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天使と黒曜石の魔術師  作者: 水底 眠
第1章 天使は屋根の上
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天使は屋根の上_5

 天使居館に戻ると、マリアとマルタが緊張した面持ちで居間の方を示した。二人がこういう反応をするとき、来る人は決まっている。

 居間では、大司教イレネウスが待っていた。

 イレネウスは皺一つない祭司服に身を包んでおり、豊かな白い髪を後ろに撫でつけていた。ぴんと伸びた背筋や威厳に満ちた眼差しは、いつまでも衰えることを知らない。

 イレネウスはルチアの後見人であり、太陽神の信徒たちの最高指導者でもあった。大司教は世界を去った太陽神に代わり、太陽神が再び世界に降り立つ時まで教会を導く権能を持っていた。

「今日は遊びに出かけていないところを見ると、護衛は彼で決まりらしいな」

 イレネウスは深みのある声で言って、戸口のあたりを見遣った。ルチアが首だけで振り向くと、所在なさげに佇むノイアの姿が見えた。ルチアはついと視線を逸らす。

「まだです。私はまだ誰にも捕まっていません。ところで今日は何の御用ですか?」

「彼を、ノイア・オブシウスを天使居館に置く許可を与えた証書を持ってきたのだ。ついでにお前の顔も見ておこうかと思ってな。その様子では、やはり腹を立てているのか?」

「もちろんです、彼は、まあ、悪い人ではありませんが……。勝手に天使居館で過ごす許可を与えられたことは納得していません。どういうおつもりか、聞かせていただきたい」

「お前が護衛をつけることを嫌がるから、こちらも手を変えようと思ったのだ。お前はすでに三十人も候補を追い返した、魔術協会からは苦情が来ている。いい加減聞きわけなさい」

「嫌です。候補を送るのを取りやめてもらってください、もういりませんと」

「馬鹿なことを言うな、天使の誓約を忘れたか」

 イレネウスが声を抑えて言った。ルチアは一瞬まごついたが、すぐに調子を取り戻した。

「何ら問題ありません、私が戦うのは人に悪さをする神々です」

「それは人への信頼ではない。甘さだ。悪いことが起こることを想定することさえ嫌っている」

「いえ、いいえ、違います。私は、これは信頼です」

「お前は理解している筈だ。それでも護衛を拒否するなら、王都の外へ出ることを許可しない」

「では護衛が決まらなければ私を王都に縛り付けると? 十六になれば出してくれると約束したのは大司教様ではありませんか」

 ルチアは声を荒げた。怒りを通り越し、湧き上がる悲しみで胸が張り裂けそうだった。

 ルチアが王都から出たことがないのは、大人になるまでは決して王都の外に出てはならないというイレネウスの言いつけを守ってきたからだった。

 しかし、ルチアが十六になった時、イレネウスは、護衛と一緒でなければ王都の外に出てはならない、と言ったのだ。

 天使に護衛をつけることになったのは、王国の歴史上で初めてのことだった。異例中の異例に、あらゆる人々が困惑した。

 ルチアはというと、約束と違うと猛反発した。神々と戦うことになるのに、守るべき弱い人間と一緒には行けなかった。

 そうして、イレネウスとの言い争いの末に、追いかけっこで勝てた者を護衛とする、という話に落ちついたのだった。

「理由の全てを理解しているだろう、ルチア。勝手に出ていこうとするのはやめなさい。手配書など作られたくはないだろう。私は約束を違えるつもりはない。しかし、お前をみすみす危険にさらす真似もしない。その可能性を知りながら無責任にお前を送り出すことがあれば、それこそ天に顔向けできない。……ルチア、そろそろ諦めを覚えなさい」

 それだけ言って、イレネウスは帰っていった。

 ルチアは踵の高い靴を脱ぎ、座椅子に寝そべって足をひざ掛けに乗せた。不自由やふがいない自分への怒りが溜まりに溜まっていて、今にも皮膚を突き破って出てきそうな気がした。

