天使は屋根の上_4
夜明けとともに目を覚ましたルチアは、机に向かって手紙を書き始めた。
似た内容の手紙を何度も同じ相手に送っていたが、今回の手紙の文章もほとんど同じだった。しかし、今日まで返事は一度ももらえていない。それでも返事をもらえるまで何度でも同じ内容の手紙を送るつもりだった。
手紙を書き上げて一階に降りると、マリアとマルタはもう働き始めていて、朝食の準備中だった。ルチアに気づいたマルタが台所から顔を出した。
「おはよう、マルタ」
「ルチア様、おはようございます。お食事はもう少しでできますのでお待ちください。それから、起きて早々申し訳ないのですが、早くお見せすべきかと思いまして。昨晩に届いていたルチア様宛のお手紙です」
マルタは周囲を確認し、躊躇いがちに手紙を差し出してきた。瑠璃色の封筒に百合の紋章の封蝋がしてある。ルチアの眠気は一気に吹き飛んだ。
ありがとう、と言って手の震えを抑えながら手紙を受け取ると、すぐに居間へ移動して、封を開けて手紙を読み始めた。
手紙を読み終わった時、ノイアが居間に姿を現した。ルチアはさりげなく手紙を後ろ手に隠す。ノイアは気づいた様子はなかったが、油断ならない相手だった。
起き抜けのノイアは眠たげな顔をしていて、平時のきりりとした表情は影を潜めていた。二人は口々におはようと言い合う。
「朝食ができたってマリアさんが」
「そうか、じゃあ食堂に行くとしよう」
ルチアはこっそりと手紙をポケットに入れて立ち上がった。
食堂へ移動すると、朝食の良い匂いが鼻をくすぐった。食卓の真ん中には鮮やかなダリアの挿さった花瓶が置かれ、二人分の朝食が並んでいる。
オリーブの油と酢で味付けされたサラダ、焼きたての硬めのパン、大き目に切られた根菜類と鶏肉のスープ、それから食事の締めくくりのパンナコッタ、これらが今日の朝食だった。
ルチアは席につくと、胸に手を当てて無言で太陽の恵みとマリアとマルタの働きに感謝をした。ノイアにはそういった習慣はないようで、ルチアが食べ始めるのを待っていた。
ルチアはまずサラダから食べ始め、続けて焼きたてのパンをほおばった。口の中いっぱいに小麦の豊かな味が広がって、思わず目を細めた。
「ルチア、君の今日の予定は?」
ノイアは品よくパンをちぎりつつ言った。
「あ、えっと……。用事があるから出かける。悪いが君は王都の観光でもしていてくれ」
「そうはいかない」
ルチアは嫌な予感がして、ダリアの花越しにノイアの様子を伺う。彼は鉄壁の微笑を湛えていて、瞳は異様なほどまっすぐにこちらを見ていた。先に視線を逸らしたのはルチアだった。それでほとんど白状したも同然だった。
「一緒に行くよ。護衛候補なんだから」
「な、何を言っているんだ、どこに行くかも知らないだろう、それに、その……」
「決まりだね」
「勝手に決めないでくれ、一人で行くところがあるんだ。君についてきてほしくない」
「つれないこと言わないで、俺も王宮の中に入ってみたいな」
ルチアはまたむそうになるが、すんでのところでスープを呑み込んでいた。やはりノイアは目敏かった。寝起きだったというのに恐ろしい男である。この国において瑠璃色を使用することができる人間はごくごく少数だった。
ルチアはノイアを睨みつけた。せめてノイアに酷い態度を取るのはやめようと決めた矢先にこれである。ルチアはさっそく自分の決断を後悔し始めていた。
ノイアは悩ましげに眉間に皺を寄せる。
「俺に与えられたのは五日、今日だって貴重な一日で、しかも初日だ。なのに君は勝負に参加できないときた。何らかの補填はあってしかるべきだと思うけど、君はどう考える?」
ルチアは最後のパンのひとかけらを口に放り込んで、じっくり噛んでから飲み込んだ。その間にもノイアは目を逸らすことなく返事を待っていた。
「君、魔術師の正装は持ってきているんだろうな?」
「もちろん、天使の護衛としての服も仕立ててあるよ」
「護衛の方もだと? 気が早いにもほどがあるだろう……」
「そんなことはないよ、あと数日で必要になる」
「……それについては議論の余地があるが、一旦脇へ置くとしよう。だが、まあ、魔術師としてなら一緒に行こう」
ノイアはにっこりと笑ったが、ルチアはすでにぐったりしていて、すぐにでも寝台に横たわりたい気分になっていた。
朝食を終えて自室に戻ったルチアは、ワンピースに着替えた。喉元までしっかりと釦で留めてから鏡の前に立ち、首がほとんど見えていないことを確認した。
