など目に入っていないかのようだった。

「お願い」

 ノイアはけなげな雰囲気を醸し出しつつ言う。そんな顔をされると、強く出られないのがルチアだった。

「……つ、次に危険な目に遭ったら、観光は終わりだ。それでいいな?」

 おずおずと提案すると、ノイアはにっこりと微笑んだ。

 気を取り直したルチアは、公衆浴場や市場といった主だった観光地のいくつかをノイアに見せて回った。ノイアは上の空になることもなくルチアの熱心な解説を聞いてくれた。

 最後に案内したのは万神殿だった。豊かな彩色が施された混凝土造りの建築であり、太陽の神に創られた諸神を祀る神殿だった。

 太陽の神に祈りを捧げる場は教会、諸神へ祈りを捧げる場は神殿と、それぞれ区別される。教会は信者たちの祈りや集会の場である一方、神殿は供犠の場であり祈りのための集会は行われず、使用目的が違うのだ。

「これが万神殿。王都にある唯一の神殿にして、世界最大のものだ」

「へえ、これがそうなんだ。……大聖堂と比べると、人気がないみたいだね」

 ルチアは誇らしげに紹介したが、ノイアの言う通りだった。

  万神殿には人気が少なく、観光客は来ているようだったが、熱心に神に祈ろうという雰囲気の人は少ない。今日は公式の供犠はないが、個人的な供犠も行われない様子だった。万神殿の巨大さと人の少なさとの落差で、やけに寂れて見える。

 ルチアは万神殿にはほとんど近寄らないので実感がなかったが、以前と比べて諸神への信仰心が薄れつつあるのが事実だと改めて知った。

「……それでも祈りに来る人はいるし、叶えてほしい願いがあれば供物を持ってくる人もいるさ」

 人々と諸神は、犠牲とそれに対する利益によって繋がっており、万神殿前にある祭壇が犠牲を捧げる場だった。

 ルチアは自ら犠牲や供物を捧げたことはないし、犠牲動物を口にしたことはなかった。太陽の神は犠牲を求めない神であり、眷属であるルチアもそれに倣うべきだからだ。

「中に入ってみるか? さっき君を襲った者たちの正体を神々に問うてみても……」

「やめておくよ。生憎と興味がない。それに、中に入って神々の機嫌を損ねたくないからね」

 ノイアは含みを持たせて言ったが、それ以上説明しなかった。ルチアは事情を聞き出したい衝動に駆られたが、どうにか言葉を飲み込んだ。この期に及んでまだノイアに興味があるという事実を認められなかった。

「少しは興味を持つべきだと思うが……。君がそう言うなら無理強いはしないさ」

 万神殿を後にした二人は、噴水広場へと足を運んだ。噴水の石像の女神たちが持つ水瓶からは、絶え間なく透き通った水が流れ落ちていた。この広場は憩いの場となっており、多くの人々でにぎわっている。

「君はこの街が大好きなんだね」

「ああ、育った街だからな」

「でも出て行こうとしている」

 ルチアは足を止め、またしても買ってもらった棒付き飴から口を離し、ふっと笑った。

「君、私のことは知ってるんだろう。だったらなぜ出ていきたいのかもわかるはずだ」

「ここにいても何にもならないから」

「その通り」

 神々と戦うために生まれた剣の天使には、平和な地に本当の居場所は存在しない。

 月の神のおわす王都に他の神はおらず、人と神との狭間に立って調停する存在は不要だ。戦うべき神もおらず、人と神との諍いも存在しない。この場所では使命を果たせず、いつまでも天へ迎え入れられることはないだろう。

「王都の外では、諸神への祈りの減少のせいか、魔性が増加していると聞いている。神々との諍いの絶えない地域もあると。そして誰も対処できていないとも」

 新聞や噂で魔性について語られるとき、天使への揶揄も同時に語られる。役立たずのお人形だと。ルチアもその通りだと思っていた。このままでは生まれてきた意味がない、と。

「私は戦うために生まれてきた。だから、一刻も早く王都を出ていきたい、そして、人々を助けたい」

「君は今日にだって外に出ていくことができる、俺さえいれば」

 ルチアは、それでも出ていくことができないとは言えなかった。

 首輪の存在を知られるわけにはいかなかった。フローライト本人から行動の真意を聞くまでは大ごとにはしたくないと思っていた。天使と王女の間で諍いが起こったと周囲に知られてしまっては、問題は二人の手を離れて周囲の大人のものになってしまうだろう。

「私は一人で行きたいんだ。危険な地へ赴くのだから、誰も巻き込みたくないんだ……」

 代わりに同じくらい大事なことを伝えた。それは魔術師たちに勝負をしかける理由の一つで、初めて吐露したものでもあった。人間は守るべきもので、弱くてもろい存在だ。

「ルチア、君は人間を愛しているけど、信頼はしていないんだね」

 ルチアはどきりとした。すこしも言い返せなかった。真実その通りだった。

 黒曜石の瞳がルチアをまっすぐに見つめていて、出会ったときに感じた影のような予感を思い起こさせた。吸い込まれてしまいそうな深い色に目が逸らせなくなる。

 ノイアは間違いなく強い、そして優秀で頭が切れる。この短期間の間に、それを嫌というほど感じさせられている。

「明日こそ勝負をしようよ、ルチア」

「……いいだろう、受けて立つ」

 ルチアは階段に飛び乗ってノイアと視線の高さを合わせ、両腕を広げた。

「私が逃げる範囲は王都の城壁の中のすべて。建物や道を破壊したり人を傷つけたりするのは禁止、違反者は即刻失格だ。私を見つけ、捕まえられたら君の勝利だ」

「君が勝ったら?」

「私は何も変わらない。君を三十一番目の敗北者にして、君が王都を去るのを見送るだけだ」

「そうしていつか王都を一人で出ていく?」

「……そうさ。私は、私を縛る全てから、逃げ出してやるんだ」

 風が吹いて、ルチアの長い髪が巻き上げられた。

「私が私であるために」

 夕日にきらめく髪の向こうで、ノイアが静かな笑みを湛えていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