 部屋に入ってきたノイアがルチアの向かいに座った。彼はすでにローブを脱いでいた。

「嫌な気分にさせてすまない。護衛候補の前で話す内容じゃなかったのに熱くなって……」

「いいよ、気にしてない」

 それだけ言って、ノイアは沈黙した。部屋から出ていく様子もなく、かといってルチアに言いたいことがあるわけでもないようだった。黙って窓の向こうの庭を眺めている。

「……君、どうして部屋に戻らない?」

「君を一人にしたくないから。もちろん居てほしくないなら消えるよ。でも、話をしたくなったら相手になる」

 ルチアはしばらく黙り込んでいたが、やがて好奇心が抑えきれなくなって口を開いた。

「なあ、君は故郷にいられなくなったって言ってたよな。追い出されるってどんな気分だった? やっぱり、悲しかった……?」

 ルチアは気を遣って遠慮がちに尋ねたが、ノイアはばっさりと切り捨てるように返した。

「全然、せいせいした気分だった」

「そ、そうか。そういうものなのか。なあ、よければもっと故郷の話を聞かせてもらえないか? もちろん、冬の神のこととか、無理に言いたくないことはいいからさ」

「何でも話すよ、何から聞きたい?」

 ノイアは平然としているどころか、質問をされて嬉しそうだった。冬の神から殺害予告を受けているとは思えない、やはり底知れない奴だとルチアは思う。

「北方ってどんなところなんだ?」

「北は厳しい土地で、春は短く、冬は長い。とにもかくにも向こうの冬は寒くて雪深いんだ。冬を越えるのは人々にとって死活問題で、だから冬の神が他の季節神と違って世界を去らずにいられるんだと言われている」

「君がその冬の神に嫌われているのは一体なぜだ?」

「話すと長いよ、それこそ夜明けまで話して語り切れるかどうか……」

「そんなに長いのか? 随分と大変な思いをしてきたんだな」

「冗談だよ、端的に言えば俺が魔術師で、冬の神は魔術師嫌いだから」

 ふうん、とルチアは言った。神と直接会ったことがないルチアには、世界に存在している神をうまく想像できなかった。自らの神であり父である太陽の神は一時的に世界を去っているため、当然会ったことはない。

「そうだ、君は雪というものを見たことがあるか? あと、北には楽園のような花園に住まう神がいるって本当か?」

 ルチアが次々に質問をしても、ノイアは少しも困った様子を見せず、それどころかルチアの方へ身を乗り出して積極的に話をしようとする姿勢を見せた。ルチアも体を起こして座りなおす。

「雪はもちろん見たことがあるよ、寒くなればいくらでも降ってくるものだ。王都ではほとんど降らないから君は見たことがないか。見ていて、こんなふうに降ってくるんだ……」

 ノイアは手のひらを床に向けた。ノイアの瞳がかすかにきらめいて、手のひらから白い柔らかそうな粒が現れては床に落ちていく。それは床に落ちる前に霞のように消えた。

「わあ! それが雪?」

「そうだよ、こうして空から降って、積もっていくんだ」

 ルチアは空から綿菓子のようなものが降ってくる様子を想像して、くすりと笑った。

「それから次の質問だけど、君の言う通り花の神がいる。実際のところ司っているのは植物全般だけどね。王宮の庭園よりも広大な花園を神域としている。その花園を模したもう一つの庭園も人間によって作られていて、日々植物の研究がされているんだ。天使居館の庭にある花も、いくつかはその植物園の種からできてるはずだ」

「思わぬところで繋がってるんだな……」

 そう言って、ルチアは窓の向こうの庭を眺めた。マリアとマルタが手入れをしている見事な庭で、季節に合わせて様々な花や薬草を植えていた。

「君以外の護衛候補にももっと話をしてもらうべきだったと、今更ながら思ったよ」

「逃がした魚は大きいと思ってる? 大丈夫、俺を逃がさなければ問題ないよ」

 ノイアがおどけた調子で言うので、ルチアはくすくすと笑った。

「それから、その……。魔術についても教えてもらえないだろうか」

 ルチアは魔術師と追いかけっこの日々を送っていたが、魔術師たちを遠ざけ続けたため、魔術については詳しくなかった。

 天使居館のある大聖堂の敷地内には魔術協会本部もあるが、勤めている魔術師とは交流を持たなかったため、市井の人々の持つ知識量とほとんど変わらない。本部は遠くから眺めたことがあるだけだ。イレネウスに協会本部には近づくなと言いつけられ、それを今日まで守ってきた。