天使は聖職者とは違い正装は存在しなかった。そのため、意匠を祭服に寄せた服を正装としていた。もっとも、ルチアは王宮からは服装規定についてお目こぼしをもらうことができる特殊な立場のため、何を着て行こうとも肌の露出に気をつけさえすれば見咎められなかった。
支度を終えた二人は徒歩で王宮へと向かった。手紙の送り主からは馬車を用意すると書かれていたが、ルチアは無視した。月の宮と大聖堂は歩いて行けるほどの距離しか離れておらず、何よりも余計な気遣いを受け取る気分ではなかったからだ。
「あちらに見えるのが王族の住まう月の宮であり、政治の中枢だ」
正門に着くと、ルチアは月の宮殿を手で示した。王宮は月の面と同じ冴えた色の建材で建てられていて、朝の光を受けていても夜空にぽっかりと浮かび上がった月のようだった。
「月の神殿はさらに奥にある。もっとも、王族専用の礼拝堂であり、他の誰も入れない」
月の神は、自らが王権を与えた人間の末裔である王族からのみ祈りや捧げものを受け取るため、太陽神の教会や諸神の神殿と違い、月の礼拝堂が市井の人々のために開かれることはない。
ルチアは正門の門衛に手紙を見せた。門衛はそれをちらっとだけ確認して、門を開けるよう号令をかけた。門が開くまでの間に、門衛が尋ねてきた。
「もしかして、彼があなたを捕まえたんですか?」
「いいえ、彼はまだ護衛候補、仮で、正式ではありません」
ルチアがついと顔を背け、開かれた門の向こうへ歩き出すと、
「これから正式に護衛になりますよ」
と後ろでノイアが言った。ルチアは無視した。
広すぎる美しい庭を抜け、王宮内に入ると、圧倒的な化粧漆喰の装飾が視界を覆い尽くす。色鮮やかさこそないものの、彫刻の陰影だけで見る者を圧倒させる。まさに超絶技巧と言って差し支えない装飾だ。天井画や窓まで漆喰で囲って装飾することで、王宮内部は恐ろしいほどに滑らかな一体感を演出していた。
王女付きの侍従の一人がルチアを待っていた。案内されたのは王女の私室ではなく薔薇園だった。
ノイアを園の入り口で待たせ、ルチアは一人で薔薇園を進んだ。むせかえるような花の香りがルチアを包み込む。
色とりどりの薔薇が咲き誇るこの園は、王女が王宮内で一番気に入っている場所だった。
薔薇は天使の花とされていて、天使の紋章にも薔薇の花が描かれていた。
真っ白な薔薇のそばに、銀色の髪の少女が立っていた。少女はルチアに気づくとゆっくりと振り返った。薔薇も恥じらう可憐なかんばせに、花開くように微笑みが浮かんだ。
「会えて嬉しいわ、ルチア」
鈴を転がすような声色で少女は言った。
少女の名はフローライトといった。歳は十四で、現王の第二子の王女である。
ルチアは王都に連れてこられて間もなく、フローライトの遊び相手として引き合わされた。つい最近まで、ルチアは彼女を友人だと考えていたし、相手も同じ認識でいると思っていた。
「お久しゅうございます、フローライト様」
ルチアは形式的な挨拶をして、首を垂れた。
「顔を上げて」
ルチアはゆっくりとフローライトを見据える。青ざめたほどに白い肌はなめらかで、薄緑色のたっぷりとした生地のドレスがうてなのように華奢な体を包み込んでいる。痛みや傷から隔絶された世界で生きているかの如き超越的な雰囲気があったが、ルチアを見返す月光冠のような虹色の瞳には、かすかな苛立ちが滲んでいた。
二人は東屋へ移動し、テーブルを挟んで座った。テーブルの上には香りの良いお茶とお菓子が用意されていた。
「熱烈なお手紙を頂いていたのに、お返事が遅くなってごめんなさい。でも、ようやく時間が取れそうと昨日お手紙を差し上げたばかりなのに、すぐ会いに来てくれて嬉しいわ。男の人と一緒だと聞いたけれど、もしかして護衛が決まったのかしら?」
「まだです」
「そうなの。……ねえ、二人きりになったのに敬語はやめて。いつも言っているでしょう」
フローライトは白百合の花弁のような指先でナッツ入りのチョコレートをつまんで弄ぶ。
「できません」
「まだ怒っているのね。私はあなたと仲直りしようと呼んだのよ。薔薇が咲く時期には必ずお茶会をしたでしょう。またこうして楽しく過ごしたいの。今日も、また来年も、そのまた来年も」
「仲直りをしたいと言うのなら、何をすべきかおわかりのはずですよね、フローライト様」
ルチアは震える声で言った。煮えたぎる感情が体の中で今にも爆発しそうだった。
しかし、対するフローライトは微笑を崩さず、それどころかルチアが苦しむ様を楽しんでいるようだった。
フローライトは小さな暴君だった。誰も彼女の言動を咎めず、罰しない。父である王さえも、まるで腫れ物に触わるような扱いをする。