 本部の魔術師たちもイレネウスに天使に接近するなと言いつけられているのか、天使居館に近づくことさえなかった。

「もちろんいいよ。君が気になっているのは魔術式の方かな?」

「ああ、そうだな。どういう仕組みなんだ?」

 ルチアは胸がちくりと痛んだが、無視した。彼を騙すわけではないと自分に言い聞かせる。

「魔術式という言葉も、君と会うまで聞いたこともなかった。魔術はただ想像のままに使えるものだとばかり」

「魔術式は王都では魔道具は流通しているけど、まだ仕組みが認知されていないせいだろうね」

 ノイアは一呼吸置いてから説明を始めた。

「人が神から魔力を賜った時、それは想像力によって世界を塗り替える力だという教えを受けた。人々は教えに従い、魔力を行使してきた。これが魔術と呼ばれるものだ」

 よく見ていて、とノイアは手のひらを軽く握り、また開くと、手のひらの上には白い花が現れていた。ルチアがじっくりとそれを観察すると、薔薇の幻は一瞬にして形を失って消えた。

「今この時、想像した通りの結果が現実に引き起こされた。けれど、二度と同じ花を生み出すことはできない。人間には全く同じ想像をすることは不可能で、再度同じ花を生み出そうとしても微細な違いが生まれてしまう」

 ノイアはもう再び花の幻を生み出した。ルチアは顔を寄せて白い薔薇の幻を観察すると、確かに花弁のふちの線がわずかに違っていた。

 ノイアは手のひらを握りしめて幻を消した。

「魔術は一回きりのささやかな奇跡を引き起こすものだ。神の奇跡の縮小版と言っていい」

 ルチアはこれまでの護衛候補の魔術師たちとの勝負を思い出していた。ルチアを捕縛するための網や罠は、その時々によって出来栄えも形も違っていた。

「しかしながら、十年ほど前に新しい魔術の系統が生まれた。特殊な言葉を使うことで、想像力によらずに魔術を行使する手法だ。言葉によって魔力の流れを規定し、発動させ、結果を引き出すことができる。新しい魔術が従来の魔術と決定的に違う点は三つ。時間の拘束を受けないこと、場所を選ばないこと、全く同じ魔術を何度でも行使できることだ。魔術は時間と空間の広がりを得て、誰にでも同じ結果をもたらすようになった」

 ノイアは上着の釦を外すと、裏地を見せてきた。裏地には刺繍で模様が描かれていた。

「単なる模様に見えるだろうけど、これが魔術式だ。戦闘を想定していくつか魔術を書き込んでいる。衝撃を緩和し、刃を通しづらくし、内部温度を適切に保つ。これらの魔術は俺の体から放出されている魔力や、刺繍糸に込められている魔力によって、俺の意識があろうとなかろうと、俺が何かを想像しようとしなかろうと、魔術は常時発動状態になっている」

 興味津々で見ていると、どうぞ、と言われる。ルチアはノイアに近づいて遠慮なく刺繍の上に指を滑らせてみた。

「これも魔道具と呼ばれるものなのか?」

「その通り。身近なものだと王都中に設置されている街灯も魔道具だ。あれは周囲の明度が下がることを魔術の発動条件としていて、暗くなると自ずと光りだすんだ」

 へえ、とルチアは感心の声を上げた。いつも不思議だと思っていたが、ルチアの周囲にいる人は誰もその仕組みを知らなかったのだ。

 ルチアはじっくりと刺繍を観察して特徴を覚えた。それは葡萄蔓草模様に似ていた。

「魔術は神から魔力を賜った人間の末裔たちに引き継がれてきた特権だった。でも、新しい魔術は、魔術式に魔力を流し込めば発動でき、扱う者の魔力が魔力を有している必要もない。いわば技術としての側面を持つようになった」

 技術、とルチアは思わずつぶやいた。神から賜った力の呼び名としてはあまりに不遜で、背筋がぞくりとした。

 ルチアがまだ十歳の頃、広場で見かけた神官や魔術師が演説していた姿が思い出された。

 魔術が誰にでも習得可能な技術であると認識されることは、その力を与えた神々への冒涜だと、彼らは悲壮感たっぷりに訴えていた。

 広場にいた人々は、彼らの訴えに耳を貸さなかった。気紛れな神々に祈り供物を捧げて日々の困りごとや面倒ごとを解決してもらうより、道具を使って解決する方がずっと便利だったからだ。魔術師や神官の特権や権威性が失われても、市井の人々はちっとも困らなかった。