もっとも、ルチアもその場面を直接見たことはない。以前、フローライトが悪戯っぽい微笑みとともに教えてくれたのだ。たとえ殺人だって見逃してもらえるでしょうね、と。その時は信じられなかったし、今でも半信半疑だ。
ルチアはフローライトの遊び相手として引き合わされたが、当の本人は話し相手になってほしいと望んだ。ルチアは望まれた通りに王都や大聖堂であったことを取り留めもなく話すと、フローライトは非常に喜んだ。以来、ルチアは彼女の元へ物語とも言えないささやかな話を持っていくようになっていた。
彼女はいつもルチアの話を静かに聞いていた。楽しんでいるのかも退屈なのかも言わず、ただ耳を傾けるのだ。フローライトと過ごした時間は長かったが、彼女は自身のことを語らなかったし、周囲の人々にも語らせなかった。だから、ルチアはフローライトの胸のうちはほとんど知らなかったし、ましてや彼女が王宮内でどんな立場にあるのかも知らなかった。
フローライトは、ルチアが何も知らないでいることを望んでいた。加えて、イレネウスからも王族とは必要以上に仲良くならないよう言い含められていた。ルチアはフローライトが何かを抱えていることに気づきながらも、これまで踏み込まなかった。
「あら、仲直りはしたくないのね。ちょっぴり悲しいけれど、あなたがそう言うならそれでいいわ。いつか気が変わったら教えて、いつまでも待っているわ」
ルチアは膝の上で拳を握りしめる。腹の中で煮え立つ怒りはどんどん強まっていた。
そんなルチアをよそに、フローライトは思い出したように言った。
「そうだわ、あなたの追い返した魔術師の話を聞きたいわ。新しい候補の話だっていいけれど」
ルチアは無言を貫いた。話して聞かせることはないと態度で示す。
フローライトはテーブルの上に腕輪を置いた。それを見ただけで、ルチアは息がつまる。
金属製の細かな模様が彫られた腕輪だった。フローライトのほっそりとした手首よりも径が大きく、彼女のために作られた品ではないことが伺える。
フローライトが腕輪をなぞった。
「ねえ、聞かせて、いつものように」
ルチアは何も言わない。いや、言えなかった。苦しくて言葉を発するどころではなかった。
「誰にも興味がなかったのかしら。それとも見込みがなかったのかしら」
爪先がこつこつと腕輪を軽く叩く。ルチアはせき込んだ。月光冠の瞳がゆるりと細められる。
「護衛候補って魔術師なのよね? もしかして、あなたはそれを外せる人を探してもいたのかしら。でも残念、誰にもできないわ。そういう風に作ってもらったのだから。それに、あなたに護衛なんて不要よね、むしろ私の護衛に欲しいくらい」
「お戯れを。私の力は広く人々のために使われるべきものです、誰か一人の物にはなれません」
フローライトが腕輪を握りしめた。ルチアは椅子から転がり落ち、首をかきむしり喘いだ。大きな音が鳴っても、東屋には誰も来なかった。
「ふざけてないわ」
フローライトが手を離すと、ルチアはせき込みながら体を起こした。フローライトは冷え冷えとした表情でルチアを見下ろしていた。
「ルチア、あなたは心の底から怒っているのに、それでも私を憎んだりしないのね」
「フローライト様、もうおやめください。これを外してください」
「もう帰って、話は終わりよ」
フローライトが手を叩くと、すぐに側使えたちがやってきてルチアを立たせる。
「いい加減にしろ、フローライト!」
ルチアが吠えると、フローライトはようやくその美しいかんばせに子供のような笑みを浮かべた。ルチアがよく知っている笑みと同じもので、だからこそ恐ろしかった。
「また会いましょう、ルチア」
ルチアは半ば引きずられながら薔薇園の外へ連れ出されてしまった。ノイアは戻ってきたルチアの顔を見て、心配そうな表情を浮かべた。
肩をいからせながら歩き出くルチアの後ろを。ノイアは黙ってついてきた。
ルチアは唇を噛み締めていた。今は全てが苛立たしく思えた。中でも一番苛立たしいのは、事態を甘く見ていた自分だった。話せばきっとわかってくれるはずだと信じていた。
王宮を後にすると、ノイアが口を開いた。
「何か聞いてほしい話があれば聞くよ」
「……言いたくないから話せない」
そっか、とだけ言って、ノイアはあっさりと引き下がった。
ルチアは胸のあたりがもやもやするのを感じた。あんなにもずけずけと踏み込まれて困っていたのに、逆の反応をされると物足りなさを覚えたのだ。聞いてくれ、とはついぞ言い出せず、ルチアは胸の内のわだかまりを抱え続けた。