 当時のルチアは魔術式を知らず、魔術が技術であるという意味が理解できなかった。人々の生活が豊かになっていくのになぜ悲しいのだろう、と不思議に思ったものだった。

「魔道具は、神々の没落の原因となるほどに、神々への祈りを減らしてしまったのか?」

 今のルチアは、魔術式が結果として何を引き起こしたのかに考え至った。

「さあ、どうだろうね。王都の外に出たら自分の目で確かめてみるといい」

 ノイアは意味深に微笑んで説明を終わらせた。

「それにしても、君ってとても説明上手だな、北方で先生でもしていたとか?」

 ルチアが無邪気に聞くと、ノイアはなぜか困ったように微笑んだ。

「そうではないんだけど……。俺の話はいつかまた別の機会に。他に何か聞きたいことは?」

「話はもう十分だよ、たくさん聞かせてくれてありがとう」

 ルチアは手を組んで、おずおずと言った。

「それから、その、明日のことだが、君に王都を案内させてもらえないだろうか。君の考えには一理あると思ってさ……。もちろん護衛はいらないという考えは変わっていないし、君の貴重な一日を消費してしまうけど、どうかな?」

 固唾を飲んで返答を待った。怒られても仕方のない提案をしている自覚はあった。

 ノイアはしばらく目をぱちぱちさせていたが、やがて気恥ずかしそうに言った。

「ありがとう、楽しみにしてる」

「じゃあ決まりだな、また明日」

 ルチアは自室へ戻ると、扉を閉めてカーテンをぴったりと閉ざした。それから服を脱いだ。首に触れて、冷たい金属の首輪をなぞる。ルチアの首に合わせて設えられた綺麗な枷だった。

 フローライトが持っている腕輪と対になるもので、ルチアの尋常ならざる力をもってしても破壊できない。フローライト曰く、世界で最も優れた魔術師が作った魔道具だった。

 ずっとそばにいて。

 フローライトが首輪をつけた時の言葉が耳の奥で蘇る。あの時、彼女の指先は震えていた。歓喜と恐怖があのかんばせを歪めてもいた。

 フローライトは彼女の護衛が亡くなって、南方の別邸で療養していた。そして王都に帰ってきて、ルチアを王宮に招いた。別邸で何があったのか、護衛が亡くなったことでどんな心境の変化があったのか、フローライトは語らなかった。抱きしめるようにしてルチアに首輪をつけた。

 もしもルチアが王都から出ようとすればたちまち縊り殺す魔道具。留め金も見当たらず、鍵穴もない、冷え冷えとした金属の重し。

 ルチアは鏡に近づき、首輪の表面を観察した。渦巻に似た模様が彫り込まれていた。装飾だと思って気にも留めていなかったが、おそらく魔術式と呼ばれるものだろう。これまでは首輪そのものを破壊しようとしたことはあっても、模様を消そうなどとは考えなかった。

 ルチアは首輪の表面に爪を立てた。嫌な音が部屋に響き、爪が剥がれて血が滴った。だが、首輪の表面には傷一つ残っていなかった。だらりと手を下ろした。剥がれた爪は直ぐに治癒し始めるが、抑えきれない怒りで体が震える。

 何度破壊を試みても失敗し、魔術式を乱すこともできなかった。ようやく会えたフローライトは首輪を外す気がまるでなかった。このままでは埒が明かない。秘密を守れる魔術師に助けを請わなくてはならないだろう。何処にも伝手はないが、少なくともノイアではだめだ、借りは作れない。

 王都を出るためにはいくつもの困難を退けなくてはならなかったが、何一つとしてルチアの心を折ることはできていなかった。天使として生まれたからには、人を救わねばならなかった。それだけが生まれてきた意味だった。人間を救うという使命が、それを果たしたいという気持ちが、他の全てを凌駕する。

 太陽の神に与えられた使命を果たすまでは、天使は蒼穹世界へ迎え入れてもらうことはできない。かつて地上には百を超える天使がいたとされているが、今日日地上に残っているのは剣の天使だけだ。ゆえに、一刻も早く自らの使命を果たしたかった。孤独と形容することさえ憚られる胸の冷たい痛みを、独りきりの戦いを、おしまいにするために。

「絶対に王都から出てやる……」

 そう独り言ちて、鏡の中の無力な自分の姿をにらみつけた。

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